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昭和天皇の顔写真を燃やしたのは誰か? なぜ燃やされたのか?

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あいちトリエンナーレで天皇の写真が燃やされた映像が流されたらしい。これがけしからん!ということが話題になっており、ネットでまとめまで出ている。これまで「ご尊影」と記述していたのだがご真影というのが正しいらしい。

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天皇をコラージュした人がおり保守系の反発を受けて問題になった。図録が焼却処分になりじゃあ写真を焼くのはいいのか?と問題になった事件なのだそうだ。富山県立近代美術館事件というエントリーが立っているのだが、作品名は「遠近を抱えて」というそうである。つまり、最初にコラージュされたご真影のコピーを燃やしたのは美術館なのである。

この話は広範な議論を呼び起こしたと書いている雑誌記事の転載をネットで見つけたのだが、全く知らなかった。Quoraでも回答を募集してみたが今の所答えはついていない。ネットのない時代の「議論」の広がりはその程度だったということになる。だが美術界では問題になったらしく昭和天皇の焦げた写真が「アート作品」になったことがあるそうだ。この時点の論評ではなぜか「戦争責任」という違った文脈がすでにつけられている。

いずれにせよ、前提がわからないと当事者たちにとっては全く意味のわからない議論になる。大浦はこれを自画像だと言るという論評がネットに転載されている。軍服と洋装という二極化した虚像ではなく「懸命に西洋化しようとする日本人の代表」としての天皇と自身を重ねているということらしい。「月刊あいだ」はミニコミ誌として今でも発行されているようだ。

まず、天皇の写真をコラージュに使うというのはかなり心理的に抵抗がある。多分実際に見たら私は嫌悪感を感じるだろうと思った。ただ戦後すぐに生まれた人達と心理状態を共有できているとは思えない。戦後の総括がされていない時代に生まれて敗戦国として国際社会に復帰しなければならなかった人の気持ちはわからない。ただ、この作品が語られるうちにすでにある種の政治性を帯びていることもわかる。今回の情報から大浦さんの気持ちがどう変化したのかまではわからなかった。

ただ、この問題の私にとっての「本質」は、戸惑う一人の日本人に適切な答えを用意できなかった社会の是非である。

美術館は抗議を恐れてもともと展示を許可した作品図録を焼いてしまった。ムラの空気を恐れる日本人らしいやり方と言える。裁判所も判断を避けている。日本人は民主主義も憲法も総括せず、結果的に繁栄した国である。例えば軍隊の問題も棚上げになっていて話し合いを始めることすらできていない。依って立つ基盤がないのだから裁判所も問題を正面から判断することができなかったのかもしれない。

このため「管理が難しいから」とか「天皇にもプライバシーがあるから」という理屈で判断を逃げているように思える。そして逃げるとそれを追いかける人も出てきてしまうのである。

もちろん、政治的思想を大学から推し量ることはできないが國學院大学出身の左翼活動家というのは考えにくい。ネットでは「津田大介が写真を焼いた」みたいな記述も見つけたのだが、皆あれを左翼思想と結びつけて「反日だ」と憤っているのではないかと思うが、おそらくはそうではないだろう。

ここで改めて全体像を見てみると面白い。自分が何者かというアイデンティティを考えるきっかけとして天皇の写真を使ったが周囲から理解されなかった。ある人は「不敬である」という文脈を美術館に押し付けた。「芸術の独立」という意識がない美術館は驚いて作品をなかったことにした。裁判所も「不敬であることに怒っているんだろうなあ」という想像はついたがそれを正面から認めることができないので適当に判断した。納得できない人達はこの問題を語り継ぎ、ショッキングな映像を作った。それが憲法改正と人権意識の後退という危機意識で「表現の自由」という問題に転用された。個人の内面と政治的意思表明というのは地続きではあるが厳密には違った問題だ。さらに日韓関係の緊迫化という全く別の問題があり、KBSがニュースで抜いた。SNSでこれを見た人は韓国が天皇を燃やしたというような印象を受け騒ぎ始めたということである。

この作品が起点になり、人達の心象に全く別の印象を与えながら消えることなく漂っていることになる。我々は自分たちの心象をお互いに投げつけあっているだけで、全く対話が成り立っていない。会話は多いが心の交流がないという極めて特殊な孤立状態にあるといえる。SNSというのは極めて忙しい孤立なのだと言える。

作品の意味合いはその作家の想定した文脈の中で語られるべきだとは思うのだが、実際には切り取られコピーされ反響を生んでいる。これはコラージュというコピーベースのアート作品のかなり本質的な側面であるともいえる。そのテーマは対話と相互理解の不在であり、これは全体として立派なアート作品である。

この問題を一過性の騒ぎで消費させるのはもったいないなと思うのだが、最近のネット言論空間はかなり殺気立っている。しばらくの間我々がこの問題を落ち着いて考えることはできないのではないかと思う。今日もこの問題をサカナに人々は自分たちの主張をぶつけ合っている。

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