Macユーザーはなぜ信者と呼ばれるのか

最近、ヤフオクで中古Macばかりをみている。Macが必要なわけではない。なんとなく新しいものが買いたいだけだ。ジャンク沼と呼ばれる症状だそうである。だが、ヤフオクでMacをみていると「プロダクトとしての失敗」がよくわかるなあと思った。

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変革管理と一時的な全体性の喪失

ダイエットをしていたのだが体重が落ちなくなった。体脂肪率が20%を切ったので「まあこんな感じなんだろうな」と思ったのだが一つだけ問題がある。ぽっこりお腹がなおらないのだ。今回の話はこのぽっこりお腹対策なのだが、最終的には変革管理の話を書く。意外なところに着地するのである。

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「麒麟がくる」の鉄砲の戦争抑止効果論

大河ドラマ「麒麟がくる」に鉄砲の戦争抑止効果論が出てくる。松永久秀(吉田鋼太郎)が明智光秀(長谷川博己)に対して「銃の恐ろしさを知った人は銃を持っている相手に戦争を仕掛けなくなる」というのである。「麒麟がくる」は明智光秀の前半生がほどんど知られていないのをいいことに好き勝手な創作をしているのだが、議論としては面白いなと思った。このエントリーでは火縄銃が当時の軍事情勢にどのような役割を果たしたのかを考える。松永弾正の予言は当たったのだろうか?ということである。

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早いうちから囲い込みを始める日本人にはアップルもディズニーランドも作れない

最近iPhoneを買った。そのうちFOMAが停波になるという話を聞いたからである。そこでSIMを探したのだが結局諦めてしまった。今回観察したいのは「恐れ」が作る停滞である。大げさに言えば社会と協力体制が構築できないことで成長から取り残されているという現象だ。




まず問題なのか選択肢の多さである。そして一旦選択すると抜けられないようになっている。「この業界はある程度儲かる」となると過当競争が起きる。そして業界が大きくならないうちに囲い込み合戦を始めてしまうのである。

顧客獲得競争が激化すると顧客獲得コストが膨大になる。会社は一旦つかんだ金蔓からその原資をしぼり取らなければならない。こうなると顧客は気軽にお試しができなくなる。するとお客は逃げてしまうのである。だから日本の産業は成長できないのだ。

格安SIMは「半額キャンペーン」が横行している。だがそれは一年間半額とか半年間半額である。逆に言えば「将来確実に二倍に値上がりするものを買ってくれ」ということである。将来劇的に値上がりするものを買う人などいないということを誰も認識できない。日本の通信事業者はそれくらい遅れている。

さらに店はお客が選択できないように情報を撹乱する。キャンペーンの内容がコロコロ変わる上に、選択基準がバラバラで比較できないからそのうちに選択に疲れてしまう。ところが疲弊しているのは実はお客ではない。

ある店員は「SIMフリーにしないとどこの格安スマホも使えない」という。そこでNTT DoCoMoに電話するとSIMロック解除をしているかどうかは契約していない端末についてはわからないという。ところが、実際にはSIMロック解除をしなくてもキャリアが揃っていれば使えるというところが多い。このようなことが延々と続く。みんなが不確なことを言っていてその真偽を確かめているうちに疲れて選択そのものを諦めてしまう。だがそこで気がついたのは「この業界の人たちは誰も全容がつかめなくなっているのだ」という事実である。つまり彼らは手探りで延々と彷徨っている。多分賃金もそれなりにしか支払われていないだろう。

日本人は政治的な変化を求めないということを非難しながら書いてきたのだが、実際に変化が起きている現場は確かにもっと悲惨だ。日本人はお互いに協力できず小さな村を作って競い合う。変化にさらされた現場は大混乱し、それが定着してしまうのである。

こうした混乱の結果諦めの境地に達した人は多い。いろいろ質問をするとそのうちにお店の人の頭が飽和してゆくのがわかる。最終的に彼らはフリーズする。多分、同じような体験を何度もしているのだろう。迷いだした客に適切な対応ができないのである。お店の人は「アアマタカ」と思いながら手元にある電卓を意味なくカチャカチャとさせ始める。

顧客が慎重になるのは顧客もまた先の見通しが立たないからである。つまり半年後に面倒になれば解約できるようにしておかないと安心できないのだ。背景には終身雇用の崩壊という問題がある。でも余裕ができれば新しいサービスを探す。その芽があらかじめ摘まれてしまえばそれが回り回って社会の成長につながることはない。

ちょうどSIMを探していた時に停電の話を書いていた。いつもは動いているものが動かなくなっても「自分には何もできないし誰かが調整してくれるのを待とう」という姿勢が蔓延している。と同時に、政治嫌いも進行している。政治嫌いとは「公共への不信感」と「無力感」が合わさった状態だ。つまり、私一人が何かしても何も変わらないから目を背けようということである。

