ミシェル・バチェレ氏が中国の人道犯罪の可能性を指摘した重み

ミシェル・バチェレ氏の退任に合わせて国連が中国の人道犯罪の可能性を指摘したレポートを発表した。人道犯罪の可能性に踏み込んだことでこれまで以上の重みを持ったレポートになった。ただし「ジェノサイド」との認定は避けた。

ネットでは「中国を罰することができない国連の発表など無意味だ」と指摘する人がいるのだがバチェレ氏が指摘した意味は非常に大きいのではないかと思う。中国が指摘するような「西側の代表者」ではなく、バチェレ氏自身が拷問を受けた経験を持っているからだ。

同じ痛みを共有する人が淡々と調査を続けてきたからこそ信憑性の高い報告書になっている。

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ジェンダーがわからない小沢一郎さんと有権者が見えない立憲民主党

みんなジェンダーなんてわからないと言っているよというのは俺にはもう何が何だかさっぱりという意味だろう。小沢一郎さんがジェダーがわからないと嘆いている。もう引退すればいいのにと思った。

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国民の一般的な宗教的感情を害したという理由で死産した妊婦が国家に断罪される

誰にも相談できないまま一人で子供を産んだある女性が国家に断罪された。彼女は双子を身ごもっていたが死産だった。おそらく出産直前まで働きづめだったのだろう。悲劇だったのかもしれない。

2022年1月にある高裁判決が出た。双子を死産した女性は「死産という犯罪行為」を断罪された。この事件を全く知らなかったのだが、Twitterで応援を呼びかけるツイートを見た。その後望月優大さんが経緯をまとめているのを知りとても、一読してとても暗い気持ちになった。

一晩考えて国家の品格を計る手段としてこれほどふさわしい判決はないのではないかと思った。裁判所はむしろこの技能実習生に対して国を代表して謝罪すべきだと思う。だが、福岡高裁はこの女性を断罪することを選んだ。理由は「国民の一般的な宗教的感情」を害したからなのだそうだ。品格を失いつつあるこの国が安い労働力を維持するために作り上げた苦し紛れの理屈が「一般的な宗教感情」だった。

だがこの判決は「国民が持つ一般的な人道感情を害している」と思う。

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サブカル界はなぜ小山田圭吾氏のいじめ問題に対処できないのか

吉田光雄さんがTwitterでTVODというブログを紹介していた。小山田圭吾さんのいじめ問題について書いている。拝読して「日本の人権把握ってこのレベルから議論を始めなければならないのか」と思った。コメカさんとパンスさんという人が小山田圭吾さんのいじめ問題について話し合う体裁になっている。おそらく文章の目的は別のところにある。だが、ご本人たちは気がついていない。

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自民党の歪んだ人権理解とそれを支える日本人の病理

自民党がLGBTの権利拡大について議論した。非公開だったそうだが却って差別を助長しかねないような発言が飛び出したそうである。この話自体は「自民党ってひどい政党ですね」という話にしかならないのだが、この問題の扱い方を見ると日本社会がかなり生きにくい社会になっていることがわかってしまう。だがそこで腹を立てずにもう少し踏み込むとおそらく日本が成長できなくなった原因が自民党のマインドセットにあることもわかる。おそらく政党としては役割を終えているのだろう。早く解体したほうがいい。解体することで我々が持っているこの負け癖から自分たちを解放しなければならない。

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「性別に関係ない制服選択求める」に感じる違和感

江戸川区の若者が斉藤猛区長に「性別と関係ない制服を選べるようにしてほしい」という10,000人の署名を手渡したというニュースを読み違和感を感じた。男性がセーラー服を着ている映像が浮かんだからである。きっと「えっ」と思うだろうなと想像したからだ。

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人権の道徳化 – LGBTの視点から

ポピュリズムとは何か」の中で道徳について書かれている部分がある。政治家が「道徳を押し付ける」というのだが、面白いことに道徳とは何かということが全く書かれていない。このため日本人が人権を取り上げるときには注意が必要だ。注意して取り扱わないと人権が道徳化しかねないのである。






この本はポピュリズム批判(実際には多様性の否定を批判している)なので、道徳はネガティブな使い方をされているということになる。古びて硬直化した社会規範のことを言っているのだろう。ちなみにこの本を書いた人はドイツ出身でプリンストン大学の政治の先生をしている。

