なぜ日本は失敗を許さない否定社会になったのか

先日、木工で棚を作った。SketchUpを使って設計したのだが失敗したと思う。うまく立たなかったのだ。ここから失敗は大切だと思った。棚の話は別のブログに書いたのので、ここでは「日本が失敗を許さない社会になったわけ」を書くことにする。

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英語は飽きたらやめなさい

前回も書いたのだがQuoraで「日本人が英語ができないのはなぜ」か問題というのが定期的に出てくる。前回は「日本人が」というのと「私が」というのでは結論が変わるという話を書いたのだが、今回は言語学習そのものについて少し考えてみたい。いろいろ発見したことはあるのだが、細かいことを書いても伝わらなさそうなので、一つだけを伝えたい。それは「語学学習は飽きたらやめるべき」ということだ。語学学習は「同じことを続けてはダメ」なのだ。

すでに習得してしまったので「英語ができない」という人の気持ちがわからない。そこで昔挫折した言語をやってみることにした。もともと学生時代に海の向こうから聞こえてくるラジオの言葉が理解したかったという動機で始めたのだが、だらだらと全く理解できないままで数十年が過ぎた。だから、文字と漢字由来の言葉をいくつか知っている程度で全く進展しなかった。旅行に行ったことがあり「トイレはどこですか」「駅はどこですか」「これはいくらですか」「これを一つください」は言える。

韓国語の形容詞と動詞には固有語が多くそれが記憶できない。英語も同じところでつまづいた記憶がある。中学生の時に学校でボキャビルをやらされたのだが根気がなく続けられなかった。必要かどうかがわからない単語をいくつも覚えて昇級するというシステムに「バカじゃないだろうか」と思った記憶がある。結局英語が使えるようになったのは英語だけで生活するようになってからである。

そこで単語のCDを入手し、ヤフオクで落としたiPodに入れて聞いた。繰り返し聞いたのだが、全く覚えられる気がしなかった。韓国語の動詞は短いものが多く、単語のように思えないのだ。5級の最初の部分でさえダメという状態だ。これは一ヶ月くらい聞いていたがあまりにも覚えられないので苦痛になってやめてしまった。

そのあと、K-POPの歌詞を検索して意味を調べるということをやった。先に和訳してくれている人たちがたくさんいるのである。ところがこれも挫折した。意味を掴むには十分だが、細かく見るとわからない文法要素が多い。文法が日本語と似ており語尾が変わると意味が反対になったりするし、細かいニュアンスや、立場の違いによって語尾が変わったりもする。語尾を間違えただけで「失礼だ」といって殴られかねない言語なのである。多分日本語を覚える人も語尾学習は大変だろうなと思ったので、そういう人に会ったら優しくしてあげようと思う。あまりにも覚えられないので、OpenOfficeに簡単な文法辞典みたいなものを作ったのだがそれでも覚えられない。これも嫌になってやめた。だが、そのあともYouTubeにあるプレイリストは聞き続けた。

さらに同じ頃にYouTubeで3分ほどのバラエティ番組の字幕の書写を始めた。GoogleTranslateに入力するのだ。ローマ字入力ができるマイナーな方式をMacに入れた。この点Macは便利だと思う。最初はタイピングミスなどがあったがこれは3日くらいで覚えられた。韓国語はスペルを固有に覚えて行かなければならない。そしてよく使う単語ほどスペルが難しい。

このように最初の二ヶ月くらいは挫折しかないという時間が過ぎ去った。YouTubeで聞けるたくさんのミュージックビデオを素直に聞いている時が懐かしいと思ったくらいである。と同時に、もう歳だから新しい記憶は無理なのでは?とも思った。

最初に「あれ?」と思ったのは、最初の歌を繰り返し聞いている時だった。さすがに三ヶ月くらい聞いているとところどころ覚えてくるのである。偶然聞き続けたこの歌は「今僕がいう言葉は異常かもしれないが、なぜかちょっと君は難しくて僕は途方にくれる」で始まる。基本的には求愛の歌だが韻を踏むために「真夏の夕立」とか「赤い赤道の影」「砂漠の塩」などというよくわからない言葉も出てくる。ちなみに「途方にくれる」に当たる口語的な「쩔쩔매」をGoogleTranslateは正確に翻訳してくれない。最初はいちいちこういう言葉や文法要素に引っかかっていたのだが、とにかく聴いているうちになんとなくところどころ覚えてしまった。

最初はでたらめだと思っていた音の列が意味を持って聞こえてくるという「例のあの」瞬間がやってきたわけだ。

ここで再発見したのは諦めたあとでも脳では情報処理が続いているということだ。昔このブログで立ち泳ぎについて何回か書いたことがあるのだが、最初はジタバタしていて「立ち泳ぎなどできるはずがない」と諦めても脳で情報処理は続いていて、次にやってみるとできるようになっていたりするのだ。ここで嫌々やっていると苦手意識がついてしまうのでしばらく離れてみたほうが良い。

