ドナルド・トランプの最後が悲惨であればあるほどその神格化が進みそうだ

トランプ大統領が負けを認めるか認めないのかということが話題になっている。この議論を聞いていると「多くの人がドナルド・トランプという人のことを理解していない」と思う。おそらく大統領は大統領職そのものへの執着はないだろう。彼にとって重要なのは有能な人間として注目を集め続けることだからである。

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「優生的思想に基づく」ALS嘱託殺人事件について

ALS患者の嘱託殺人事件が起きた。これについて維新の松井一郎代表が「安楽死の議論を始めては」といったことが一部で反発されている。この問題にはいろいろ要素がありすぎてそもそも話し合いを始める議論が始められないと思った。とりとめのない考察だが最後は維新がこの問題について考えることの危険性に着地させたい。

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組織的病気に陥った厚生労働省の受動攻撃性

今回、厚生労働省の問題について扱うのだが、これまでのように気軽に論じられない気がする。ヤバさが違うからである。厚生労働省はすでに組織として健全な状態ではないと思う。多分、このまま放置していると取り返しのないことが起こるだろうし、すでに起きているかもしれない。そしてそれは政府だけでなく社会全体に広がるだろう。というよりもう広がっているかもしれない。






その病理とは受動攻撃性である。受動攻撃症に罹患した組織には2つのことが起こる。それはサボタージュと怒りである。そしてその2つの症状のために組織は中から崩壊する。そしてサボタージュによって引き起こされた怒りもまた新たな受動攻撃性を生む。そうして組織は中からどんどん壊れてゆくのである。

まず、心理学用語としてのPassive Aggressionについて見ておきたい。これを日本語で受動攻撃性と言っている。この状態になった人はわざと反抗的な態度をとるのだが、その態度が表向きは反抗に見えないのが受動攻撃性の特徴である。わざと無視して見せたり、すぐには気がつかないような嫌味をいうのが典型例だ。

この記事(英語)によると受動攻撃性を防ぐ手段はなく、できるのは無視することか関係を切り離すことだけなのだそうだ。切り離せない場合は毅然とした態度をとるべきだというアドバイスをする記事もある。表立って社会との摩擦があればそれを治療する口実が作れるのだが、受動攻撃者は表向きは何事もなかったかのように振る舞うので、別の軋轢が生まれるまで対処できないのである。そして症状は大抵相手の方に出る。

こうした受動攻撃性がなぜ生まれるかはよくわからない。組織のトップではなく中間管理職的な人に現れやすいとする人もいる。彼らは表立って反抗することはないので攻撃が表面化することは少ない。が、わからない形でサボタージュを働く。やるべきことをせず、内側から組織が弱体化する。自尊心が低く不安にさらされているからこうなるのだという人もいるが、今では人格障害とは見なされず行動様式の一つとされているそうだ。

受動攻撃者は明らかに不満を持っているのだが、自分からはそれを口にしない。相手が怒って問題行動を起こすのを待っている。行動を起こすのは相手なので非難されるのも相手だ。

また「受動的攻撃行動をする目的は、こういった行動をして“正気を失わせてしまう”ことである。」とスコット・ウェツラー博士は説明する。博士はモンテフィオーリ・メディカルセンターの副所長で、「Living With the Passive-Aggressive Man(受動的攻撃性の人間と共に生活する)」という本の著者でもある。「あなたは今起こっていることは実際に起こっている事とは違うと教えられ、意思疎通をすることを控えてしまうことになる。何が起こっているか知っていても、彼らはそれを否定するのだ。」と博士は述べる。

受動的攻撃性の人と付き合う秘訣(ハフィントンポスト)

のハフィントンポストの受動攻撃性の記事を見て「安倍政権」について想起した人は多いだろう。森友加計学園問題では明らかに問題行動が起きているにもかかわらず安倍政権はそれを隠し続けている。しかし、重要なのはそこではない。政府は「問題行動を起こしている」ことを隠していない。麻生副総理を見ているとわかるがニヤニヤ笑って問題発言を繰り返すことで「多少の無茶は許される」という万能感を得ている。しかし政権運営に失敗し二度と首相になれそうもない麻生さんにはそれしかできることがない。

国民は最初は苛立つがやがて「政治に関わっても仕方がない、選んだのは我々だ」と思うようになる。それが受動攻撃者の狙いだ。国民の無力感は政権にとっては勝利なのである。「一度は俺たちを政権から追い落としたくせに結局お前らは無力だったではないか」という彼らの高笑いが聞こえるようだ。

東京新聞の記事によると厚生労働省は野党に対して「嘘の手紙」を書いて承認が証人喚問に来られないと偽装したそうだ。嘘をついたのが問題だと誰しもが思うのだが、実はポイントはそこではないのかもしれない。この嘘は本人に確認すればすぐにバレてしまうという点が実は彼らの狙いなのだろう。すでに立憲民主党はいきり立っている。しかし、そこで世間は立憲民主党に「でも今回も問題を解明できないんですよね」と言う。自らの運命を政治家に握られていて何もできない官僚たちを癒すのは野党の苦痛に満ちた表情だけなのだ。

総務省統計委員会の西村清彦委員長が多忙を理由に国会審議に協力しない意向を示したとする文書を、総務省職員が西村氏に無断で作成し、野党に示していたことが二十五日、明らかになった。西村氏は不快感を示し、石田真敏総務相は衆院予算委員会で陳謝した。

「統計委員長 国会に協力しない」 総務省、無断で文書作成(東京新聞)

これをこっそりやれば嘘はバレなかっただろう。ここまでは通常のサボタージュである。しかし、それをすぐにバレる形でやることで「お前らのいうことは聞かないよ」という攻撃性を誰かに向けている。おそらくそれは野党ではなく観客席にいる国民だろう。厚生労働省には損害はない。「組織的隠蔽が疑われるが組織的隠蔽とまでは言えない」としてごまかしてしまえばいいからだ。明らかに無茶苦茶を言っているが、厚生労働省は「それでも国民は厚生労働省に頼らざるをえない」と思っているだろうし、選挙で争点を作りたくない政治家も自分たちを守ってくれるはずだと考えるだろう。それは彼らが唯一手に入れられる勝利なのだ。韓国にとっての竹島みたいなものである。

安倍晋三という人が無力感から受動攻撃性を国民に向けていることは間違いがない。彼は小泉純一郎元首相に祭り上げられて政治家になりトップに立った瞬間に国民と自民党の身内から「首相の器ではない」と拒否された人である。怒りを持ってもそれほど不思議ではない。だが、安倍首相は自らの受動攻撃性を認めないことで、世の中にある受動攻撃性に満ちた人たちを解放してしまった。いったん「蜜の味」を覚えた組織はそれを手放さないだろう。

それではなぜ厚生労働省はこのような受動攻撃性を身につけたのか。ここにもやはり長年受けつづけた自己否定という原因がありそうなのだが「加害者」である国民はそれを忘れている。