このことを思い出したのが、LGBTについて書いたこの記事を読んだからである。基本的にLGBTが生きやすい社会を作るのは大切だと思う。また、事実婚の容認のようにLGBTでなくても恩恵が受けられる制度もLGBTの中から育まれる。だが、この記事を読んで少し考え込んでしまった。

「人権=道徳ではない」国連が日本のLGBTの人権状況を監視する理由」というタイトルがついている通り、人権を道徳意識で片付けてはいけないとしている。ところがこれを読んでゆくと「西洋の進んだ人権思想」を取り上げるはずが、その理解が極めて日本的になっていることがわかる。日本的とは大きなものに寄りすがって100%の正解を作るというような意味だ。人権が「正解」になってしまっているのだ。

谷口さんは「人権は道徳ではありません」と話す。

「人権啓発として『みんなで仲良くしましょう』というキャンペーンをよく見ます。これは裏返すと『仲良くできないのは市民の責任だぞ』と、政府は責任転嫁をしていると言えます。政府には人権を守る責務があり、そのための大前提として差別を禁止し、差別を受けたら救済をして、差別を未然に防止することが必要です」

「人権=道徳ではない」国連が日本のLGBTの人権状況を監視する理由

ここでいう国連とは「国連のさまざまな委員会や人権理事会」だ。ここの人たちはヨーロッパ流の価値判断基準を持っているものと推察できる。つまり、ワールドスタンダードでは市民に責任を押し付けないと言っているのである。

最初に引っかかったのは、この「道徳」の取り上げ方そのものだった。日本人は政治は「人徳のある人がやるべき」とされているのではないかと思ったからだ。徳治政治という言葉もある。つまり、東洋サイドから見ると衆愚が自分たちの好き勝手主張を繰り返し社会を破壊する急進的な行為は慎むべきであり、徳を持った政治家が折を見て考えるべきだと言えてしまうのだ。

何が徳なのかということを孔子は定義していないとされている。五常という分類があるのだが、その定義は様々な具体例によってなされているだけである。ただ、これらの徳は「容易に届かないもの」とされているので、いわゆる「わかりやすい道徳」で人々を思考停止に追い込むような類いの道徳ではない。と同時に庶民を政治の世界から隔離もしている。道徳のような高邁なことは「どうせ庶民にはわからない」のだ。

一方で、西洋流の人権について書いた本を読むと、道徳=旧弊な判断というような使われ方をしている。例えば先に挙げたLGBTの文章から引用されたものを読むと「道徳を使って市民社会に責任を押し付けている」と書かれている。ここで人権が優れているのは、人々が多様な価値観を多元的に折り合わせてきたからだ。ゆえに多元性を失った人権は単に新しい道徳に過ぎない。

日本の道徳には「統治者からの押し付け」という含みもある。孔子の徳がどのようなものだったのかということにはあまり関心がなく、武士がたしなみとして学び、また統治に都合が良い理屈として「利用」した。教育勅語もそうだったし、学校教育で道徳が教科になった時にもそのような批判(東洋経済)がなされた。

道徳のチェックとはありていに言えば国家への忠誠心を学校が国家に変わってチェックして成績につけるということである。どうせ自分では考えられないから国家が教えてやるのである。そして大抵それは統治者の失敗の隠蔽と正当化に使われてしまう。今までもそうだったし、これからもそうだろう。

多元性という前提があるとき人権はまだ受け入れ可能なような気がするのだが、このLGBT側の文章も読み方によっては「国に代わって国連という権威を使って自分たちの権利を広めたい」というように読める。これは戦前の教育勅語を国連に置き換えただけの事である。文章の最後は次のようにまとめられている。

世界人権宣言には、『すべての政府と人民が人権を守っていく』と書かれてあります。人権の当事者はすべての人です。実は日本は国連の分担金の第2位で、払っているお金の元は私たちの税金です。そういう意味でも、ぜひ国を監視し、人権を守らせるために、国連を使っていきましょう

「人権=道徳ではない」国連が日本のLGBTの人権状況を監視する理由

このように置いてしまうと「国の権威」と「国連の権威」のどちらを優先するのかということになってしまう。多元的な価値観を折り合わせて行こうという本来の人権主義の視点からは外れてきてしまうのだが、この辺りが本来権威主義が好きな日本人のくせというか志向なのだとも思う。どうしても強くて大きいものを信仰するところから抜け出せず、他者の価値観を聞く気持ちにならない。

