厚生労働省の静かなるパニック

相対的善悪主義と原理原則主義について考えている。最近石破茂が「安倍首相は憲法第9条の改正案に就て説明すべきで、解釈によって振り幅が変わるのは良くない」と主張している(ロイター)ようだ。石破の主張は「原理原則主義」に基づく。






多くの日本人には原理原則主義が理解できない。原理原則にこだわる石破はしばしば「お堅い人」と呼ばれ、自民党内で敬遠されてきた。日本人が原理原則主義を嫌うのは、原理原則にこだわって結果的に損をしたら困ると考えるからだろう。

安倍晋三が好まれるのは彼が虚の政治家であり内心を全く持たないからである。彼の性格がよく表れているエピソードに野田佳彦との対話がある。赤字国債発行の是非などを問う選挙を提案した安倍だが、消費税増税に反発が強まっており「野田はこの時期にみすみす損をすることがわかっている提案」を飲むはずはないと感じていたはずだ。だから「それを受けない」ことを非難しようというシナリオを準備していたのであろう。野田がその提案を受けた時一瞬顔色が変わった。結果は誰もが予想していた通り民主党の大惨敗になり、そのあと政権を引き継いだ安倍は自民党が損をすることがわかっている定数削減を引き延し続けた。

だが、この原理原則にこだわらないという日本人のやり方には副作用が大きすぎたようだ。原理原則にこだわらなくてもムラが崩壊しないのは、お互いにムラビトが共通の認識を持てているからである。そのコミュニティの限界は人間の脳の限界からみちびきだせるという話がある。学者によって幅があるようだが、150名くらいのムラであれば「お互いの関係性」が捕捉できるという話(ダンバー数)が提唱され学者たちに支持されているようだ。もちろん日本社会はこれより大きいのだが、村の共同体が代表者を出してゆき階層構造ができている時は村のよりあいだけで管理することができる。一方、ダンバー数を超えた社会では他の統治原理が必要になる。

最近、厚生労働省の毎月勤労統計が間違った方法で統計が取られていたことがわかった。誰が何の意図で間違った方法を採用していたのかはわからない。が、これに対する対応がめちゃくちゃなのだ。最近「官邸の人民日報」になっているNHKでは報道が出てからすぐにフリーダイヤルが準備されたことが告知された。「わからないことがある人はここに電話をするように」というのだ。

ここまでをみると「実は官邸は首相が不在でなおかつ国会が開かれておらずさらに予算の再編成に間に合う時期」を選んで問題の沈静化を図ったように思える。とても用意周到なのだ。

ところが実際に電話をしてみると「平成16年8月以降の給付がすべて間違っており、1件あたりの追加給付額は1400円程度になるだろう」と繰り返すだけで、それ以上のことは何もわからない。例えば住所が捕捉できていない人にどうやって連絡するのかということもわからなければ、本当にこの1400円という数字が合っているのかということもわからない。オペレータは地方のパートの人たちで、上から言われたことを「とりあえず3月の末までやってください」と言われており、あとは報道か厚生労働省のウェブサイトで見てくれと繰り返すばかりなのだ。

そもそもこの問題がで始めた時、厚生労働省は「間違っていることは知っていたが、法律で出せと言われたから出しました」と言っている。つまり、担当者たちは罪の意識を感じていない。しかしながら、世間からの炎上が予想され選挙にも損なので早めに発表することを決めた。その時に問い合わせ番号が必要ということになり、番号を準備したのだろう。つまり、問題の良し悪しを区別する絶対的な判断基準などなく「結果的に選挙で損をしたら誰かが責任を取らされる」という相対的善悪主義の世界になっていることがわかるうえに、その対応もかなり場当たり的である。

そもそも、1400円という金額が出ているということはサンプルと全数の差がわかっていたということなのだが、検査はやっていないはずなのだから、全数はわからないはずだ。だからこの数字もデタラメであるという可能性があるということになり、数字が違っていたらまた炎上することは目に見えている。逆に、もしわかっていたとしたら恣意的に数字を作っているということになり組織的に対応していたということになる。さらに数字はわかっているのに今後の対応が話せないということは、公式に国会に承認されるまで本当はわかっている数字が確定できないということになる。

いつものように誰かが何か嘘をついているのだが、誰がどんな嘘をついているのか把握している人は誰もいないのかもしれない。もし誰もいないなら「みんなが一斉に散り散りバラバラに逃げている」ということになる。これは静かに見えてもパニックなのだ。こうしたことが起こるのは安倍首相が最終的に責任を取らないからであり、責任を取らない安倍首相を有権者が咎めないからである。

厚生労働省はいろいろな役所の寄せ集めであり完全に村になりきれていなかったのだろう。そこに官邸から圧力がかかり組織対応ができなくなってしまった。日本の村落構造が階層的なボトムアップでありトップダウンによる意思決定に極めて弱いことがよくわかる。

安倍首相が安倍首相的な憲法を決めるということは、憲法をなし崩しにして死文化させてしまうということだ。その方が官邸だけでなく様々なムラの自由度が増す。そしてそれは日本人が好む文化なのである。だが、それが成り立つためには重層的に構成された固定的なムラが必要なのだ。

冒頭に挙げた憲法第9条の問題と厚生労働省の混乱という全く別の問題のように見えるのだが、実は統治方法の選択という意味で共通点がある。

憲法より先に省庁が壊れてしまったのは、それが行政府の長である首相の管轄域だからだろう。たぶんこのままでは日本がどう国家運営をするのかがわからなくなり統治は崩壊することになる。しかも表向きは体裁が整っているが中がぐちゃぐちゃに崩れているという静かな崩壊だ。

ただ、今回の厚生労働省の問題は「失業保険を払っているのに国民が損をしている」という損得の問題に置き換えられてしまっている。結果的に損をしたからこれはいけないことだということになり、でも私はそれほど損をしていないから放置しておこうということになる。

しかし、物事がここまで混乱していても誰も騒ぎ出さない上に「ちゃんとした原則を決めよう」という動きも出てこない。たぶん、このままでは平成の次の世代は今よりももっと混沌とした状態になるように思える。

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安倍首相はなぜ蛇蝎のごとく嫌われるのか

Quoraで安倍首相はなぜ蛇蝎のごとく嫌われるのかという質問があった。安倍さんが嫌いな人は書かないでくれと書いてあったのだが、ついつい回答を書いてしまった。






安倍首相が関わった問題はすべて泥沼化する。例えば森友・加計学園問題では「私が関わったらやめる」と言ってしまったために一年以上国会が紛糾した。韓国海軍との間ではレーザー照射問題が起きているがこれも泥沼化しつつある。さらに辺野古基地の問題も国防の問題ではなく環境問題として聖地化されつつあるようだ。

国会の質疑を見ているとわかるように安倍首相は支持者の言うことはすべて聞こうとする一方で自分が見下している人たちとの対話はすぐに打ち切ろうとする。個別の事例ばかりを見ているとよくわからないのだが、実は極端なへりくだりと見下しが表裏一体になっており、対等な人間関係がない。支持者の願いを叶えられないと大変なことになると考える一方で、自分が見下している人と対話すると自分が負けてしまうと思い込んでいると考えると説明ができることが多い。