多分、全体がなんとなく機能しないことはわかっているが、自分一人ではどうしようもないという諦めはいろいろなところにあるのではないかと思う。

いろいろ観察してみるとエントリーレベルでは数百円のものが出ている。月々千円台なので実は気軽に始めさせてみれば案外使ってくれる人は多いのだと思う。フレキシブルにすれば二台持ちをしてもいいという人だって出てきてもいい。だが、日本の事業者は規模が小さすぎてそれができない。

そんなことを考えているとAppleが新しいサブスクリプションサービス(Apple TV+)を月額600円で出すという話を聞いた。大手は「とりあえず安い価格で使ってもらう」ことで顧客を大量に引き抜くという作戦に出るらしい。考えてみればこれはディズニーランド方式だ。定額制で全部使えますよということにして優位性を作り、プレミアムサービスや付加価値をつけて行くというやり方である。

日本の会社にはそのようなことはもうできない。生き残ってアップルになる前にお互いに足を引っ張りあって潰れてしまうからである。多分通信も黒船がやってくるまで同じような膠着状態が続くだろう。

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上級国民がガラパゴス化するメカニズム

先日JDIについて書いた。政府が税金を投入して液晶技術を救おうとしたが結局中国に売り渡したという話である。中国に技術流出が起きる大変だ!というような論調にしたと思う。




ところがQuoraで聞いてみたら全く様子が違った。液晶は枯れた技術だからそもそも救えるはずはないというのである。あまりにも冷静なのでちょっと戸惑ったほどだ。だが、どの意見もそれなりに冷静で理路整然としている。「あれ?」と思った。

全く別の興味からデュアルディスプレイについて聞いた。最近机周りを整理しているのだが、モニターが散乱しているので(現在3台置いている)これを一つにすべきかなと思っていたからである。結局生産性についてのリサーチ結果などは出てこなかったので自分で調べたのだが(適正な広さ(ピクセル数)がありそれを越えると逆に生産性が下がって行くそうだ)面白い回答が多かった。

この回答について調べて見るうちに面白いことがわかった。当たり前の人には当たり前になっていると思うのだが、実はAmaznでは20,000円も出せば24インチモニターが買えるらしいのである。ああこんなに安くなっているのかと思った。

もちろんワイドモニターというジャンルもあるのだが「ゲームに最適」などと書かれている。つまり特殊用途になっていることもわかる。メインはノートパソコンとスマホなのだから当然といえば当然である。

いずれにせよ、人の話を聞いて「あれ?」と思って調べてみて液晶モニターが日常品(コモディティ)になっていることが実感できる。なのだが、日々政治ネタを書いているとこのあたりのことにも詳しくなったような気になってしまい、「聞く」という作業が出来なくなってしまう。これは政治家やジャーナリストといった「上級国民」の皆さんにも言えることなのではないかと思う。

このような状況では、自治体総出で工場を誘致してもすぐに陳腐化することがわかる。あのSHAPRの亀山工場が華々しくスタートしたのは2004年だそうだが、2018年には衰退を嘆く記事(東洋経済)が出ている。変化はそれほど早いのだ。

実はQuoraでわざわざ聞いてみなくても自分のモニター環境をみればすぐにわかる。SONYの19インチモニターは800円で購入したのだが何の問題もない。部屋にはいろいろな小型モニターが転がっていて日用品どころか使い捨て感覚で使っている。ただ、最新のものを買わずに中古で済ませているとはちょっと言いにくい。こういう声はあまり世間に広まらないのかもしれない。

同じような事例は他にもある。それが岡山のジーンズ産業だ。ベルサーチなどが高級ジーンズブームを起こした時に注目された岡山の伝統技術だが、次第に脱ジーンズ化が進み注目されなくなった。例えば、ベルサーチはシチリア島の凝った刺繍などをフィーチャーすることが多くなった。

しかし日本はこの時に世界に注目されたことを忘れられず「いいものを作っているから必ず世界に受け入れられるはずだ」として高級ジーンズにこだわり続けた。この2012年のnippon.comの記事はいくら高級ジーンズを作ってもそれを買ってくれる人がいなければ何の意味もないということをすっかり忘れている。

なぜ高級ジーンズブームは終わってしまったのか。その背景をなぜかright-onが解説してくれている。リーマンショックでアパレル自体の勢いが止まってしまったのだそうだ。いわばバブルが崩壊した結果高級衣料そのものが売れなくなってしまったのである。

時系列で並べると高級ジーンズブームが起きたのが2000年ごろだったが、2008年/2009年ごろの不況で突然需要が止まり、それでも諦めきれずに2012年ごろにMage In Japanを前面に押し出したがうまく行かなかったことになる。

こうした実感はファッション写真を見ていてもわかる。インスタグラム発信が増え凝ったアドキャンペーンがなくなりつつある。これも「目の肥えた大人」から見るとかわいそうな若者の話に見える。「かわいい」が分からなくなった若者たち。ZOZOやSNSが奪ったモノという「おしゃれ上級国民」が書いた記事を読むと、最近の若者は個性がなくなってかわいそうだと思える。だが、実は単におばさんが時代に乗り損ねているだけということがわかる。ここから抜け出すには自分でSNSを使ってみるしかないが、そういうカッコワルイことはおしゃれ上級国民にはできないのだろう。