一人ひとりが生きやすいように社会を変えてゆくというのはとても大切だ。また、LGBTであるということを社会と折り合わせて行きたいと考える人たちの人権はもちろん守られるべきだ。

だが、国連と国家とどちらが強いのか?というように問題を置いてしまうと、それはそもそも最初にあった多元的なやり方からは外れてゆく。つまり、人権が新しい道徳になってしまうのだ。ここではLGBT忌避の人たちが何を恐れているのかを丁寧に傾聴して行かないといつまでたっても「どちらが正しいのか」という運動会になってしまう。

実際にイスラム世界の人たちは西洋が勝手に置いた人権が気に入らない。彼らは規範作りに参加させてもらえないからだ。人権にはどうしてもキリスト教世界からの「規範の押し付け」という側面があり、これを内側から絶えず取り除いてやらないと、生きやすい世界どころか諍いの元になってしまうのである。

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ネトウヨの行動原理としての勝ち負け

新潮45が「廃刊に極めて近い休刊」になった。知れば知るほど出版業界の闇が深いことがわかり憂鬱になる。新潮社も「金儲け」で雑誌を出しているだけなので、経営的判断でうやむやにした方がよいと考えるなら今回の行動も非難できない。

だがライターやジャーナリストにとっては死活問題なので、彼らはこの経緯をきちんと総括すべきだろう。新潮社にとっては文芸もジャーナリズムも単なる商売のための仮面にしか見えないのだが島田裕巳のように「かつてはそうではなかった」と主張する人もいる。もし、これが本当だとすると、日本社会は食べてゆくために大切なものを切り売りしているということになってしまう。また「ビジネスとしてのエコシステムを維持しようとしていた」とするならば、長期的経営視点を失いつつあるということだ。いずれにせよ、このままでは新潮社は相撲協会のような他の閉鎖的村落共同体のように次第に「呆れられ忘れられる」存在になるのではないかと思われる。

そんな中で「これは言論弾圧だ」と騒ぎ出す人たちが出てきた。彼らは言われのない被害者意識を持っているのに、自分たちが多数派になると他の人たちを弾圧し始める。だが、この心理的メカニズムがよくわからない。少数派として多数派から非難される苦痛を知っているのだから、他人に優しくなってもよさそうだからである。メカニズムがわからないと対処のしようがない。

そんなことを考えていたところ、須賀原洋行という人のTweetを見つけた。社会人になってから漫画雑誌は読んでいないのだが、昔大学の部室に置いてあった漫画雑誌に短いナンセンス漫画で名前を見かけたことがある。


この短いTweetはネトウヨ系の人たちが持っているマインドセットをよく表していると思う。ここに「上位・下位」という概念が出てくるからである。人間関係に上と下がある。これを当たり前だと思う人もいるだろうし、なぜ上と下という概念が出てくるのかがわからない人もいるのではないだろうか。個人的にはとても意外だった。

ネトウヨの人たちの行動原理を観察していると、勝ち負けにこだわっていることはわかるのだが、なぜこだわるのかという最後の動機がよくわからなかった。だが、上下という関係を入れるとこれがよくわかる。つまり、集団の中で上の方にいる人ほど意見が通りやすいということなのだろう。

もし仮に「何が正しいのか」が論理や合理性によって決まるのであれば議論が成り立つかもしれないが、そもそも数の多さで決まるのであれば多数派さえとってしまえばよい。選挙至上主義で議会制民主主義の残りのプロセスを無視する安倍政権の姿勢と通じるものがあり、なるほどなと思わされる。言葉にしてみるとバカバカしいほど陳腐だが、誰が偉いかを決めるために選挙を行い、偉い人が全てを決めて良いという世界である。

英語にto influence peopleという言葉がある。日本語では「影響を与える」などと言ったりする。これは自分がロールモデル(規範)になることで相手が従いたくなるような人間になることを意味する。最近ではインスタグラムのインフルエンサーというような使い方もされる。つまり、人々を従わせるには数で多数派を形成する以外にインフルエンサーになるというアプローチがある。

