最近、ヤフオクで中古Macばかりをみている。Macが必要なわけではない。なんとなく新しいものが買いたいだけだ。ジャンク沼と呼ばれる症状だそうである。だが、ヤフオクでMacをみていると「プロダクトとしての失敗」がよくわかるなあと思った。
“Macユーザーはなぜ信者と呼ばれるのか” の続きを読む変革管理と一時的な全体性の喪失
ダイエットをしていたのだが体重が落ちなくなった。体脂肪率が20%を切ったので「まあこんな感じなんだろうな」と思ったのだが一つだけ問題がある。ぽっこりお腹がなおらないのだ。今回の話はこのぽっこりお腹対策なのだが、最終的には変革管理の話を書く。意外なところに着地するのである。
“変革管理と一時的な全体性の喪失” の続きを読む時代にあったオリンピックにするためには参加者に破格の給料を支払うべき
今回は、現代にあった東京オリンピックについて考える。前回のオリンピックは日本が戦後復興の最初のフェイズを終えていよいよ成長過程に乗ろうというときに始まった。このためには海外からの投資が必要だった。東京オリンピックは投資を呼び込むための起爆剤になり、東名高速道路や東海道新幹線などが整備された。今回のオリンピックは成長が一段落して次のフェイズをどうしようというときに行われるオリンピックなので、その姿は前回と大きく異なっているはずである。
結論からいうと、東京オリンピックは些細な仕事をたくさん作り出して破格の給料を支払うオリンピックにすべきである。できれば日本の将来を牽引する職種にお金を支払うべきなのだが、今のおじいさんたちに目利きはできないので、とにかくなんでもいいから仕事を作って給料をばらまくべきである。「成果を気にせずにお金をバラまける」機会はほとんどない。
リベラルあるいはポピュリズムだという非難がありそうだが、実は、経済学的な理由がある。今の日本は努力してこれを成し遂げる必要があるのである。
前回までは石破茂が首相になれないということを起点に日本の立ち位置について考えた。石破茂には日本を成長させるアイディアがない。ただ、アイディアを持っていないのは石破だけではなく、立憲民主党にも、国民民主党にも安倍首相にも成長のアイディアはない。だから「建設的な討論」が起こらない。
そこでなぜ成長がないのかを考えた。まず、成長がある国について観察し「海外からの投資を呼び込む」ことが新しいアイディアの導入につながるのだとした。皮肉なことに海外からの投資を呼び込むということはすなわち国にお金がないということを意味している。そこから考えると日本はお金があるから経済が成長していないという、我々の肌感覚とは全く違った仮説が得られた。
そこで経済の発展段階について調べたところ、被投資国から投資国になるというステップがあることがわかった。だが、発展段階が長いので、投資国がそのまま永続的に投資国でいられるのか、それとも再び成長を初めて被投資国に戻るのかということは必ずしも明らかではないようである。
加えて蓄積したお金は「成人病」を引き起こすことがある。例えば、オランダは資源が発見されたことで通貨の価値が上がり製造業が圧迫された。そこでワークシェアリングを通じて分配政策を見直した。つまり、国が豊かになると、却って経済的な被害を被る地域や階層が出てくるのである。
このことはマクロに仮説ができる。ある大企業に投資を行うセクションと実務を行うセクションがあるとする。成長市場に投資する投資セクションに比べて、成熟市場を相手にする国内セクションの効率や生産性が低いのは当然のことである。企業はこの二つを比べて国内から投資を引き上げてゆく。だから、成熟投資社会では国内の給料が下がるのだ。日本での経済活動が停滞すると税が得られなくなる。企業も国も教育投資をしなくなるので、それでなくても停滞している成長点が壊死してしまうのだろう。
人間は長い間飢餓の時代を生きてきたので「食べ物があったら食べよう」と考える。しかし栄養が過多になると肥満が起こる。肥満は運動不足と結構の停滞を起こす。日本はどうやら豊かになったことで同じ状態に陥っているのではないだろうか。
だからなんらかの機会を作って企業が蓄えた資金を放出しなければならない。とはいえ資本主義国では政府が強制して企業に出資させることなどできないのだから、このような祝祭を積極的に利用すべきなのだ。
つまり日本は「少し痩せる必要があり、オリンピックはその良い機会である」と言える。国内に給与が行き渡れば消費は活発になる。老人ではなく現役世代が消費を活発にすれば、それが探索活動となり次世代につながる成長点が探索される。
前回のオリンピックでは「壊れたものの修復も終わったし、空腹もなんとかなってきたので、さあこれから稼ぐぞ」というオリンピックだった。だから、オリンピックは海外からの投資を呼び込むためのきっかけとして利用された。だが、今回はフェイズが違っているので、同じことをやろうとしてもうまく行かないのは当然である。