日本人は過去の成功にこだわり続けるのでこうしたことは日本各地で起こっているのではないかと思う。

液晶とジーンズという全く違う二つのものを見てきたのだが、明確な共通点がある。いったん売れるとそれが未来永劫続くと思い込むということである。つまり「正解ができた」と勘違いしてしまうのだ。そして勝手に政界からMy価値体系を作ってそれを他人に押し付けようとしてしまうのである。しかし(あるいはだから)お客さんのことにはそれほど関心がなく、ブームが終わってもそれに気がつかない。こうして「昔どおりにやっているのになぜダメなのだろう」と思い込む人が増えるのである。

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時代にあったオリンピックにするためには参加者に破格の給料を支払うべき

今回は、現代にあった東京オリンピックについて考える。前回のオリンピックは日本が戦後復興の最初のフェイズを終えていよいよ成長過程に乗ろうというときに始まった。このためには海外からの投資が必要だった。東京オリンピックは投資を呼び込むための起爆剤になり、東名高速道路や東海道新幹線などが整備された。今回のオリンピックは成長が一段落して次のフェイズをどうしようというときに行われるオリンピックなので、その姿は前回と大きく異なっているはずである。

結論からいうと、東京オリンピックは些細な仕事をたくさん作り出して破格の給料を支払うオリンピックにすべきである。できれば日本の将来を牽引する職種にお金を支払うべきなのだが、今のおじいさんたちに目利きはできないので、とにかくなんでもいいから仕事を作って給料をばらまくべきである。「成果を気にせずにお金をバラまける」機会はほとんどない。

リベラルあるいはポピュリズムだという非難がありそうだが、実は、経済学的な理由がある。今の日本は努力してこれを成し遂げる必要があるのである。


前回までは石破茂が首相になれないということを起点に日本の立ち位置について考えた。石破茂には日本を成長させるアイディアがない。ただ、アイディアを持っていないのは石破だけではなく、立憲民主党にも、国民民主党にも安倍首相にも成長のアイディアはない。だから「建設的な討論」が起こらない。

そこでなぜ成長がないのかを考えた。まず、成長がある国について観察し「海外からの投資を呼び込む」ことが新しいアイディアの導入につながるのだとした。皮肉なことに海外からの投資を呼び込むということはすなわち国にお金がないということを意味している。そこから考えると日本はお金があるから経済が成長していないという、我々の肌感覚とは全く違った仮説が得られた。

そこで経済の発展段階について調べたところ、被投資国から投資国になるというステップがあることがわかった。だが、発展段階が長いので、投資国がそのまま永続的に投資国でいられるのか、それとも再び成長を初めて被投資国に戻るのかということは必ずしも明らかではないようである。

加えて蓄積したお金は「成人病」を引き起こすことがある。例えば、オランダは資源が発見されたことで通貨の価値が上がり製造業が圧迫された。そこでワークシェアリングを通じて分配政策を見直した。つまり、国が豊かになると、却って経済的な被害を被る地域や階層が出てくるのである。

このことはマクロに仮説ができる。ある大企業に投資を行うセクションと実務を行うセクションがあるとする。成長市場に投資する投資セクションに比べて、成熟市場を相手にする国内セクションの効率や生産性が低いのは当然のことである。企業はこの二つを比べて国内から投資を引き上げてゆく。だから、成熟投資社会では国内の給料が下がるのだ。日本での経済活動が停滞すると税が得られなくなる。企業も国も教育投資をしなくなるので、それでなくても停滞している成長点が壊死してしまうのだろう。

人間は長い間飢餓の時代を生きてきたので「食べ物があったら食べよう」と考える。しかし栄養が過多になると肥満が起こる。肥満は運動不足と結構の停滞を起こす。日本はどうやら豊かになったことで同じ状態に陥っているのではないだろうか。

だからなんらかの機会を作って企業が蓄えた資金を放出しなければならない。とはいえ資本主義国では政府が強制して企業に出資させることなどできないのだから、このような祝祭を積極的に利用すべきなのだ。

つまり日本は「少し痩せる必要があり、オリンピックはその良い機会である」と言える。国内に給与が行き渡れば消費は活発になる。老人ではなく現役世代が消費を活発にすれば、それが探索活動となり次世代につながる成長点が探索される。

前回のオリンピックでは「壊れたものの修復も終わったし、空腹もなんとかなってきたので、さあこれから稼ぐぞ」というオリンピックだった。だから、オリンピックは海外からの投資を呼び込むためのきっかけとして利用された。だが、今回はフェイズが違っているので、同じことをやろうとしてもうまく行かないのは当然である。