これらは和訳できない英語概念だが、日本古来の伝統では徳をもって規範となるというような言い方になるかもしれない。徳を慕ってやってくるというのは英語的にいえば「影響を受けた」ということになるからだ。ただ、中国系の哲学には孝悌という上下関係もある。ネトウヨは上下関係だけを継承して徳という中核の原理を失ってしまったということになるだろう。つまり内的動機は失われ外的装置だけが残った状態になっている。これを一般的には形骸化とか原理主義化と呼ぶ。

言論封殺を叫ぶ人たちは「勢いで誰かにマウントされた」から自分たちの意見が抑圧されたと言いたいのだろう。だが、逆は成り立たない。つまり自分たちの意見は正義なのだから相手は無条件に従うべきでそれは言論封殺にならない。彼らが朝日新聞を潰してしまえと主張するとき、それは言論封殺には当たらないのである。彼らの頭の中は一貫している。自分たちは常に正しくなければならないということなのだ。

この自分たちは正しいはずなのに勢いに負けているというルサンチマンは、かなり古い類型である。薩長は徳川幕府の統治下で300年近くも「本当は自分たちの方が正しい」と主張し続けていた。また、傍流と決めつけられた人たちも自分たちのことを「真正保守だ」と考え続け、結果的に保守本流を駆逐し、力で押さえつけている。(はてなキーワード)革命を起こす上でもっとも強い動機なのだ。

そもそも、LGBT側が「社会の正解になりたがっていたのか」という問題がある。例えばLGBTが「同性愛のような精神性の高い性的指向こそが崇高なものであって、子作りだけを目的とした動物的な交わりは汚らしい」というようなプラトニック至上主義を掲げればそれは、LGBTを正解と見なすということになるのだろう。LGBTなどのマイノリティが望んでいたのは、自分たちが排除されない社会であり「自分たちが社会の正解になりたい」ということではなかったと思う。つまり、異なる性的な指向性の人であっても「共存できる」社会を目指していた。

これは上下では説明できないのだから、ゆえにこれは議論としては最初からかみ合うはずもなかった。ネトウヨの人たちは部数が20000部に届かない雑誌の中で「LGBTは生産性がない」と叫び、それが新潮社の伝統的アセットの価値を毀損すると判断された途端に潰されてしまったに過ぎない。それでも彼らはその内輪の中でいつまでも自分たちの正しさを主張していたかったのだろう。

なんとなくこうなる理由を考えてみたところ、学校の教育の問題が大きいと感じた。日本人は集団秩序に従って競争することは学ぶが、なぜ競争するのかとかなぜ集団秩序に従うべきかということは学ばない。

例えば運動会をやる前に「なぜ人々は赤組と白組に別れて争うのか」とか「個人競技大会にしてはならないのか」という議論をする学校はない。もしこんなことを言い出せば多分親が呼び出されて「和を乱す」として説教を食らって終わりになるだろう。

これは裏を返せば、誰かを説得するための技術が発展しないということを意味する。また、みんなが競争することを当たり前だと考えているものでなければ協力しないという社会も生み出される。運動会が楽しいのは退屈な勉強よりもマシな行事であり、なおかつ誰でもなんとなく勝てる可能性があるからだ。

学校で学ばなくても目はしの利く人は他人を動かす技術を学ぶわけだが、他人を動機づける技術を持てないネトウヨ系の人たちは「仕組みをととのえろ」とか「地震のときは仕方がないから政府に従え」と主張する。他人を動機付けできないので、他人が否応無しに自分に従う環境を作りたがるのである。

一部の人たちは猛烈に反対するが、批判に加わらない人の方が圧倒的に多い。彼らは声を上げないで遠巻きに「自分が利得を得ない」競争に協力することを避ける。外にいては距離を置き、中では力を出し惜しみすることになる。場合によってはカツカレーだけを食い逃げし、さらに頭の良い人は非公式文書をマスコミにリークして混乱を楽しむ。

こうして形骸化した競争は内側から力を失うか過疎化する。これを防ぐためには学校で「動機付け」の技術を学ぶべきだし、その動機付けのきっかけになる異議申し立てを認めるべきだ。以前道徳教育の前に自己主張することを教えるべきだという文章を書いたことがあるのだが、これができないと他人を説得したり心を動かしたりする訓練もできない。

この考察を通じてなぜネトウヨが「マウンティングしたがるのか」ということはわかるし、逆に多数派による少数意見の封殺と勝負へのこだわりを持っている人たちのことをネトウヨというのだなということがわかる。ネトウヨのマインドセットに冒されている人を説得することはできないので、周りから変わってゆく必要があるだろう。一緒になって「どちらが正義か」などと騒いでいても状況はよくならないからである。