安倍さんが見下しているのは、社会主義者、女性、韓国・中国などである。こうした人たちの価値観を頭ごなしに否定してしまい、弁解や関係改善の余地を一切与えない。否定された人は、問題ではなく人格を否定された気分になるうえに、その後名誉回復したり関係修復したりする道を絶たれてしまうので感情的になり怒り出す。だから安倍首相は嫌われるのだ。

安倍首相がどうしてこのような性格を持つようになったのかはよくわからない。わがままな坊ちゃん育ちだからだろうなどと片付けたくなる。だが、ここから先をちょっと考えてみたい。

例えば自分の能力に自信がある人は「このやり方ではうまく行かなかったとしても、別のやり方ができる」と思えるので相手に優しくできる。さらに、自分に自信があるので「一応ここまではやったがここから先は譲れない」とも言える。こういう人が相手を怒らせることは少ない。相手を怒らせるのは選択肢が少ないからなのだ。

例えば、幼い頃の人間形成が不完全だと相手と仲良くなるために妥協したり話し合ったりということができなくなるのではないかと思う。幼稚園でお友達とおもちゃを分け合うというようなところからそれは始まっている。「坊ちゃん育ち」で大人と育った子供はこうした経験を奪われてしまっているかもしれない。しかしそれだけでもなさそうだ。例えば、十分な職業経験があれば「とにかくこのフィールドであれば自信がある」というものができる。これが自信につながるのである。だが、腰掛けだけで父親の秘書になった安倍晋三青年にはそれもなかった。

専門知識がなく相手に頼るばかりでは何の自信も持ちようもない。自分では何もできないし、何も知らない。相手と協力する術も学んでこなかったし、自信を持って一人でできる分野もない。すると安倍首相のようになってしまうのである。

こうした人が危険なのは相手に気に入ってもらうためには無制限に相手のいうことを聞いてしまうという点であろう。協力して何かを成し遂げるということはできないから自分が持っているものを差し出してしまうのだ。だが安倍さんの場合それは全て他人のものである。例えば岸家の名声だったり国民の税金だったりする。だから安倍首相の外交はバラマキ以外は全て失敗している。北方領土交渉でプーチン大統領に笑われ、原子力発電所の売り込みもうまくいかなかった。「面倒な問題を考えたくない」と政治に関わらなくなった日本の有権者とそもそもまとまるつもりのない野党以外には彼は勝てないのだ。

しかし、こういう問題を抱えたトップリーダーは多い。日本の会社では経営者幹部候補者に3年程度のローテーションをさせるというようなことがある。特定の職場の色がつくとトップリーダーとして「使えなくなって」しまうからである。さらに経営者としての箔をつけさせるために「わざと花を持たせる」というようなこともする。実際には何もできない人に恩を着せてそのあとを有利に進めようとする人がいる。こうして育ったリーダーは会社の外では役に立たない。

日本のリーダーはお神輿に過ぎないので、存在感はあるが何もできないように去勢して育てるのが良いのだろう。神格化しても実際の権限は持たせないのが「正しい」やり方で、これは企業でも政治でも変わらない。こうして去勢して育てたほうが、周りの人たちにとって「便利な」道具になるからである。

安倍首相もそのようにして<育てられた>のだと思う。問題は彼が力強いリーダーであるという間違った自己像を持っているという点である。彼が政治的リーダーとして売り出す過程で「北朝鮮問題に毅然と対応する力強いリーダー」という売り出し方をしてしまったために、自己像と実力の間に乖離が生まれてしまったのではないかと思う。北朝鮮から拉致被害者が帰ってきたのは単なる偶然だった。だが安倍首相は嘘をついているうちにそれが実力だと信じ込んでいるのだろうし、周りにそう思っている人もいるのだろう。

安倍首相が関わった全ての問題で感情的なしこりが生まれるというのは、日本が現代化する過程で伝統を無視した西洋的なリーダーシップを指向してしまったために起きた悲劇なのかもしれない。そしてこの後も彼が政権に居座り続ける限り同じようなことが続くだろう。

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所属集団と所有集団

国際捕鯨委員会(IWC)から日本が脱退することが決まったそうだ。これでクジラの肉が食べられる!と喜んでいる人たちがいる。






この件については国際的非難が予想されるのでリスクの高い判断と言えるのだが、いわゆる保守と呼ばれる人たちはそうしたリスクについてあまり関心がないようだ。人の目を気にし、リスク回避傾向の強い日本人としては極めて異例のことと言える。国内にいるとクジラを食べるのは当たり前と考えらているからだろう。つまり「みんながやっていることなので別に良いのではないか?」というバイアスが働くわけである。これは「ムラバイアス」だ。

例えば相撲界には「暴力は教育の一環である」というムラバイアスがあり暴力問題への対応が遅れた。最終的には公益法人格を返上してはどうかという問題にまで発展したために一転してガバナンスを強化するという方針に転じた。これも本当の意味で周辺が何に怒っているのかよくわかっていないからだろう。つまり理不尽に「怒られている」ように思えると説明や原因究明ではなく厳罰化に走ってしまうのである。実際に中にいる人たちが反省しているわけではないうえに、暴力のメカニズムも分析されていないので罰則だけが強まり暴力事件はなくならないだろう。

また従軍慰安婦問題では「どこの国の軍隊だって多かれ少なかれこういうことはあるだろう」というムラバイアスがある。しかし世界の軍隊は男女平等化が進んでおり女性の人権蹂躙は深刻な問題になっている。従軍慰安婦的なものを許せば女性兵士への乱暴も許容せざるをえない。例えばアメリカでは女性だけでなく男性も性的乱暴を受けることがあり問題になっている。だがムラに住む日本人はこうした一連の変化に気がつかないので、この問題を適切に処理できないわけだ。日本人はムラロジックには極めて敏感に反応するが、ムラの外には全く無頓着である。

考えてみれば、日本人がそもそもそれほどクジラ肉を食べない。冒頭でリンクしたBBCは冷静にこう書いている。

日本では海岸地域の住民の多くが捕鯨を数世紀続けてきた。しかし、クジラ肉の消費が急増したのは、クジラが食肉の主要供給源となった第2次世界大戦終結後だけで、最近数十年間では消費量が急減している。

https://www.bbc.com/japanese/46643430

かつては給食などで出されていたようだが、代用肉という印象が強く、決して美味しいものではなかった。さらに最近の人はそれすら食べたことがないのではないかと思う。この問題は「多くの日本人にとってどうでもいい」はずの問題なのだが、これに強く反応する人がいる。普通の日本人と何が違うのだろうか。

よく集団と呼ばれるが、所属している集団とは別に、強い力を持った集団がありそうだ。意思決定に関与でき、自分のアイデンティティに関わるような集団である。所属欲求は守られたいという欲求だが、これとは別の欲求があるように思える。これが所有欲なのではないかと思った。

アメリカ人は自分が勤めている会社をworking forと表現しour companyとは言わない。our companyでは経営していることになってしまう。この経営という概念は所有である。一方日本人は所属しているだけなのに所有欲求を持つことがあるのである。