現在の日本は紆余曲折はあったものの、これまでの働きが実を結びそれなりの成果が出たというフェイズに入っている。普段から社会のネガティブな問題にばかり着目しているのでとてもそうは思えないかもしれないのだが、当時最先端だった「平和主義」や「自由通商」というイデオロギーをいち早く取り入れて繁栄することができたという感謝を世界に向けて示すべきではないかと思う。

オリンピックは経済学的に見てもその配当を国民に配る機会にすべきなのである。

だが実際には、ボランティアの募集に支障が出るから夏休みに授業はするなとか、会場にエアコンがつけられないとか、銀メダルに使う銀が足りないというような「けち臭い」話に終始している。これは内部留保をためて成人病になった企業のメンタリティが飢餓の時代のままであることを示している。だが、このまま飢餓の思い出に支配されたまま太り続けると「あなた死にますよ」とみんなが言ってやらなければならない。

今の日本に足りないものがお金ではないというのは明白である。市場にいくらお金を流しても使ってくれる人がいないのが問題なのだ。ここはお願いをして「お金を使ってもらう」べきだということになる。ボランティアではなく、個人単位のプロジェクトにお金を使うようなれば、日本型のオリンピックは先行国モデルとして今後のよい手本になるだろう。残すのは時代遅れのサマータイムや箱物などの「レガシー」ではなく、次世代の「才能」であるべきなのだ。

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成長はどこから来るのか

前回は石破茂について考えた。石破さんは首相になれる見込みがない。それは石破さんが国を成長させるアイディアを持っておらず、石破さんの周りにいる人たちも国を成長させるアイディアを持っていないからだった。

では、安倍首相のほうがよいのかとか、立憲民主党のほうがふさわしいのかという話になるのだが、そもそも安倍首相にも国を成長させるアイディアはない。安倍首相は日銀がうまいことをすれば僕らは何もしなくていいといった人だけの人であり成長を起こすアイディアは一切持っていない。立憲民主党もそれは同じようである。立憲主義が徹底されたからといって国民が豊かになることはない。

するとここから導き出される結論は簡単である。日本には成長の芽がないのだ。

では成長はどこから来るのか。韓国のジャニーズ事務所のようなところが株主に向けてプレゼンテーションをしているという動画を見つけたのでそれを観察してみたい。JYPは韓国で第二位のプロダクションである。あまりハンサムではないこの人が現役の歌い手兼プロダクション社長だ。バナナが好きなゴリラというあだ名がついているそうだが人気のあった歌手であり、韓国のHIROさんみたいな人である。

彼は英語で投資家に向けてプレゼンテーションをしているのだが、そのやり方は完全にアメリカ風である。英語が流暢なだけでなく投資家にビジョンを訴えかけるというやり方もアメリカ文化の影響を受けている。在米経験はあるようだが経営学などでアメリカに留学した経験はないようだ。それだけ広くアメリカ式の資金調達方法が浸透しているのだろう。

彼が掲げるビジョンは4つある。事業部制を採用し成長スピードを加速させること、ローカリゼーションを行いグローバル化を目指すこと、自社を音楽工場のようにすること、従業員のワークライフバランスを重視して生産性を向上させることである。

中でも注目すべきなのは「グローカル」マネージメントの輸出である。もともと海外のマーケットに韓国人のアーティストを輸出してきたのだが、今度は日本人だけからなるユニットを日本で売り出すという。これまでアーティストの海外進出を手がけていたのでノウハウそのものを輸出しようとしているのである。これが成功するとJYPはジャニーズ事務所などと競合することになる。日本ではTWICEが成功しつつあるので、この目論見も決して無謀なものではないだろう。

このようにして韓国のエンターティンメントは明確にアメリカ流の経済成長を志向しており、成果が出ている。日本語がペラペラの韓国人アイドルをテレビで見ることも増えたし、アメリカでは防弾少年団が韓国語のままビルボードにランクインした。

プレゼンテーションの中でもっとも注目すべきなのは従業員のワークライフバランスについてである。韓国では左派寄りのムンジェイン政権がワークライフバランスの充実を訴えている。最近は最低賃金を大幅に上げることに成功したもののそれが約束通りでなかったとして謝罪している。これをみると国民の生産性を上げるために「国を挙げて労働者のやる気を出させようとしている」ことがわかる。多くの日本人が羨ましく思う姿ではないだろうか。

だが、これも「リベラルな人権派が理想を追求したから起きた」わけではなさそうだ。つまり、韓国人は外国から投資を受けるために外国風の価値観を国内に浸透させようとしているのである。製造業はまじめさと効率性が重要だったのだが、サービス産業は居心地の良さを求める。

ではなぜ韓国ではこのようなことが起こるのか。日本は戦後すぐに製造業を中心とした企業文化をアメリカから輸入したのでサービス業にうまく適応できなかった。良い品質についての関心は高いが、スピードと多様性に対応できないし、居心地の良さが新しいサービスを呼び込むということが本質的に理解できない。韓国のほうが「OS」が新しいので成功しやすい。日本では製造業が他の「堅苦しい」労働文化が残っていて、サービス産業を充実させるのに「残業して長い時間働けば良い」と考える人が多い。確かに製造業ではラインを長く稼働させればよりおおくのネジやクギを生産できるが、クリエイティブ型のサービス産業ではアイディアの源泉が枯渇してしまう。