今回は「ネトウヨ」を主語にして書いたが、これは例えばリベラルを自称する人たちにも当てはまる。なぜ平和主義を維持すべきなのかを他人に説得できないと、新しい人たちを運動に勧誘できない。だから当時動機付けられた人たちが抜けてしまうと運動が形骸化してしまうのだ。さらに閉鎖的な相撲ではなくルールが公平でチャンスもある国際的なスポーツ(例えばフットボール/サッカー)に人気が集まる。これは、スポーツから政治まで、多くの過疎化した村落的運動体に共通した構造なのではないかと思われる。

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新潮45を葬り去るのは実は簡単なのではないか

新潮45の問題を考えているうちに、これはヘイトではなくいじめなのではないかと感じた。クラスの中から誰かを抜き出したうえでその特徴を取り出して「劣っているもの」とラベリングする。そしてその人から正規のメンバー権を奪って嬲り続けるのがいじめである。いじめの特徴の一つに仄めかしがある。いじめられているということを仄めかしつつも決してそれを認めないのである。

今回の件は一見すると同性愛者嫌悪のような体裁になっているが、劣っているものを置いておいていたぶり続けるという意味ではヘイトというよりいじめに近い構造を持っている。だから、いじられた側は異議の申し立てはしても、あまり感情的な対応はしない方が良い。

では、真正保守と自称する人たちは、なぜいじめを繰り返す必要があるのかというのが次の課題になるだろう。この課題を解くためには安倍政権を見るのが手っ取り早い。

安倍政権は日本の政治で唯一生き残った政治勢力である。彼らは党内では政策には詳しいが闘争にはあまり熱心でなかった保守本流を駆逐した。彼らは公家集団になっていて実は大したことはなかった。実際に、かつて彼らを保守傍流と見下していた人たちは石破一派を除きすべて屈してしまった。情けないことに次の首相の座を恵んでくれないかと安倍政権に媚を売る人まで出てきた。

自民党は対外的には理想主義を掲げる左派を駆逐した。社民党は政権を取った段階で変節したとみなされ支持を失い、そのあとに出た民主党政権は日本の統治に失敗して自滅してしまった。6年もの間彼らは失敗の総括ができておらず、未だに分裂したりくっついたりしたりを繰り返している。

ゆえに安倍政権は勝利に酔い、思う存分彼らが理想とする政治に邁進すればよいはずなのだが、それができていない。国民は積極的に安倍政権を支持しているわけではないし、兵隊にと雇った議員たちは失言や舌禍事件を繰り返し引き起こして暴れまわっている。支持してくれてありがとうと振舞ったカツカレーは食い逃げされ、変な右翼思想にかぶれた幼稚園経営者や地方で学校経営に失敗しつつある友達がすがり付いてくるという具合になっている。とても勝った集団とは思えない。

憲法改正ももともとは保守本流だと威張っていた人たちが勝手に決めたのが気に入らないというようないい加減な動機で動いているに過ぎない。民主党政権下で自民党有志に憲法改正草案を話あわせたところ「選挙で負けたのは国民がバカだからだ」国民の基本的人権を制限しようということで話がまとまった。今回も「既得権益を守るために県に必ず一つは議席を確保すべきだ」という話になりつつあり、統治機構をどう改革し、そのためにどう国民を説得しようという議論は全く出てこない。首相本人でさえ「とりあえず憲法が変えられるなら自衛隊という名前を憲法に載せればいいや」と言い出している。

政治にやりたいことがないのと同じように、保守論壇にも実はやりたいことがない。ある人たちはとにかく偉そうにしている左派が気に入らなかった。そして別の人たちはとりあえず食べてゆくためにどこかの論壇で認められる必要があった。ゆえに、自称保守の人たちは絶えず敵を作り出してはそれをあげつらっている。最初の仮想敵は共産主義だったが、共産主義は実質的になくなってしまったので、中国や韓国を攻撃するようになった。そのうち民主党が敵になり、彼らが標榜していた「コンクリートから人へ」を攻撃するようになる。この「人」に当たるのがいわゆる拡張された人権である。