この所属しているという感覚は悪用されることがある。アルバイトが仕事に所有感を持っている場合「自分の方がマネージャーよりも現場をよく知っていて」なおかつ「その仕事に責任感を持たねば」と感じることがあるだろう。これを悪用するとブラック企業ができあがる。やりがい搾取と呼ばれる現象である。クリスマスケーキを進んで自腹購入したり、アニメで名前がクレジットされるからといって請負契約で最低賃金以下の時給しか貰わないという現象になる。「やりがい」と言っているが実際には過剰な所属意識が利用されているわけである。やりがい搾取というのは偽の所有欲求を持たせるところから始まるのだ。アメリカのような契約社会では職場に所有欲求を持たないので、過労死レベルまで働いて現場という戦線を維持しようと考える人はそれほど多くない。

日本人が鯨食を擁護したいと思ってしまうのは、これも意思決定と所有欲求に関係しているのかもしれない。海外の人たちが勝手に「鯨食は野蛮だ」と決めていると感じた人は嫉妬心から腹を立てて鯨食を擁護してしまう。強い所有意識を持っている人たちはつい自分が屈辱されたと思い、あまり食べなくてもすむクジラを弁護してしまうのである。

もちろんこの所有欲求は日本だけの現象ではない。韓国では日本人が所有欲求を持たない「国」に所有欲求を持っている人たちが大勢いて、大統領の弾劾のためにデモに参加したりしている。日本人は国に所有欲求を持たないので安倍首相を政治から追放するのにデモをすることはない。むしろ国政に関心を持たない人が大勢いて、このことからも日本人が「所有欲求を持たない集団」に対して極めて無関心で冷淡な態度を取ることがわかる。公共を信じない日本人は何かが決定されたら自分は損をしないように動けばいいと考えており、それが結果的に全体の利益を損ねることになってもそれほどの抵抗は示さない。一方、戦争状態の国にとっては「自分たちの国は自分で守る」という意識を持たせるのは極めて大切なことであり、これが過度な所有欲求につながっているのかもしれない。

そう考えると、何かを自分の支配下におきたいという所有という概念には強い力があるのだということがわかる。他人を支配したいような人はこうした所有欲求をちらつかせて搾取を目論むのかもしないと思った。

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公共財としての笑顔

本日は公共財としての笑顔というテーマについて考える。例えて言えば、住宅地できれいに整備された生垣が街の財産になるというような話である。






毎日写真を撮影しているのだが、一つ気になるところがあった。年齢のせいでほうれい線がきつく出るのだ。これは仕方がないのだろうと思って「簡易整形」をしていた。色味などを修正するついでにレタッチソフトで消していた。だが、このほうれい線は意外と簡単に改善ができることがわかった。

ほうれい線が出る理由は二つある。一つは顔がむくんでいること。もう一つは顔の筋肉を使わないことである。だからこの二つを修正してやるとほうれい線が薄くなって顔がすっきりする。写真というものは恐ろしい。こうした違いをかなり残酷に反映してしまう。毎日写真を撮影しているとそのことが否応なしにわかる。サボるとすぐ顔に出るのだ。

プロではないのでほうれい線を全く消し去ってしまう必要もないし、光の使い方で補正もできるのであまり極端似やる必要もないのだが、できることから始めてみたい。

リンパを流す

まず、顔のむくみを修正する。このためにはリンパ液を外に押し出してやる必要がある。実は首というのは肩からつながっている。だから、最初は胸を後ろに開いて首も後ろに引く。次にぐるぐると回してやるといい。この運動は首筋にできるシワも改善できる。肩が解放されると肩こりにも効果がある。やってみるとわかるが意外と動かしてないのである。

次に顔のリンパを流す。目の下・頬の上あたりを外に流してやる。あまり強くやりすぎるとよくないというのでそっと抑えるように流すのだがやはり液体を外に流すのである程度力が必要である。人差し指の腹で押すようにしないと流れるような感じにならない。このための器具なども売られているようだが、普通に指を使うだけで良いのではないかと思う。

もう一つのポイントは鼻腔である。鼻梁のの脇に力を入れると詰まったものが排出されるような感覚がある。実はリンパ以外にも鼻腔に水が溜まっているようである。これが流れないと鼻づまりが起きる。つまり、鼻づまりが起きている人は顔の筋肉がうまく使われていないことになる。「鼻づまり」と「ツボ」で検索すると点としてのツボが紹介されている(沢井製薬)のだが実際にはこの二つの点を結んだところをマッサージして内容物を流すようなイメージで刺激してやると鼻づまりを改善することができる。

写この運動を数分やると顔の修正をしなくても済むようになった。しかし油断してやらないでおくと元に戻ってしまう。基本的には坂道を上がるような作業なので、鏡を見たりして定期的にチェックしなければならない。

笑顔のために筋トレをする

さて、今回は公共財としての顔について考えている。若い時の美男美女は遺伝子によって決まるが年齢を重ねると努力した人の方が美しい顔を保つことができる。しかし、努力と言っても「精神をきれいにすれば内面が自然とにじみ出る」というような精神論ではない。筋トレが必要なのである。いろいろな運動があるようだが、これは口を大きく開いて「あいうえおあおあええおあお」の形を作るようにすると良い。わ行まで通して見て顔が凝るような感覚があるようなら筋トレができている。が、これもやったからといって効果が出るというわけではない。写真を見るなり鏡を見るなりして目標が達成できているかを確認しなければ意味がない。

「男はヘラヘラ笑うべきではない」という価値観があるのだが、実は笑顔も根性で作る必要があると考えると若干イメージが変わるかもしれない。笑えずに顔がたるんでいる人は怠けているのだ。顔の筋肉が動かせない状態で笑おうとすると、表情筋を総動員することになるので不自然で大げさな笑顔になる。写真写りをよくする程度にほうれい線を目立たなくするのはそれほど難しくないし、小顔作りもそれほど難しくない。特に小顔作りは、テレビ通販で「ちょっとやっただけでこんなにきれいに!」などと言っているが、あれは大げさではないと思う。

さりげない笑顔を作るためには口角だけをあげる必要があり、実はこれが意外と難しい。常に口角を上げ続けているためには局所的な筋肉が鍛えられている必要がある。笑顔があまり得意ではなくいつも口角が下がっている人に「笑顔を作れ」といってもなかなかできないのではないかと思う。最初は5秒持たせるのが大変なのではないだろうか。

笑顔は公共財である

さてここまで笑顔の作り方について見てきた。大人が見た目にこだわるなんてとバカにする人もいるかもしれない。しかし、笑顔を作ることは、ささやかではあるが社会貢献になる。アメリカでは笑顔と幸せに関する研究がなされていて科学論文もできいるらしい。Smiing can trick your brain into happiness — and boost your healthという記事では、笑顔を作ると筋肉をモニターしている脳が「喜んでいるのだ」と錯覚してセロトニンやドーパミンなどの脳内物質の分泌を増やすのだという研究があるそうだ。また、誰がが笑っていると「ミラーニューロン」の働きによりその感情が周りに広がる。このようにして群れ全体が幸せな気分を共有することがあるそうである。つまり、笑顔という公共財をみんなで持つようにすれば社会全体が明るくなるのである。

