イマドキの若者はおじさんたちのダサさをファッションに取り入れている

最近、YouTubeで20代のファッションの研究をしている。BEAMSが「ハズし方」について研究しているコンテンツがあった。最初は「なるほどなあ」と思いながら見ていたのだが、だんだん怪しくなって来た。多摩川でダサいおじさんファッションを見てそこからインスピレーションを得ていると言い出したからだ。

嘲笑される側のおじさんとしていい気分ではない。

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頭が小さいほどスタイルが良い女性だと考えられるようになったのはなぜなのか?

Quoraに「日本で頭が小さい女性がスタイルがいいと考えられるようになったのはいつ頃からなのか?」という質問があった。ミスユニバースで三位入賞した伊東絹子さんが八頭身美人という言葉を流行らせたという回答が複数ついていた。

その後、児島明子さんがミスユニバースで優勝した。1960年代になるとツイッギーというイギリス人女性が来日しミニスカブームが起きた。つまり頭が小さいだけでなく小枝のように細い女性が「グローバルスタンダードなのだ」という認識が徐々にできあがっていったことになる。

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イタリア・モードの誕生と発展

前回はサルトリアというイタリアの職人服が日本ですっかり定着しているということを書いた。今回はこれとは違う流れの「モード」について書く。近代モードはフランスで始まった。創始したのはシャルル・フレデリック・ウォルトというイギリス人だった。聞き馴染みのある名前だなと思ったのだが2015年にこのブログで取り上げていた。

フランスはヨーロッパ宮廷文化の中心地であり、今でもファッションの都である。だがイタリアはそうではなかった。ではイタリアでモードが発展したのはなぜだったのか。

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クラシコ・イタリアとイタリアのアパレル産業

メイド・イン・イタリアの服を見ていると明らかに異なる二つの系統がある。一つはアルマーニやベルサーチと言われるデザイナーが作る服である。イタリアではモーダと言われる。もう一つは紡績工場で作った服を職人が作っている。サルトリア(縫製技術)を持った職人をサルトと呼ぶそうだ。総合紳士服ブランドになったところもあるがジャケット専業メーカー・パンツ専業メーカーも存在する。日本には両系統が入ってきているのだが現在ではサルトリアの方が主流である。

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セレクトショップ御三家と「新御三家」

バラバラに買ってきた洋服の整理をしている。「セレクトショップ系のものが目立つな」と思ったのだが一体何がセレクトショップなのかがわからない。そこでセレクトショップについて調べてみた。

もともと戦後の日本の男性ファッションの歴史はヴァンヂャケットあたりから始まる。アメリカのIVYリーグのファッション(ブルックス・ブラザーズのことらしい)を持ち込んで国内生産したというのが始まりだと思う。代表の石津謙介さんはメディアにたびたび登場しTPOという言葉を定着させた。だがヴァンヂャケットは1970年代半ばごろから急速に業績が悪化し1978年に倒産してしまう。皮肉なことにあまりにも好調すぎたため経営を急拡大させたことが倒産の原因だったようだ。つまり大きすぎて潰れてしまったのだ。

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守屋光治

本日はライトユーザーについて考えるのだがなぜかタイトルは人名である。守屋光治という人がいる。Men’s Non-Noの専属モデルをやっているそうだ。先日この人のYouTubeチャンネルを見つけた。正確にはMen’s NON-NOのウェブ担当のようである。Men’s NON-NOのモデル中でも特に洋服に詳しく大学で服飾の勉強をしたという。今ではエディターとしてもページを持っているそうだ。モデル兼エディターという華やかな経歴である。

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Via Borgonuovo21, Milano

古着屋で夏物のジャケットのセールをやっていた。900円で売れなかったのだろう。多くのジャケットが半額になっていた。その中にGorgio Armaniを見つけた。偽物だと思われたのかもしれない。ラベルを見たら確かにBorgonuovo21という見慣れない表記が入っている。聞いたことがない。素材はリネンにシルクが混じっているようだ。触って見たらくたびれたネクタイのような手触りがある。シルクのネクタイから光沢がなくなるとこんな手触りになる。素材は本物のようである。

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上級国民がガラパゴス化するメカニズム

先日JDIについて書いた。政府が税金を投入して液晶技術を救おうとしたが結局中国に売り渡したという話である。中国に技術流出が起きる大変だ!というような論調にしたと思う。