現在の日本は紆余曲折はあったものの、これまでの働きが実を結びそれなりの成果が出たというフェイズに入っている。普段から社会のネガティブな問題にばかり着目しているのでとてもそうは思えないかもしれないのだが、当時最先端だった「平和主義」や「自由通商」というイデオロギーをいち早く取り入れて繁栄することができたという感謝を世界に向けて示すべきではないかと思う。
オリンピックは経済学的に見てもその配当を国民に配る機会にすべきなのである。
だが実際には、ボランティアの募集に支障が出るから夏休みに授業はするなとか、会場にエアコンがつけられないとか、銀メダルに使う銀が足りないというような「けち臭い」話に終始している。これは内部留保をためて成人病になった企業のメンタリティが飢餓の時代のままであることを示している。だが、このまま飢餓の思い出に支配されたまま太り続けると「あなた死にますよ」とみんなが言ってやらなければならない。
今の日本に足りないものがお金ではないというのは明白である。市場にいくらお金を流しても使ってくれる人がいないのが問題なのだ。ここはお願いをして「お金を使ってもらう」べきだということになる。ボランティアではなく、個人単位のプロジェクトにお金を使うようなれば、日本型のオリンピックは先行国モデルとして今後のよい手本になるだろう。残すのは時代遅れのサマータイムや箱物などの「レガシー」ではなく、次世代の「才能」であるべきなのだ。
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成長はどこから来るのか
前回は石破茂について考えた。石破さんは首相になれる見込みがない。それは石破さんが国を成長させるアイディアを持っておらず、石破さんの周りにいる人たちも国を成長させるアイディアを持っていないからだった。
では、安倍首相のほうがよいのかとか、立憲民主党のほうがふさわしいのかという話になるのだが、そもそも安倍首相にも国を成長させるアイディアはない。安倍首相は日銀がうまいことをすれば僕らは何もしなくていいといった人だけの人であり成長を起こすアイディアは一切持っていない。立憲民主党もそれは同じようである。立憲主義が徹底されたからといって国民が豊かになることはない。
するとここから導き出される結論は簡単である。日本には成長の芽がないのだ。
では成長はどこから来るのか。韓国のジャニーズ事務所のようなところが株主に向けてプレゼンテーションをしているという動画を見つけたのでそれを観察してみたい。JYPは韓国で第二位のプロダクションである。あまりハンサムではないこの人が現役の歌い手兼プロダクション社長だ。バナナが好きなゴリラというあだ名がついているそうだが人気のあった歌手であり、韓国のHIROさんみたいな人である。
彼は英語で投資家に向けてプレゼンテーションをしているのだが、そのやり方は完全にアメリカ風である。英語が流暢なだけでなく投資家にビジョンを訴えかけるというやり方もアメリカ文化の影響を受けている。在米経験はあるようだが経営学などでアメリカに留学した経験はないようだ。それだけ広くアメリカ式の資金調達方法が浸透しているのだろう。
彼が掲げるビジョンは4つある。事業部制を採用し成長スピードを加速させること、ローカリゼーションを行いグローバル化を目指すこと、自社を音楽工場のようにすること、従業員のワークライフバランスを重視して生産性を向上させることである。
中でも注目すべきなのは「グローカル」マネージメントの輸出である。もともと海外のマーケットに韓国人のアーティストを輸出してきたのだが、今度は日本人だけからなるユニットを日本で売り出すという。これまでアーティストの海外進出を手がけていたのでノウハウそのものを輸出しようとしているのである。これが成功するとJYPはジャニーズ事務所などと競合することになる。日本ではTWICEが成功しつつあるので、この目論見も決して無謀なものではないだろう。
このようにして韓国のエンターティンメントは明確にアメリカ流の経済成長を志向しており、成果が出ている。日本語がペラペラの韓国人アイドルをテレビで見ることも増えたし、アメリカでは防弾少年団が韓国語のままビルボードにランクインした。
プレゼンテーションの中でもっとも注目すべきなのは従業員のワークライフバランスについてである。韓国では左派寄りのムンジェイン政権がワークライフバランスの充実を訴えている。最近は最低賃金を大幅に上げることに成功したもののそれが約束通りでなかったとして謝罪している。これをみると国民の生産性を上げるために「国を挙げて労働者のやる気を出させようとしている」ことがわかる。多くの日本人が羨ましく思う姿ではないだろうか。
だが、これも「リベラルな人権派が理想を追求したから起きた」わけではなさそうだ。つまり、韓国人は外国から投資を受けるために外国風の価値観を国内に浸透させようとしているのである。製造業はまじめさと効率性が重要だったのだが、サービス産業は居心地の良さを求める。