語学学習は単なる学習ではなく「体育的」な要素を含むので離れることが重要になってくる。理解するのではなくできるようになるのが大切なのだが、わからないままやっていると苦痛になってしまうのだ。

こうなると徐々に単語が覚えられるようになる。8月に聞いても全く覚えられる気がしなかった形容詞や動詞がなぜか半分くらいは頭に入っている。いろいろやっているうちになんとなく覚えたのだろう。こうなると「理解」が使える。よく間違える単語のスペルに気をつけたり、似ている音韻の別の形容詞が覚えたりできるのである。最初は点だったものがお互いに結びついてネットワークが作られるのだ。理解を司る脳の分野には最初に餌となる点をたくさん与えてやらなければならないようだ。つまり「わかる」というのはあらかじめ覚えているものを結びつけてゆく作業であり、わからなくても記憶プロセスそのものは進行している。そして点がなければ理解もできない。

最後の難関は副詞でこれは今でもかなり怪しい。例えば「まさか」とか「すでに」とか「もしかして」とかその類のものである。だが、これは別のやり方を見つけた。ドラマを見るとキーフレーズが頭に残ることがある。例えば「私は未だに先輩みたいなパートナーに出会っていません」とか「考えているよりも」とか「突然なんだよ」とか「ま、まさかお前」いった具合に表情と音が結びつくと副詞が覚えられる。ただ、どのシーンが頭に残るかはわからないので、手当たり次第に日本語の字幕が入ったドラマやバラエティ番組を見た方がいい。いわゆる言語シャワーというやつである。

今回はやや散漫になってきたのでポイントになりそうなところをまとめる。ポイントは集中してやって嫌になったらやめることだ。

  • まずは無駄な基礎運動を続ける。これをやらないと難しいところには進めない。
  • だが、嫌になったらやめてもいいし、むしろ積極的にやめるべきだ。「嫌になる」ほどやると、あとは脳が処理を始めてくれる。
  • 次に、自分が先を知りたいとか何を言っているのか是非とも知りたいと思うようなものを見つける。
  • わからないという苦痛はできるだけ避けて、わかりたいという欲求を大切にする。

ということで勉強を再開して四ヶ月が経過しようとしている。そこで、ドラマを見て筋を覚えてから今度は音声だけを聞いてみた。すると全てではないがほとんど「どのシーンか」はわかるようになった。全く意味がわからない音の羅列ではなく言語に近づいてきている感じがする。

年をとっているので記憶力は確実に落ちているものと思われるが、それでもこれくらいは記憶できるんだなと思った。「若かったらもっと覚えられたのに」とは思わない。昔からそれほど記憶力や理解力に恵まれていなかった上に勉強は苦手なので下手な成功体験がないからである。

言語学習は自転車の乗り方を覚えたり水泳のやり方を覚えたりするのに似ている。ある意味スポーツに近い。そして、一回新しいことを覚えると今度はそのやり方を横展開して別のことを「もっと早く」覚えることができるようになるのではないかと思う。

ここから言いたいことはたくさんあるのだが、あえて一つ挙げるとしたら言語学習は「苦手だ」と思ったらやめてもいいということである。ただ、やめたあとでも処理は続いているので「全部やめてしまう」よりもやり方を変えて飽きずにやれることを見つけるのがよいかもしれないと思う。苦痛を減らしてできるだけわかる喜びをこまめに見つけると言語学習は長続きするのではないかと思う。

いつまでも英語が習得できないのはどうしてなのか?

今日は英語の習得について考える。日本人は英語が苦手とされており「学校教育が悪いから英語がいつまでたっても習得できない」という意見が根強い。これについてはいろいろ思うところがあるのだが、ある程度英語が使えるようになってしまったために、それぞれの意見が妥当なのかがよくわからない。いったんできるようになってしまうと、なぜできるようになったのか忘れてしまうのである。

最近、韓国語をやり直している。韓国語に興味を持ち始めたのは高校生くらいの時だと思う。ハングルは簡単なので時間をかければ読めるようになったのだがそれ以上進まない。韓国に行ったときには日本語と同じ順序で漢語を並べると通用するので感動したのだが、それでも「ホテルに電話したいのですか」と「トイレはどこですか?」しか覚えられなかった。

少し思い立ってやり直しをしようと思った。手始めに韓国語の初級である「5級」の単語集のCDを見つけて繰り返し聴いているのだが、いつまでたっても単語が覚えられない。「ああ、やっぱり年を取ると記憶力が落ちるんだなあ」などと諦めかけたのが7月の末頃だと思う。

しかし、年齢ばかりを言い訳にしていても仕方がない。中学のときにボキャビルが苦手だったことを思い出した。友達の中にはスイスイと覚えて次の級に進む人もいるのだが、単語帳をただ覚えるのは退屈でいつまでたっても覚えられないのである。自分は怠け者で勉強ができないダメな人なのだと思っていた。