安倍政権が勝ったわけだからそれを支えた論壇も官軍側である。やっと自分たちの時代が来たのだから官軍らしく理想の政治を語り周りを説得すればいいと思う。しかし、彼らはそれをしない。盛り上がるのはホモやオカマには人権がないといった程度の話だけであり、ホモに人権を渡すなら痴漢だって大手を振って電車に乗っていいはずだという中学生でも恥ずかしくて書けないようなことを書いて喜んでいる。そして、それを日本で最も古い文学アーカイブスを持った会社がサポートしているという惨憺たる状況なのだ。

スポーツにもいじめの構造がある。いじめの側に立つかいじめを黙認した人はたいてい過去に勝った人だ。しかし勝利というのは実は儚い。オリンピックに出場して金メダルを取ったりチャンピオンシップでチームを勝利に導いたとしても注目されるのはほんの一時のことである。彼らが引き続き注目を得続けるためにはオリンピックで勝ち続けなければならない。だからなんでもやる。そしてその「なんでも」が社会の規範とぶつかったとき炎上が起こるのだ。

スポーツでは「勝った」という成果よりも、なぜ勝てたのかというプロセスや競争を通じて成長すること自体が大切である。だが競争が自己目的化されてしまうとそれがわからなくなる。そしてなんでもいいからとりあえず勝たなければならないとなった時に社会の規範とぶつかってしまう。

実は安倍政権も同じように破綻しつつある。ロシアの大統領は公開討論の場でわざわざ安倍首相の顔を潰して見せた。よっぽど腹が立ったのだろうが、その気持ちはよくわかる。中国やロシアは民主主義が十分に発達していないのでいつでも政権が打倒される危険性がある。そのためには本当に勝ち続けなければならない。彼らは経済成長を目指してなんでもやろうという覚悟を持っている。

あの北朝鮮ですら「核兵器開発」は体制維持のための必死の策であり、それをどう利用しようかということを現実的に考えている。だから「放棄」を仄めかしつつそれを延期させようとしている。

その真剣勝負の場所に安倍首相はヘラヘラとでかけていった。「おいしいところだけ食べさせてください」というわけだ。しかし、安倍首相が裏で中国の悪口を言っていることも、インドやオーストラリアに働きかけて「一緒に封じ込めましょうよ」とふれ回っていることも知られている。公開討論の場で殴られなかっただけでも、安倍首相は感謝しなければならないだろう。

当初この話は様々な村落的な行き詰まりを構造的に分析するようなものになるはずだった。その線で何回か書き直したのだが、いつも最後の所で行き詰ってしまう。「で、構造が分かってどうするのか」と思ってしまうのである。

行き詰って立ち寄った本屋でダイエットの本をたくさん見た。最近のダイエット本は売るのに苦労しているようだ。体の痛みがなくなるとか、痩せるとか、頭が良くなると言った具合に動機付けのワードがタイトルについているものが多い。実際に痩せてみれば気持ちが良く健康にもなれるし、外見を自分でコントロールできるのは楽しいのになと思った。

ダイエット本が売れ続けるのは痩せたことがない人がたくさんいるからなんだろうなと思ったところで気がついた。「他者をいじめる本」がなくならず、政治が嘘をつき続けるのは、多分鏡に映った自分の姿が気に入らないからなのだろう。写真を加工したり鏡を歪めれば当座はしのげるだろうが、やっぱり嘘は嘘なので、次の嘘を探さなければならない。

つまり、こうした嘘の構造は「これは嘘なのだな」と認識したら、それ以上深掘りしても意味はなさそうだ。それよりも自分たちが変わるための第一歩を踏みだすべきだろう。多くの人たちが「自分たちは変われた」という実感を持った時、新潮45のような雑誌も安倍政権のような嘘の政権は世間から忘れ去られてしまうのではないかと思ったのである。

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「LGBTの権利が守られるなら痴漢の権利も守られるべき」について考える

先日は新潮45の炎上について考えたのだが、今回は小川榮太郎という人の「LGBTの権利が守られるなら痴漢の権利も守られるべき」という主張について考える。結論からいうと相手にしなくていいと思う。小川さんとの<議論>に巻き込まれることなく、本筋である新潮社への意思表示を継続すべきだろう。さもないと小川さんのような<議論>をする人がさらに増えることになる。