ではなぜ韓国ではこのようなことが起こるのか。日本は戦後すぐに製造業を中心とした企業文化をアメリカから輸入したのでサービス業にうまく適応できなかった。良い品質についての関心は高いが、スピードと多様性に対応できないし、居心地の良さが新しいサービスを呼び込むということが本質的に理解できない。韓国のほうが「OS」が新しいので成功しやすい。日本では製造業が他の「堅苦しい」労働文化が残っていて、サービス産業を充実させるのに「残業して長い時間働けば良い」と考える人が多い。確かに製造業ではラインを長く稼働させればよりおおくのネジやクギを生産できるが、クリエイティブ型のサービス産業ではアイディアの源泉が枯渇してしまう。
韓国は、お金のでもとにあわせて企業文化を作り変える必要がある。そこで「ワークライフバランス」が重要になるのだろう。つまり、ワークライフバランスは福利厚生というよりも投資家向けのアピールの色彩が強いということになる。結局は「理想」ではなく「お金」なのである。
ジャニーズ事務所のような旧型のエンターティンメント企業はテレビ局を抑えてネットへの露出を抑制することで、自社の利権は確保することができるだろう。しかし、テレビ局も事務所も内向きになりどんどんつまらなくなってゆく。ネットで面白い番組がいくつもでてきているので、若い人ほどテレビを見なくなるはずだ。すると、テレビはますます老人のものとなり過疎化が進むだろう。これまで嫌という程見てきた「村落の過疎化」現象である。
しかし、ジャニーズ事務所は成長する必要がない。テレビ局という利権が約束されているのでわざわざ海外に出かけて行く必要はないし、多分内部留保を蓄えており、銀行からお金を借りる必要すらないだろう。つまり、ジャニーズ事務所はキャッシュカウ型で安定しており新規の投資も新しい技術の確保も必要ない。だから日本は引きこもってもなんとかなってしまうのである。
一方韓国の若者は成功すれば世界に出ることができるが、恐ろしい競争に勝ち抜かねばならない。オーディション番組が流行しているのだが、ものすごい才能を持った人たちが競争で振り落とされてゆく。
これは多分多くの日本の企業で起きていることだ。利権に見合った仕事さえしていればいいので「わざわざ成長する必要」はないし「IT投資をして仕事を効率化する」必要もない。キャッシュカウが死ななければイノベーションは起こらない。日本はキャッシュカウを延命させることで過疎化を起こしている国だということになる。
新しい企業文化が入ってこない理由は他にもある。
最近トルコの経済が停滞している。アメリカと対立しており新興国マネーの引き上げが起こっているようだ。この新興国の中には韓国が入っている。韓国は「海外マネーを取り入れて成長している」国である。一方日本は債権国になっていて「お金を貸す側」になっているので、新興国マネーの影響を受けて経済が停滞するということはない。これがGDPでは見えない「先進国」と「発展途上国」の違いである。多分、歴史的な経緯から作られた差異であろう。
発展途上国は経済成長の余地が大きい上に、海外マネーを取り入れる必要性から新しい経営理念や価値観が入って来やすい一方で日本は過去の蓄積があり贅沢さえ言わなければそこそこの暮らしができる。最悪生活保護を配ってもそれなりになんとかなってしまう国になっている。ところが、何もする必要がないので、設備投資は更新されず、IT革命は起こらず、従業員の給料も上がらず、福利厚生も向上しないということになっている。
だが、発展途上国には固有の問題がある。政情が不安定化すると投資家が一斉に引き上げてしまうので一気に不況に陥る。トルコは今その状態にあり、それに引き込まれて南アフリカやアルゼンチンでも通貨安が起きたという話がある。
ここから発想を飛ばしていろいろな考察ができるのだが、まず最初にやらなければならないのは日本はキャッシュカウを殺してでも再び成長を目指すべきなのかという議論である。もともと長期安定志向の強い日本人には到底受け入れられそうもない政策だが、これは定常化(つまりゼロ成長)を意味する。
安倍政権を支持する若い人は「民主党になったら就職不安が起きる」という一方で、もう日本は成長しないからその状態になれるべきだというと「老害だ」と言って憤慨する。だが、ここまで見てきたようにこの二つは実は同時には成り立たない。目の前の就職不安を解消するためには既存の企業に生きていてもらう必要があるが、これは確実に成長を阻害している。だが、これを乗り越えることはできないだろう。
国が成長しないということは「新規の労働(平たく言えば頑張り)」が意味を持たないということになる。今まである蓄積で生活したほうが良い世界である。言い換えればアパート経営者の生活ということになる。資産で生活できると言えば聞こえはいいが、電球を取り替えたりという「メンテナンス」の毎日を送りながら、頑張っても収益は増えないという世界である。冗談抜きで「保守はメンテナンス」ということになってしまう。新しいことをやりたいと考えるとまだ住めるアパートを壊す必要があるのだが、その途端に収入の道が途絶えてしまうのだ。