だが、今にして思うと「興味がないこと」が続かないだけの普通の人なのかもしれないと思う。

最初にやったのは韓国語の同じ歌を毎日続けて聞くというものだった。面白いことに歌だと半月も聞けば音は入ってくる。ある程度経過してから意味を調べると記憶が定着するのである。「影」「夏」「塩」「赤道」などととりとめのない言葉を覚えたのだが、これはその歌に出てくる歌詞の一部だ。

だが、それだけで韓国語が覚えられたという実感は得られない。さらに半月くらいかけてバラエティ番組を日本語の字幕で見た。食事を作るという番組なので「にんじん」「かぼちゃ(ズッキーニ)」「砂糖」「麦」「米」「スイカ」「きゅうり」などという言葉を覚えた。いったん言葉を覚えると単語帳の言葉も入ってくる。こうやって集中してやらなければならないんだなと思った。

外国語を楽しむためにはある程度のボキャブラリの集積が必要だ。だが、覚えるはじから忘れていってしまう。この忘却曲線は坂道のようなもので、言葉を習得するときにはこの坂をあえて登って行かなければならない。そして、それは年齢とともに徐々にきつくなってしまう。だから興味が続く素材をたくさん集めて時間をかけて聞くことになるのだ。

考えてみるとかなり長い時間を学習に充てている。それがあまり苦痛にならないのばバラエティ番組や歌そのものに興味があるからだろう。新しい言語を習得するためにはある程度の集中した時間が必要であり、なおかつ興味のある対象でないと続かないということだ。そしてそれをたくさん集めなければならないのである。

その意味では学校の英語の勉強は最悪の学習法だといえる。短い時間でだらだらとあまり興味のないことを学ぶので、記憶力に自信があって勉強そのものが好きという一部の変わった人を除いて「できるようになった」という達成感が得られない。学校で英語が得意になったという人はよっぽど変わった人なのではないかと思う。課外で興味のあるトピックを見つけるのが大切なのではないだろうか。そして三ヶ月などの期間を決めて時間を作ることが重要なのだろう。いったん長期記憶側で覚えると忘れにくくなるし、忘れたとしてもちょっとしたきっかけで思い出すことができる。

外国語を覚えるのはかなり面倒な作業なのだが、良いニュースもある。かつて、英語を学ぶときには留学でもして「言葉に浸かれる環境」を作る必要があった。だが、今はYouTubeなどを使えば原語のコンテンツは豊富に用意できるし、自分で集めなくても次から次へと新しいコンテンツがオススメされてくる。

さらにGoogleTranslateも使える。例えば「程度を表す言葉」を覚えたいとすると、これをあらかじめGoogleTranslateに仕込んでおいて毎日聞くことができるのだ。リンクしてあるページで音声ボタン(スピーカーボタン)を押すと読み上げソフトが文章を読んでくれる。もはや辞書が必要ないのである。

大きいという形容詞は「クダ」なのだが、韓国語の形容詞を形容形で使うためには(n)eunで挟む必要がある。形が変わって「クン」になってしまうともう聞き取れなくなってしまうので、一連の形をまとめて記憶する必要がある。これは「国(ナラ)」を付けた活用の形である。

크다.
큰 나라.
국가가 크다.

難しい話」で作るとこうなる。辞書形はオリョプタだが、名刺の前に付くと「オリュン」のように聞こえる。これも日本語を入力すれば正しい形がすぐにでてくる。

어렵다.
어려운 이야기.
이야기가 어렵다.

操作方法はちょっと複雑だが、Macを使うと簡単に単語帳が作れる。スピーチ機能を利用すればよいのだ。

テキストを保存して「スピーチ」で読む必要がある。ただし、デフォルトでは韓国語は読んでくれない。コントロールパネルの「音声入力と読み上げ」で「テキスト読み上げ」タブを押して「カスタマイズ」でおめあての言語のファイルをダウンロードする必要がある。韓国語を読みたい場合にはいちいちこれを切り替える必要があり面倒なので、ブラウザーからGoogleTranslateを呼び出した方が簡単かもしれないとは思うのだが、これはこれで別の面白い使い方がある。英語の方言に対応しているのである。英語でHey Judeの歌詞を調べてきてテキストとして保存する。これを米語、英語、スコットランド英語、豪語、南アフリカ英語、インド英語などで読むことができるのだ。

民主党系保守の政治家はなぜ嘘つきなのか

長島昭久という衆議院議員が、希望の党の党首が「暫定的である」という報道に異議を唱えた。しかし「自分は反対であるとは言わずに、これは誤報だ」とやった。いつもの手口なので「民主党系保守の議員というのはなぜ嘘つきなんだろうか」と思った。翌日になってやはり今回の希望の党の党首は暫定であるということがわかった。やはり当初の直感は正しく長島議員は嘘をついていたのである。

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わからないというのはどういう状態なのか

政治についてのブログを書いていると政治問題について語っている人の声を聞くようになるのだが「一般の国民にはちゃんと伝わっていないのではないか」というような苛立ちの声を耳にする。だから、説明すればいいんじゃないかということになるのだろうが、実はその対応は考えものである。そもそも「わかっていない」ってどういうことなのかは、わかっている人にはわからないからである。