ただ、この社会貢献にはちょっとした鍛錬がいる。まず使っていなかった顔の筋肉の使い方を思い出すところから始める必要がある。他人を幸せにするためにはまずちょっとしトレーニングと心がけが必要なのである。

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日本のリベラルが崩壊し、安倍政権のやりたい放題が続く理由

野党の書き起こしで技能実習生が174名亡くなっていた(日経新聞)ということがわかった。さすがにこれはひどいと思ったのだが、かといって個人でできることには限界がある。この問題を提起したのは立憲民主党の有田芳生さんなので党としても今後の対応を考えているのではないかと思った。自分では何もできなくても彼らの主張を伝えることくらいはできるだろう。だが、ちょっと動いてわかったのは立憲民主党は騒ぐだけ騒いでもそれ以上何もしないだろうということだった。よくマスコミが何も伝えてくれないと大騒ぎしている人がいるが、マスコミを批判するのは多分筋違いだ。リベラルという人たちは何もやっていないし、何かをするつもりもないと思う。だから有権者が離反してしまったのだ。






最初に見たのは有田さんの一連のツイートのリツイートだったと思う。自分も留学した経験がありいい思いも悪い思いもしているので、他人事ではないという気持ちがある。何もできないかもしれないが、少しくらい手伝えることがあるのでは?と地元の接触先を調べ始めた。

ところが調べてみたところ意外なことがわかった。そもそも千葉県には立憲民主党がないのである。県連合というのがあるので連絡してみたのだが電話とファックスがあるだけだという。電話で「この件について応援したいので何ができるのか教えて欲しい」と簡単に依頼したのだが、電話だとあなたが何を言っているのかわからないのでファックスで文章にして送って欲しいと言われた。せめてメールがないかというとそんなものはないという。実際に出かけていっても良いと提案してみたのだがそれは難しいといわれた。狭いところでやっているから対応できないそうだ。一応担当者につないでくれるようにと携帯電話番号を渡したが二日経っても連絡はなかった。

ここから、有田さんが組織対応を考えずに「とりあえず場当たり的に情報を出した」ことがわかる。世間の注目を集めて「騒ぎになること」だけを狙ったのだろう。そもそも問い合わせの主体を作るつもりすらなく、民進党が場当たり的に党を割ったこともわかる。県のレベルでも党組織を維持するお金を準備していなかったということだ。だから、立憲民主党は最初から党としては何かするつもりはなかったことになる。

日本のリベラルがなぜダメになったのかがよくわかる。政治理念とか文化風土とかそういう難しい問題ではない。単に計画性がなく、協力して横の連携を取ろうとせず、選挙の時だけ体裁を整えようとするから、国民から見放されてしまったということだ。そうした彼らができるのは扇情的に国民世論を煽ることだけであり、それを知った人たちがますますリベラルから距離を置くという悪循環が生まれている。これを安倍政権やマスコミの陰謀論に仕立ててみたところで、彼らが組織運営ができないという事実は変わらない。党が運営できない人たちが政府を動かせるはずもない。

だから技能実習生がこれから先何人亡くなり、それが日本という国への印象がどれだけ悪くなっても、国民は見て見ぬ振りをする以外に道がない。悲しいことだが、私たちはまずこれを受けとめなければならない。

国民民主党系の地方議員事務所も開店休業状態になっているので、例によって市民団体系の事務所に話を聞きに行った。監査をやっているらしく珍しく3名がいた。ここでは「ネットでは技能実習生の問題について心を痛めている人がいて、何かできないかを考えている。そこでリベラル系の団体で何か運動を起こしている人はいないか取材している」と言ってみたのだが、そもそもこの段階で理解してもらえなかった。

一人(監査を受ける会計係)は黙って話を聞いており、もう一人(お留守番役)はこれまでの活動議事録を引っ張り出してそこに答えが書いていないかを探しはじめた。そして監査に来ていた人は「自分たちは一生懸命活動しているが誰も話を聞いてくれない」と自分の話を始めた。そのあと30分ほど彼女の苦労話を聞いた。他人の話には興味がないが自分がいかに理解されていないかということは話たくて仕方がなかったようだ。被害者意識でいっぱいになっているが、普段からお勉強会友達としか話をしていないせいで相手が言っていることが理解できないのだろう。この監査の女性は「80歳代のお年寄りが政治のことなんか理解できるはずがない」からリベラルの素晴らしい活動が理解されないのだということを言っていた。

一方、活動議事録を探している人を見ていて面白いなと思ったことがある。実は彼女はうまく言語化できないだけで外国人技能実習生が介護に関わっているという認識は持っている。彼女は高齢者なので介護に関心がある。そして海外から来た人を安く使わないと制度が維持できない(つまり技能実習生を止めると損をする)という認識も持っている。しかし、技能実習生が劣悪な環境で働くのが良いとも言えない。それは<共生主義的>には間違った思想だからだ。そこで、一生懸命公式の答えを探そうと答えが書いていない議事録を漁り始めたということだ。彼女は言語化できないだけで、この問題の本質にある難しさには気がついている。ところがリーダー格の人たちは「こうした人たちは単なるお手伝いでみんな無知蒙昧なバカだ」と感じているためこうした違和感を持ったまま黙っている人たちのことが理解できないということになる。

市民系の団体はもともと地域の交通安全や給食の問題を扱っているので地域のお母さんの中にも子育て中は参加してくれる人がいるらしい。彼女たちが居つかないのは多分押しが強い人たちが嫌になるからなのではないかと思った。押しが強い人たちは相手のいうことを聞かず、相手がバカであると感じるのだろう。だから、普通のお母さんたちはバカ扱いされた上によくわからない護憲・反原発活動や各種のお勉強会に動員されることに違和感を覚えるのではないだろうか。

日本ではよくインテリゲンチャ発の社会主義が失敗したと言われる。普通の日本人は自分が持っている違和感を言語化できないので、インテリから見ると言語化できない人たちが単なるバカに見えてしまうのだろう。だが、言語化できないということと認識していないということは実は全く別の問題なのだ。

技能実習生や海外移民の問題は新しい問題なのでそもそも答えがない。何かを選べば何かを諦めることになるので、みんなで協力して新しい答えを探して行かなければならない。立憲民主党のお留守番の人もそうだったのだが、彼女たちは言われたことを暗記して人に伝えることはできるのだが、新しい概念を理解して答えを模索したり、相手がどんなニーズを持っているのかを汲み取ったりするということが全くできない。正解をひたすら暗記させる教育のせいもあるだろうが、指導層の人たちが一般の担い手を啓蒙されていない暗愚な集団としてしか扱わないという日本独特の村落構造もあるように思える。

自民党は経済政党なので出資と情報がボトムアップで上がって行く。ところがリベラルの人たちにはそれもないので「党の偉い人たちが決めたこと」を伝達することしかできなくなる。だから、なんらかの形で協力を申し出る人がいてもそれが有機的に結びついて行かない。党の中央部はアイディアが吸い取れなくなり思い込みで動いてますます離反が強まるという「意図しない引きこもり」が起きているのだと思う。