「老後型」の国では労働も新しい技術も大した価値を持たないので、価値観を大幅に変える必要があるだろう。
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たけし軍団はまずジョン・コッターを読むべきである
ビートたけしの事務所独立騒ぎについてフォローしている。このエントリーは2本目で、1本目では「軍団はさっさと独立すべき」という論を書いた。ワイドショーでは「ビートたけしは軍団の側についた」一方で「森社長はスタッフと一緒になっている」という構図でこの騒動を分析しようとしている。しかし、この構図だと説明できないことが多い。
第一になぜビートたけしが弟子を連れて新しい事務所を作らずに株式を渡したのかがわからない。次に森社長が全ての従業員を再雇用を条件にして解雇した理由もわからない。
これをきちんと説明するためにはビートたけしが弟子を切り離し、また森社長もスタッフを切りはなそうとしたと考えるべきだ。つまりビートたけしはテレビ局と視聴者が考えるような形での温情は持っていないという結論が得られる。では、ビートたけしは冷たい人なのかという疑問が出てくる。この疑問を抱えたままで次に進もう。
ビートたけしが株式を譲渡したということはつまり、軍団の人たちが会社の経営権が持てるように仕向けているということになる。これも温情の一部と捉えられているが「自分でやって行きなさい」というメッセージでもある。ある意味「冷たい」態度だ。
一方で、森社長がオフィス北野に残るという選択肢は考えにくそうだ。根拠は二つある。
報道によると、森社長に興味があるのは「北野武」とその映画だけのようだ。次に週刊誌のインタビューによると「いつまで稼げるかわからないから、稼げるうちにスタッフにはお金を渡していた」と説明しているようだ。つまり事務所を立ち上げた時から「このコンテンツがいつまで収益をあげるかわからない」と考えていたことになるし、次の収益源を作って会社を永続化させようという気持ちはなかったことになる。もし次世代の収益源を作るつもりがあるなら、それに投資していたはずだからである。つまり、森社長は「老後の貯蓄」という概念は持っていたが「次世代への投資」という概念を持っていなかったということになるのだが、これは投資を嫌い貯蓄を好む日本人としては極めて当たり前でまっとうな感覚である。
つまり、オフィス北野は法的には会社だったのだが、西洋の経営者が考えるような意味での会社ではなかったということになる。継続に関する前提をGoing Concernというのだが、日本では「継続企業の前提」などと呼ばれているようだ。だが、日本語の継続企業の前提という言葉は一般化していない特殊な考え方なのだということが言える。
大企業はGoing Concernを前提にしているところが多いのだが、中小企業の場合は「この会社はワシ一代限り」と思っているところも少なくないかもしれない。日本は家業意識が強いので、家業を飛び出して企業を作った場合それを第二の家業にしようという意欲がわきにくいのかもしれない。つまり、村落が嫌で飛び出してきたのに自分が新しい村を作るつもりはないということになる。
ビートたけしが弟子に株式を譲り渡した理由はわからない。単に弟子の育成に疲れただけかもしれないし、自分がやってきたことを継続化させるために後継者を育てたかったが、弟子たちが本気にならなかったのかもしれない。Going Concernという意識のない日本人にとってその気持ちは曖昧なものであり、言語化しない限り一つに同定することは難しいのではないかと思う。
最初は森社長がビートたけしの収入に依存しており、それが未来永劫続くと考えていたのではないかと思っていたのだが、新潮のインタビューのプレビューを聞く限りそれは正しくないようだ。森社長は「ビートたけしから収益が上がらなくなったら企業はそこまで」であって、その先は考えていないのかもしれない。森社長はもしかしたら「もうこれで終わるな」と考えており「殿に弟子をリストラを押し付けられた」と感じているかもしれない。一方で、弟子の間には「このままの居心地の良い関係が続くはずだし、続くべきだ」という気持ちが強いのではないだろうか。
かなり特殊な世界の出来事のように思えるのだが、すでに説明した通り、こうした状況は中小企業では珍しくないのかもしれない。だからこそ職人たちは「一生現場にいたい」し「一生麺名やることだけが自分たちのできることである」と言っていられるのである。
これをエンターティンメントの世界の話だと考えれば、吉本興業のような大きなプロダクションができるまで浅草や大阪の演芸会がどのように継続性を維持していたのかということを研究しても面白いかもしれない。都市の中の村落のようなものがあり継続性が担保されていたのかもしれないし、河原乞食と呼ばれるように継続性のないその場限りの集団だったのかもしれない。