ところがQuoraで聞いてみたら全く様子が違った。液晶は枯れた技術だからそもそも救えるはずはないというのである。あまりにも冷静なのでちょっと戸惑ったほどだ。だが、どの意見もそれなりに冷静で理路整然としている。「あれ?」と思った。

全く別の興味からデュアルディスプレイについて聞いた。最近机周りを整理しているのだが、モニターが散乱しているので(現在3台置いている)これを一つにすべきかなと思っていたからである。結局生産性についてのリサーチ結果などは出てこなかったので自分で調べたのだが(適正な広さ(ピクセル数)がありそれを越えると逆に生産性が下がって行くそうだ)面白い回答が多かった。

この回答について調べて見るうちに面白いことがわかった。当たり前の人には当たり前になっていると思うのだが、実はAmaznでは20,000円も出せば24インチモニターが買えるらしいのである。ああこんなに安くなっているのかと思った。

もちろんワイドモニターというジャンルもあるのだが「ゲームに最適」などと書かれている。つまり特殊用途になっていることもわかる。メインはノートパソコンとスマホなのだから当然といえば当然である。

いずれにせよ、人の話を聞いて「あれ?」と思って調べてみて液晶モニターが日常品(コモディティ)になっていることが実感できる。なのだが、日々政治ネタを書いているとこのあたりのことにも詳しくなったような気になってしまい、「聞く」という作業が出来なくなってしまう。これは政治家やジャーナリストといった「上級国民」の皆さんにも言えることなのではないかと思う。

このような状況では、自治体総出で工場を誘致してもすぐに陳腐化することがわかる。あのSHAPRの亀山工場が華々しくスタートしたのは2004年だそうだが、2018年には衰退を嘆く記事(東洋経済)が出ている。変化はそれほど早いのだ。

実はQuoraでわざわざ聞いてみなくても自分のモニター環境をみればすぐにわかる。SONYの19インチモニターは800円で購入したのだが何の問題もない。部屋にはいろいろな小型モニターが転がっていて日用品どころか使い捨て感覚で使っている。ただ、最新のものを買わずに中古で済ませているとはちょっと言いにくい。こういう声はあまり世間に広まらないのかもしれない。

同じような事例は他にもある。それが岡山のジーンズ産業だ。ベルサーチなどが高級ジーンズブームを起こした時に注目された岡山の伝統技術だが、次第に脱ジーンズ化が進み注目されなくなった。例えば、ベルサーチはシチリア島の凝った刺繍などをフィーチャーすることが多くなった。

しかし日本はこの時に世界に注目されたことを忘れられず「いいものを作っているから必ず世界に受け入れられるはずだ」として高級ジーンズにこだわり続けた。この2012年のnippon.comの記事はいくら高級ジーンズを作ってもそれを買ってくれる人がいなければ何の意味もないということをすっかり忘れている。

なぜ高級ジーンズブームは終わってしまったのか。その背景をなぜかright-onが解説してくれている。リーマンショックでアパレル自体の勢いが止まってしまったのだそうだ。いわばバブルが崩壊した結果高級衣料そのものが売れなくなってしまったのである。

時系列で並べると高級ジーンズブームが起きたのが2000年ごろだったが、2008年/2009年ごろの不況で突然需要が止まり、それでも諦めきれずに2012年ごろにMage In Japanを前面に押し出したがうまく行かなかったことになる。

こうした実感はファッション写真を見ていてもわかる。インスタグラム発信が増え凝ったアドキャンペーンがなくなりつつある。これも「目の肥えた大人」から見るとかわいそうな若者の話に見える。「かわいい」が分からなくなった若者たち。ZOZOやSNSが奪ったモノという「おしゃれ上級国民」が書いた記事を読むと、最近の若者は個性がなくなってかわいそうだと思える。だが、実は単におばさんが時代に乗り損ねているだけということがわかる。ここから抜け出すには自分でSNSを使ってみるしかないが、そういうカッコワルイことはおしゃれ上級国民にはできないのだろう。

日本人は過去の成功にこだわり続けるのでこうしたことは日本各地で起こっているのではないかと思う。

液晶とジーンズという全く違う二つのものを見てきたのだが、明確な共通点がある。いったん売れるとそれが未来永劫続くと思い込むということである。つまり「正解ができた」と勘違いしてしまうのだ。そして勝手に政界からMy価値体系を作ってそれを他人に押し付けようとしてしまうのである。しかし(あるいはだから)お客さんのことにはそれほど関心がなく、ブームが終わってもそれに気がつかない。こうして「昔どおりにやっているのになぜダメなのだろう」と思い込む人が増えるのである。

