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なぜ韓国の映画「パラサイト」がアカデミーで作品賞を取れたのか

韓国映画パラサイトがアカデミー賞の作品賞など四冠を達成した。アジア映画がアカデミー賞の主役に躍り出たことはとても喜ばしい。なぜ、パラサイトがアカデミー賞を取れたのかを考えたい。そして我々は、なぜあの作品賞が日本の映画ではなかったかということを改めて考えなければならない。

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パラサイトがアカデミー賞を取れたのはアカデミーが多様化対応を迫られていたからだろう。2016年にはこんな記事があった。ボイコット表明相次ぐ【アカデミー賞】、50セントが黒人司会者に辞退求めるというビルボードの記事である。この時の「OscarsSoWhite」というタグは未だに使われ続けている。つまり黒人コミュニティは依然自分たちは差別されているかもしれないと警戒を続けているのである。当時、スパイク・リー監督は出席をボイコットしたそうだが、その余波はまだ続いている。

これに迎合して黒人作品に賞を割り当てるのは簡単だがアカデミーは別の道を選んだ。ハリウッドと全く関係がない東洋系の作品に賞を与えて「国際化」してしまえば白人偏重の批判も幾分和らげることができる。さらに、東洋の関心を集めてマーケットとして開拓することもできるだろう。この辺りがアメリカ人の上手なところである。2016年には白人だけが俳優部門でノミネートされていたことを考えると4年で外国作品が最高賞を受賞するというのはかなり大きな変化だ。そして、こうした変化をさらっと実行できるのが世界を惹きつけるアメリカの強みである。

もう一つ今回の賞を取れた理由がある。それは韓国の政権交代だ。ポン・ジュノ監督は朴槿恵政権時代に文化芸術界のブラックリストに入っていた経験があり「その時代がトラウマになっている」と語っている。国家的な支援が受けられなかったそうである。現在の政権はこれを朴槿恵政権を叩く材料に使っているという中央日報の記事も見つけた。中央日報は保守寄りの新聞なので革新系の文在寅政権には批判的なのだろう。

だが中央日報が攻撃しているのは文在寅政権であり、現在のポン・ジュノ監督を批判的には扱っていない。過去に民主化運動で逮捕歴があるとのことだが、国際的な評価があり「叩くよりも称賛したほうがいい」と現実的に考えているのかもしれない。この作品は韓国の下層階級の現実を世界に宣伝しているのだから「恥」と捉えてもよさそうなものだが韓国社会は「自分たちの国が認められた」ことのほうが嬉しいのだ。受賞そのものを扱った記事も称賛一色である。

この「手のひら返し」を見ると日本人が是枝監督に対しての批判がなんだかちっぽけなものに見える。日本社会はブラックリストは作らないものの、ちょっとした問題が起こると「気に入らない」とばかりに炎上させてしまう。芸術が萎縮しても当然である。そして、その裏には国体や過去の栄光にすがりたい人たちがたくさんいる。精神的に極めて貧しい社会なのである。

彼らはいつも無料で叩ける何かを探している。そしてその時に必ず「国が補助金を出しているのだからこれは私たちの問題だ」という。持ち出しを恐れて社会に関心を向けることのない彼らは問題が起きた時だけ社会を持ち出して他人を叩く。「表現の不自由展・その後」の見苦しい一連の騒動が記憶に新しいが、是枝監督がパルムドールを取った時にも大々的なバッシングがあった。

例えばこの記事は「補助金をもらっておきながら国の祝意を受けないとは何事?」という論調の批判を書いていて是枝監督を「小賢しい」とまで言っている。これに心を傷める人たちも大勢いる。

これに対して「助成金をもらっていながら国に逆らうとはあきれた発言だ」という意見がツイッターなどで出ている。さらに「フランス政府主催のカンヌ国際映画祭にいつも出品するくせに」とか「万引きを広める映画は国辱」という見当違いの批判までいろいろ出ている。

助成金をもらった是枝裕和監督への批判は的外れ

普段は社会への貢献など考えもしないような人たちが「助成金をもらったのだから自分たちはなんでも言っていい」と主張する。これが日本社会の貧しさである。ちょっとばかりのお金と引き換えに無料の晒し者としてエンタティンメントにしてもいいと考える人が多いのである。普段はそれを維持しようとしないからこそゴミを捨てても平気なのである。彼らにとって公共とは感情不法投棄現場以上の何者でもない。

パラサイトも韓国の格差社会を描いておりその意味では「恥ずかしい側面を晒している」といえる。だが、それよりも世界に認められたということのほうが嬉しいようだ。一方日本人は国としての自尊心や社会への関心を失っていて自分の国の人が国際的に評価されたことよりも恥ずかしい一面をさらされたことの方に怒りを覚える。衰退してゆく国は過去の栄光以上に大切なものを持たない。

日本人は自分の国に強い自尊心を持っている。これはいいことなのだが自分たちの考える自尊心だけを認めて欲しいと思っているのだろう。だから「万引き家族」や政治的な意見を持っている是枝監督(「日本もドイツのように謝らなければならない」と言っている)が認められない。そもそもアメリカ・アカデミーはそのような多様性のなさを嫌うのだから、日本の映画がなかなか受け入れられないということになる。二年連続でアカデミー・メーキャップ賞を取ったカズ・ヒロさんは「日本の文化が嫌になった」と公言している。狭量な精神文化を背景にした日本自尊作品がアメリカで受け入れられることはないだろう。

この対比を見ると一度認めていた「表現の不自由展・その後」に補助金が入っているという理由で世間からの批判にさらされたことの本当の意味がわかる。日本の閉鎖性を海外に発信し、外国人作家を中心にボイコットも起きている。実行委員会に抗議する動きがあったそうである。日本人は精神的に貧しくなり表現者をいびり出している。いわゆる同調圧力に苦しむ人が増えた社会には芸術を育む栄養素が足りないのだろう。

おそらく日本人が今年のアカデミー賞を獲得するチャンスはあったはずだ。我々は気がつかないうちに大きな機会を逃しているのだろう。そしてそれはおそらく映画だけの話でもなさそうだ。

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