だが、この話を経営論として捉えると「次世代製品の開発」についての物語になる。森社長は名プロデューサーとして知られているようなのだが、報道を見ている限り経営者としてはそれほど才能のある人ではなかったようだ。記者たちへの受け答えにあまり戦略が見られず「軍団とうまく言っているはずないじゃないですか」と逆ギレしている。これが「ダメ」ということではなく、あまりこの後のことは考えておらず、今回のことでいくらか稼いで終わりにしようと思っているのではないだろうか。
たまたまビートたけしに映画監督の話が転がってきて映画を作ったら評判がよかった。ビートたけしも森社長も戦略的に映画を作ってフランスに売り込んだというわけではなく、持って行ったら評判がよかった。たまたま当たってしまった成功は再現できない。もともと経営者になるつもりがなかったなら、この対応はむしろ普通のもので責められるようなものではない。
Goign Concernを大きな企業でも同じような例はいくらでもある。例えばIBMのように大型のコンピュータ(メインフレーム)で成功してしまったためにPCに乗り遅れた。マイクロソフトも同じようにPCで成功しすぎてしまったためにモバイルの波に乗れなかった。唯一の例外はアップルだが、名前から「コンピュータ」を除外するくらいの思い切ったこともしたし、スティーブ・ジョブズは一度放逐されている。これくらいのことをやらないと新しい波には乗れないのである。
Going Concernの原則を維持するためには「事業継承」とか「後継者の育成」とか「次世代を牽引する商品の継続的な開発」などが必要だ。だが、成功した企業でもそれは難しい。ましてや古い浅草演芸の世界を引き継いているお笑い業界には難しかったということになる。村落を出てきて新しい集団を作ったがそれが社会を形成するために必要な条件を満たしていなかったという例は、これまで政治の分析をしてきて嫌という程みてきた。
前回のエントリーでは従業員の立場としてはさっさと見切りを付けた方が良いのではないかと書いた。そしてその気持ちは今も変わらない。地方にチャンスがあるのなら「都落ち」などといわずにそれに適応するのもよいことなのである。もともと継続性のない事業だったのだからここが潮時ということになる。
ただ、この次世代を牽引する商品を作るフレームワークがないわけではない。それが「変革管理」である。
しかし、もし仮に今報道で言われているようにたけし軍団が株式の9割を持つということになるのならば、たけし軍団は「弟子」ではなく、経営者として次世代を牽引する商品を開発する責任を負うことになる。実際、ほかの芸能プロダクションやグループの中は中国やインドネシアに進出したり、インターネットに新境地を求めるという動きも出ている。その意味ではたけし軍団のなかから「本物のプロデューサシップ」を持った人材が登場することが期待されるということになる。
有名なジョン・コッターの変革マネージメントにおいては最初の危機感の醸成が一番重要なのだが、たけし軍団は期せずして商品でありながら経営者という状態に置かれてしまったわけである。たけし軍団はテレビ局相手に情報戦を仕掛けて森社長を貶めるのではなくジョン・コッターの本を読むべきだと思うのだが、人としてはやはり急激な変化にさらされた時に「怒り」を持つのは当然なのかもしれない。
いずれにせよ、事業を継続するためには、当事(商品であり英英者)であるタレントが「今のままではダメだ」という強い危機感を持たなければならない。ビートたけしはその意味では正しく危機感を与えようとしたのかもしれない。もし、そうだとすればこの一連の行為はビートたけしの温情だったことになる。
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手塚治虫と狭い窓
QUORAに「なぜ日本ではアニメがそんなに盛んなのですか」という質問が上がっていた。いくつかの原因が考えられるのだが、長い英文を書く根気と実力がないので結局答えは書かなかった。
日本で漫画が受け入れられているのはなぜかを考察した人は多いだろう。いろいろな説があるのだが、漢字仮名交じり文化圏だからだという説がある。もともと文字体系が複雑なので、漫画のような複雑な媒体が受け入れられる素地があるというのだ。普通に漫画を読んでいる人には信じられないかもしれないが、長い間漫画を読まないと読むのがとても面倒になる。あれはとても複雑なメディアだ。また、日本の漫画はアメコミと違ってリアルさがない。抽象化が進んでいるので、映画の偽物だと考えられなかったという可能性があるのだ。
が、中国も漢字文化圏なので漫画が流行しアニメが盛んなっていた可能性はある。が、中国で漫画やアニメが盛んにならなかったのは、知的財産に関する価値が高くないからであると仮置きすることができる。知的財産へのお金の流れがないとクリエイターが育たないのだ。何かが流行したらそれをコピーしてしまうようでは海外に売れるようなオリジナリティのある作品は作れないだろう。