この上意下達が成功しているのはリベラルでは共産党だけである。共産党は日本に来て独自の宗教になったうえに信仰に支えられた赤旗という経済的な基盤がある。彼らの宗教の経典は憲法第9条である。経典があるので党本部の主張を下に伝達することはできる。共産党支持者はとにかく朝に憲法第9条を唱えれば極楽に行けると信じており、そうでない人は安倍に騙されているか可哀想なバカだという立場なので精神的には救済されている。しかし、その他のリベラルはこうした経典すら持たず、経済基盤もなく、組織運営にも興味がない。だからあとは消えてゆくしかないのである。

立憲民主党と国民民主党が分裂した当時の状況を見てみると、議員たちが地方組織に一切相談することなく永田町の村の中で全てを決めてしまったことがわかる。地方組織は後からついてくるだろうと思ったのだろう。だが、自分の頭で考える能力もなければ他人の言っていることも理解できない地方組織は基本的に自律的に動けない。

今回話を聞いた市民団体はかなり焦っていた。来年4月の市議会議員選挙の準備をしているが全く支持が集まっていないようなのだ。参議院議員選挙のことを聞いてみたがそこまで考えが及ばないらしく「党の方で考えたら協力するところは協力する」と言っていた。しかし、ここまで何もできなかったのだから、これから何かができるということはないのではないかと思った。

先生が答えを押し付けて生徒の自主性を信頼しないというのも、生徒が自分で考えずに教科書を暗記するというのは典型的な日本の教育の弊害だ。保守系のように嘘でも神話でもいいから信じられる答えを見つけた人や、共産党のように憲法を宗教にしてしまった人はそれでも幸せになれる。しかし、そうでない人は政治を単なる苦しみだと捉え離反してしまうことになる。多くの学生は「何のために勉強するのかわからない」と感じるがそれと同じなのではないかと思う。だから、日本からは保守もリベラルも消えさり、政治から経済的な恩恵だけを受けようとする人たちだけが生き残ったのだろう。

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産業革新投資機構の失敗はなぜ起きたのか

産業革新投資機構の役員人事で政府と会社側もめているそうだ。これについて調べてみたのだが「さっぱりわからない」ということしか分からなかった。いくつかのテレビも見たのだがそれでもやっぱりわからない。この「わからない」というのが問題の核なのではないかと思った。






このニュースはいろいろな媒体が取り上げているので経緯はわかってきている。いったん承認したはずの役員報酬を経済産業省が取り消したことに役員が反発して感情的な問題に発展したらしい。2兆円規模のファンドだったという話もあるので、2兆円規模の喧嘩ということになる。中学生よりタチが悪い。

ただ、それがいいことなのか悪いことなのかを考えようとするとさっぱりわからなくなる。誰が何を何のために決めているのかがわからないからだ。細かいことを考えないで読んでみるとその原因もわかる。前身の組織は2009年に作られている。ちょうど自民党と民主党の政権交代の時期にあたり政治がまともな判断ができなくなっていた時期に重なる。さらに財務省と経産省からそれぞれ人が入っており(予算は財務省が出すが内容は経済産業省が管轄するという仕組みになっていたようである)意思決定の最終責任者が誰なのかということがよくわからなくなっていたということもわかる。

それでも省庁だけが管理していたのならまだよかったのかもしれない。ここに官邸の意向を気にした「国会担当の経済産業省の人」が入ってきたことで、経産省が一度決めたことが他の人によって覆されるということが起きたようだ。さらに、経済産業省から先に「異例のコメント」が出たことにより問題が収拾不能になった。

このことから窺い知れるのは、官邸+経済産業大臣はマスコミを通じて世論を作り相手を追い込んでゆくという宣伝主導のやり方に多分慣れきってしまっているのだろうなということである。もともと目的も意思決定者もはっきりしないのだから揉めるということは大いに考えられるのだが、これに世論誘導が加わると問題がさらに複雑になってしまうのだ。世耕大臣側は「自分たちはマスコミを操作できるのだからそれを優位に利用することは賢くて良いことなのだ」と思い込んでいたのかもしれない。そして、内政に関してはこの作戦がうまく機能しているのだろう。

世耕大臣の当初の目論見は成功している。数ヶ月のやり取りの中で一本気な田中正昭社長に嫌気がさしていたのだろう。世耕大臣ら官邸側は経済に疎く業務がわからないのだからファンド側を精神的に支配する必要があるが、実務では勝てないために「無理を言って屈服させること」で支配を試みる。これは前回みたいじめの構造に似ている。心ない言葉を投げかけて相手を支配しようとするのと同じことである。世耕大臣は機構側をいじめて「誰がボスか」を知らしめようとしたのかもしれない。

ただ、世耕大臣側は読み違いをしたと思う。恫喝が効果的なのは恫喝される側が村で生きて行かなければならないからである。しかし、田中社長らはグローバルに活躍していて日本の村に頼る必要はない。だから「ああ、そうですか」といって出て行ってしまった。

今回は日本型の「相手を恫喝して精神的支配を試みる」という習性を観察している。これが個人的な対人関係の不安から生じる場合もあるし、合理的に「相手より上に立たないと搾取支配される」という恐れだったりもする。いずれにせよ、日本人は閉鎖的な空間に慣れているので、こうしたやり方が効果的であることが多い。集団主義で年功序列がある場合にはそれに従っていればいいが日本はそこまで集団主義ではないので年功序列には頼れない。かといって個人の意見が尊重されるわけでもない。こういう極めて特殊で不安定な集団構造がありなおかつ閉鎖的な日本の空間では常に闘争に参加し勝ち続ける必要がある。

つまりこれは村の論理だ。一体どれ位規模のファンドかはわからないが世耕大臣はこれを村の論理で処理しようとして失敗したのである。

今回の件で日本の投資環境は極めて閉鎖的だということがわかった。これは国際金融という村に広まり誰も日本政府にコミットしようとは思わなくなるだろう。もともと前身である機構の失敗の隠蔽から始まった機構改革だったが、世耕大臣の稚拙で陰湿な村落的な「解決策」のために失敗が露呈してしまったということになる。

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どうしても勝ちたい日本人

先日、心ない言葉をぶつけられたらどうしたらいいのかについて書いた。が、満足しなかった人が多かったのではと心配している。滞留時間が短かったからだ。この理由を考えていて「新しい戦争状態」というアイディアが生まれて頭から離れなくなった。権力は人々を戦わせることで矛盾を隠蔽し支持を集めることができるという狂った社会である。






提案したのは「切断処理」だった。つまり、言葉そのものには意味がないので対応しても仕方がないから切断してしまいましょうということだ。これが気に入らない人が多いのでは?と思うのだ。

最近勝ちたい人が増えたと思う。だから、心ない言葉を投げつけられた時の解決策として求めらるのは「自分が正しいこと」を周囲に認めさせるにはどうしたらいいのではないかということではないかと思うのだ。そういう人は「争うな」という主張を読むと途中で読むのをやめてしまうのかもしれないなと感じるのだが、実際に感想文が返ってくるわけではないので本当のところはわからない。