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勝ちたい日本人が夢中になる「抜け感」

先日来、劇場型政治を燃え上がらせる日本人の勝ちたい感情について書いている。が街に出て一味違ったキーワードを見つけた。それが「抜け感を出すためのテクニック」である。これは勝ちたい日本人の屈折した感情を表していると思う。そしてこの抜け感によってファッショントレンドそのものが成り立たなくなっているように感じられる。




まずこの「抜け感」という言葉から見て行きたい。頑張っておしゃれをするのは粋ではないと見なされ、リラックスしたさりげなさを演出するのがよいとされている。つまり、洋服が良いのではなく自分がかっこいいから洋服もよく見えるというような見られ方が好まれるのである。

確かにここまでは納得ができる。「ファッションを理解していない」人は服の理解を内面化させず「洋服に着られている」ことが多いと思うからだ。今でもたまに1990年代の洋服の理解をそのまま正解として引きずっている大人を見かける。周りの動向に関心を持っていれば「ああはならないだろうな」と感じることがある。1990年代は、とりあえずトレンドには手を出しておけばなんとかなっていたというのも事実であるが最近では自分らしさが求められる。

自分らしさを出すためにはトレンドに合わせているだけではダメで、それを理解してこなさなければならない。だが、ファッション業界は内面的な理解に行かず外形的にそれを落とし込んでしまった。それが「抜け感テクニック」だ。雑誌をみると「今更聞けない抜け感の出し方」というような不思議な特集が組まれていることもある。そして不思議なことに「気にしていないがおしゃれに見える」ようにするためにみんな必死になってしまう。ここでも日本人は勝ちたいのである。

抜け感はそもそも服を理解して着こなしている人がかっこいいというところから始まっているので、すぐに真似できる正解がない。この傾向は繊研プラスによると2015年ごろから見られるようになったそうだ。繊研プラスは「曖昧で正解がない」と言っているのだが、同時にファッション界では正解になりつつあるのでセールストークとして有効だと言っている。つまり正解がないことがわかっているのだが、それが蔓延しているのでお店側が合わせてしまっていることになる。

こうしてできた抜け感スタイルは「単にだらしない」になりがちだ。手っ取り早く抜け感を出すためには、スタイルがいい人を連れてきて少し抜いてしまう「引き算」をすればいいが、これを普通の人が真似をすると似合わないのは実は当たり前なのである。

この抜け感の裏にある価値観は非常に複雑である。洋服で自分のスタイルを作ろうとすると他者とは違ったことをしなければならない。最初からうまく行くことはないので失敗があるのだが、この失敗が許されないのだろう。みんなと同じであることが求められ失敗も許されないが埋没してはいけない。これではいわゆる「無理ゲー」である。気がついた人から抜けて行くのは当然なのだ。

このため「抜け感が何なのか誰もわからない」という状態が生まれる。にもかかわらずこの言葉はファッション雑誌やアパレルブランドに蔓延していてあたかも正解のように語られる。

この言葉はリベラルのいう「私らしく生きたい」に似ている。正解がない言葉なのにあたかも正解として語られる。それでも自分なりの正解を見つければいいと思うのだが、実際に私らしく生きようとすると「普通」から逸脱してしまう。そしてその逸脱は失敗と見なされて非難の対象になる。さらに、多くの人が「実は他人に勝ちたい」と思っていて、自分なりの生き方やスタイルを見つけたい人たちの足を引っ張る。こうして最終的に行き着くのが「あの人たちよりマシ」という心理状態である。

これまで政治の問題として、リーダーシップを取ろうとする人たちが同僚間の闘争に巻き込まれてやがて不毛な足の引っ張り合いになる様子を観察してきた。行き着いた先は自己否定されたと感じて傷ついた人たちの二極化した匿名のつぶしあいだった。とてもナイーブであり同時に苛烈だ。この背景には何が正解かわからなくなった人たちが自分たちと異なる他者を見つけて叩きたいという動機があるのだろう。

政治はSNSの登場で二極化した<議論>が生まれたが、ファッションのこうした闘争は個人化しており社会的な結びつきを持たない。が、これはマイルドな突出(ファッショントレンド)の破綻なので、ファッションそのものが成り立たなくなってしまっているのである。