アニメが流行した理由は需要者と供給者のそれぞれの側面から考える必要があるということがわかる。日本のアニメクリエイターの貢献は大きいが、それを辿って行くと手塚治虫に行き着く。手塚治虫はまず漫画で成功して、その印税を使って虫プロダクションを設立した。虫プロは大勢のクリエイター(アニメーター、監督、プロデューサー)を輩出することになる。この人たちが他のプロダクションに移籍したり、原作者になったりして日本のアニメは子供だけでなく大人にも受け入れられるようになった。
それではなぜ手塚プロは人材を輩出することができたのだろうか。それは手塚治虫が自らもクリエイターだったからだろう。もし、彼が単純な資本家だったら「とにかくディズニーの真似をしろ」ということもできたはずだ。が、映画を研究して漫画を作っていたので、アニメに対する基本的な理解があったのだろう。
だが、制約条件も見逃せない。アニメを作っても特に儲かるということはなく、最初は手塚の漫画の印税などをつぎ込んでいたようだ。それでもアニメプロダクションを維持したのは単純にアニメ制作が好きだったからなのだろう。いずれにせよ予算制約のためにディズニーの手法をそのまま取り入れることはできず、様々な工夫をして制作費を浮かせる努力をした。こうした経験と自給自足的な体験がのちに幅広い才能に受け継がれて、日本でアニメ文化が根付いて行くことになるわけだ。
つまり、印税が入ってくる程度には潤沢な予算があり、なおかつみんなが市場を荒らしたくなるほどの規模でもなかったという絶妙な環境が日本のアニメ産業を支えたのだと言える。
もちろん手塚治虫という才能がないと日本のアニメ業界が今のようになっていたとは思えないのだが、産業が起こる程度の窓が開いていた時期は実はそれほど長くなかったのではないかと思える。
アニメクリエイターにお金が流れていた時期もほんのわずかだった。権利ビジネスが儲かるということが理解されるようになると、権利だけを抑えて下請け的にアニメ制作会社にアニメを作らせるという手法が蔓延することになる。DVDの出版印税や周辺グッズの売り上げは制作委員会で総取りし、アニメーターは生活保護が必要になる程度のお金をもらう個人事業主として搾取されるという構造だ。
手塚はクリエイターだったが、権利関係をバックアップしてくれるビジネスマンがいなかったのだろう。この視点でウォルト・ディズニーの項目をwikipediaで読むと、同じような話が出てくる。もともとクリエイターだったウォルト・ディズニーは一旦アニメ制作会社を設立して成功するが資金管理がずさんなために失敗してしまう。また、のちにはユニバーサル社から不利な契約を突きつけられてしまう。ウォルト・ディズニーは仲間や兄と協力してそれらの危機を乗り越え、のちにテーマパーク事業などに進出するのだ。
このことから、一人の才能だけで産業を支えることはできず、協力体制の大切さがわかる。日本人は意外と協力が苦手なのかもしれない。
つまりコンテンツビジネスが成立するためには、オリジナルなコンテンツが作れる人と彼らに利益を還元する仕組みが必要なのだということになる。そもそもオリジナルなコンテンツが作れないと、それを海外に売り出すこともできないのだが、利益の還元を怠ると健全な環境が維持できないのではないだろうか。
ネットで視聴率を気にするということ
去年の冬あたりからWEARに投稿している。着ている洋服を携帯電話のカメラで撮影して投稿するのだ。最初は、あの界隈でなにがオシャレなのかがわかるのかなあと思っていたのだが、それほど単純ではないようだ。
指標としては、閲覧数、いいねの数、あとから参照できるようにブックマークされた数(SAVEと言っている)の3種類がある。何がオシャレかを見るためにはいいねの数を見るべきだと思うのだが、これが一筋縄ではいかない。タイムライン上にたくさん出てくるコーディネートからいいねを選ぶと、どうしても「その人のキャラに合っているか」と「そこで目立っているか」ということが重要になる。さらに見慣れたものにいいねを押す可能性も高いわけだ。評価するのはプロではない。
しかし、問題はそれだけではない。フォロワー数が決まっているので閲覧数は一定になるべきなのだが、そうはならない。どうやら「ユニクロ」に大きく反応しているようだ。スキニージーンズやライトダウンを買ったのだが、これのコーディネートを探している人が多いのではないかと考えられる。
一方で見向きもされないスタイルもある。ジーンズやチノといったカジュアルスタイルには反応があるが、ウールパンツにジャケットといった高級感の強いスタイルはもはや見向きもされない。つまり、ユニクロが注目を蒐める一方で、クラッシックなスタイルはほとんど注目されないということになる。
細かい観察点はいくつもある。ブログを書く際にはユニクロを中心にまとめた方が閲覧数は稼げるだろう。しかし乱暴にまとめるとネットの「インターラクティビティ」は、議論を活性化させるのではなく、議論を膠着させるということが言える。人々はユニクロのように単純なスタイルに惹きつけられるか、見たことがあるスタイルに興味を持つということだからだ。