「伏魔殿」厚生労働省との闘いという記事を見つけた。書いたのは長妻昭さんだ。短い内容をいくら読んでも厚生労働省を粛清したり征伐をしたりした様子はないのだが、少なくとも外向けには「伏魔殿」呼ばわりをしているわけで、恨まれても不思議はない気がする。ただ、この伏魔殿という言い方も自動化された言い方のようだ。つまり、それ以前に伏魔殿という言葉が使われていたのである。

民主党時代の前の安倍政権時代から片付かない年金問題の犯人探しが行われていた。2007年9月の厚生労働大臣記者会見ではすでに「市町村こそが年金問題の伏魔殿である」という言い方がされている。当時盛んに犯人探しがされており、それに関連して伏魔殿という言葉が使われていた可能性がある。ちなみにこの「伏魔殿」発言をしたのは、安倍第一次政権改造内閣の厚生労働大臣である舛添要一さんのようだ。

記者:増田大臣に調査を依頼される際に市町村が伏魔殿だという表現をされていたと思うのですが、実際に刑事告発をされていないのが68件、処分がされたのが22件。この数字自体はどういうふうに受け止めましたか。

閣僚懇談会後記者会見概要(2007.9.21)

官僚は多分、旧民主党系の人たちに恨みを向けることで自分たちの無力感を直視しなくて済む。当然改革は進まず政府は内側から腐り続ける。そしてこの問題の一番厄介な点は受動攻撃を向けられた我々国民が「もう日本の政治にはよくなる見込みがないのだ」と考えてしまう点だろう。すでにそういう気分は蔓延しているのではないか。受動攻撃性を持った人には関わらないのが一番良いのだが、厚生労働省に関わらなくても良い人は多分それほど多くない。

しかし、この問題の一番のポイントは多分「自分たちの無力さに直面しないためには誰かを怒らせるためにサボタージュするのが一番だ」というような空気が全体に広がってしまうことだ。誰かが怒って声をあげているうちはまだ対処ができるのだが、いったん火が消えてしまうとそれは対処不可能になる。急性症状が消えて慢性化するようなものである。そうなったらもう取り返しがつかない。

虚ろな国にふさわしかった安倍・石破の討論会

NHKでやっていた二時間の党首討論討論会を見終わった。とりあえず議事録を入力しながら見ていたのだが「どうまとめようか」と困ってしまった。とても虚ろで内容が全く内容がなかったからである。嘘の政治家である安倍首相に内容がないのは当たり前なのだが石破茂にも内容はない。そして最悪なことにマスコミ側も虚ろなのである。どうまとめるのかなと楽しみにしてみていたのだが「激しい討論があった」というような見出しが踊っていた。党首討論は実質的な首相選びなので「国の未来をかけた激しい激論がなければならない」という思い込みがあるのかもしれない。誰も拝まなくなった神社をありがたがっているような虚さがある。

マスコミは読者が政策論争に興味を持たないことを知っているのだろう。そこで対立の構図を作りたい。そこで記者が質問する段階になって「対立が足りないから追加注文する」と注文をつけていた。つまりネタがないからよこせというのである。正直唖然とした。ところがマスコミ側のおじいさんたちには新しい視点を出す意欲はないし能力もない。マスコミの偉い人たちに老後の不安や子育ての不安があるはずもなく、国民の心配事を共有していないからである。結局、ありきたりのことを聞いて、それをありきたりに答えるという「誰の心も動かない」討論になってしまっている。

毎日新聞社は<自民総裁選>アベノミクスで激論 安倍氏と石破氏が討論会というタイトルをつけていたが、見ていた人の中に「ああ、第激論を見た」などと思う人は誰もいないはずである。彼らは多分何も考えたくないのだろう。

実際に1日経って話題になったのは石破派の大臣が「石破を応援するなら大臣やめろよ」と嫌がらせをされたという場外乱闘的な記事だった。国民も総裁選びが自分たちの暮らしに関係があるとは思っていないので、面白い見世物がみたいのである。

だが、総裁選が盛り上がらない理由は石破の側にある。石破は、経済を成長させるためには付加価値をつける必要があると言っている。だが具体的にそれが何なのかわからないので、地方の浮沈は中小企業や農業などが握っていると仮定した上で、安売り競争ではなく付加価値型の商売をしなければダメだとまとめていた。多分、大学レベルの論文だとFがつくのではないかというレベルの話だった。

もちろん安倍首相側の話もひどかった。いろいろなことをやっているが、具体策は日銀の黒田総裁に任せているから俺は知らないと宣言したのである。もう一つやろうとしているのは、老人を働かせて年金をカットした上でそれを少子化対策にや教育無償化に回したいという目論見である。これを働き方改革に乗せていた。働き方改革は、韓国や欧米ではワークライフバランスを取り戻すことで生産性をあげて非製造業型の雇用にふさわしい労働者を作ることを意味するのだが、安倍首相はそれもよくわかっていないのである。だが、それがわかっていないのは記者も石破も同じだった。もちろん記者たちはすでに過労死レベルの仕事をする必要はないし、石破もほどんどのキャリアは国会議員だから(1979年に銀行に入り1981年に父親がなくなり後継者になっている)ワークライフバランスの意味はわからないのだろう。

ここで「安倍は独裁を目指しているからこんな乱暴なことが言える」と書きたくなるのだが、この討論ごっこでわかったこともある。それは安倍首相の虚無がどこから来ているかということだ。

それは自衛隊の議論に現れている。二人とも自衛隊は軍隊だという認識を持っている。だが安倍首相は「どうせ誰もわかってくれない」と考えており、面倒なので国内向けには自衛隊と言うとはっきりと主張していた。あまりにもあけすけな上に記者を含めて誰も突っ込まないのでこちらが聞き間違っているのかと不安になったくらいだった。安倍首相が憲法改正したいのは党是であるという理由の他には、護憲運動でつけあがっている共産党にひとあわ吹かせたいというくらいの理由があるようだった。共産党はどうせなんでも反対するんだし、協力なんかしてくれるはずはないという見解を述べた上で、彼らが護憲を牙城としているという認識も持っているようだった。つまり、それが崩せれば「彼らにひとあわ吹かせることができる」と考えているのだろう。

こういう諦めの感情があるので石破茂に「あんたは自衛隊が軍隊だと国民を説得するのか」と詰め寄っていた。主権者なので国民は正しく現状認識する必要がある。いわゆるポリティカルコレクトネスなのかもしれないが、表向きはそれを守るのが大人の政治家というものだ。だが安倍首相はそこを軽々と越えてくる。どうせわからないから彼らが気にいるような主張をしておけというわけだ。これを日本語では嘘というが、政治家たちは「物事を円滑に進めるための方便だ」というだろう。

ところが石破はこれに対して「国民は正しい認識を持って主権者として判断すべき」とは言わなかった。「実質的には軍隊なのでそういう認識にするが、名前としての自衛隊が気に入っているならそれは変えなくてもよい」と答えていたのである。つまり、どうせ国民はよくわからず名前さえそのままなら文句は言わないんじゃないかと言う認識を持っていることになる。