韓国は、お金のでもとにあわせて企業文化を作り変える必要がある。そこで「ワークライフバランス」が重要になるのだろう。つまり、ワークライフバランスは福利厚生というよりも投資家向けのアピールの色彩が強いということになる。結局は「理想」ではなく「お金」なのである。

ジャニーズ事務所のような旧型のエンターティンメント企業はテレビ局を抑えてネットへの露出を抑制することで、自社の利権は確保することができるだろう。しかし、テレビ局も事務所も内向きになりどんどんつまらなくなってゆく。ネットで面白い番組がいくつもでてきているので、若い人ほどテレビを見なくなるはずだ。すると、テレビはますます老人のものとなり過疎化が進むだろう。これまで嫌という程見てきた「村落の過疎化」現象である。

しかし、ジャニーズ事務所は成長する必要がない。テレビ局という利権が約束されているのでわざわざ海外に出かけて行く必要はないし、多分内部留保を蓄えており、銀行からお金を借りる必要すらないだろう。つまり、ジャニーズ事務所はキャッシュカウ型で安定しており新規の投資も新しい技術の確保も必要ない。だから日本は引きこもってもなんとかなってしまうのである。

一方韓国の若者は成功すれば世界に出ることができるが、恐ろしい競争に勝ち抜かねばならない。オーディション番組が流行しているのだが、ものすごい才能を持った人たちが競争で振り落とされてゆく。

これは多分多くの日本の企業で起きていることだ。利権に見合った仕事さえしていればいいので「わざわざ成長する必要」はないし「IT投資をして仕事を効率化する」必要もない。キャッシュカウが死ななければイノベーションは起こらない。日本はキャッシュカウを延命させることで過疎化を起こしている国だということになる。

新しい企業文化が入ってこない理由は他にもある。

最近トルコの経済が停滞している。アメリカと対立しており新興国マネーの引き上げが起こっているようだ。この新興国の中には韓国が入っている。韓国は「海外マネーを取り入れて成長している」国である。一方日本は債権国になっていて「お金を貸す側」になっているので、新興国マネーの影響を受けて経済が停滞するということはない。これがGDPでは見えない「先進国」と「発展途上国」の違いである。多分、歴史的な経緯から作られた差異であろう。

発展途上国は経済成長の余地が大きい上に、海外マネーを取り入れる必要性から新しい経営理念や価値観が入って来やすい一方で日本は過去の蓄積があり贅沢さえ言わなければそこそこの暮らしができる。最悪生活保護を配ってもそれなりになんとかなってしまう国になっている。ところが、何もする必要がないので、設備投資は更新されず、IT革命は起こらず、従業員の給料も上がらず、福利厚生も向上しないということになっている。

だが、発展途上国には固有の問題がある。政情が不安定化すると投資家が一斉に引き上げてしまうので一気に不況に陥る。トルコは今その状態にあり、それに引き込まれて南アフリカやアルゼンチンでも通貨安が起きたという話がある。

ここから発想を飛ばしていろいろな考察ができるのだが、まず最初にやらなければならないのは日本はキャッシュカウを殺してでも再び成長を目指すべきなのかという議論である。もともと長期安定志向の強い日本人には到底受け入れられそうもない政策だが、これは定常化(つまりゼロ成長)を意味する。

安倍政権を支持する若い人は「民主党になったら就職不安が起きる」という一方で、もう日本は成長しないからその状態になれるべきだというと「老害だ」と言って憤慨する。だが、ここまで見てきたようにこの二つは実は同時には成り立たない。目の前の就職不安を解消するためには既存の企業に生きていてもらう必要があるが、これは確実に成長を阻害している。だが、これを乗り越えることはできないだろう。

国が成長しないということは「新規の労働(平たく言えば頑張り)」が意味を持たないということになる。今まである蓄積で生活したほうが良い世界である。言い換えればアパート経営者の生活ということになる。資産で生活できると言えば聞こえはいいが、電球を取り替えたりという「メンテナンス」の毎日を送りながら、頑張っても収益は増えないという世界である。冗談抜きで「保守はメンテナンス」ということになってしまう。新しいことをやりたいと考えるとまだ住めるアパートを壊す必要があるのだが、その途端に収入の道が途絶えてしまうのだ。

「老後型」の国では労働も新しい技術も大した価値を持たないので、価値観を大幅に変える必要があるだろう。

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たけし軍団はまずジョン・コッターを読むべきである

ビートたけしの事務所独立騒ぎについてフォローしている。このエントリーは2本目で、1本目では「軍団はさっさと独立すべき」という論を書いた。ワイドショーでは「ビートたけしは軍団の側についた」一方で「森社長はスタッフと一緒になっている」という構図でこの騒動を分析しようとしている。しかし、この構図だと説明できないことが多い。