これを打破するためには、ショップなどが連携して「このスタイルがモードの中心だ」ということを主張し続ける必要があるわけだが、一般の声が大きすぎて十分な熱量を与えることはできない。そのうちに売り上げをベースに(売り上げはネットの声に影響されて「つまらなく」なっている)無難なものに推移して行くことになる。
同じような現象は珍しくない。例えば政治が国民の声を聞くと「保守化」することが予想される。ここでいう保守は政治的なコンテクストの保守(実際には体制追従の人たちか日本が戦争に負けたことを認めたくない人たちのことだ)ではなく、とにかく現状を変えてほしくないし難しいことはわからないという人たちのことだ。これは必要な改革が行われえないということを意味している。
同じように歌番組も解体されてバラエティ化されることが予想される。しばらくは組織票(前回の考察ではジャニーズを公明党になぞらえたが)に頼るか、解体を進めることになる。紅白歌合戦は「国民的歌番組」を標榜する限り、和田アキ子や演歌の大御所のようなクラッシックは消え去る運命にあるということになる。
イノベーションを勉強したことがある人はこれを「創造的破壊」なのではないかと考えるかもしれないのだが、ちょっと違っているなと思える点もある。これまでの創造的破壊にはドライバーになるようなイノベーターがいないのである。スープは単に冷めて行くだけのように見えるのだ。
スライスパンの発明
スライスパンの発明というキーワードで流入が増えた。調べてみるとカブスの優勝を賞賛するのにオバマ大統領が「スライスパン以来のすごいことだ」といったというニュースが流れたためらしい。この言い方は「画期的だ」という意味の慣用表現なのだそうだ。
Wikipediaによると、スライス機械を発明したのはOtto Frederick Rohwedderという人だった。プロトタイプを火事で焼失させたりしながらも1928年にスライサーを完成させた。幾つかの会社がパンの包装に工夫を施し、最終的には新興のワンダーブレッドが1930年に全国展開を成功させたそうだ。ワンダーブレッドは今でもアメリカのスーパーではおなじみのブランドである。
スライスパンが作られてから、パンが薄く切れるようになった。そのためパンが気軽に食べられるようになり、多くのパンが売られ、それにつれてスプレッド(ジャムなど)の売り上げも伸びたという。
食パン自体が作られるようになったのは、列車の食堂車が起源だったと考えられている。限られた空間で効率的にパンを焼い積み上げておく必要があった。そのため蓋つきの容器で焼かれたのがプルマンブレッドだ。プルマンという会社が車両を作っていたためにプルマンブレッドと呼ばれるようになった。
ネット上には9世紀に作られたという言説が広まっているが、これはコピペミスによるものだろう。白金の有名なパン屋のサイトには次のようにある。
9世紀の終わり、アメリカの鉄道会社「プルマン社」が製造した食堂車「プルマンカー」では、蓋付きのケースでサンドイッチ用のパンを焼いていました。
こうした背景により、日本でお馴染みの「角型食パン」はプルマンブレッドと呼ばれています。
金麦のプルマンブレッドは、きめ細かな内層でしっとり食感!!
9世紀には鉄道会社はなく、そもそもアメリカという国もなかったのである。
パラリンピックのサイボーグ化
Twitterでパラリンピックはアンドロイドの大会になるだろうと言っている人がいた。なんとなく見過ごしてしまえばいいのだが、元SFファンとしては素通りできなかった。アンドロイドは人間もどきという意味がある。つまり人間型のロボットをアンドロイドという。鉄腕アトムはアンドロイドで、ドラえもんは猫型ロボットなのでアンドロイドではない。人間をベースに機械をつけるとサイボーグになる。だから、パラリンピックのサイボーグ化が正しい表現だ。
多分、ツイートの裏には装具をつけて「健常者以上に能力を発揮することに対する戸惑」があると思うのだが、なかなか面白い問題を含んでいる。それはオリンピックに対して人々が作っている微妙な線だ。
人がサイボーグとみなされるためには、装具に自律性がなければならない。単なるメガネ、義足、松葉杖をつけた人はサイボーグ化とはみなされない。パラリンピックを一覧する限り、義足にセンサーやモーターはついていないので、装具をつけているだけでサイボーグになったとは言えない。逆に視界を遮る装具をつける競技さえある。
車椅子陸上はほとんど競輪のような迫力だが、車椅子にモーターをつけてはいけない。だが、これはパラリンピックの縛りというよりは、オリンピックの縛りだろう。オリンピックにもモータースポーツはないし、ヨットやカヌーはあるが、モーターボートレースはない。
と、同時にオリンピックにも装具が必要な競技が多数ある野球のボールを手で打つことはできない。手が痛いし骨も折れてしまうかもしれない。オリンピックの装具はカスタマイズができないが、パラリンピックの装具はある程度のカスタマイズが許される。だが、装具を使うことには違いがない。