新潮45には言論の自由があり新潮社にも経営の自由がある。ゆえに言論の自由を擁護する立場からは彼らを黙らせることはできないし、すべきでもない。一方、消費者には新潮社の本を買わない自由や、新潮社を応援するスポンサー企業からものを買わない権利があり、それをスポンサーに伝えることもできるというのが前回の結論である。新潮社は経営的判断として杉田発言を掲載したのだから、当然その帰結については責任を持つ必要がある。中途半端な反省を受け入れてしまうと、結果的に新潮社の経営判断としてのヘイトを容認したことになる。

前回はあまり考慮することなく簡単に「ヘイト」という言葉を使っている。しかし、これは異質な人たちを憎悪するヘイトとは別の感情に基づくのではないかと思う。それはいじめである。実は杉田論文と称するものの正体は「普通でないもの」をあげつらうことで自分たちの優位性を確認する行為だからだ。ヘイトは対象物を遮断したり抹殺を狙うものだが、いじめは対象物をいつまでもなぶることで快感を得るという行為である。安倍政権はこうした「いじめ」を行う人たちを野放しにしているとは思うが内国民に対してのヘイトに加担しているわけではない。彼らは中国や朝鮮を憎悪の対象にすることで国内の安定を図ってきたという意味ではヘイト感情を利用しようとしたが、これは国際社会から黙殺されつつある。

今回は小川榮太郎さんの発言について考えてみる。全文を読んだわけではないのだが問題になっている点は二点のようである。第一に小川さんが安倍晋三総理大臣と近しくこれまでも政権を擁護してきたという経緯がある。その上で、小川さんの「LGBTの人権が守られるのなら痴漢の人権も守られるべきだ」としているという発言が問題になっている。中には「安倍案件だから炎上すべきだ」と主張する人もいる。だが、実際にはこの発言がどういう文脈で語られているのかということはよくわからないという状態である。

この発言の問題点は、LGBTを痴漢と同列に扱っている点にあると思う。つまり、痴漢は犯罪者なので、LGBTをそれと同列にすることで「ある仄めかし」を行っているのだ。LGBTという社会的に許容された存在とするのではなく、かつてのホモやおかまという言葉が持っていた後ろ暗い存在に貶めるために痴漢という後ろめたい犯罪行為とつないでいる。これ自体はわりとよく使われるやり方だ。サブカルチャーとしての漫画を認めず、かつての後ろ暗かったころの「オタク」と性犯罪者とを結びつけて表現の自由を奪おうとする人たちもいる。

もちろん、小川さんがいうように、痴漢の人権も守られるべきだ。彼らは痴漢という行為を行ったにせよ基本的人権は保障されるべきだ。弁護士をつけた上で再審を含めた裁判を受ける権利や社会復帰する権利は守られるべきである。さらに現在の制度では「痴漢の疑いをかけられたら仕事を失ったりする」場合もあり、この点も是正されるべきかもしれない。こうした権利がきちんと守られているとは言えないので、小川さんにその気があるのなら、痴漢の人権についての活動を始めるべきである。

さらに権利を拡張するとしたら「止むに止まれず触ってしまう癖」がある人に適切な治療や認知療法を与えるようにすべきなのかもしれない。特に男性の痴漢や児童虐待行為のニュースを見ていると「仕事を失うことがわかっている」のに衝動を抑えきれなかったというケースも多いようである。男性の性衝動にはこうした側面があり社会的な援助と理解が必要である。日本のみならず海外でもこうした権利は議論されてこなかった。人権に敏感な人は人間は理性的な生き物だと思いたいので、動物的側面にはあまり触れたくないのかもしれない。

ところが小川さんの主張は結局のところ痴漢の権利を守るべきかという点には結論がないそうである。それは小川さんが痴漢を「みっともない犯罪」として利用しているだけだからだ。痴漢犯罪者や冤罪者に対しての人権を守るべきだと考えた時、それは議論の対象になる。だが、それを単にLGBTを貶めるためにオブジェクト化して使っているという点に問題がある。つまり、この言動の問題点はLGBTの問題を矮小化するために痴漢の問題を利用したという二重の罪深さがあるのだ。

これは教室でいじめられっ子から財布を取り上げてみんなで回し合うのに似ている。この場合「人権」というのが財布の代わりになっている。明らかに相手が大切なものを失って平気で取り戻そうとしているのを笑っているのだが、それは決して認めず平然を装って財布を回し続ける。そこに快感があるからだ。