第一になぜビートたけしが弟子を連れて新しい事務所を作らずに株式を渡したのかがわからない。次に森社長が全ての従業員を再雇用を条件にして解雇した理由もわからない。

これをきちんと説明するためにはビートたけしが弟子を切り離し、また森社長もスタッフを切りはなそうとしたと考えるべきだ。つまりビートたけしはテレビ局と視聴者が考えるような形での温情は持っていないという結論が得られる。では、ビートたけしは冷たい人なのかという疑問が出てくる。この疑問を抱えたままで次に進もう。

ビートたけしが株式を譲渡したということはつまり、軍団の人たちが会社の経営権が持てるように仕向けているということになる。これも温情の一部と捉えられているが「自分でやって行きなさい」というメッセージでもある。ある意味「冷たい」態度だ。

一方で、森社長がオフィス北野に残るという選択肢は考えにくそうだ。根拠は二つある。

報道によると、森社長に興味があるのは「北野武」とその映画だけのようだ。次に週刊誌のインタビューによると「いつまで稼げるかわからないから、稼げるうちにスタッフにはお金を渡していた」と説明しているようだ。つまり事務所を立ち上げた時から「このコンテンツがいつまで収益をあげるかわからない」と考えていたことになるし、次の収益源を作って会社を永続化させようという気持ちはなかったことになる。もし次世代の収益源を作るつもりがあるなら、それに投資していたはずだからである。つまり、森社長は「老後の貯蓄」という概念は持っていたが「次世代への投資」という概念を持っていなかったということになるのだが、これは投資を嫌い貯蓄を好む日本人としては極めて当たり前でまっとうな感覚である。

つまり、オフィス北野は法的には会社だったのだが、西洋の経営者が考えるような意味での会社ではなかったということになる。継続に関する前提をGoing Concernというのだが、日本では「継続企業の前提」などと呼ばれているようだ。だが、日本語の継続企業の前提という言葉は一般化していない特殊な考え方なのだということが言える。

大企業はGoing Concernを前提にしているところが多いのだが、中小企業の場合は「この会社はワシ一代限り」と思っているところも少なくないかもしれない。日本は家業意識が強いので、家業を飛び出して企業を作った場合それを第二の家業にしようという意欲がわきにくいのかもしれない。つまり、村落が嫌で飛び出してきたのに自分が新しい村を作るつもりはないということになる。

ビートたけしが弟子に株式を譲り渡した理由はわからない。単に弟子の育成に疲れただけかもしれないし、自分がやってきたことを継続化させるために後継者を育てたかったが、弟子たちが本気にならなかったのかもしれない。Going Concernという意識のない日本人にとってその気持ちは曖昧なものであり、言語化しない限り一つに同定することは難しいのではないかと思う。

最初は森社長がビートたけしの収入に依存しており、それが未来永劫続くと考えていたのではないかと思っていたのだが、新潮のインタビューのプレビューを聞く限りそれは正しくないようだ。森社長は「ビートたけしから収益が上がらなくなったら企業はそこまで」であって、その先は考えていないのかもしれない。森社長はもしかしたら「もうこれで終わるな」と考えており「殿に弟子をリストラを押し付けられた」と感じているかもしれない。一方で、弟子の間には「このままの居心地の良い関係が続くはずだし、続くべきだ」という気持ちが強いのではないだろうか。

かなり特殊な世界の出来事のように思えるのだが、すでに説明した通り、こうした状況は中小企業では珍しくないのかもしれない。だからこそ職人たちは「一生現場にいたい」し「一生麺名やることだけが自分たちのできることである」と言っていられるのである。

これをエンターティンメントの世界の話だと考えれば、吉本興業のような大きなプロダクションができるまで浅草や大阪の演芸会がどのように継続性を維持していたのかということを研究しても面白いかもしれない。都市の中の村落のようなものがあり継続性が担保されていたのかもしれないし、河原乞食と呼ばれるように継続性のないその場限りの集団だったのかもしれない。

だが、この話を経営論として捉えると「次世代製品の開発」についての物語になる。森社長は名プロデューサーとして知られているようなのだが、報道を見ている限り経営者としてはそれほど才能のある人ではなかったようだ。記者たちへの受け答えにあまり戦略が見られず「軍団とうまく言っているはずないじゃないですか」と逆ギレしている。これが「ダメ」ということではなく、あまりこの後のことは考えておらず、今回のことでいくらか稼いで終わりにしようと思っているのではないだろうか。

たまたまビートたけしに映画監督の話が転がってきて映画を作ったら評判がよかった。ビートたけしも森社長も戦略的に映画を作ってフランスに売り込んだというわけではなく、持って行ったら評判がよかった。たまたま当たってしまった成功は再現できない。もともと経営者になるつもりがなかったなら、この対応はむしろ普通のもので責められるようなものではない。