こういう時は、何かわからないことを勉強してみるのがよい。ということでファッションについて勉強している。ファッションについて勉強できる素材は豊富にあるので、もし情報が足りないことが「わからない」を解消するなら、多分数日でファッションがわかるようになるだろう。

が、ファッションがわからない人が、ファッション雑誌やWEARを見るとこうなる。

すべてのコーディネートがそのまま入ってくるので却って混乱してしまうのである。そもそも情報が多すぎてよくわからない。つまり、情報は少なすぎてもわからないのだが、多すぎてもわからなくなる。この図はまだマシなものだ。なぜならば本来は色がついておりテクスチャーもある。こうなるともうカオスだ。ファッション雑誌などは企業のタイアップが入るので、ますます混乱度合いが増す。WEARやPinterestはフォルダーを作って整理ができるので、似ているものを集めてみよう。

集めてみると、なんとなくまともになったが、これもよくわからない。なぜならば、何をもって似ていると判断しているかがよくわからなくなってしまうからだ。最初は色が同じようなものを集めていたのに、途中で形に注目したりするし、形に注目してもグラデーション状になっているので、何がどれと似ているのか途中でわからなくなり混乱する。

これを克服するためには情報軸を自分で決め込む必要がある。今回はトップスの大きさとボトムの大きさで分類した。

すると4つの類型ができる。上下が細いもの、上下が太いもの、片方が太いものの4つだ。これに「普通」が入るので、全部で5つの類型になる。さらにパンツの裾だけを絞って細さを追求したものが派生し、細いままで裾だけにゆとりをもたせて(いわゆるベルボトムみたいなやつだ)が派生する。つまり、自分なりに軸を作って並べて初めて全体像が見えるということになる。右下はスカートのような感じなので男性はあまりやらないファッション領域になる。つまり、この順列組み合わせがすべて成り立つわけではないということもわかる。

軸を作るということはつまり、その他の要素を捨ててしまうということである。つまり、情報の刈り込みが必要になる。もう一つ重要なのは、学習する人が自分で軸が作れないと、いつまでも全体像が理解できないということだ。

ファッション上級者は別の見方をしているらしい

では、ファッション雑誌が軸を作ってあげればよいということになるのだが、ファッション業界の人は多分軸が作れないのではないかと思う。例えばIラインとかAラインとか言う言葉がある。Iラインを基準にして、ボトムにゆとりをもたせたのがAラインなのだが、これを別の人が見ても「普通の」格好に見えてしまう。なぜならばそもそも標準が異なるからだ。

一昔前のジーンズにはもう少しゆとりがあった。バブル期に青春期を過ごしたような人から見るとこれが標準で、Iラインが「細く」見える。つまり、人によって基準となる場所が違うのだ。これを模式化したのが下の図だ。

基準点が異なっている上に、細い服を体をがっちりした人が着るとIラインではなくなってしまう。つまり、標準が移動するのでラベルがあてにならないのだ。例えばIラインに大きいジャケットを羽織るとそれがVラインになるという見方もあれば、Iラインに太いVラインを追加しただけだという見方もできる。こういうとややこしいのだが、単純化すると、熟達者は比較の中でものを見ているのである。

地図は作ることに意味がある

「上下のバランスをきちんと決めるとよいのだ」ということがわかると地図自体にはあまり意味がなくなる。さらに、これにテイスト(軍隊由来のものを持ってくるとか、白と青でまとめてマリンと呼ぶのか、アメリカ由来のものを持ってくるとか、いろいろな香りづけがある)を加えるのだが、これは付加的な情報だということになる。つまり、形が先にあり、次にテイストがくるという重み付けが「内面化」された時点で、だいたいのことが「わかった」ということが言える。そうなると、あとは、地図を片手にどこまでが許容範囲なのかとか、どれが一番ウケがよいのかということを探って行けばよいことになる。

これは地図を俯瞰で見るのか、あるいは特定の場所から見るのかというのに似ている。「わからない人」と「わかる人」が話し合えないのは、実は視点の違いにあるのではないかとも思える。

政治がわかる人とわからない人の違い

例えば、右翼・左翼は普遍的な定義のように見えるが、実は比較の問題であって、政治についてわからない人には意味が取れない。多分、自分の立ち位置があり、それによって右翼・左翼の定義はまちまちなのではないだろうか。現在の右翼・左翼というのは自民党政権から見た距離の違いでしかない。55年体制が基準点になっており、その中心から、どれだけ周縁に離れて行くかによって、感覚的に計測しているだけなのだろう。が、基準点もアクターも動いているので、世代によっては捉え方が異なるのではないだろうか。