つまりこの討論は、実質的には軍隊なのだが国民には口当たりの良いことを言っておくという人と、名前だけそのままにすれば細かい法律のことなど誰も気にしないだろうという対立軸になっていて、すれっからしの記者たちも「まあ、そうだよな」と聞いていたという恐ろしい討論会だった。だが、呆れたことにこれについて反発する人は(少なくともTwitterでは)見かけなかった。

安倍は明らかに「自分にはリーダーシップも問題解決能力も問題理解能力もない」ということを知っている。さらに、東方経済フォーラムでは長い交渉をすべてひっくり返されて「領土について妥協はしないよ」と宣言され面子を潰された。これが何を意味するのかについてもわかっていないのだろうが、面子を潰されたらしいということだけはわかっているようで、記者の質問に逆ギレしていた。早口になり時間制限を無視してあれこれ言い訳を並べ立てるという国会でおなじみの「あれ」を繰り広げたのである。見ていた人はみな「ああ、気にしてるんだな」と思ったに違いない。

しかし、これにに耐えられない安倍は自分の中で伝説を作り出してゆく。あの偉大な長門会談から始まった親密な信頼関係は続いており水面下の交渉ではうまくいっていると主張していた。ただ、それが何であるかはここでは言えないという。なぜならばそれは信頼関係に基づいた交渉であり表に出すことはできないからである。年末にまた会談をやるのでそこで成果が出るはずだとも主張した。小学生くらいの子がそのような主張をすることはあるのだが、60歳を越えている大人が問題を認識している人たちの前で堂々とこんな話を披瀝するのを見ていると正直かわいそうになってくる。

ネットには「安倍晋三 沈黙の仮面」という書籍の話題が広がっていた。養育係の久保ウメさんという人が晋三坊ちゃんが夏休みの宿題を全くやっていないのに「全部やった」と事実と異なる話をして新学期に登校していったという逸話を書いているらしい。多分ウメさんはこれを良き思い出と捉えている。自分の助けがないとダメな晋三坊ちゃんが可愛くて仕方がなかったのではないか。面白そうなので手に入れて読んでみたいと思った。周りがなんとかしてくれていたという少年が現実的な対処能力を持たないまま、利用価値があるという理由だけで首相にまで上り詰めてしまったというのはある意味悲劇である。小池百合子東京都知事は女性であり自民党の生え抜きでないという事情があったので自分の力でなんとかやってきたわけで、実際の問題解決能力がなくてもなんとかやって行けるだろう。だがすべておんぶに抱っこだったの人は他に行き場もないはずで、このまま表舞台で恥を書きながら生きてゆくしかない。さらに対抗する人たちにも大したアイディアはないので、後継者に道を譲ることもできない。ここに安倍さんの悲惨さがある。

利用価値がある晋三坊ちゃんの自己を満足させるために一生懸命頑張っている人がたくさんいる。鈴木宗男はこう書いている。

外交は積み重ねであり、その上で信頼関係を構築し解決していくしかない。
プーチン発言は平和条約締結を加速させる大きな呼び水だと私は受け止め、安倍総理が必ずや歴史を作ってくれる、いや、作ると確信している。

どういう思惑で書いているのかはわからないが、久保ウメさんやお母さんが夏休みの宿題を代わりにやってあげたようなものでありこれで現実を直視するチャンスを失ってしまったのだろう。だが根拠になっているのは鈴木宗男さんのあやふやな確信だけだ。

安倍さんの話を聞いていると、言葉の端々に「どうせわかってもらえない」とか「経済はうまく行くはずがない」とか「自分にはわかるはずがない」という諦めがあるようだ。「どうせどうせ」の人生なのだ。しかし周りの人たちも政治に大した問題意識は持っておらず「これをどう利用しようか」としか考えていない。安倍昭恵さんですら好き勝手に生きており首相は「どうせ言うことなんか聞きませんよ」と言っている。

「総理はこうも言っていました。『昭恵は本当に人の言うことを聞かないんだ。今回のことがあっても、相変わらず毎日出歩いてばかり。少しは懲りてくれるかと思ったんだけど……』。

だがその虚無は簡単に<激論が交わされた>といえば隠蔽できてしまう。日本の首相が誰になったからといって大きな変化があると思っている人はいないからである。これも嘘なのだがこの見出しに罪悪感を感じるマスコミもないのではないだろうか。それはスポーツ界のゴタゴタと違って大した人間模様もなくニュースバリューがないことをみんながわかっているからなのかもしれない。新聞もかつてのように国民のオピニオンリーダではなくなっている。ネットができて読み比べができるようになった上にほとんどの情報は無料で手に入ってしまうからだ。つまり、マスコミも「どうせもうマスコミの華やかな時代はやってこない」という虚無感を政治家と共有しているのだろう。

小池百合子さんはなぜ「サイコパス」とか「ナルシシスト」という形容詞が似合う政治家になったのか

しつこいですが、小池百合子さんがサイコパスでナルシシストと主張しているわけではありません。念のため。


先日来、小池百合子東京都知事について考察している。小池さんは数々のビジョンを掲げて日本国中を「あっ」と言わせてきた。これらの一連の画期的なアイディアのために女性初の総理大臣になれるのではないかと期待されている。その一方で、彼女が成功させたプロジェクトはほとんどなく彼女の通った後には混乱が残るばかりだ。本来ならビジョナリストになれるかもしれないのだが、実際には「たんなる嘘つき」なのではないかという批判がある。政治は人々の生業を左右することがあり、混乱は単なる笑い話では終わらない。

これまで概念的に「実行に興味がないのではないか」と思っていたのだが、毎日新聞に「豊洲の話をしたところ、そんなことはどうでもいいといって国政の夢を語り始めた」という話が載っていた。本当にビジョンを実行することについては何の興味もなさそうで、常に新しい夢ばかりを語りたがる。

どうしてこんなことになったののだろうか。人格異常の問題は実はアンビバレントに根ざしている。例えば「いい父親になりたい」のに「子供の排泄物が触れず、子供とは汚いものだ」と思ってしまった父親は生涯それを引きずることになるし「良い母親になりたい」と考える母親が夫に愛されておらず安定的な愛情生活を送れないために子供を愛せないということもありえる。つまり、理想と現実の感覚がずれることがここでいうアンビバレントなのだが、これを根本から処理しないと言い訳が肥大化して鎧のような状態を作り上げる。

小池さんをみていると、彼女の通常ではない行動の裏にはなんらかのアンビバレントさがあったように思えるのだが、それが何なのかはよくわからない。いずれにせよ、根本の問題が解決しないので次々と新しい問題を見つける必要があるのだろうということが言える。これは必ずしも悪いことではないのだが、彼女の場合新しいプロジェクトが人々の人生を狂わせかねないという問題がある。

小池さんは「自分以外の人は全てバカだ」と考えているように見えることだ。その背景には競争があるように思える。競争では、人々が協力して大きなプロジェクトを成し遂げる満足感は得られない。だが、競争中心の社会では「勝つこと」こそが目的なので、何も成し遂げられなくても構わない。と同時に、人に勝ち続けている人は人と協力して何かを成し遂げたり辛い状態を耐えたりするという経験を一切しない。だから、相手を巻き込んで努力するという技術は身につかない。