Goign Concernを大きな企業でも同じような例はいくらでもある。例えばIBMのように大型のコンピュータ(メインフレーム)で成功してしまったためにPCに乗り遅れた。マイクロソフトも同じようにPCで成功しすぎてしまったためにモバイルの波に乗れなかった。唯一の例外はアップルだが、名前から「コンピュータ」を除外するくらいの思い切ったこともしたし、スティーブ・ジョブズは一度放逐されている。これくらいのことをやらないと新しい波には乗れないのである。

Going Concernの原則を維持するためには「事業継承」とか「後継者の育成」とか「次世代を牽引する商品の継続的な開発」などが必要だ。だが、成功した企業でもそれは難しい。ましてや古い浅草演芸の世界を引き継いているお笑い業界には難しかったということになる。村落を出てきて新しい集団を作ったがそれが社会を形成するために必要な条件を満たしていなかったという例は、これまで政治の分析をしてきて嫌という程みてきた。

前回のエントリーでは従業員の立場としてはさっさと見切りを付けた方が良いのではないかと書いた。そしてその気持ちは今も変わらない。地方にチャンスがあるのなら「都落ち」などといわずにそれに適応するのもよいことなのである。もともと継続性のない事業だったのだからここが潮時ということになる。

ただ、この次世代を牽引する商品を作るフレームワークがないわけではない。それが「変革管理」である。

しかし、もし仮に今報道で言われているようにたけし軍団が株式の9割を持つということになるのならば、たけし軍団は「弟子」ではなく、経営者として次世代を牽引する商品を開発する責任を負うことになる。実際、ほかの芸能プロダクションやグループの中は中国やインドネシアに進出したり、インターネットに新境地を求めるという動きも出ている。その意味ではたけし軍団のなかから「本物のプロデューサシップ」を持った人材が登場することが期待されるということになる。

有名なジョン・コッターの変革マネージメントにおいては最初の危機感の醸成が一番重要なのだが、たけし軍団は期せずして商品でありながら経営者という状態に置かれてしまったわけである。たけし軍団はテレビ局相手に情報戦を仕掛けて森社長を貶めるのではなくジョン・コッターの本を読むべきだと思うのだが、人としてはやはり急激な変化にさらされた時に「怒り」を持つのは当然なのかもしれない。

いずれにせよ、事業を継続するためには、当事(商品であり英英者)であるタレントが「今のままではダメだ」という強い危機感を持たなければならない。ビートたけしはその意味では正しく危機感を与えようとしたのかもしれない。もし、そうだとすればこの一連の行為はビートたけしの温情だったことになる。

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手塚治虫と狭い窓

QUORAに「なぜ日本ではアニメがそんなに盛んなのですか」という質問が上がっていた。いくつかの原因が考えられるのだが、長い英文を書く根気と実力がないので結局答えは書かなかった。
日本で漫画が受け入れられているのはなぜかを考察した人は多いだろう。いろいろな説があるのだが、漢字仮名交じり文化圏だからだという説がある。もともと文字体系が複雑なので、漫画のような複雑な媒体が受け入れられる素地があるというのだ。普通に漫画を読んでいる人には信じられないかもしれないが、長い間漫画を読まないと読むのがとても面倒になる。あれはとても複雑なメディアだ。また、日本の漫画はアメコミと違ってリアルさがない。抽象化が進んでいるので、映画の偽物だと考えられなかったという可能性があるのだ。
が、中国も漢字文化圏なので漫画が流行しアニメが盛んなっていた可能性はある。が、中国で漫画やアニメが盛んにならなかったのは、知的財産に関する価値が高くないからであると仮置きすることができる。知的財産へのお金の流れがないとクリエイターが育たないのだ。何かが流行したらそれをコピーしてしまうようでは海外に売れるようなオリジナリティのある作品は作れないだろう。
アニメが流行した理由は需要者と供給者のそれぞれの側面から考える必要があるということがわかる。日本のアニメクリエイターの貢献は大きいが、それを辿って行くと手塚治虫に行き着く。手塚治虫はまず漫画で成功して、その印税を使って虫プロダクションを設立した。虫プロは大勢のクリエイター(アニメーター、監督、プロデューサー)を輩出することになる。この人たちが他のプロダクションに移籍したり、原作者になったりして日本のアニメは子供だけでなく大人にも受け入れられるようになった。
それではなぜ手塚プロは人材を輩出することができたのだろうか。それは手塚治虫が自らもクリエイターだったからだろう。もし、彼が単純な資本家だったら「とにかくディズニーの真似をしろ」ということもできたはずだ。が、映画を研究して漫画を作っていたので、アニメに対する基本的な理解があったのだろう。
だが、制約条件も見逃せない。アニメを作っても特に儲かるということはなく、最初は手塚の漫画の印税などをつぎ込んでいたようだ。それでもアニメプロダクションを維持したのは単純にアニメ制作が好きだったからなのだろう。いずれにせよ予算制約のためにディズニーの手法をそのまま取り入れることはできず、様々な工夫をして制作費を浮かせる努力をした。こうした経験と自給自足的な体験がのちに幅広い才能に受け継がれて、日本でアニメ文化が根付いて行くことになるわけだ。
つまり、印税が入ってくる程度には潤沢な予算があり、なおかつみんなが市場を荒らしたくなるほどの規模でもなかったという絶妙な環境が日本のアニメ産業を支えたのだと言える。
もちろん手塚治虫という才能がないと日本のアニメ業界が今のようになっていたとは思えないのだが、産業が起こる程度の窓が開いていた時期は実はそれほど長くなかったのではないかと思える。
アニメクリエイターにお金が流れていた時期もほんのわずかだった。権利ビジネスが儲かるということが理解されるようになると、権利だけを抑えて下請け的にアニメ制作会社にアニメを作らせるという手法が蔓延することになる。DVDの出版印税や周辺グッズの売り上げは制作委員会で総取りし、アニメーターは生活保護が必要になる程度のお金をもらう個人事業主として搾取されるという構造だ。
手塚はクリエイターだったが、権利関係をバックアップしてくれるビジネスマンがいなかったのだろう。この視点でウォルト・ディズニーの項目をwikipediaで読むと、同じような話が出てくる。もともとクリエイターだったウォルト・ディズニーは一旦アニメ制作会社を設立して成功するが資金管理がずさんなために失敗してしまう。また、のちにはユニバーサル社から不利な契約を突きつけられてしまう。ウォルト・ディズニーは仲間や兄と協力してそれらの危機を乗り越え、のちにテーマパーク事業などに進出するのだ。
このことから、一人の才能だけで産業を支えることはできず、協力体制の大切さがわかる。日本人は意外と協力が苦手なのかもしれない。
つまりコンテンツビジネスが成立するためには、オリジナルなコンテンツが作れる人と彼らに利益を還元する仕組みが必要なのだということになる。そもそもオリジナルなコンテンツが作れないと、それを海外に売り出すこともできないのだが、利益の還元を怠ると健全な環境が維持できないのではないだろうか。