科学的であるというような大きな話が好きな人も多いから、実際に読まれるものを書こうとするとそれは「心理学で相手を操作する」というようなものになるのではないかと思う。つまり、科学という立証された正解を相手より早く知ることで優位に競争に勝てるというようなものを書けばある程度読まれるようになるのではないかと思うのである。実際にネットにはそういう記事がたくさん出ている。

この「正義や正解の側に立って勝ちたい」という傾向を直接一人ひとりからうかがい知ることはできない。だが、毎日ブログやQUORAでなんらかの文章を書いていると嫌という程思い知らされることがある。

  • 自分には直接関係がない大きな問題について
  • 高いところから
  • 大きな正解(科学実験など)を使って論評する

ようなものが好まれる傾向がとても強いのだ。最初はブログしかやっていなかったので個人的な傾向なのだろうかなどと思っていたのだが、QUORAの質問のページビューにも同じような傾向がある。科学と言っても仮説の集まりなのだから間違っているケースも多いはずだ。だから書いておきながら「あたかも正解みたいな文章を書く」と騙される人は多いだろうなあなどと思ってしまう。

最初は「政治問題について書くとウケる」程度の認識しかなかった。しかし、政治によって問題解決をすることに関心が高いわけでもなさそうだ。いわゆる保守と呼ばれる人たちが大きいものを求める気持ちはわかるのだが、リベラルで人権派のはずの反安倍系の人たちにも強烈な勝ちたいという欲求が見て取れるところから割と日本人で政治議論に参加する人にはそういう人が多いように思える。いずれにせよ、草の根で地域の身近な問題を解決しようというような提案が読まれることはない。

日本人は表立って政治について語りたがらないが、ページビューだけを見ているとずいぶん熱心に政治について読みたがっている人が多いという感想を雨を持つ。正義の側に立って他人を断罪したがっていると仮定するといろいろなことがすんなり理解できる。

例えば安倍政権を叩く人には年配者が多い。大学などで民主主義を正義だと習ったような人たちである。ところが若年層には安倍政権を応援する人が多いのだという。これが現在の権力だからなんだろう。

例えば最近憲法改正議論について質問したり、他の人の回答を見ていると「日本が再び軍隊を持てば中国に攻撃できるようになる」と思い込んでいる人が意外と多いことに気がつく。一応国連憲章で武力による国際紛争の解決はできませんよなどと書いてみるのだが反応はない。多分、日本人の村の論理からすると「建前はそうだが、みんなうまくやっているに違いない」と思っているのではないかと感じる。全部の人がこういう見込みを持っているわけではないのだろうが、随分と蔓延しているなとは思う。これを「右傾化」と一括りにすると間違った印象を残しかねない。別に軍国主義化しているわけではなく素直な感覚として「喧嘩を自制しているからナメられるのでは?」というような感想を持っている人が多いのではないかと思うのだ。

例によって、なぜ人は勝ちたがるのかを考えてみたのだが、それがさっぱりわからなかった。人々が仮想的な勝てる感覚を好むことまでは理解ができる。例えば、野球はやはり巨人などの強いチームを応援したい人が多いのだろうし、金メダルを取れる競技には人気が集まる。もちろんこれは日本だけの特徴ではない。

しかし、日本人の場合、人間関係や政治などにも勝ち負けの感覚持ち込まれているように思える。議論で問題解決をしたい人はそれほど多くなさそうだが、なぜか議論で勝ちたいと思っている人はたくさんいる印象がある。なぜ、普段はとてもおとなしく自分の意見さえ言えないような人たちがインターネットで半匿名化すると人格が変わってしまい、実名でも勇ましい意見を述べるようになるのだろうか。これもよくわからない。

こうした光景を日常で見られる現場がある。それが女性や高齢者の運転である。道を渡る時によく注意していないと車や自転車が飛び出してくることがある。たいてい女性か高齢者である。普段はおとなしくすることを強いられている人ほど「歩行者に勝てる」と思うと飛び出してくるように思える。こちらを確認しているかを見るために運転手の目を見るのだが「目が座っているように見える人」が意外と多い。逆に男性だと断固として先に行くようにと主張する人もいる。彼らは「社会を支配している」側にいる人たちである。だから対面を保つために余裕を示そうとするのだろう。

つまり社会としてフォロワーシップを求められる人ほど「コクピット」に座った時に乱暴な態度に出るということがいえる。逆にリーダーシップを求められることが多い人は体面を保とうとするのだ。人の良し悪しではなく「組織運営の経験」が対応を分けているのではと思う。

最初は、政治の問題を解決したり人間関係の悩みを超克するためにはどうすればいいのだろうということを考えようと思っていたのだが、考察を進めると「ああ、それどころではないな」と思えてしまう。フォロワーシップを強制された人が多く、社会全体として問題解決をするのではなく、自分が優位に立てることに熱心になってしまうわけである。

日本人は個人の欲求を表に出さずに集団に従うようにという教育が行われる。男性の一部は社会に出ると今度は指導的立場を「押し付けられる」ので、あまり社会に対して居丈高な対応をすることはなくなる。だから、「従うべき立場を強制されたまま」の人が個人のプライバシーが守られた安全なコクピットに座った時に自我の歯止めを失うのはむしろ当たり前のことなのかもしれない。

前回は対人関係の不安定さから人々を操作したがる人について書いた。しかし、それが社会化すると今度は「相手より優位に立った方がトクをする社会」ができあがる。それは一種の合理性を持った社会規範なので人々は合理的な理由でこの戦いに参加して勝ち残らなければならなくなってしまう。

これが政治に持ち込まれると、人々は現実的な問題解決には向かわず、正義の側に立って自我を膨張させて行くことになるだろう。具体的に言えば搾取を前提とした社会でどうにかして搾取する側に登ろうという試みが横行するようになるのだ。すると権力は正義の旗を振りかざして弱い人たちを叩くようになる。だから、政権が暴走させるのに緊急事態条項はいらない。ただ、普通の人たちの自我を膨らませて戦いに送り出せば良いのである。

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心ない言葉を投げつけられたらどう対処すべきか?

QUORAで「心ない言葉を投げつけられたらどうするべきか」という質問があった。今日はこれについて考える。結論としては、目に見えた形で見捨ててあげるといいと思う。






最初この質問を見た時「場合によって違うから答えられないな」と思った。と同時にこういう質問をしてくる人は一般的なことではなく自分の話をしたい場合が多いのではとも感じた。要は解決策ではなく共感を求めているのだから、一般的な解決策を提示しても意味がないだろう。相互依存的な「わかってもらいたい」という感情が強い日本では文化的に許容された甘えだ。

だが、しばらく考えてみて答えが見つかった。そもそもなぜ「心ない言葉を投げつけるのだろう」と思ったのがきっかけだった。本人にはそのつもりがないが、結果的に心ない言葉になっている場合解決は簡単だ。合理的なコミュニケーションは発言の本意を相手に質すことで容易に解決するだろう。それでも理解されない場合には「個人的に取らない」ことで受け流せばよい。自分の中にある正解から抜け出せない人はたくさんいるから別に構う必要はない。