何も成し遂げられないのだから、実行プロセスに興味がなくても当然である。そこに脳の報酬系を満足させるような要素は何一つないからだ。

同じような政治家に安倍晋三さんがいる。安倍首相もさまざまな「力強いリーダーとしての私」をアピールした上で、さまざまな思いつきを披瀝してみせる。だが何一つ実現していない。自分は無力で何もできないということがトラウマになっており、そのトラウマを補償するために力強いリーダーを演じているのだろう。だが、安倍首相はこの英雄願望が嘘だということにうすうす感づいている。国会では不機嫌になり、英雄願望が満たされる外遊に勇んででかけるという繰り返しだそうだ。応援演説には必ず罵声が飛ぶので、最近では直前に場所を変えたり、抗議のプラカードを隠したりしているそうだ。

両者に共通しているのは「私はこんなに頑張っているのに、周りはバカばかりだから誰も私の力になってくれない」という苛立ちである。東京と日本のトップがそれぞれ根本に空洞のような闇を抱えているようである。

では、と考えてみた。例えば、ヒトラーが大衆の支持を得たのは、ヒトラーの抱えていた闇が当時のドイツ社会に共鳴したからであった。その闇というのはアイデンティティの揺らぎである。民族としてのまとまりのないドイツ語話者が国家を形成したために、人々の間には苛立ちがあった。これが被害者意識をまとってヒトラーに共鳴したのである。

だが、苛立ちを直接観測することはできない。それは我々の内部に張り付いていているからだ。では小池さんや安倍さんが与えてくれるものは何かということを考えてみたい。それは、優れたアイディア一つで即座に勝者になれるというインスタントの解決策だったり、これさえ追求していれば自分たちは変わらずにすむという安心感である。つまり、あるアイディアがあれば衰退という問題に対峙しなくてもよいという安心感がこの人たちを支えている。つまり、背景にあるのは不安感である。

目の前にある課題をそっちのけにして、次々に新しいアイディアが浮かんでくるという状態の人を見たらどう思うだろうか。多分、その人はパニック状態に陥って何もできなくなると診断するだろう。だが、政治状況や普段の生活を見ていると、とても自分たちがパニックに陥っているようには思われない。これがこの「病状」の重さを物語っている。

だがそれでも人々の心は協力して不安に対処するという方向に向かわず、選挙は殺し合いの代わりだなどといって競争を続けたがるのである。実際には我々は協力して不安と戦うべきなのだが、どうしても「目の前の相手を倒すべきだ」と考えてしまうのだろう。

小池百合子さんとナルシシズム

この文章は「小池百合子さんがナルシシストだ」という話ではありません。念のため……


小池さんが衆議院議員選挙に出るのではないかと話題になっている。個人的には出ないと思うのだが、評論家の大筋は「出る」としている。なぜ、でないと思うかというとでても小池さんにメリットはないからである。

ここで問題になるのは小池さんの行動原理が何に基づいているのかという点だ。ゆえにこれを読み間違えるとこの論は崩壊する。つまり、小池さんが大方の予想通り選挙にでた場合、小池さんの行動原理は評論家の予想通りだったことになる。

ここでは、小池さんは自分の卓越したアイディアを記者会見して、みんなが驚くのを見るのが好きだと仮定している。それだけが彼女の行動原理である。彼女はどうやったらアイディアを披瀝できるのかということを常に考えている。アイディアのストックを取材し、それを語るための場所を探している。いわば「プレゼンマニア」ではないかと思う。言い換えれば「ニュースキャスター」なのである。

ところが、政治評論家はそうは思わない。評論家には男性が多く「権力を掌握するのが政治家の活動の目的だ」と無意識に信じ込んでいるように思える。都政よりも国政のほうがえらいのだから、当然都政を投げ出して国政に戻るのではないかと予想するわけだ。

しかし、小池さんが仮に首相になれたとしても、記者会見して自分の素晴らしいアイディアを披瀝する場所がなければ意味がない。だが、首相の主な仕事は国会で野党議員の無駄な追求を受けることであり、記者会見をして感心される場面は少ない。首相がそれぞれの大臣に仕事を任せる立場にあり、自分が大勢のスタッフを使って夢を実現する立場にはない。

だが、東京都知事には内閣はないので、自分のアイディアを自分で実現することができる。これは都道府県知事がアメリカの大統領制を模しているからだ。

ではなぜ小池さんは記者たちが国政に出るかもしれないというのを明確に否定しないのか。それは記者たちの興味が小池さんがいかに国政に関与するかということであるというのを知っているからだろう。本当はアイディアを披瀝したいだけなのだが、それでは聴衆が集まらないので、期待感を煽って記者たちの耳目を引きつけようとしている。

だから小池さんは記者たちが自分たちでストーリーを作りそれを小池さんに押し付けてくるのが大嫌いだ。たいていの場合は陳腐な発想であり、驚きがない。つまらないシナリオに乗るのは三流役者であり、私にはもっと驚くべきアイディアがあると考えているのではないか。

こうしたズレはディスコミュニケーションを引き起こすのだが、記者や評論家たちはあまりにも鈍感である。日本人は思い込みに支配され相手の声を聞かないなと思う。例えば「どうやったら脱原発ができるのか」という質問の期待される答えは小泉さんを味方につけ政界再編につなげるためであるというものである。しかし、小池さんはこれに対して「現在の電力グリッドは効率が悪く、それを再編成すれば発電量が抑えられる」という回答をした。

だが、記者たちはそもそも電力供給などには興味がないし知識もない。明日の仕事のために「次に誰に取材をするべきか」ということで頭がいっぱいになっており、さらには読者の注目を引く見出しも考えなければならない。そこで「答えが噛み合っていない」と不平を述べるわけである。

いずれにせよ、小池さんが記者会見を開いて「相手をあっと言わせる」ためには、今の所東京のほうがふさわしい。例えば環境大臣であれば環境についてしかアイディアが披瀝できないが、東京都は小さな国のようなものなので、いろいろなことが総合的に試せる。そもそも野党党首というには首相にならない限り何もできないわけで、まったく面白みがない。

さて、この文章はタイトルをナルシシズムとした。もちろんビジョンを持つことは悪いことではないので、ビジョンを持っているだけでナルシシストであるとは言えない。ではナルシシストとビジョナリストは何が違うのか。

単にプレゼンをして「卓越したビジョンを持っている百合子さん」を演出したいのであれば、小池さんは単なるナルシシストということになるし、逆に人々を動機付けてプレゼンの内容を実現できればビジョナリストであるということになる。つまり、実行力の違いが両者を分けるのだが、加えて大きなプロジェクトは大勢の人が関わることになるので、動機付けが重要なのである。