顕著な例としては、自民党内部の権力闘争に負けて新天地である社会主義リベラルに移動した小沢一郎がいる。多分、今の人たちは小沢一郎は山本太郎と組んでいるので左翼だと認識しているのではないだろうか。が、田中派の人たちはもともと地方分配派なので、政治手法はあまり違っていないのかもしれない。当時のタカ派の人たちは中央よりやや右寄りだったが、今では主流派になっており。これを日本の右傾化と呼んでいるのだが、若い人たちにはピンとこない表現だろうし、そもそもそんなことに興味がない人にとってみれば「みんなが揉めているのだが仲良くできないものだろうか」くらいにしか思えないのではないか。

感覚的にわかる人と地図を作らないとわからない人

ここから、そもそも「わかる」ということはいくつかの別のことを指しているのではないかとい可能性が浮かび上がってくる。

例えば、ユングは世の中の理解を「感覚的なのか直感的か」で分類した。ルールを元に世界を理解する人もいれば、ディテールでものを見る人もいるというわけだ。ディテールで見る人には「自分が好きなファッション」があり、そのディテールを埋めてゆくことが世界を理解するということなのかもしれない。つまり、全体の地図が作れなかったとしてもそれほど「わからない」という感覚には陥らない可能性がある。

直感的にわかることとわからないこと

その他に、直感的にわかることと、考えなければわからないことというのがある。例えば、都議会議員選挙では、豊田真由子議員の件の方が稲田朋美議員の問題よりも大きな影響を与えているそうだ。自衛隊が政治的運動を禁止されているということはある程度歴史や法律の体系を知らないとわからないが、豊田さんの人格がちょっとおかしいということは誰にでもわかるからだ。

また、加計学園のように「誰かを贔屓している」というのは支持率を動かすが、憲法違反の疑いのある安保法制の問題はあまり支持率を動かさなかったという事例もある。これは「贔屓をする人は危ない」という経験的な理解が日本人の間に浸透しているからだろう。

これが「感覚的に物事を見ている」ということなのか、それともまた別の要素なのかはわからない。あるいは過去の経験則から判断の基準を作る人と、内面化したルールから未来予測をする人の二つに別れるのかもしれない。

Twitterの議論が不毛なのはそこに智恵がないから

今日のお話はいささかお説教めいている。すこし身近にしたいので「Twittter」という誰もが不毛だなあと考えている題材に落とし込むことにした。Twitterにはなぜ俺より馬鹿なやつしかいないのかという問いを置いてみた。
Twitterには多くの情報が乱れ飛んでいるが、解決策は落ちていない。
情報とはデータをある目的のために並べたものである。Twitterではデータはしばしば「Fact(事実)」とか言われる。事実には、原因とその結果が含まれるようだが、これらはごっちゃにされることが多い。情報には物語も含まれる。これはどちらかといえば情報が先にあり、情報に合うように事実を並べたものである。
宇宙を例に出すとわかりやすい。データや事実に当たるものは星だ。これを宇宙を航行するために並べ替えたものが情報になる。神様が宇宙を創ったからという理由で地球を中心に並べた惑星図を物語といい、「あの星がペテルギウスの形に見えるのはペテルギウスが空に昇ったからである」というのも物語である。物語は事実を解釈したものだが、解釈に沿って事実を並べ替えることもできる。これは「原理主義的な」と言われたりする。
さて、情報が必要になるのはどうしてなのだろうか。星の例で言うと宇宙を航行する必要があるからだろう。つまり行動が伴うと情報が必要になる。行動が必要なければ情報はいらないのだ。Twitterの議論がくだらないのは人々が行動しなくなったからであると置ける。
さて、ここまではデータを動かないものとして考えているわけだが、実際にはデータが蓄積されてくると、ある程度の予測ができるようになる。行動指針のことを「洞察(インサイト)」などと呼ぶ。さらに重要なのは、星と違って人間が作った事実は変わりうるし変えうるということだ。変わらないものを受け入れて、変えられるものを変えてゆくことにはいろいろな呼び名があるのだろうが、ここでは智恵と名付けたい。
智恵はTwitterだけではなく、あらゆるところで欠如している。最初のうちには「みんな馬鹿だから」智恵がないのだと思っていたのだが、どうもこれは正しくないようだ。そもそもTwitterで他の人が馬鹿に見えるのは、人の位置がそれぞれ異なっているからだ。つまり、その人の立ち位置から見える「事実」はその人が一番よく知っている。どう見えているかというのも事実の一種なので、他の人よりもいろいろなことを知りうる立場にいるということになる。だから他の人が馬鹿に見えるのだろう。
日本人が智恵を扱えない原因の一つとして考えられるのは、日本の教育がデータと簡易的な処理方法の詰め込みに力を入れており、得られた知識をそれをどう生かすかということについてはあまり力点を置いていないからだろう。これはキャッチャップ型の工業後進国には即したやり方だが(物理法則は変わらないので事実の変化を伴わない)のだが、サービス産業主体(ソリューションベース)の先進国にはふさわしくなかった。
次の理由は社会のプレイヤーが智恵の領域にアクセスしないことによって生じる。例えばマクドナッルドのバイトは来たお客さんにできあいのハンバーガーを提供するという仕事だけを行っている。ここに来て、お客が自分のニーズを伝えて「それに合うようなものを作ってくれ」と頼んでみると良い。マクドナルドのバイトは多分怒り出す。さらにバンズの置いてある位置やバーナーの位置をちょっと変えてみる。多分、バイトはハンバーガーが提供できなくなってしまうだろう。
たぶん、これと同じことが社会全体に起きている。時代が変わると経年劣化や変化が起こるので、事実そのものが変化してくる。ところが日本の教育は変化を扱えないので、溜め込んだ知識にほころびが出てくる。するとほころびを取り繕うために時間を取られるので、知識を洞察に変えたり智恵を溜め込んでゆく時間がますますなくなる。つまり忙しいので智恵を貯める時間がないということになる。智恵が貯まらないと現実に即して行動を買えてゆくことができないのでますます忙しくなるというわけだ。
本来は「我々は智恵を持つべきか」というようなことを書きたいのだが、これはマクドナルドのバイトに経営マインドを持つべきだと言っているのと同じことなので、言うだけ無駄だと思う。しかし、データだけがいくら集まっても、それが智恵に昇華するということはない。どちらかというとたまり続けるデータとその加工に翻弄されることになる。これはビックデータを扱った人なら経験があることだろう。だが、この感覚もデータに埋もれてみないとわからないことだ。
つまり、データの氾濫に疲れ果てて「なんとかしなければならないのでは」と思った時に大きなチャンスがあると言える。疑問と違和感の中には解決のために鍵が隠されているのはずなのである。