巷間言われているご飯論法の快感はそこにある。議論の真意を仄めかしつつも決して認めないことで「自分たちはお前たちには支配されない」という優越感を得ている。仲間内では差別的な目的を持った議論や私物化の議論を行い、それを仄めかしつつ絶対に認めないことで「自分たちは意思決定の側にいるがお前らは入れてやらない」という快感を得ているのだ。

最近これで大いに気持ちが良かったであろう人がいる。それは加藤厚生労働大臣だ。加藤大臣は恐らく働き方改革の調査数字がデタラメだという認識は持っていたはずだ。が、それをひけらかしつつ認めないことで「真実を決めるのは我々だ」というひけらかしを行い、「野党がどんなに騒いでも結局数で勝つのはこちらである」という優越感を持つことができる。安倍首相はそれを眺めていて、かなり爽快な気分だったのではないだろうか。特に社民党や立憲民主党の女性議員と話している時の安倍首相の顔には言葉では表現しづらい笑いが浮かんでいる。その意味では彼らにとって労働法も国会の議論も単なるおもちゃなのだろう。

スポーツでも同じように周囲のコンセンサスをとって相手を追い詰めて行く行為が見られるが、こちらはずいぶん非難され始めている。これが外の規範とぶつかりつつあるからだ。SNSで拡散されて騒ぎになりテレビが取り上げて大炎上する。すると内閣府のスポーツ庁が出てきて「許認可を取り上げ、補助金を減らすぞ」と脅すところまでがセットになっている。

スポーツでいじめがなくならないのは、この快感が抗いがたい魅力を持っているからなのだろうが、ワイドショーの側もそれを利用しているる。新潮社は実はこの罠にはまっている。つまりいじめている側だった人たちがあるティッピングポイントに達すると今度はいじめられる側になってしまい制御ができなくなる。新潮社は杉田論文を掲載し、今度はこれを擁護したことで、社会の制裁の対象になっても構いませんよと宣言してしまっているのだ。

新潮社が杉田発言を擁護したのはこの発言に商品価値があると思ったからだろう。なぜ商品価値があるかといえば、本音では「他人の権利よりも自分の方が大切」という人がたくさんいるからであろう。彼らは表立って言えないこうしたルサンチマンを本を買ってでも晴らしたいと考えている。だがこうした行動は必ずエスカレートしてどこかで外の社会の規範とぶつかる。相手をあげつらうことで快感を得ていたのだから、彼らは「社会から弁護してもらえる資格」を失っているのだが、それに気がつかない。

今回は「他人事の人権の問題」から女性全般の怒りを買いかねないところにエスカレートして炎上した。LGBTの人権は比較的新しい拡張された人権なので、人々は不快感を持っても自分ごととしては行動しないかもしれない。だが、痴漢を擁護すると受け止められかねない(実際は利用しているだけなのだが)発言を明確に否定しなかったことで、新潮社はすべての女性の潜在的な敵になるというリスクにさらされているということになる。

女性の中には常に襲われる危険やリスクに警戒をしながら通勤通学をしている人も多い。さらに痴漢の被害者になっても「男を誘うような服装が悪かった」とか「どこか隙があったのではないか」とまともに取り合ってもらえないという状況を見ている。こうした潜在的な危険が女性の心にどのようにのしかかってくるのかを男性の立場から想像することはできないのではないかと思う。

新潮社がこうした人たちの不安を逆なでしたことは実は大きかったのではないかと思う。実は安倍政権に関係しているからという理由で反対している人よりも、こうした女性たちの気持ちを踏みにじったことを新潮社は後悔することになるだろう。

さらに新潮社はこれまで他人のスキャンダルで食べてきた会社なので、自分たちが非難にさらされた時に誰からも守ってもらえない。例えば週刊文春にとって今は新潮社潰しのよいチャンスであろう。多分、新潮社はまだこのことに気がついていないのではないだろうか。

いずれにせよ、新潮社は人をいじめて商売をする権利はある。これに反論できるのはいじめられた本人たちだけである。だが、この手の行為はたいていエスカレートして抑えが効かなくなる。私たちはスポーツのパワハラ問題で散々これを見てきたが、実は社会に広くある問題行動なのだということがわかる。だからこそこの手の問題はいったん火がつくと収まらなくなってしまうのであろう。

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