だが、小池さんは人を驚かせるのは好きだが、他人を巻き込んで動機付けするという気持ちがまったくないようである。ビジョンも一人で考えているようだ。突然言い出したユリノミクスはYuri と Economicsの合成語なのだろうが、Urinomicとすると尿毒症という意味になる。多分、聞きかじりに他人のアイディアをコピペしただけで、英語がわかる人にチェックをしてもらわなかったのではないだろうか。アウフヘーベンにしても本来の意味を勘違いしているようだ。しかし、アイディアは放送のように流れてゆくだけなので、それほど気にならないのだろう。

そもそも実行段階には興味がなさそうで、他人に丸投げし、自分は別のビジョンを探している。だから小池さんの歩いた後には中途半端なビジョンと混乱したプロジェクトが作られることになる。豊洲・築地の問題はすでに多くの人を混乱させているが、小池さんがこれに関心を持っている様子はない。

ビジョナリストが嘘つきでも構わないのは、自分で集めた資金が源泉になっているからだ。しかしながら、政治家は税金を集めてきてプロジェクトを実行する。説明責任も果たさないで次々とビジョンだけを掲げ続けるとしたらそれは迷惑以外の何ものでもない。

だが、一方で小池さんのことを嘘つきだと指をさしてもあまり意味はない。なぜならば自分が持っている高邁なビジョンが実現しないのは、スタッフが無能だからであり自分のせいではないからだ。例えば、電力グリッドを整備して効率的な電力網が作れないのは地域ごとに電力会社がありお互いに協力しないからである。つまり、全ては人のせいであって自分の無能さのゆえではないと考えてしまうのだろう。

起業家であれば自分の夢が失敗して事業が成立しなかった場合「なぜダメだったのだろうか」と反省するのだが、政治家にはそうした破綻がない。だから、いつまでも夢を語り続けるということができるし、彼女の歩いた後には混乱が残るのである。

小池百合子東京都知事はサイコパスなのか

Twitterを見ていたら、小池百合子東京都知事はサイコパスであるというような話が流れてきた。人格障害の一種だと考えられているのだから名誉毀損に当たりかねない話である。出元を調べたところ脳科学者の中野信子さんがニュース情報番組の中で軽く触れたようである。2017年9月27日のワイド!スクランブルの中でそう発言したらしい。






にわかには信じられなかったのでYouTubeにアップされているもので確認したところ第一部の10時57分から58分になる頃に苦笑しながら中野さんが「女性に珍しいサイコパスですね」と語っていた。中野さんを紹介するスーパーにも「サイコパスに詳しい」というような意味合いのことが書いてあるので、専門家にはそのような見方をする人もいるのかもしれない。

ただし、サイコパスといってもその種類は様々だ。草思社文庫から出ている「平気でうそをつく人たち」はサイコパスを扱った本だが、すぐに破綻する嘘をつく人もいれば、長い間嘘が露見しない人もいる。それはサイコパスの知的能力にばらつきがあるからである。Wikipediaには犯罪心理学者のロバート・D・ヘアによる定義が紹介されている。

  • 良心が異常に欠如している
  • 他者に冷淡で共感しない
  • 慢性的に平然と嘘をつく
  • 行動に対する責任が全く取れない
  • 罪悪感が皆無
  • 自尊心が過大で自己中心的
  • 口が達者で表面は魅力的

同じように「安倍晋三さんはサイコパスだ」などというわけだが、安倍さんは身内をかばうところがあり、共感能力が全く欠如しているとは言えない。また安倍さんなりには「良心」がある。さらに嘘をついているという認識もあるので、何の説明もしないで記者会見すら行わずに国会を解散したりもした。罪悪感があるのだろう。

一方、小池さんは「誰が利用できるか」ということを基準に人を選んでいることから共感能力がない人だということはいえそうである。彼女の通ったあとには混乱が起こるが、記者会見でそれを聞かれても全く意に介している様子はないばかりか、自説を述べて笑顔を浮かべている。一方で、相手とその先にある関係性は読めているようなので、人間関係の認知には問題はなさそうだ。

サイコパスというラベルには人格的破綻というニュアンスがあるので「小池さんはサイコパスなのだ」という云い切りは避けたいと思う。ただし、サイコパスについて理解すると、小池さんの行動原理がよく理解できる。

小池さんは嘘をついているつもりはないのだろう。曖昧な情報に対して相手が勝手に期待しただけであって嘘ではないのだ。また、責任はしがらみにすぎない。そんなものにとらわれていては自由に行動できないのだ。

小池さんにとっては「今どんな行動を取るのが自分にとってもっとも得策なのか」ということだけが重要であり、そのあとで状況が混乱しても自分さえ関わらなければそれはどうでも良いことなのではないだろうか。

小池さんが通ったあとには混乱が残るが本人は比較的無傷である。これは将来起こるかもしれない混乱に対する責任を本人が全く感じていないからである。と同時に、いつも逃げ道が用意されている。だから小池さんは一つの党や役職に止まることができない。同じところにいると責任を取らされるリスクがあるからである。築地・豊洲の問題をみる限り、現在の東京都はかなり混乱しているはずだが、彼女は国政に逃げるつもりでいるだろうからそれほどの危機感を持っていないのだろう。

記者会見で小池さんに「総理になる準備があるか」と聞かれた時、小池さんは日本の首相は国会対応に縛られているという意味のことを言っていた。普通の人は権力があるのだから責任もあると考えるのだろうが、それは不当だと思っているのだろう。だから「国会が変わらない限り首相にはならないだろう」という。

日本は議会が首相を互選する議院内閣制をとっているので、どうしても首相には「しがらみ」が生まれる。小池さんは「自分の思い通りにコマとしての人間を動かす」ことだけが楽しいので、責任を取るポジションには立ちたくないのだろう。都知事として楽しいのはパワポで夢を語っている時であり、それになんら実現性がなくてもそれは構わない。だが実現は好きではない。なぜか人が怒り出すからである。もしかしたら小池さんはなぜ人が怒り出すのかを理解できないのかもしれない。

だからしがらみのない政党というのは、自分が好き放題にできる全く新しい政党というような意味なのである。今のように持参金を持って彼女を称えてくれる前原さんの存在はとてもありがたいはずだが、かといって前原さんとの間に交わした約束を守るつもりなどないだろう。

小池さんは「政権を取る」といって議員の期待を集めたのだから、衆議院選挙に出ないのは論理的におかしいと言っている人がいる。確かに、議員には「政権が取れるかもしれないから」とほのめかしたかもしれないが、それは議員が勝手に期待したことであって彼女には責任はないと理解すべきだ。だからそれは彼女の嘘ではない。むしろ政権を彼女にプレゼントしてくれない無力な議員が悪いのだ。

細野さんは過半数の立候補者は集められないと言っているので、実際には政権など取れないことを彼女は知っている。これがいけないという評論家もいるのだが、多分、小池さんにはこの理屈が火星語のように聞こえているはずである。今周りが動くことが重要なのであって、実際にそれが起こるかどうかは重要ではないのである。