例えばお子さんが生まれなくてかわいそうねなどと言われたとしても気にする必要はない。多分その人は「子供いない=かわいそう」という世界からは抜け出せないだろうからこだわっても仕方がない。しかし「自分もなんとなくそう思っていて」気になる場合もあるだろう。だが、納得させるべきなのは他人ではなく自分だ。自分を簡単に納得させられるとも思わないが、不可能ということもない。

しかし、誤解やミスコミュニケーションではない敵意に満ちた言葉というものもある。心ない言葉を定期的に投げてくる人がいるのだ。そういう人はなぜ心ない言葉を定期的に投げてくるのは相手を屈服させることで支配したいからなのだろう。ここまでは容易に想像がつく。ではなぜ支配したいのかということが問題になる。「なぜ支配したいのか」まで考えたことがある人は意外と少ないのではないか。

支配したいということは、自分が管理していないと、その関係が壊れてなくなる可能性があり、それによって自分も壊れてしまうということだ。つまり、この支配欲求は見捨てられ不安なのだ。

見捨てられ不安はそれを持っていない人には想像しにくく共感もしにくい感情である。特に一人でも平気だと考える人は「別に他人から見捨てられても自分がなくなるわけでもないし、むしろ自分の世界に浸れるから好ましい」などと思ってしまうのだが、依存的な感情に支配されている人にとっては「大変な」事件である。自分がない人は人間関係を自分の価値だと思い込んでしまうのである。

とはいえ、心ない言葉を吐く人がすべて見捨てられ不安にさらされていると決めつけることはできない。そこでいったん冷たいそぶりをしてみると良いと思う。するとその人は急に優しくなったりするだろう。取引が始まったら、この人が見捨てられ不安を抱えていると確定して良いと思う。

ここまでくると心理学的に細かいことはわからなくても、これが虐待構造に似ているということに気がつくだろう。虐待をする人は暴力を振るったとしても自分を冷たい冷酷な人間だとは思わない。逆に自分は慈悲深い人間だと考えており、虐待した後に急に優しい態度をとったりすることがある。ところが虐待をする男性に対して「実はこの男性は私のことを愛しているんだわ」などと思うのは危険だというのもよく知られた話である。気を許すとまた暴力が始まる。つまり、虐待を繰り返す人は「人間関係というものは本来的に不安定なものであって自分でコンロトールしなければならない」と感じるのである。だが他人を完全にコントロールすることはできないので怒りが生まれる。子供という「コントロールできない存在」を抱えた時に初めてこれに気がつく母親も多い。

しかし、こう考えることもできる。見捨てられ不安というのは見捨てられるかもしれないという不安である。だからそれが確定されると「ああそんなものか」と思うかもしれない。ここは思い切って見捨ててあげるといいと思う。つまり、不安を確定してやるのである。一切関わらないことを決めてもよいのだろうが、実際には一定の線を引いてそれ以上は依存しないのが良いと思う。つまり、見捨てられたとしてもそれが世界の終わりではないことがわかると却って関係が安定するはずである。彼らが終わりのない取引に夢中になるのは不安定さが要因なのだからそれを断ち切ってやればいいのだ。感覚としてはハサミでヒモを切るような感じである。つまり、なぜ自分がその人を見捨てるに至ったかを説明する必要はない。もう関係ないことだからである。

この解決策には二つ困った点がある。見捨てられ不安を持っている人が集団を支配したい場合に誰かを指定していじめることがある。この場合ターゲットは集団でありあなた自身ではない。だから、その集団から抜けるしか解決策がない。これが学級や職場の場合などは完全にやめるわけにも行かないのですこしやっかいだ。だが、こういう人に支配されているという時点でその集団は病気になっている。できるだけ依存度を弱めてそれが終わるのを待つか次の転職先を探すなどしたほうがよいかもしれない。学校のいじめの場合クラスの外に社会を持つのが大切である。人生は長い。中学校も高校も3年我慢すれば過去のものになる。ここで命を絶つほど思いつめるべきではない。

もう一つは実は共依存的な関係ができている場合である。特に自我が発達ないまま大人になり未だに母親との関係に悩んでいるような女性にお母さんを否定するようなことを言うと「世界が終わるかのように」反応してくることがある。日本には「母子というのは親密な関係を持つべきである」という社会規範がある。その人にとっての正解がわかっているのに果たせないのが問題になってしまっている。これは解決ができない。見捨てられ依存に陥った母親のメンタリティは変えられないからである。

日本は土居健郎の甘えの構造で指摘されたように「甘え」という構造を大切にしている共依存社会なので、こうした感情から抜けられない人が多い。だが、虐待が治療できないように、共依存に陥いった関係も多分治療はできない。アルコール依存のある人はお酒があれば飲んでしまうし、人間依存の人は人間がいればしがみつく。

日本のように文脈依存が強く、自我を発達させないことが好まれる社会では「何を言っているのか」ということはそれほど重要ではない。その背後にある意図や企みについて考える必要があるように思える。心ない言葉を聞いた時にはその背後にある企みに想いを寄せることが重要なのだと思う。

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アシアナ事故と集団思考(グループシンキング)

サンフランシスコ空港でアシアナ機が着陸に失敗した。訓練中の副操縦士が起した事故だと考えられている。このニュースを見ていて、古いケーススタディを思い出した人も多いのではないかと思う。グループシンキングで良く用いられる教材である。
伝統的な韓国社会には上下の区別が厳しく存在する。目上の人に対しては絶対服従であって、意見が違う事は許されない。例えば副操縦士が異状に気づいていたとしても、操縦士が大丈夫だと思っていれば、おいそれとは意義を唱えられない。そもそも、教官が大丈夫だと言っているのだからと、違和感すら覚えないかもしれない。
ウォールストリートジャーナルの記事はこう指摘する。

調査官は、対気速度が危険なほどに下がった場合に発せられる、操縦室のさまざまな警告システムに、なぜパイロットたちが反応できなかったのか、その理由を問いただしている。そうした警告システムは、視覚的にも聴覚的にもはっきりとした警報を出すように設計されている。

少なくとも副操縦士以下は、その機の中で一番偉い機長が疑問を呈するまで「警告システムが」と指摘できなかった可能性があることになる。このように集団が明らかな危険性をなぜか見逃してしまうことを「グループシンキング(集団思考)」という。国際感覚に長けたパイロットに文化的バイアスなどなさそうだが、ウォールストリートジャーナルの別の記事はこう指摘する。

サンフランシスコ国際空港での韓国アシアナ航空機事故について、米事故調査当局は8日から、原因究明のため同機のパイロットに対し事情聴取を続けている。しかし関係筋によれば、英語力に限界があるため、聴取が順調に進んでいないという。

