ALS患者の嘱託殺人事件が起きた。これについて維新の松井一郎代表が「安楽死の議論を始めては」といったことが一部で反発されている。この問題にはいろいろ要素がありすぎてそもそも話し合いを始める議論が始められないと思った。とりとめのない考察だが最後は維新がこの問題について考えることの危険性に着地させたい。
最初の京都新聞の記事には優生的思想という言葉が使われている。まずこの言い方に物言いがついた。Quoraでは相模原の津久井やまゆり園の事件に結びつけて紹介したために「優生思想的」という言葉でくくるのは不謹慎じゃないのかという指摘が入ったのだ。こうした問題を扱う難しさが実感できた。
優生学には優れた遺伝子の子供だけを残そうという思想でありナチス・ドイツに利用された歴史がある。ナチスドイツが役に立たないと考えたのはユダヤ人と障害者だった。日本にも障害者は子供を残すべきではないという「断種政策」がありこれは戦後も生き残った。組織的という意味では実はナチスよりも悪質なのかもしれない。不良な子孫を残さないために中絶を容認するという政策は1996年に法改正があるまで日本でも続いたそうである。母体保護を名目にした強制不妊手術はのちに国際社会からの勧告を受け政府は謝罪姿勢に転じたそうだが、2018年の朝日新聞の記事を見てもまだ実態がよくわからないそうだ。
改めて、津久井やまゆり園の問題や今回の事件が「優生思想的なのか」と言われるとそうではない。容疑者・犯人の側の問題が大きいように思える。だがこれを突き詰めてゆくと我々の社会に都合が悪い現実が見えてくる。我々は見たくないものを隠して平穏な生活を維持している。
津久井の場合には自分が障害者(犯人から見ると役に立たない人間)の世話係として人生を無駄にしているという認識があったように思える。NHKのまとめなどを見るとその動機や彼の心の変化はそれほどきちんと分析されているようには思えない。裁判ではやったことに対する断罪はできても原因究明はできない。朝日新聞にもまとめがあり先生になりたいという夢を諦めた時から変化が始まったというようなことが書いてあるのだが、なぜ諦めたのかということには触れられていない。いずれにせよ隔離された現場でありその実態はつかめない。また多くの人はこれを知りたくない。
今回の事件はもっと複雑そうである。テレビでこの話題は扱えないだろうなと思うのはここに本人の自殺願望とアスペルガー症候群が出てくるからである。
今回の容疑者の一人は医者になれたわけだからそれほど頭は悪くなかったのだろう。だが厚生労働省で医療技官として働くものの結局は続けられなかった。妻の元衆議院議員によるとアスペルガーと診断されて人間関係がうまく行かなかったそうだ。朝日新聞が大久保愉一容疑者のTwitterを特定しているのだが、mhlworzとなっている。厚生労働省orzという意味なのだろう。複雑な彼の心境がアイデンティティになっていることがわかる。
この大久保という医師は呼吸器内科・メンタルクリニックを経営していた。おそらく対人関係がうまく読めない人が精神科の医者をやっていたわけである。精神科の医者といえば薬漬けにして思考能力を奪ったり身体的に拘禁したとしてもそれは治療行為の一環と見なされる。自殺願望まであったとしたらそれはものすごく危険なことだ。だが「アスペルガーの方の人権」という問題があるためこれがテレビで語られることはないだろうし、さらにターミナルケアとなれば「多少のことは仕方がないのでは?」と思われかねない。
大久保容疑者のやっていた「クリニック」がリベラルの人たちから見るととても都合が悪い。リベラルな人たちは人の命は大切だという。確かにその通りなのだが「では誰が面倒を見るのか」という問題が出てくる。概念と現実の間には明確な線がある。リベラルな人たちはおそらく自分では面倒は見ない。誰かに面倒を押し付けている。実は押し付けれた側という人たちがいて彼らの一部が極端な行動に走った時だけ「人の命は大切だ」と叫ぶ。だが、実際には大久保医師のような人がクリニックを運営しても誰も気に留めないという人も少なくないだろう。
改めて見てみるとこうした現場は「ゴミ箱か押入れ」のような存在だ。おそらくこんなことをスポンサーのあるテレビでコメントしたら大バッシングを受けるだろう。
ここでもう一段別の議論が乗ってくる。松井一郎がなぜ「安楽死議論をすべき」と提案したかということである。
リベラル思想というのは偏差値60程度の人たちが考える道徳的思想である。その代表が先生だ。ところがこの「先生」に反発する人たちがいる。朝日インテリ批判を基軸にする維新というのはこの標準的道徳に挑戦することで一部の人たちの猛烈な支持を集めている。議論をするとリベラルが嫌がる。それを見て楽しいという人がいるのだ。
おそらくこんな動機で「あいつは役に立つ」「あいつは役に立たない」などと選別を始めれば大変なことになる。自分たちの存在意義を確かめるために「役に立たないものいじめ」が始まる。前回の三浦春馬さんの件で見たことからわかるように「成長直前の劣等機能」は役に立つようには思えない。おそらくこの種の「選別的思想」というのは成長ができなくなった行き詰まりを示している。自分たちは頑張って社会を支えているのに報われないという恨みである。その選別思想がさらに成長の芽が潰すという悪循環が始まっている。
こう考えると、今回の事件を起点に安楽死議論を始めるのは危険である。ただ「近視眼的な生産性議論は却って将来の成長機会を毀損する」というのは余裕があるからこそできる議論であり、日本のように衰退貴重にある国で維持可能な議論なのかどうかはわからない。その意味でこれはとても厄介な議論だと言えるだろう。江戸時代の村で「成長機会が」などと言っても笑われるだけだ。体制を支えるために昼間は米を作り余剰時間には藁を編む内職をしなければならないというのが低成長閉塞社会である。
それでも議論をするだけならかまわないのではないか?それすら奪うのは表現の自由に反するのではないか?という反論はありそうだ。
そこで議論を推進する側に立って考えてみたい。この議論は最終的に誰が手を下すのかという議論に行き着く。維新の音喜多旬議員が「一生懸命考えている」というので過去の論考を読んでみた。これは音喜多さんが東京都北区の議員さんの時に書いたものだそうである。
今回の「議論の対象」はASL患者という極めて限られた数の人たちだし、この論考で扱われている認知症というのも「運の悪い」高齢者の話と見なされているのだろう。「難病」というのはそういうことである。だがこの話が「医療費が逼迫しているからすべての終末期の高齢者」に当てはめられたとき「かなりの数の医者と家族」がこんな選択を迫られる。
- 誰が生きていていい人間と悪い人間を決めるのか
- 具体的には誰が手を下すのか
- 家族はどんな基準でそれを許可するのか
これがこの議論が統計から実際の患者の話に切り替わる瞬間である。選択を迫られる側の日本お医師がどう考えているのかという議論は全くないということがわかる。胃瘻を抜くか抜かないかということが大問題になるのだから家族の側の精神サポートも必要になるだろう。実際に音喜多さんに「お医者さんはなんと言っているのか?」と質問してみたがおそらく返事はあるまい。
今回は家族の証言で「自殺願望があった」とされるお医者さんの「思想」が出発点になるはずである。クローゼットに隠してしまうべきではないと思うが、その妥当性については極めて慎重に検討したほうが良いだろう。さらに政策として推進する場合には多くの医者を「巻き込んで」行かなければならない。おそらくそれは政治生命をかけた作業になるのではないだろうか。