ざっくり解説 時々深掘り

日本人には表現の自由は扱えず、自主憲法を制定することもできないだろう

スーパーの前でソルティーライチを飲んでいたところ女子中学生(もしくは小学校高学年くらいか)二人組みに睨まれた。自転車を停める場所がないのが気に入らなかったらしい。慌てて横に避けた。学生二人は無表情だった。

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アメリカだとこの場合「Excuse me」から始まり自分の要求を丁寧に伝えることになるだろうと思った。家庭から始まる社会化の第一歩である。だが、日本人は自分の願望を伝える訓練をしない。親が同伴している場合だと何か要求する子供を「迷惑だから」と叱りつけることもあれば「あなたがいなくなれば私が罪悪感を覚える必要はないのに」と睨まれることもある。要求を言語化できない日本人は比較的早いうちから不機嫌そうな空気を醸し出して集団で圧力をかけるやり方を覚え、それを終生使い続ける。

なぜこうなるのかを考えた。まず、学校で自分の願望を伝える術を学ばないからだという理由を思いついた。先生は決まったルールとカリキュラムに従うことを要求し、学生には従うかサボるかという選択肢しかない。このため、要求を社会化する方法を学ばない。これはもともと家庭教育や文化一般の傾向であって、学校だけが悪いというわけではないのかもしれない。いずれにせよ、日本人は抵抗しないが自分に関係がないコミュニティには協力しないという方法を覚えて行く。

しかし、それだけではないような気がする。自分の要求を伝えるということは他人の要求を聞くことでもある。ところが空気を作ると自分は変わらなくても済む上に多数派になれば支配欲求を満たすこともできる。日本人は折り合いをつけたり他者から変化を要求されることにとても強い抵抗感を持つ。自分の領域には踏み込んで欲しくないのだろう。

このため、日本には何をしてもいい多数派、協力しない見えない人たち、常に妥協を強いられる少数派が生まれることになる。そう考えると「選挙に行かない人たちが半数を占める」という状況の源流がよくわかる。日本には二大政党制はできない。多数派、不満な少数派、無関心という三つの層にわかれるのだから、均衡が取れた異なる二つの考え方など最初から生まれるはずはないのだ。

日本人の話し合いは「どちらが多数派か」という議論になり、多数派が無条件に少数派を圧迫してもなんら問題がないと考えるのだ。だから、日本の民主主義は多数決にやたらにこだわる。多数決で白黒決めたがる人とそれに抵抗する人が出てくるのだ。少数派も少数派として自分たちの意見を通そうとは思わないようだ。彼らもまた「自分たちは実は多数派なのだ」と思い込むようになる。

西洋の民主主義では議会で多数をとったからといって強引に物事を進めていいということにはならない。意見の重み付けをしているだけであり決して多数派が少数派を無視していいということにはならないはずだからだ。

このことを踏まえるといろいろな分析に便利に使える。

「表現の不自由展・その後」でも個人の自由が徹底的に無視されていることを観察した。多数派の人たちが思い込みをもとに表現の自由に圧力をかけ、挙げ句の果てに脅迫電話をかけてくる。一旦少数派と見なされた相手には「何をしてもいいのだ」と考えている人が多いことがわかる。

表現の自由を扱っていた側も個人の信条の吐露をそれほど重要視していなかったようだ。国の補助が入ったいわば正当で多数派のイベントの穴をかいくぐってこんなやばいことができるという自慢である。彼らにとってそれが社会に勝つということなのかもしれない。内心のない日本人にとって表現の自由とは自分たちが社会を支配しているという満足感を得るための道具であり、その穴をかいくぐって一泡吹かせてやったという達成感だったのである。

このような土着的民主主義を背景にすると憲法改正についての議論がなぜ進まないのかも見えてくる。憲法を錦の御旗としている人たちは憲法に触れさせないことで「自分たちが民主主義の正当な後継者なのだ」と信じ込むことができるし、憲法を変えたい側も「自分たちは憲法を変えられる力があるから何をしてもいいのだ」と思い込むだろう。私は改憲・護憲という数合わせばかりが話題になり「本質的な憲法論が語られない」ことに腹を立ててきたのだが、実は数合わせこそが日本人にとっての本質であり、実は憲法も平和主義もそれほど重要ではないのかもしれない。

今回の分析は自分の欲求を伝えられないということを起点にした考察であり、それを憲法問題について広げるのは如何なものかと思われるかもしれない。だが、自分の要求を伝えられないことは相手の要求も聞くつもりがないということにつながり、合意形成ではなく空気でしか統治できないということになる。ゆえに、他人の要望を聞き自分の要望を話す技術を身につけない限り、日本で民間主導の憲法論議が始まることは「絶対に」ありえないだろう。無理に憲法を変えてもいいがそれは「少数派を抵抗勢力に追い込む」ことを意味する。憲法はみんなのものではなくなり「憲法回復」が政治問題化するだろう。そして一番大きな問題は多数派と少数派の間で見えない無関心層が離反することだ。

ところがこんな日本人にも唯一許された自由な場がある。日本人は社会化されない領域では表現を磨くことができる。個室には自由がありその中では相手と折り合う必要がないからである。そのためコミケのような場所ではそもそも政治的な課題は扱われない。政治問題とはつまり社会問題だからである。全てが個人の幻想の中にあり、その中でなら何をしても自由だ。これが我々日本人が達成し、今後も持ちうる最大限の自由である。

形骸化したシステムは「誰にとっても優しくない」状態になろうとしているが、意見調整できない日本人が自らの力でリフォームすることはないだろう。だが、個人の中には豊かな創造性の世界が広がっている。経済活動や社会活動はほどほどにして個人の世界に耽溺するのがもっとも創造性が高い生き方だということになる。

これが、今回の考察によって導き出された日本の未来像である。

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