頭がいい子の家のリビングに図鑑があるのはなぜか

Twitterのタイムラインで頭がいい子の家のリビングに図鑑があるのはなぜかというエッセイを見つけ、我が意を得たりと思った。
子供が「頭が良い」というのはお勉強ができるという意味だろう。決してIQが高いという意味ではないはずだ。この文章を読むといくつかのことが分かる。

  • そもそもリビングがあるにはお金持ちの家だ。
  • 母親がつきっきりで「この子は何に興味があるのかしら」などと面倒を見ることができるということは、その母親が専業主婦か時間の自由が利くような職業に就いていることを意味する。
  • そもそも、子供に「学習環境を整えよう」などと思うのはかなり意識の高い家庭だ。子供にタブレット端末を与えておくと黙って黙々とゲームなんかを始める。自分の時間が欲しい両親はタブレットを与えてしまう。そこで退屈な図鑑なんか見ようという子供はいない。

つまり、ここから浮かび上がる家庭環境は、両親ともに大学を出ていて学習が好きであり、なおかつ母親に時間の自由がある家庭ということになる。これは現代の家庭ではアッパークラス(それもかなり恵まれた層の)の部類に入る。そもそも、図鑑を複数揃えられるというのはお金に余裕があるということなのだ。
これとは逆に親が忙しく、学習意欲がない家庭はどうなるのだろうか。忙しいからといって自分のスマホやタブレットを与えておく。すると早いうちから刺激に反応してただただ時間を過ごす子供に成長するのだ。マルチタスクのスマホは人の集中力を奪うという研究結果もある。気が散りやすくなる訓練をしているということだ。
つまり、この文章は「お金のある親の子供は金持ちになる可能性が高い」ということを言っているにすぎない。現在一番高価なリソースは「子供と一緒に過ごす時間」なのだが、これに同感する人は多いのではないだろうか。図鑑は余裕のある家にたまたま置かれているだけという可能性があるのだ。

