「ソ連の北海道占領計画」が明らかになり、日本の戦後史理解が少しだけ前進する

終戦記念の日が終わった。旧来通りの「戦争は繰り返しません」という終戦特集もあるのだがこれまでとは違った角度の分析も見られるようになった。中でも興味深かったのが読売新聞の北海道分割計画の話だ。「ソ連軍、北海道全体の占領を検討…対馬や済州島にも野心」として記事になっている。ウクライナ侵攻が進みリアリティを持って北海道処理が考えられるようになったという事情がある。だが、それだけでは少しもったいないなという気もする。

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日本人の三層構造説

ニュースで「日本人は縄文弥生の二層構造」ではなく「縄文・弥生・古墳」の三層構造であるという話を読んだ。金沢大学の論文がそう指摘しているそうだ。朝日新聞読売新聞の二つの記事を見つけたがどれも似たようなことしか書いていない。朝日新聞は元論文(英文)へのリンクがありこちらはGoogle先生に読んでもらった。

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ルーマニア民族の成立とネイションステート

ルーマニアが気になっていた。国土の真ん中にカルパチア山脈があり国土が分断されている。なぜこんなところに「民族的な一体性を保った国民国家があるのか?」と思ったのである。長い間疑問を放置していたのだが、最近になって、そもそもルーマニアという一体の国土ができたのは最近のことであるということを知った。つまり国民国家という考え方が生まれたことでルーマニア民族という民族意識が芽生えたという側面がある。ある種人工的な概念なので安定性に欠ける。

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「朝鮮には車輪がない」の嘘と本当

朝鮮の植民地化を正当化する理屈としてよく使われる理論に「朝鮮には車輪がない」論がある。遅れた国をわざわざ日本が開発してやったのだから植民地支配を恨まれる筋合いはないというわけである。ここには本当のことと嘘が混じっているように思うのだがよくわからない。そこで「이씨 조선 바퀴가없기」や「이씨 조선 바퀴가없는」で検索してみた。「李氏朝鮮車輪がない」という意味だ。語尾によって(名詞形にしたり連体形にしてみた)検索結果に違いがある。

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チンギス・ハーンと中国共産党の「民族弾圧」

中国が圧力をかけて内モンゴル自治区の博物館とフランスの博物館が企画した展示を潰したという記事を読んだ。「中国が圧力「チンギスハン」を削除せよ 仏博物館、企画展延期に」という内容である。「チンギスハン」「帝国」「モンゴル」といった言葉を展覧会から削除するよう要求されたそうだ。タイトルだけ読むと中国がモンゴル民族に対する圧力をかけている中で企画展も中止になったのだろうと思える。チベットや新疆ウイグル自治区で人権侵害が起きていると文脈の中で書かれているのだろう。ガーディアン(英語版)は中国人がモンゴル人を差別していると書いている。

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ますますめちゃくちゃになる靖国神社の議論

2016年以来、4名の閣僚が靖国神社に参拝したそうだ。習近平国家主席が訪日しなくなり配慮が必要なくなったからであろう。日本人にはご都合主義なところがある。だが、ところがこれに関連するニュースを見ていて「外国からは誤解されたままになるんだろうな」と感じた。だがおそらく最大の問題点は日本人自体がこの問題がよくわからなくなっているという点にあると思った。おそらく参拝した閣僚もあまりこの点を深く考えていないようだ。

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明治政府はなぜプロイセンの憲法を模範したのか

最近ドイツ帝国について調べている。最初のきっかけはなんだったのか忘れてしまったのだが、調べているうちに「明治政府がなぜプロイセンの憲法を模範したのか」ということが気になった。もう少し調べてみて「おそらく明治政府は欠陥も含めてコピーしたんだろうな」と感じた。

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文字の発明と広がり

地球上で文字が発明されたのは数回しかないそうである。現在数千あると言われる言語で文字を持っている言語は数百しかなくそのうち広まっているものはフェニキア文字系のアブジャド・アルファベットと中国系の漢字しかない。これを「文字の歴史」という本を読みながらおさらいしてみたい。いつもは政治ネタについて書いているのだが突然文字を扱うのは実は文字の広がりと国家はつながっていると思うからである。

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カトリック教会はなぜ妻帯を禁止しているのか

政治の起源」を読んでいる。ようやく上巻を抜け出し下巻に入り、やっとヨーロッパの事情が出てきた。「法の支配」と「説明責任」である。この中にカトリック教会の妻帯の話が出てくる。いま、まさにローマ教皇が妻帯の許可に動いているという事情がありホットなトピックでもある。

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時代とともに移り変わるべき大嘗祭

令和に代替わりして初の新嘗祭である「大嘗祭」が行われた。Twitterで島田裕巳さんが大嘗祭を経ない天皇は「廃帝」とか「半帝」と呼ばれたと言っていたので「例外を除いては大嘗祭をやってきたのだろう」と思っていた。ところが調べてみると大嘗祭はずいぶん長い間中止されていたようである。大嘗祭ができなかったのは天皇家が徴税権を失ったからと考えられる。徴税するためには税を収めるネットワークが必要だが、日本は内戦状態にありでこれが壊れてしまったのだろう。応仁の乱以降江戸時代まで復活しなかった。






