前回はサルトリアというイタリアの職人服が日本ですっかり定着しているということを書いた。今回はこれとは違う流れの「モード」について書く。近代モードはフランスで始まった。創始したのはシャルル・フレデリック・ウォルトというイギリス人だった。聞き馴染みのある名前だなと思ったのだが2015年にこのブログで取り上げていた。
フランスはヨーロッパ宮廷文化の中心地であり、今でもファッションの都である。だがイタリアはそうではなかった。ではイタリアでモードが発展したのはなぜだったのか。
近代モードが成立したのは中産階級が生まれたからである。中産階級はイギリスでもフランスでも市民革命を起こした。イギリスは結局王政に戻ったがイギリスは紆余曲折を経て共和国へと変貌してゆく。つまりナポレオン三世の時代ににはすでに「消費者」は生まれておりメディアもあった。モードは憧れる側のちょっとした差別化とそれを模倣して憧れに近づきたいという消費者がいて初めて成立するかなり複雑な現象だ。
憧れられる存在と憧れる人たちを結びつけるのは今も昔もメディアである。最初のファッション誌は1672年にフランスで刊行されたヌーボー・メルキュール・ガランだそうだ。つまりフランスにはすでにモード・ファッションに対する興味があった。だがナポレオン三世時代以前には顧客が布地を入手しお抱えの職人に服を作らせていた。
ここにチャンスを見つけたのがイギリスから来たチャールズ・フレデリック・ワースだ。ナポレオン三世の妃を顧客に持ちオートクチュール(注文服)の父と呼ばれている。ワースは全ての工程を自分の手で一括管理するようにした。外国から入ってきた人がプロセスに革新をもたらしたというのが面白い。
モードが発生するにあたっての最初の憧れの対象(セレブ)はヨーロッパ貴族だった。1789年にフランス革命が起きしばらく暴動と内乱が続き内政は安定しなかった。紆余曲折を経て1852年にナポレオン三世が大統領を経て皇帝に即位した。この頃から普仏戦争までの間がフランスの安定期にあたる。これがワースの時代だった。ちなみにイタリアが統一されて王国が成立するのは1861年である。
イタリア・モード小史によると「モード」という言葉は古くから存在していたそうだが、近代モードを定式化したのはワースだった。その後、ナポレオン帝政は崩壊するがワースはファッションショーを開催するようになる。つまり、現在と同じクチュールメゾンの手法を開発した。帝政が崩壊したことで平民を顧客にする必要に迫られ一般庶民にも高級服(ファッション)の世界が広がったことになる。
ではイタリアではなぜモードが生まれなかったのか。それはイタリアが没落しており文化の発信地ではなかったからだ。
ルネサンス期の文化の中心地は確かに北イタリアだった。14世紀のイタリア北部は地中海貿易で栄えていたからである。コンスタンチノープルが陥落して地中海貿易の出口がオスマン帝国に塞がれるのが1453年だ。地中海交易ができなくなるとヨーロッパ人は南あるいは西からアジアに行くルートを探さざるを得なくなる。彼らはそうして偶然にアメリカを見つけた。
イタリアは一時ナポレオンの勢力圏に入る。つまり外国人によって統一された。そしてナポレオンが撤退した後に再分割されて旧体制が復活すると「自分たちの手でイタリアを再統一すべきだ」という運動が起きる。統一されたのが1861年なのだ。
ファッションの国産化は近代国家として成立したばかりのイタリアでは重大関心事だったようだ。主にフランスへの対抗意識がある。これが結果的にイタリアにもモードが作られる土台いなる。イタリア王国が成立したのは1861年だったがその50年後の1911年にトリノにモード館が作られた。その後のファシズムの時代にもフランスへの対抗心とメイド・イン・イタリアへのこだわりはイタリア人の重要関心事であり続けた。遅れてきたナショナリズムがメイド・イン・イタリアへのこだわりを生み出したのだ。
だがイタリアには決定的に欠けているものがあった。それは憧れてくれる対象である。モードは憧れられるセレブと憧れる消費者がいて初めて成り立つのだからイタリアでは世界規模のモードが成立しなかった。
イタリア・モード小史によると、戦後のイタリアは輸入が禁止されたが輸出を通して外貨を稼ぐ必要があったようだ。マーシャル・プランはアメリカがヨーロッパに援助を与える仕組みだが用途は限定されていた。結果的にアメリカの製品を買うことになるためにアメリカが潤うという仕組みである。イタリアはアメリカからの援助で工場を作って稼がなければならない。当然売り先はアメリカになる。こうしてイタリアのファッションはアメリカの市場に依存するようになる。
あとは市場があればよかった。最初のスターはアメリカに留学していたフィレンツェの侯爵家に生まれたエミリオ・プッチだったようだ。派手な幾何学模様がアメリカ人の心を捉えた。その次にあらわれたのがアルマーニだ。彼の衣装は映画を通じてファンを獲得した。こうして古代ローマ時代からのエキゾチズムと旺盛なアメリカ人の消費意欲の組み合わせによってイタリアにモード(イタリア語ではモーダというそうだ)が成立したと言えるだろう。
この時に過去の経験が役に立った。もともと地中海貿易を通じて毛織物産業は存在した。いわゆる流行ができた時点での最初のヨーロッパの流行発信地はスペインでそのあとフランスに移ったのでイタリア人は海外から流れてくる流行を模倣する必要がありその中でサルトと呼ばれる職人の技が磨かれていた。ファシズムを通じてある程度地域協力の形ができていた。最後にアメリカで消費者を獲得して現在のような生態系が作られた。
前回見たようにイタリアの服飾産業や繊維工業は衰退傾向にあるそうだ。ファストファッション向けに格安の生地を作っていたメーカーは海外に流出してしまったそうだ。皮肉なことに高級路線の紡績場などは残っていて今でもビエッラなどでは「憧れのメイド・イン・イタリア」を作り続けているそうである。