彼女がその時にそこで言ったことはその場では真実なのだが、あとになって状況が変われば「結果的に嘘になってしまう」可能性がある。それはビジョンであって約束ではない。ビジョンなのだから実現できない可能性はある。例えば公明党候補のいるところには都民ファーストの対抗馬を立てないというには「そうなるといいですね」という夢であり、後で結果的に都民ファーストが候補者を立ててもそれは嘘ではない。だから罪悪感を感じないのだろう。

この観点で小池さんのインタビューをみると、どの言葉にも一切コミットがないということがわかる。衆議院選挙に出ないのかと聞かれて明言を避けていた。これは彼女が「責任というしがらみ」を嫌うからだ。同じように、2030年までに脱原発する工程表を作るといってもそれは嘘にはならない。それが遅れることがわかるのは2030年だし、その時にはその時の話を考えれば良い。彼女にとって重要なのは期待してくれている人に夢を語ることである。

築地を一旦更地にして元に戻れるようにすると言っているが、そうならなくても彼女は責任をとらないだろう。それはそのような約束を信じた人が悪いのであって彼女の責任ではないし、そうしなかったのは諮問機関の委員と案を作るコンサルタントたちである。

安倍さんと小池さんのどちらが悪質なのだろうか。安倍さんの嘘は正常者の嘘であり、嘘をつくとそれを隠そうとする。それなりの罪悪感があるからだ。だからこそ人々はその嘘を感知することができる。だが、一方で小池さんの頭の中にある「本当と嘘」のラインは別のところに引かれているので、彼女は多分「嘘をついたことがない」と感じているはずだ。だから、過去のことを聞かれても全く罪悪感を感じない。だから聞いている方も「彼女は嘘をついている」とは思わないのかもしれない。

日本人はなんらかの理由で一体になれないのだが、現在の小選挙区制度のもとではすべての人の約束をかなえてやらなければ、国政でも都政でも政権を取ることができない。すると、結果的にはすべての人に口当たりの良いことを言って、誰の言うこともかなえないのが一番のよいアプローチということになる。小池さんはそれに成功した。しかし、その瞬間から混乱が始まる。

それだけではなく、有権者は「選挙時の約束」には敏感だが「実際に何が起こっているか」ということにはほとんど関心がない。そのような状況は「夢を語りたがる人」にとってはとても魅力的な狩場なのではないだろうか。

多分、小池さんにとっての地獄とは最高の地位に上り詰めて人を振り回した結果すべての人を怒らせ、なおかつ逃げ場がないという状態だろう。日本ではそのポジションは首相に当たる。彼女が首相にならざるをえなくなった時、彼女にとっての地獄が始まるのだろう。

稲田朋美さんと信仰心

自民党が稲田元防衛大臣を証人として国会に招致しないことを非難する人たちがいる。真相がわからないというのだ。しかし、稲田さんが出てくると却って真相は分からなくなると思う。多分、稲田さんを追及したい人は病的な状態にある人と対峙したことがないのではないか、と思った。

稲田さんが他人を騙そうとして隠蔽しているとも思わない。これが「稲田さんを国会に招致しろ」と言っている人との違いではないかと思う。では罪がないのかという話になるのだが、そうでもない。多分、稲田さんが騙しているのは他人ではなく稲田さん自身だと思う。だが、おいおい書いて行くが、彼女から見ると間違っているのは「我々」の方である。

まず、根底には社会的報酬と依存の問題がある。稲田さんの行動歴を見ると権威者に認めてもらうために行動するという一貫した原理があると思う。だが、これだけでは問題はそれほど複雑化しない。ここで別の要素が出てくる。

稲田さんは生長の家の信者だという話がある。物事には実相と現象があるという教えなのだそうだ。実相とは神のことであって、それ以外すべては単なる「現象」にすぎない。この「現象」が何なのかはわからないのだが、仏教の考えを引いているのではないかと考えられる。仏教にも「空」という概念がある。

仏教との違いは唯一神という概念の導入だろう。仏教は絶対神を認めないので、こだわりをなくすことによる救済を目指す。だが、ここに絶対神という考え方を認めてしまうと「私だけが知っている神様」へのこだわりが生まれる。その上で「私だけが知っている絶対真実」というのは優越的な感情を生み出すのではないかと考えられる。この違いは無宗教を自認する日本人にはなかなか理解しがたいところなのかもしれない。

このように考えると今回の件はかなりうまく説明できる。すべて目の前で行われていることは「幻の類」であって、私だけが真実を知っていると考えると、たいていの問題はないことにできる。

つまり、南スーダンにいる陸上自衛隊の人たちが見ている敵兵や飛んでくる銃弾は「現象」であって、とるにたらないことだ。彼らが恐怖に駆られるのは、現象を実際に起こったことだと誤認しているからなのである。仏教的に言えば「色即是空空即是色」である。さらに、こうした危険な状態から退役した人が自殺したとしても、それは幻に苦しめられているだけであり、単なる思い過ごしで死んだにすぎない。

その意味では防衛大臣は簡単なお仕事である。確かに目の前に混乱はあるが、すべては実質的には何の意味もないことである。みんな大騒ぎしているが、そんなことはどうでも良いことで「私だけがすべてを知っている」のである。

生長の家は実際には真面目な宗教なのかもしれない。仏教は個人の超克を目指す宗教なので、物事に動じず平和な気持ちを獲得できるのだろう。世界をどう捉えるかということは精神的な個人の問題であって尊重されるべきだし、それが特に社会に悪影響を与えるとは考えられない。

これに加えて、防衛政策自体が物語化している。例えば、「国準」という言葉があるのだが、過去の答弁を当たると国際的な定義がないらしい。なぜこんな言葉が必要なるかはよくわからないが、政府軍ではないにもかかわらず軍事作戦の対象にするため必要な概念だったのではないかと考えられる。例えば武装した革マル派を攻撃するのに横田基地からの米軍が出動すれば、それは形式上はアメリカから独立している日本の国家主権の侵害になる。民間人への攻撃であり、平和に対する罪にも当たる。そこに介入するために「国準」という言葉が必要だったのではないだろうか。

さらに当時の南スーダンは「何がどうなっているのかもうよく分からない」という状態だった。目の前で人が殺されている(実際に中国軍の人たちが亡くなっている)のだから、永田町の概念でいう戦闘なのかということはどうでもよいことなのだし分かりようがない。格式ばったレポートも書いていられなかったのだろう。40,000人が見ることができる掲示板に情報が書き込まれて、日々の仕事に必要な人たちによってコピペされていたという話も伝わってきている。

つまり、頭の中で「これは物語なのだ」ということを理解しつつ、現実と物語をなんとか整合させられる人しか防衛大臣をやってはいけない。少なくとも現場で何が起きているのかという想像力がなければならない。

つまり、稲田さんは少なくとも「安倍首相から与えられた物語」や「防衛省が今まで積み重ねてきた自衛隊を海外に出す理由」に加えて「南スーダンの泥沼の状況」という三つの異なった<現実>に対峙しなければならなかった。ここにあるのは現実否認である。現実からの超克は個人にとっては重要な課題だが、ここに依存心や社会的報酬への欲求が入ると、他人を巻き込んだ悲劇を生み出すことになるのだ。