まず半帝と呼ばれたのは仲恭天皇だった。仲恭天皇というのは後付けの名前だそうだ。幼没した安徳天皇も行っていないのではないかと思ったのだが、平清盛のバックアップで行われたようである。この安徳天皇の大嘗祭からその意味合いがわかる。つまり日本人にとっての税とは神社への供え物と同じなのである。税を収める理由が天皇しかないので、その天皇に変わって「税を徴収してあげる」というのが日本の統治者の理由付けになっているということになる。

大嘗祭はかなり政治的な意味合いを持っている。日本の政治は合理的なルートで理解されてこなかったということになる。神の子孫を怒らせれば神を怒らせることになる。当然災いが降りかかるのだが神の代理以外はそれを鎮めることができない。現人神信仰である。信仰がなんとなく現実的な統治や徴税と一緒くたになっている時代が長かったということだ。第二次世界大戦までその状態は続きやがてアメリカから「カルト扱い」されて政治から無理やり切り離された。

1466年に最後の大嘗祭が行われその後中断した。復活したのは江戸時代のことだそうである。産経新聞だけを読むと「江戸幕府が天皇家に対するスポンサーシップを示すために大々的に行ったのでは?」と思える。安定の産経トリックである。

当時の幕府は、国内統治に儀礼を重視しており、1687年、東山天皇の大嘗祭の挙行を認めた。続く中御門天皇の即位の際には行われなかったが、その次の桜町天皇から現代まで続いている。

天照大御神から伝わる重要祭祀「大嘗祭」はこのように行われる

ところがWikipediaには全く違った話が書かれている。江戸幕府は二重権威を嫌い大嘗祭の復活を嫌ったが、上皇が江戸幕府の管理から外れて強行したということになっている。これをみると霊元天皇が天皇家の権威を示すために東山天皇を使って権威付けのために復活させたのではないかと思える。

貞享4年(1687年)に朝仁親王(東山天皇)へ譲位し、太上天皇となった後、仙洞御所に入って院政を開始し(以後仙洞様とよばれるようになる)、その年には同じく長年中断していた新天皇の大嘗祭を行う。これは関白及び禁中並公家諸法度を利用して朝廷の統制を図ろうしていた江戸幕府を強く刺激した。院政は朝廷の法体系の枠外の仕組みであり、禁中並公家諸法度に基づく幕府の統制の手が届かなかったからである。実は先代の後水尾法皇の院政にも幕府は反対であったが、幼少の天皇が続いたことに加えて、2代将軍徳川秀忠の娘である法皇の中宮東福門院がこれを擁護したために黙認せざるを得なかったのであるが、霊元上皇が同様のことを行うことを許す考えはなかった。直ちに幕府は院政は認められないとする見解を朝廷に通告するものの、上皇はこれを黙殺した。

霊元天皇(wikipedia)

この霊元天皇の話を知ると、このタイミングで秋篠宮皇嗣殿下が2018年11月に「私費でやりたい」といった意味も違ったものに感じられる。27億円という政府の天皇家に対するスポンサーシップが却って政治的に利用されかねないという危惧もあるのだろう。秋篠宮の「身の丈」が何だったのかというのは今でも議論の対象になっているが、善意に解釈すれば現行憲法で切り離された徴税権(つまり統治)の議論には触れず、国の安寧を祈るという古代の役割に専念したいという気持ちの表れなのかもしれない。つまり現行憲法によって統治原則は合理化されたのだから、天皇家は合理的ではない「気持ちの部分」だけを担当したいのだということになる。これは上皇陛下が統治時代になさってきた「象徴天皇制」のあり方と一貫するものがある。

ただこのメッセージを政治側が受け取ったとは思えないし、おそらくは理解もされなかったのではないかと思う。彼らは天皇権威を利用することだけに関心があり、おそらくは祭祀の存続には全く興味がないだろう。一部の識者は、最後の男系男子が定年するくらいまでは引き伸ばせるのでは?などと言い出しているそうだ。

江戸時代には天皇家の行事として簡素に行われていた大嘗祭だが明治に入って「天皇中心の世の中を作る」という決意のもと大掛かりなものになってゆく。実際に大掛かりなものが行われたのは大正時代からなのだそうだが、昭和でも大々的に行われやがて天皇権威が軍部の正当化に利用されるようになった。今でも天皇権威を背景にして統治者気分に浸りたい人たちがたくさんいる。秋篠宮の提言はそうした思惑にかき消されてしまった。一方日本人も大嘗祭について深く考えることがなくなった。マスコミでは「古の謎の儀式」と大嘗宮の豪華さにばかり注意が集まっていた。つまり天皇家を生きて変化しつづける伝統でなく、歴史や文化遺産の領域に押し込めてしまったのである。

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