イギリスはなぜイラク戦争の検証報告書を出せたのか

イギリスの独立調査委員会が7年の歳月をかけてイラク戦争の参戦は間違っていたという報告書を出した。いくつかの日本の新聞がこれを報道したのだが、裏には「日本ではなぜ出せないのか」という含みがあるものと思う。良い質問だと思う。なぜ、日本ではこうした報告書が出せないのだろうか。
当たり前のことだが、イギリスの報告書は「イラク戦争への参戦」という事実を扱っている。その意思決定をした最高責任者はブレア首相だ。結果として多くの兵士が亡くなった。
まず第一の背景は、イギリス人は「政治家は嘘をつく(あるいは間違える)」という前提でいることではないかと考えられる。前のエントリーで見たように、イギリス人の政治家は頻繁に嘘をつく。毎日新聞の報道を読むと、一度報告書を出したが国民は納得しなかったとある。世論が納得しなかったので報告書を出すしかなくなったのである。
次に意思決定者がはっきりしているという事情がある。ブレア首相が国民に「大量破壊兵器がある」と言って説得したのだ。報告書は「それが嘘だった」と言っているのである。
チルコット委員長は、調査委員会には政治家が含まれておらず、批判のために調査したわけではないと説明する。その目的は「同じような間違いを繰り返さない」ことなのだそうだ。独立調査委員会は、政党対立が前提になっているということが分かる。調停者として第三者が出てくるのだ。
では、なぜ日本ではこのような報告書を出すことができないのだろうか。第一に日本人は間違っていたということを極端に嫌う。いったん「裏切った」となると、そのまま社会的生命が失われることが多い。背景には「細かな検証はしないが、一度明白な証拠が出たら、何されても構わない」という前提があるのではないかと思う。日本人にとって、社会的約束は血の盟約で、失敗は許されないのだ。
次に日本では意思決定者がはっきりとしないという事情がある。責任者は明白ではなく、多くの人たちが利害調整しながら、なんとなく意思決定してゆく。そのルートは非公式であり、外からはよく分からない。意思決定は単発の出来事ではなく、長いプロセスなのだ。イギリスではブレア元首相が訴追されれば済むのかもしれないが(実際にそういう動きがあるようだ)日本では集団責任になる。責めを負わされるのは「外務省」や「自民党」などの集団だ。つまり、プロセス全体が間違っていたことになってしまうのだが、それをただすためには、プロセス全体をそう取っ替えするしかなくなる。
独立した調査委員会を作っても、調査対象との関係性を持つので、実際には独立にはならないし、調査される対象も集団の正当性が毀損されるのを恐れて、庇い合いが始まる。第三者が調停を前提にしていたということから、日本には明確な対立はないということになる。故に第三者が成り立たないのだ。
一連の報道を読んでも「なぜイギリス国民が納得しなかったのか」という点がよくわからない。多分、主権者として意思決定に参加したという意識があるのかもしれない。これが日本人だと自分たちの生活に直接の影響がない限り「政府が勝手に決めたこと」だと考え、深刻に捉えないのではないかと思う。あるいは、死者を出したあげく、難民の流入問題に直面しており「なぜこんなことになったのか」と真剣に捉えている可能性もある。中東の戦争は日本にとっては「対岸の火事」に過ぎないのかもしれない。
日本人の意思決定は曖昧な上で遅い。間違いは少ないかもしれないのだが、いったん組織で間違えると同じ間違いを何度でも、最終的に破綻するまで繰り返すことになる。イギリス方式は意思決定が素早いが間違える可能性がある。しかし、意思決定プロセスが(日本に比べて)単純なので、失敗から学ぶことができるのである。

イヌはどの程度「賢い」のか

うちのイヌが餌を食べなくなった。どうやらドライのドッグフードがお気に召さないらしい。ビスケットは食べるので、ビスケットを手で与えてから少し混ぜ込むと渋々食べはじめる。では、最初からビスケットを混ぜておけばよいと思ったのだが、それでは食べない。つまり、人が付いていないとダメなのだ。
ほったらかしにしておくと「家族がいると思われる場所」に向かって鳴き始める。餌は置いてあるのだから食べればよいと思うのだが、それは嫌らしい。
この様子を見てイヌはどの程度賢いのだろうかと思った。調べてみると2歳児程度の知能を持ち、200単語程度を理解するという。中には簡単な文章を理解するイヌもいるそうだ。だが、学術的に調べられる知能は問題解決能力を計測するものであって、情緒的な共感能力を計測するものではないようだ。
なぜ、うちのイヌが餌を食べないのかは、よく分からないが、餌は単に空腹を満たす機能的なものではなく、情緒的な側面があるのではないかと思える。
第一に、餌を食べてしまうとビスケットが貰えないということを知っているという可能性がある。この仮説を取るとイヌには長期的な知能があることになる。長期的利益のために短期的な利益(つまり目の前の餌)を我慢してしまうのだ。しかし、これだけでは餌があるにも関わらず、長い間家族を呼ぶ理由は分からない。
イヌは家族の付き添いを求めている。つまり「自分が愛されていること」を確認したがっているのだ。ドライフードは「エサ」なのだが、ビスケットは「ご飯」だということだ。いつもご挨拶代わりにニコニコしながらビスケットを貰うので、ビスケットに対して好ましい感情を持っているのかもしれない。この他に「ご飯と大豆を混ぜたやつ」を食べるのだが、これも家族がそばについて与えているせいで、ガツガツと食べる。イヌは人間と同じ物を食べたがる。だからこれは「ご飯」なのだろう。
この仮説を支持すると、イヌは「共感能力」を持っており「記憶」によって餌の感情的な価値を判断しているということになる。単に賢いだけでなく、共感能力を持っているというのはペットにとっては大切な資質だろう。例えばハムスターにはこのような共感能力はなさそうなので、面白みには欠ける。どちらかといえばかわいい姿を鑑賞する愛玩動物と言ってよいだろう。ウサギもかわいいが何を考えているのかはよく分からない。
イヌは本当に賢いと書きたいところなのだが「自分でエサを食べろ」と言い聞かせても理解はしてくれない。あくまでも自分発進であり、相手の要求は理解できない。これがイヌと人間が決定的に違っている点だ。
本当のところは分からないが、共感性を持っているというのはペットとしては大切な資質である。と、同時に「認められたい」「認知されたい」「他の人と同じように扱ってほしい」という欲求は人間のレベルのでなくても持っているということになる。ソーシャルメディアの「いいね」が時々問題になるのだが、意外と根深い感情なのかもしれないと思える。
と、同時に「必要とされている」という感覚は人間の時間にも特別な意味を与える。「社会性」という言葉には、相互依存という動物が持っている機能が関連しているのかもしれないと思う。