記録によると「国会で説明したのと違っている」と官僚を怒鳴ったり、目の前で報告が行われているのにフリーズしたまま反応しなかったという記述が見られる。このままでは安倍首相に対していい子でいられないとか、100点の答案が提出できないと思った可能性は高いが、そもそも目の前にあることはすべて夢や幻なのだと思っていた可能性がある。

しかし「安倍さんから怒られるかもしれない」とか「有能な大臣だと思ってもらえなくなる」というのも彼女の中にある認識であって現実ではない。依存心と「空の概念」が混じるとこのような悲劇的なことが起きてしまう。

だが、こうした人を非難しても無駄である。現実を否認するということはすでに彼女の日常になっているだろう。退任時の笑顔を見ていると「私は防衛大臣として立派に成し遂げた」というのが、彼女にとっての唯一の現実のように思える。

つまり、稲田さんを国会に招致するというのは、新興宗教にはまっている人を引っ張り出してきて「あなたが信じている神様は偽者ですよね」と言うようなものだ。涙を流して「私が間違っていた」などということは絶対に起こらないだろう。逆に私の神様がいかにすばらしいかということを叫びつつ、経典を壊れたテープレコーダーのように繰り返すだけではないだろうか。彼女が言っていることは彼女の頭の中では唯一の現実なのだが、その素晴らしい現実を他人は知らない。だから、教えてやろうと考えるはずだ。

稲田さんがこれに対して罪悪感を感じているのかということはよくわからない。憲法改正という新しい宗教を見つけてしまったようなので、世間から忘れ去れてもそれはそれで幸せなのかもしれない。さらに稲田さんが間違っていたとも言い切れない。彼女の中ではそれが現実であり正しいことなのだ。

こういう人についてできるのは、問題から引き剥がして近づかず無視することだけである。つまり、話をさせる機会を与えてはいけないのではないだろうか。

今回わかった面白いことは、こうした人がいると周りの人までが撹乱されてしまうということである。任命した側も退任させて初めて「稲田さんは防衛大臣には向いていなかった」ということが認められるのだろうし、追求する側も「実際の問題は何だったのか」ということがわかるはずだ。

合理的な説得というのは、相手に合理的な回路があって初めて成立する。合理的な回路を捨ててしまった人もいるのだが、表からはそのことはわからない。周りの人たちがいったん立ち止まって「本当に解決するべき問題は何なのか」ということを考えなければならないのである。

豊田真由子議員と見捨てられ不安

まとめ

  • 自分と他人の区別がついていない。
  • 他人との関係が崩れると自分の世界が崩壊してしまう。
  • コントロールへの異常な執着が見られる。

こういう人とは関わらない方がいいし、関わるなら最低限にした方がお互いのためだ。


対人関係に問題を抱えていた豊田議員

豊田議員の病的な絶叫を聞きながら、何が彼女をここまで変貌させてしまったのかを考えてみた。これまでの報道から、トヨタ議員がかなり早い段階から対人関係に問題を抱えていたようだ。対人関係の構築に問題があった人が政治という正解のない世界に身を置いてしまったことで病的な側面が拡大したのではないかと考えられる。有権者に見捨てられたら終わりだという強迫的な思い込みがあったようだが、もともとはお勉強をしないと親や先生に見捨てられるという不安の続きだったのではないだろうか。

こうした見捨てられ不安を持っている人は、同じ相手に異常に接近したり、逆に攻撃したりすることが多い。しかし、有権者には悪い顔はできないので、有権者への攻撃を秘書に転嫁したのだろう。これが人格障害なのかは議論のあるところだが、秘書が100名以上変わっているということはまともな社会的生活を営めなくなっているということなので、なんらかの治療が必要な状態だったと言えるだろう。

だが、考えてみると、こうした人は珍しくない。

対人関係に問題を抱えている人の共通点

例えば、自分自身をペットに投影する人もいる。飼っているペットを家族が大切にしないと言って突然怒り出すのだ。が、実はペットは単なる投射物になっていて、本来は家族が自分を大切にしてくれないと怒っているだけなのだろう。裏を読むと「自分を大切にしてほしい」という感情を表に出すことを禁止しているということになる。

また、相手を直接支配できないので部屋の掃除にこだわる人もいる。部屋の掃除は自分が思い通りにできる領域なので、相手をも支配できると思ってしまうのだが、相手を直接的に縛り付けることはさすがにできないと感じているのだろう。

本人の頭の中には地図ができているのだが、それが他人から見ると理解不能だというのが、この人たちの第一の特徴である。

と、同時にコントロール性についての問題もあることがわかる。豊田議員は秘書を支配できる存在だと思い込んでおり、それが期待通りに動かないと脚で蹴っていた。ペットは言葉を発しないので自分が思いのままに動かせると考えるのだろう。さらに、掃除にこだわる人は、掃除を通じて部屋や空間を支配できると考えているのだ。

こういう人たちは突然怒り出すという共通点がある。本人の頭の中では完全につじつまが合っているのだが、それは本人が作った地図に基づいているだけなので、他人からは理解不能である。

支配欲にかられるのはどうしてか

こうした人たちには支配欲求があることがわかった。が、それを含めた内的世界を他人に説明ができていない。が、果たして他人に説明できていないだけなのかという問題がある。

例えば、お掃除と夫のコントロールが大好きだった松居一代さんは自分の行動の動機をうまく説明ができなかった。つじつまが合わないので、これを見た人は精神疾患にかかってしまったのではないかと思ったようだ。

人間の頭には新しい脳と古い脳があると理解してみよう。古い脳はなんらかの行動原理で動いているのだが、これを新しい脳のルールが「不当に」押さえつけている。これに反抗する動きが「怒り」なのだろう。が、新しい脳は何に怒っているのかが理解できない。そこでつじつまが合わない地図がその場しのぎに作られているものと仮説ができる。

つまり、過剰に他人をコントロールしたがる人は、実は自分自身がよくわかっていないということになる。さらに自分と他人の間に線が引けていないので、他人が予測不能な動きをすると、世界が崩壊するように感じるのではないかと予想できる。それは、自分の手足が突然動き出して、何をしているのかがわからなくなるような感覚なのではないだろうか。

暴力的な支配欲を持っている人とつきあうにはどうしたらいいのか

こういう人は、自分の手足だと認識すると相手との距離が取れなくなる。だからできるだけ関わらない方がよい。が、どうしても関わる場合には相手との距離をきちんと線引きし、決して感情的な交わりを持つべきではないだろう。逆に線引きをすることで問題を単純化させてやったほうが親切というものだ。

冷淡に聞こえるかもしれないが、日本には「議員先生のために尽くせばいつかはわかってくれる」という独特の甘え文化があり、これがかえって依存的な関係を増長させてしまった。100人秘書が変わっても、それは改善されず、状況がさらに悪化した。豊田議員は苛立ちを募らせ、却ってあまり有能ではない秘書が次から次へと入れ替わるという悪夢のような状況が生まれてしまったのである。