ネットで視聴率を気にするということ

去年の冬あたりからWEARに投稿している。着ている洋服を携帯電話のカメラで撮影して投稿するのだ。最初は、あの界隈でなにがオシャレなのかがわかるのかなあと思っていたのだが、それほど単純ではないようだ。
指標としては、閲覧数、いいねの数、あとから参照できるようにブックマークされた数(SAVEと言っている)の3種類がある。何がオシャレかを見るためにはいいねの数を見るべきだと思うのだが、これが一筋縄ではいかない。タイムライン上にたくさん出てくるコーディネートからいいねを選ぶと、どうしても「その人のキャラに合っているか」と「そこで目立っているか」ということが重要になる。さらに見慣れたものにいいねを押す可能性も高いわけだ。評価するのはプロではない。
しかし、問題はそれだけではない。フォロワー数が決まっているので閲覧数は一定になるべきなのだが、そうはならない。どうやら「ユニクロ」に大きく反応しているようだ。スキニージーンズやライトダウンを買ったのだが、これのコーディネートを探している人が多いのではないかと考えられる。
一方で見向きもされないスタイルもある。ジーンズやチノといったカジュアルスタイルには反応があるが、ウールパンツにジャケットといった高級感の強いスタイルはもはや見向きもされない。つまり、ユニクロが注目を蒐める一方で、クラッシックなスタイルはほとんど注目されないということになる。
細かい観察点はいくつもある。ブログを書く際にはユニクロを中心にまとめた方が閲覧数は稼げるだろう。しかし乱暴にまとめるとネットの「インターラクティビティ」は、議論を活性化させるのではなく、議論を膠着させるということが言える。人々はユニクロのように単純なスタイルに惹きつけられるか、見たことがあるスタイルに興味を持つということだからだ。
これを打破するためには、ショップなどが連携して「このスタイルがモードの中心だ」ということを主張し続ける必要があるわけだが、一般の声が大きすぎて十分な熱量を与えることはできない。そのうちに売り上げをベースに(売り上げはネットの声に影響されて「つまらなく」なっている)無難なものに推移して行くことになる。
同じような現象は珍しくない。例えば政治が国民の声を聞くと「保守化」することが予想される。ここでいう保守は政治的なコンテクストの保守(実際には体制追従の人たちか日本が戦争に負けたことを認めたくない人たちのことだ)ではなく、とにかく現状を変えてほしくないし難しいことはわからないという人たちのことだ。これは必要な改革が行われえないということを意味している。
同じように歌番組も解体されてバラエティ化されることが予想される。しばらくは組織票(前回の考察ではジャニーズを公明党になぞらえたが)に頼るか、解体を進めることになる。紅白歌合戦は「国民的歌番組」を標榜する限り、和田アキ子や演歌の大御所のようなクラッシックは消え去る運命にあるということになる。
イノベーションを勉強したことがある人はこれを「創造的破壊」なのではないかと考えるかもしれないのだが、ちょっと違っているなと思える点もある。これまでの創造的破壊にはドライバーになるようなイノベーターがいないのである。スープは単に冷めて行くだけのように見えるのだ。