ポイントとなるのは、調査をしているのはアメリカ人だという点だ。アメリカ人は「個人が判断して言うべき事は言うべきだ」と教育されるため「みんなが死ぬかもしれないのに意義を唱えない」というような可能性自体が理解できないかもしれない。また、韓国人はアメリカ人に対して「恥ずかしさ」を覚えるかもしれない。いわば身内の恥と考えられる為に、問題などなかったと主張するかもしれないのだ。
母国語であればぼかしながら伝えられる問題も、英語だとうまく伝えられないだろう。NTSB側は慎重に事を進める構えのようだが、面子を重んじるアシアナ航空側がどのような対応を取るかは分からない。「管理には問題はなく、すべて機長の問題だ」と主張している。
このような書き方をすると、必ず「だから韓国人は…」と揶揄するような反応が出てくる。ネット上では「正しい態度」なのかもしれないが、マネジメントを学ぶ上では「正しい」態度とはいえない。
日本人にも意識しない文化的な特徴がある。例えば先生に指名されるまで自分の意見を言わないとか、周囲の空気を読みながら許容されることだけを話すというような態度は、世界的に通用するとは言えない。原子力発電所の問題も記憶に新しい。不確定な事柄に対して、身内でかばい合っているうちに、最悪の可能性が指摘できなくなってしまった。現在では逆のバイアスが働いている。いったん「大丈夫だ」と認めてしまうと同様のことが起きることが容易に予測できるために、何も認められなくなってしまった。誰も、全ての責任を取りたくない。
他国の文化を笑ってばかりいると自分たちの持っているバイアスに気がつく事ができない。
100x100日本人でも外国人の部下を持つ可能性が出てきた。例えば韓国人の部下は日本人の上司に対しても、全ての規範を提示してくれるものと期待する可能性がある。日本人はグループ内の調和を重要視するので、部下に意見を聞く。この態度が「上司としての責任を放棄している」と取られかねないのである。ここに意見をはっきりと伝えるアメリカ人の部下などが加わると、さらに状況はややこしくなるだろう。
いずれにせよこの事故は、何がグループシンキングを引き起こし、どうしたら防げるのかということを考える上でよいきっかけを与えてくれるものと思われる。今後の成り行きを注目したい。

パーソナルブランディングとウェブ

パーソナルブランディング 最強のビジネスツール「自分ブランド」を作り出すによると、セルフブランディングが必要になるのは、個人や小さな事業のオーナーだ。売り込みをやめて、向こうからあなたを探してくれるように自分を演出しようという目的のもとにコンセプトが組み立てられている。セルフブランディングが成功すると、お客さんがあなたを求めてやってくるばかりではなく、第三者があなたのことを「誇らしげに」宣伝してくれるようになる。
セルフブランディングを成功させるためには、ある領域(ニッチとも)で第一人者にならなければならない。例えばウェブデザイナーというだけでは不足で「バイク見せ方のうまいウェブデザイナー」とか「離婚調停ならこの弁護士」とか、そういった特化が必要なのだ。セルフブランディングは目的達成の最初の手段に過ぎない。一端ブランドを確立した後は、そのブランドが嘘にならないように全力で顧客の要求に応えなければならない。
この本の優れているところはブランディングについて語っている部分ではないと思う。具体的にどう行動すればいいのかということが記述の中心になっている。具体的にはDM、ウェブ、プロフェッショナルの集まり、異業種交流会などの「チャネル」の中から5つ程度を組み合わせてブランドを訴求させるそうだ。プロセスも明確で、まずブランドを確立し、洗練し、最後に展開する。一度展開をはじめると頻繁に変えてはいけない。だから最初のコンセプトメイキングは非常に大切だ。
どのニッチで活動するかを決めたら、まずブランドに関するステートメント(誰で、何をしていて、どんな価値を提供するか)を決める。次にそれを反映する外観(ファッション)を作り、プロにロゴ、ウェブサイトを作らせ、プロフィール写真などを撮ってもらう。DMやパンフレットも用意する。大抵のひとは素人っぽいウェブサイトを持っているので、グラフィックに工夫をこらしたウェブのポイントは高いだろう。
さて、ここまで読んでいて「なんだか面倒くさいや」と思わなかっただろうか。僕はちょっとそう思った。結局やっている事は会社がやっていることと同じだ。会社だと入社してすぐに営業にでかければいい。売れなければ「テレビのコマーシャルをちゃんと流してくれていない」せいだから、居酒屋で仲間と愚痴る。大きな会社に勤めていればブランディングは会社がやってくれる。時々名刺を持って同窓会なんかに参加すれば背広の胸のバッチを見て「あの人はあそこに勤めているのだからちゃんとしたヒトに違いない」と思ってもらえる。結局1人でシゴトをやるということは、これを全部独力でこなすということなのだ。この本の上手なところはマーケティングだ。企業向けのCIのノウハウを個人に向けて展開することで自分自身のニッチを確立しているのだ。
次に難しそうだなと感じたのは絞り込みだ。30代マジメにシゴトをやって来たヒトなら複数のシゴトはこなせるようになっているはずなのだ。いつシゴトが入ってくるか分からないのだから網は広めに張っておきたいと考える。ITもできるし、英語も話せますよ。管理もするし現場もこなせます、とついついセールスしてしまう。するとブランドがボケる。他人の記憶に残りにくくなり、逆効果になってしまうということなのだ。分かってはいるのだが、実行するのは難しい。本の中には「いちばんコアになるスキルは隠しておけ」というアドバイスが出てくる。
絞り込みができたとして、次にやりたくなるのは売り込みだ。しかし人間は売り込まれるとひいてしまう。明日の収入があるかどうか分からないのに「押し売りしない」これもまた難しい。
故に、それらの誘惑を乗り越えて、ブランディングを実行しようと思えたら、あとは簡単なのではないだろうかと思える。ステートメントを作り、それを名前が出るウェブサイトに貼付ける。イメージからパーソナルカラーを作り(これは先日書いた通り。色にはそれが与える印象がある)ロゴを作る。パーソナルカラーを想起させるような写真を撮り、Twitterのプロフィールなどに使う。一度提示したら頻繁に変えずに1年などの期間を区切って見直しを行なう。
さて、こうしたプロフィールは「嘘」になってしまうのではないかという疑念がわく。しかしWired Visionの記事を読むとそうとは言い切れないようだ。自分で自分のブランドを作っているわけで、案外自分の性格を反映したものができるだろうと考えられる。逆に、自分を殺して働くのであれば勤め人になった方がマシという考え方もできる。

Facebook上の性格は非常に現実に近く、一般的に、ネット上で初めて出会う場合のほうが、直接顔を合わせるよりも正確に性格を評価できることがこれまでの研究の結果からも言える、とBack氏は主張している。

こうしたブランディングがすぐにシゴトに結びつくということにはならないと思う。やはり地道な活動だ。最初のコアになる領域を決めるまでが大変かもしれない。このコンセプトはフリー以外のヒトにも役に立つのではないかと思われる。会社でも「この分野であれば、あの人に聞け」と思われるヒトになることは大切だろう。会社がスペシャリティを求めずひたすら労働力としての価値しか期待していないのであれば、外部のネットワークを通じてそうした環境を模索すればいい。
昨今の労働に関する議論を見ていると、日本の労働環境はすぐには改善しそうにない。また、重たい企業年金の負担に耐えかねて破綻する会社も出てくるだろう。こうした環境からすぐに多くのパーソナルビジネスが浮上してくることはあり得ないと思うのだが、水面下ではシフトが進むのではないかと思われる。そしてそれが一般的になってはじめて起業の文化が生まれるのだろう。