知的資本はどこに蓄積するのか

会社にとって知識は重要だ。ドラッカーあたりが唱え、堺屋太一先生がこれからは知価社会だなどといっていたのを懐かしく思い出す。では知識はどこから生まれ、どこに蓄えられるのか。
日本では「正社員の頭の中に蓄積され、マニュアル化できない」という答えが導き出すのが一般的なようだ。日本人が考える高度な知識というのが「暗黙知ベース」だからだろう。優れた経営者はすし職人のようなもので、簡単に極意や秘伝を人に教えられるものではないのだ。これ自体は問題ない。
一方アメリカではある程度標準化されている。キャリアチェンジのために学校に通いなおすのも当たり前だ。このやり方のメリットはいくつかある。労働者はスキルを蓄積できる(これまでの知識もムダにならない)し、会社も外部の知識を取り入れることができる。個人の知識を体系化して、その会社にしかない知的資本を構築する。
また、業務知識を持っている人が集まることによって、各社の知識を外に出すことができる。それを論文にまとめて形式知化する。MBAの教官も現場の知識を下地に研究をする。知識の形式知化には社内マニュアルだけではなく学術論文も含まれる。そうして生まれた形式知を個人が各社に持ち帰ることで暗黙知の更新を図るのだ。マニュアルや論文だけですべてが解決するわけではない。暗黙知を形式知を循環させることこそが重要なのである。
同じことはプログラミング言語にも起こるだろう。新しい言語を覚えるために学校に通いなおしてもよいわけだ。会社としては「忙しく業務に縛り付けておく」か「余裕を与えて知識の更新を図る」かという選択肢が生まれる。学校だけでなく、各種の研究会活動も盛んである。従業員の学習会すら許してくれない日本のSIベンダーとは考え方が全く違うのだ。
日本人は学校を「知的レベルを示すマーカー」と捉えるが、アメリカ人は「必要な知識を学ぶ場」と考える。ハーバードやウォートンは名門として知られるが、知的レベルのマーカーとして重要視されているわけではない。ハーバードの卒業生がネットワークを作り、そのコミュニティのメンバーになれることが重要だと考えられている。つまり、コホート(誰を知っているか)も知識の一部なのだ。
デメリットも明白になりつつある。経済不調が長引くと、労働者が教育に投資できなくなる。高い学費が払えないという大学生も多い。するとキャリアアップが望めなくなり、社会に不満が蔓延する。大統領選挙の候補者たちはこうして成長に取り残された人たちの支持を集めているところから判断すると、かなり大きな問題になっているのではないだろうか。
知的資本の蓄積は従業員だけから得られるわけではない。顧客接点も知識の吸収点として役に立っている。日本の会社は顧客接点を非正規化してしまったため、消費者からの知識が入らなくなった。結果「お客さんが何を考えているのか分からない」と考える会社が多くなり、消費市場から次々と撤退しつつある。製造業で残っているのは販売代理店システムが有効に機能している自動車産業だけだ。最近までは直販ルートを持っているユニクロがアパレル唯一の勝ち組だった。直販ルートを持たない家電メーカーは法人営業中心に切り替わりつつある。法人営業は社員が担当するので知識を吸収するパイプが残っているのだろう。
ドライなように思えるアメリカの企業だが、顧客接点を重要視している会社も多い。例えばAppleは直販店を作り、カスタマーセンターも充実させている。
日本の会社は、外部からの教育から切り離され、消費者からも切り離されている。残る新しい知識の吸収点は、事業体が分解することだけだ。事業体に新陳代謝があれば、定期的に「新しい風」が入ってくることになるだろう。だが、日本の会社にはそれもない。
正社員にとって重要なのは、社内政治を勝ち上がることだ。だから、社内政治に熟知することが正社員として生き抜くために必要な知的資本なのである。故に日本の会社は外側から隔絶されて、たっぷりと内輪の知識を知的資本として詰め込んでいることになる。だが、内輪の知識は1円の価値も生まない。お客さんとは何の関係もないからだ。彼らにとって「ムダ」こそが重要だ。それが外部からの参入障壁になっているからである。だから日本の会社はムダを構造的に蓄積するようになっていると言える。
やっかいなことに、この知識は利益を生むことがある。手っ取り早いのは国と結びつくことである。社内政治だけではなく政治と結びついてしまうのだ。この結果、支出の支え手が消費者から国(公共事業である)に移りつつある。次から次へと無駄な公共事業が作られ、ITまでもが公共工事化するのはそのためなのではないかと思う。
この典型的な事例が東芝だ。国と結びついた原子力部門と家電部門の間に対立があった。社内政治を繰り広げた結果「敵陣営(つまり自社のことだ)」に打ち勝つ目的で粉飾決算が横行した。結局、消費者向けの部門を切り売りしてしまうようだ。