誰かが「殴られたら運転はしません」と言っていれば状況は変わっていたかもしれない。有権者に失礼があったら自分は見捨てられると感じているわけだから、秘書に見捨てられたらやってゆけないということも学べただろうからだ。

つまり議員は二重人格なのではなく、有権者というコントロールが効かない人に対して感じた怒りを、従属物である秘書にぶつけることで秘書に依存しているだけなのであって、秘書はその投影物に過ぎないからだ。これを合理的なルートで問題するのは難しいのではないだろうか。

これは障害なのかスキルなのか

さて、ここまで豊田議員の問題を人格障害のように扱ってきた。が、これが生得的なものなのか、後天的なものなのかはよくわからず、したがって再考の余地がある。

例えば、対人関係はスキルだという考え方ができる。対人関係のスキルの測り方には様々なフレームワークがあるだろう。例えば、EQでは、自分の考えを伝える能力、自分のネガティブな感情をきちんと伝える能力(アサーション)、対人関係の問題解決力をスキルとして捉えており、後天的に獲得できると考えているようだ。

特にアサーティブさは、自分の不安を言語化して、消化するという意味では重要な能力だと考えられる。日本人は謙譲の美徳を持っており、これがかえってネガティブな感情の発露を妨げていると言えるだろう。だが、問題は言語化してみて初めて補足が可能になり、対応ができるようになる。

世の中が複雑化してくると、固定的な人間関係の中で親密なつながりを維持するのが難しくなってくる。アメリカで早くからこうした対人関係スキルの構築に関心が集まっているのは、日本よりも早く社会構造が複雑化したからだろう。日本のビジネスマンにとっても、対人関係スキルを磨くことは、より一層重要になるのかもしれない。

松居一代と精神疾患についての報道のあり方

マツイ棒で有名な松居一代さんのブログが一部で話題になっている。ストーカーに追われているので逃げていたというのだ。これが精神疾患のせん妄症状にきれいに合致してしまったがために、具体的な病名をあげて松居さんは気が変になったのではないかという声が相次いだ。

実際にブログを読んでみた、確かに、明らかにおかしいと思う。死のうとしたのだが、追われていることに気がついたので死ぬことができないというのはそもそもつじつまが合っていないし、心の中から声が聞こえたなどと言っているのもどこか異常さを感じさせる。

が、それよりも壮絶に思えたのは過去の書き込みである。コメントにすべて応えなければならないと強迫的に思い込んでいるようで、徹夜して書き終えたという。明らかにブログに依存しており社会生活に困難が出始めている。しかも、その書き込みがすべて消えてしまったという。運営会社のアメブロのせいだと考えて、アメブロに抗議もしているようだ。

だが、こうした状態になったのはつい最近のようである。読み進めて行くと、花の写真、ラジオ体操、銭湯の写真など、普通の記事が多い。が、異常なところから読み始めているので「あれ、これはおかしいな」と思うところもいくつかある。

例えば死産した娘について言及している箇所がある。また、夫から車をせしめたという報道に対して「私が自分で車を買った」と主張している。経済的にはかなり混乱している様子がうかがえる。安いものに反応したかと思えば、車などには贅沢をしており、生活には困っていないと言っているのだ。

最近のニュースを調べてみると、夫が二時間ドラマを降板したとブログでほのめかしたことが話題になっていたようだ。もう一つは夫がNHKでの大きな仕事を受けるにあたり「スキャンダルはなしにして欲しい」と要請され、離婚を諦めたという話である。別居しているが籍は抜かないことにしたというのだ。夫との間に緊張があったことが伺える。

これを念頭におくとちょっと違った面も見えてくる。アメリカのトランプタワーを買ったという報道をこれを否定している文章がある。その時に「別荘を一生懸命に掃除していたが、そこで夫が浮気をしていたことがわかった」ので怒りでいっぱいになり、その後は別荘の購入を考えなくなったということである。

松居さんは夫に対する厳しい監視で知られていた。その裏には過去のトラウマと強い分離不安があったのだなということがわかる。一度裏切られているから強い不安を抱き、新しい夫も監視するのだが、それに息苦しさを感じた夫が却って離れてしまうといういたたまれない構図である。

そう考えると「サスペンス」と繰り返すところに執着心を感じる。つまり、単なる妄想とは違っているのではないかという見立てができる。妄想であれば、他人の同情を引くための演技ができるとは思えないのだが、文章をよく読むと注意深く書かれた箇所がある。まず「旅立つ」と仄めかし、途中で「死んでいる場合ではなくなった」といい、ハッシュタグで「死の準備」と書いてある。つまり、自殺を仄めかして誰かを心配させたいというような動機が見て取れるわけである。

が、一方で夫に対する恨みごとはブログには一切書かれておらず「娘さえ生きて産んでいれば気持ちがつなぎとめられていたのではないか」ということがほのめかされている程度である。書かれていないことには強い執着があるのではないだろうか。

つまり、巷で仄めかされているような病気ではなく、別の症状である可能性もあるわけだ。

が、ここで問題になるのは世間の偏見と実はあまり発達しているとは言えない精神医療だ。そもそも精神疾患には世間の偏見があり「そうなのではないか」と書いた瞬間に人格攻撃になりかねない。伝える側は、面倒だしよくわからないのでとりあえずそのことには触れないで記事を書くことになる。幾つかのネットメディアが松居さんのブログについて書いているのだが「追われていると書いてある」という表記になっており、何がなんだかわからない。が、このことが却って世間の偏見を印象付ける。

さらにお医者さんにかかったとしても、頭の中のことなので詳しいことはよくわかっておらず、とりあえず薬で状況を緩和してそれで終わりになってしまうことが多いのではないだろうか。つまり、誤診断であっても「症状がでないからそれでいいや」となりかねない。さらに症状がおさまらないと薬の量が増えるだろう。最終的には社会生活も送れないが、とりあえず症状はなくなったということになりかねない。

つまり、適切な診療が行われないから、精神疾患=社会生活不適合ということになり、それが世間の偏見を生じさせるという悪循環が生まれている。よくわからないから、報道はそれに触れなくなり、却って正しい知識も広まらないということになってしまうのである。

なんとなく「すべてをコントロールしたいがままならず、それによって家族が離れて行く」という状態が不安を生じさせているように思えるのだが、根本的なところが変わらないと不安はなくならないのではないかと思う。

掃除にこだわるのも過剰なコントロール欲求の表れだが、それを「良い奥さんだ」と持ち上げてしまっているので、症状を悪くすることになっているのかもしれない。つまり、不安からくる現象を頑張ってやってしまうのだが、それが根源的な不安を解消することにはならず、却って症状が悪化してから表面化しているのではないかと思うのだ。

松居さんの事例は、こうした不安を抱えた人間が「我慢して頑張った」末に人格の崩壊を起こしても、他者が何もしてあげることができないということを示しているのではないだろうか。気軽にカウンセリングして不安を打ち明けられるような仕組みが、実はこの国には欠けているのだと思う。