オリンピックには「肉体を使ってできるところまでやる」という線があるのだろう。
一方で、道具を自律化することは倫理的に許されないということもない。F1がスポーツとして認知されるのは、車の技術力だけではレースに勝てないことをみんなが知っているからだろう。ダカールラリーのように耐久性のデモンストレーションになっている競技もある。自律性(センサーと駆動装置)を備えた義足でジャンプする競技はモータースポーツのようなもので、各社の技術革新に寄与することになり、社会的に意義があるだろう。
また、目が見えない人に音センサーをつけることも、現在のパラリンピックでは許可されていない。音センサーをつければ壁を感知したり、コースを逸脱するようなことは減るかもしれない。こうしたインターフェイスの開発はホームから人が転落するのを防ぐような技術に応用できるだろう。音ではなく電気刺激だったり、視神経に直接つなぐという技術もあり得る。
オリンピック、パラリンピックは人間が持っている肉体をどれだけ有効に使うかという競争なので、パラリンピックをサイボーグ化するべきだという主張をするつもりはない。だが、障害者スポーツをリハビリで健常者に近づくための機会だとしてしまうと、せっかくのイノベーションの機会が削られるかもしれない。結局のところ、人は頭脳を使って肉体を拡張する能力を持った生き物なので、その能力を活かさない手はないと思えるのである。
転売士(ダフ屋)を排除するためにできる簡単なこと
共同声明というワードがTwitterのトレンドワードに入った。アーティストの連盟がコンサートチケットの転売に反対しているのだという。オリコンの記事を読むと「グッズの売り上げが減る」ということらしい。
システムや構造の不具合については考えないで、やみくもに禁止したり、相手の心情に訴えかけるというのは、いかにも日本人らしいなあと思う。日本は自由経済社会なので、欲しい人に転売するのを禁止するのはなかなか難しいのではないかと思う。
だが、転売士(いわゆるダフ屋さん)を排除するのは実はとても簡単だ。チケット販売を自前でオークションにすればいいのだ。お客に1週間適度の時間を与えて好きな価格を付けさせればいい。実際にはファンの間でオークションが行われているのだから、それをプロダクションが代替するということになる。仕組みはとても簡単だし、スマホ世代の人たちはオークションに馴れている。何の問題もなさそうだ。
メリットはいくつかある。まず、5秒でチケットが売り切れるということはなくなる。これまで通買えない人は大勢出るだろうが、財力の差ということになる。
次に嵐のコンサートで見られたような面倒な本人認証の仕組みは必要なくなる。これもeチケットにすればいいのにとは思うのだが、価格が上がってアービトラージできなくなれば転売士(ダフ屋)は自然に淘汰されるだろう。
問題は「チケットが高すぎてグッズが売れない」ということらしいのだが、グッズはチケット代金の中に含めればいい。これも解決できる。
最後にチケットの売り上げが事前にある程度把握できるので、追加公演も打ちやすくなるかもしれない。
チケットの値段がつり上がってしまうと、若年ファンがチケットを買えなくなるではないかという話もありそうだが、これも解決は可能ではないか。若年枠は安く買えるように「学生割引」をすればいい。これを「汚い」と思う人がいるかもしれないが、実際にはディズニーランドもシニア割りみたいなことをしている。「かつての女子」たちが平日に連れ立ってディズニーランドに行けるようなパスが売られている。同じようなことができるだろう。
技術的に一番問題になりそうなのは「競り落としたけど買えない」という問題だ。クレジットカード即時決済にすればいいとは思うのだが、学生はクレジットカードなど持っていないわけでこれは難しそう。親が見とがめて社会問題化ということも考えられなくはない。これはもう一定期間キャンセルできるような仕組みにするしかなさそうだ。いわゆる「キャンセル待ち」というやつだ。これを実現するためには数学と統計がいる。
このようにメリットが多いオークション方式だが、これで一番困るのはチケットセンターを運営するプロモーターではないかと思う。かつては独自のルートでマーケティングするプロモーターが全国各地にいた。なぜそんな制度があったかというと、情報を得る手段がタウン誌やミニコミ誌などのマイクロ媒体しかなかったからだ。ぴあのような全国媒体ができて状況は若干改善されたが、いまではほとんどの人がスマホかPCを持っているのだから、かつてとは違った制度があってよいのだ。いったん仕組みができれば、転売士(ダフ屋)も排除されるが、プロモーターも潰れてしまうかもしれない。持ちつ持たれつの興行の世界ではこれが大きな問題になるのかもしれない。
「皆さんで考えてほしい」というので、考えてみた。技術的に難しいことは何もないが、結局はしがらみなのかもしれない。