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Dolce & Gabbanaと中国の炎上騒ぎ

Dolce & Gabbanaのショーを見て、身長が様々なモデルを使っていることが気になった。「多様性を受け入れてこのようなモデルを使っているのだろう」と思ったのだが、実際にはそうではないようだ。今回はクリエイターに勝手な思いを重ねてしまいがちな我々の性質について考える。




Dolce & Gabbanaのショーには様々な人たちが出てくる。例えば2019年春夏のショーには高齢のモデルが多数採用されている。このような光景を見るとつい「多様性を受け入れているのだ」などと書きたくなる。

ところがこれを裏打ちしようとしても「SNSが主流になった現代の多様性を受け入れるために様々なバックグラウンドの人たちを登場させた」などという記事は出てこない。出てくるのは中国でDolce & Gabbanaが炎上したというような話ばかりである。

中国について、デザイナー2人は苛立っていたようだ。コピー商品の氾濫を防ぐためには本物を浸透させることが大切なのだが、あまり中国マーケットが好きではなかったのはないかと思われる英語のインタビュー記事を見つけた。「コピーでいいならコピーを着ていればいいじゃないか」というようなことを言っている。日本からもD&Gが撤退している。コピーが多かったことに嫌気がさしたのではないかという観測がある。

ただ、同社本国のクリスティアーナ・ルエラ常務取締役は、こうもコメントを寄せた。「日本市場に氾濫(はんらん)するD&Gの模倣品が大きな障害になっている」

http://www.asahi.com/fashion/beauty/TKY201006010144.html

彼らはビジネスとして世界に自分たちの商品を売るよりもクリエイターとして尊重されたいという志向が強いようだ。

過去のインタビュー記事を何本か読んだのだが、Dolce&Gabbanaは過去に何回も問題発言を繰り返しているそうである。敵に回したのはアメリカのアンチトランプ、同性愛者などいわゆる「リベラル」な人たちである。デザイナー二人も長い間同性パートナーだった経験があるわけで、ついついリベラルに分類したくなるのだが、実はかなり保守的傾向が強いようである。メラニアトランプと親交がありトランプ大統領を支持している関係で、ショーに出演したモデルに反乱を起こされたこともあるそうだが、イタリア人なので政治に興味はないとこれを一蹴している。(HUFF POST

同性愛関連の発言ではエルトンジョンの怒りを買った。同性愛者だからといって全ての人がリベラルな家族観を持っているわけではないのだ。

「私たちはゲイの養子縁組に反対します。伝統的な家族が唯一のものなのです」。2人はことわざを引用してこう述べた。「化学的につくられた子供や借り物の子宮なんて必要ありません。人生は自然のままに。変えるべきでないものがある、ということです」

https://www.huffingtonpost.jp/2015/03/16/elton-john_n_6875760.html

今回の中国では、このやんちゃぶりが政治議論の枠を越えてしまった。つまり民主主義的な意見対立ではなく、ついに民族的な騒ぎに発展してしまったのだ。デザイナー2人は、最初は謝罪するつもりはなかったがようだが、最終的にSNSで謝罪するという「かっこ悪い」対応になってしまった。(FASHIONSNAP.COM

経済的に自信が出てくると今度は名誉が気になる。これは日本がかつて通った道である。Quoraでも何回か「日本人は中国人をどう思っているのか」というような質問を目にした。国力はついてきたが果たして立派な先進国になれたのかという後発先進国型の自意識だ。日本が長い間欧米の目を気にしてきたように、国もこれから長い間先進国の目を気にすることになるのかもしれない。

Dolce&Gabbanaはキャリアの最初にモデルを雇う金がなく一般の女性にモデルなってもらったことがあるとWikipediaに紹介されている。モデルに様々な人たちが登場するのはこの辺りが背景になっているのかもしれない。決して「政治的正しさ」から来ているわけではなさそうだ。そもそも既存の服のルールを破ったり、ボロボロのジーンズをハイファッションとして仕立てているわけだから政治的な正しさの対極にあるということも言える。デザイナーとしては型破りさが求められるがビジネスマンとしては政治的正しさが求められるというのはとても難しい。また自身も同性愛者なのに保守的な考え方を持っているという点にも難しさがある。

我々は「成功したクリエイティブ」であるファッションデザイナーに政治的正しさを求めがちだ。今回抱いたのは「クリエイティブな人たちは多様性を支持するリベラリストだろう」という根拠のない期待である。しかし、彼らが成功したのは既存の価値観に挑戦したからなのだから、我々の期待通りに「いい子でいてくれる」とは限らないのである。

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