このところ新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のことばかり書いている。騒ぎはまだ収束していないのだが漠然と日本社会の欠陥がわかったと思った。それは「科学的アプローチの欠如」である。原因さえわかれば理論的な解決策はわかる。あとは「どう実施するか」である。
安倍首相の会見は「精神論」と評価されたようだ。なぜ精神論になるのかというと、意思決定の根拠になりそうな証拠(エビデンス)を集めてこなかったからである。このため大切な意思決定を勘に頼らざるをえなくなる。
その精神論が蔓延する原因の一端がAP通信の記者の質問に現れている。おそらく外国の通信社を排除していないという実績が作りたかったのだろう。AP通信の記者はそれがわかっていて抑制された質問をした。「日本としての危機管理能力が試され、国際社会から注目されている。これまでのところで得られた教訓はどういうことで、のように生かしていくか」と聞いたのだ。普通こんな聞き方はしない。なぜならば教養のあるヨーロッパのリーダーは「失敗ではなく教訓」と考えて自ら教訓を説明するからだ。だが安倍首相は「失敗=非難」と捉えたのだろう。そしておもむろに原稿を読み始めた。日本は過去の教訓から学ばない国であるという無教養ぶりを改めて世界に発信したのだった。
過去から学ばない人は問題を冷静に分析できない。だからいつまでたっても精神論にしがみつくことになる。そのためにはまず現状把握をしなければならない。
前回はおそらく国立感染研が政治的な意図を持っていて情報を把握しようとしないのではないかという仮説を書いた。だがこの仮説をもとに感染研に改善要求をするのは難しいだろう。彼らもまた自己防衛のために反省ができない組織になっている可能性があるからである。
この場合「とにかく情報を集めてくるべきだ」という意思を明確にして、複数の集団を競争させればいい。一つの集団が情報を隠そうとしても別のところは出してくるかもしれない。おそらく民間に権限を渡せば喜んで協力しただろう。お金はこういうところに使うべきだったのかもしれない。
現状把握ができない組織は計画も立てられないが、そもそも日本人は状況を把握して科学的なマネジメントをやるべきだという発想になかなか行き着かない。
ところが「いやそんなことはない」とか「各種調査をやっている」という会社は多いはずである。品質管理からマーケティングリサーチまで日本人は調査するのが好きな民族でもある。どちらが正しい日本人像なのだろうか。
日本社会に統計の伝統を根付かせたのは実はアメリカ人である。W.エドワーズ・デミング教授というアメリカ人が国勢調査の立案をしこれが製造業に広がったという歴史がある。こうしてデミング賞という賞も作られた。つまり日本の政治も製造業もアメリカから統計の必要性を学んだのである。
もともと科学的マネジメントの伝統を持たなかった日本人は科学的品質管理が効果的であることに驚いた。一旦根付いてしまうと次第に統計熱にハマってゆく。終身雇用制度のもと経営と協力的だった正社員型労働者はQCサークルという現場主導の品質管理方法を作りそれがアメリカに逆輸入されシックス・シグマと呼ばれる手法になる。1980年代はアメリカが日本に品質管理の方法を教えていたのである。デミング賞は形骸化しつつ「賞を取るのが目的化している」と言われるほど熱心な信者を生んだ。
このことからわかるのは日本の現場というのはもともと極めて優秀だったということである。マネジメントの基礎知識は持たないのだが、教えたことは勤勉にやる。ただし身分保証をしてやる必要がある。
- 日本の経営者は結果は重要視するが、プロセス – 統計的手法や科学的マネジメント – にあまり興味がない。
- 日本の現場はマネジメントの知識は持たないが教えたことはきっちりやり本家も学びたくなるほど洗練した方法を作り出す。
- ただし、現場が機能するためには身分保障が必要である。
安倍首相の政治手法を見ていると絶望的な気分になる。マネジメントに興味がなく「やってる感」と「政治的決断という名前の勘」だけで政治をやっているからだ。過去の失敗から学びもしないのだから改善は難しそうである。
だが、実際には日本には成功した科学ベースの品質管理の伝統がある。マネジメント層が無能であるというだけで実は現場には問題がないのだ。
日本のマネジメントがなぜエビデンスを重視しないのかはわからない。戦前の日本で科学的アプローチが根付かなかったのは従業員を家業を充実させるための道具としかみなしていなかったからなのかもしれない。家業主義の企業運営というのはそうしたものだ。家業において「経営者は身分」なのである。
戦後すぐの官僚国家において「国家マネジメントは科学」だったのだろうが、現在の世襲政治家もおそらくマネジメントを機能ではなく身分として捉えているのではないかと思う。少なくとも。岸信介の孫である安倍首相は生まれついてのリーダーであると思い込んでいる。昔であれば将軍家に生まれた将軍候補であり、すべての人たちが彼に従うのは当たり前と感じているのだろう。
マネジメントが機能であればその機能を満足させるためのスキルを持たなければならないと考えるだろう。だが、おそらく身分と考える人にはそのような動機は生まれない。過去の失敗から学ばなくなり現状も把握しなくなった日本はこのままでは安倍首相と一緒にどこまでも落ちてゆくのかもしれない。それは一部の人が「家産国家」と揶揄する前近代的な二流・三流国家である。