東大農正門前無差別刺傷事件・へずまりゅう・ゲームリセット社会

この文章を読む前に考えて欲しい。あなたが「クソゲー」と言われるゲームをプレイしているとする。なかなか勝てない。その場合「どうするのが正解」だろうか?

大学共通テストが行われる東京大学農学部の前の路上で受験に来た高校生二人と高齢男性の一人が刺された。刺したのも受験生なのではと言われていたが高校二年生だったそうだ。自分は東大を受験するんだと言いながらも受験生を刺していて頭の中が整理できていない様子がわかる。ただ彼のやろうとしたことは明白だ。このゲームをチャラにしてやると意気込んでいるのである。彼はその目標は達成した。

社会はそれがうまく理解できない。新聞では容疑者の名前と学校名は伏せられているが世間の関心は「どこの学校の学生がやったんだ」ということになっているようだ。週刊文春は愛知県の名門で偏差値75の東海高等学校の高校二年生だったと報じている。一方で受験生の親は「警備をしっかりして欲しい」と戸惑っている。

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フクシマ差別の次は東京差別

東京アラートが解除されてからまた新型コロナウイルス感染者が増え始めた。だが今度は様子が違っている。東京都は実態隠蔽のために数値目標を撤廃したようだ。だが人々が反発している様子はなく「差別」で対抗している。東京は汚れているから来るなということになっているらしい。ひどい話だが仕方がない。東京には前科がある。

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新型コロナウイルス肺炎(COVID-19)をめぐる人々のまだらな対応

連日安倍政権批判と絡めて新型コロナウイルス肺炎のことを書いている。今回は批判はお休みにして人々のまだらな対応について書いておきたい。この何が問題なのかと考えていたのだが、おそらく差別・被差別構造が根元にあるからだろう。そして誰もが差別される側になる可能性がある。

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新型コロナウイルスとデマ – 何がフェイクニュースかを見分けることはできるのか

武漢コロナウイルス騒動では様々な噂が出ている。最初に目にしたのは「武漢にはウイルス研究所がありそこからウイルスが漏れたのではないか」という噂だった。

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わからないという不安 – 日本人が集団で相手を非難するのはなぜなのか

ABCニュースのトップはボルトン氏の辞任の話だった。大統領は自分がクビにしたと言っているが本人は自分から辞めたと言っている。既定路線だったようで特に分析などは出ていないのだが、やはりニュースといえばニュースである。ところが日本のニュースはまだ内閣改造に搦めて日韓関係をやっている。「内閣改造は対韓強硬路線を示すために行う」というのである。日本のマスコミは安全毛布としての韓国にしがみついている。




Twitterをみると安倍内閣が千葉を忘れて内閣改造に没頭するのは何事だというつぶやきと復旧に奔走する野党議員を罵倒するつぶやきが見つかった。こちらも状況がわからない外野が騒いでいるようだ。

この様子を見るだけで日本人がどんな精神状態に置かれているのかがわかる。誰かを非難したくて仕方がないのだがそれが自分に跳ね返ってくるのが嫌なのだろう。そこで叩けるものを叩いて騒いでいる。誰かを叩くのは多分不安だからだろう。

日本人はアメリカには勝てないと理屈抜きで考えているのでアメリカがうまくいっていないというニュースは見たくない。一方韓国には勝てると考えていて、韓国関連のニュースを見たがる。旧秩序に基づいて現状を見ている。見えるはずのない歪んだメガネだがどういうわけかものの見方は変えられない。

電気については「面白いなあ」と思うことがある。電気が復旧しないのには必ず理由があるはずである。多分現場は何が起きているかを知っているだろう。だがテレビ局が見たがるのは「災害のすごい絵」と「責任者の処断」である。マスコミは常に部外者なので大きな絵を切り取りたがる。原因がわからないから次第に「誰を非難するか」に意識が向かう。こうして問題解決から意識が遠ざかって行く。

不思議だと思っていたのだがようやく理由がわかった。つまり「何がどうなっているのか」がわからないものを外から触っているからこういう絵しか流せないのだ。原因が分かればその原因について説明すればいいのだが、それができないのだろう。ニュースアンカーもレポーターの紹介係になっているだけで情報を統合しない。というよりそういう発想がないのだ。

初動の時期に東京電力に話を聞いてみて思ったのだが、各現場は情報を持っている。ただそれを他部署に伝えたりお互いで共有しようという発想は全くないようだ。聞かれるまで黙っている人と教えてもらうまで黙っている人がいる。そしてそれがマスコミによって無理やりにつなげられるとストーリーがでっち上げられ炎上する。SNSの発展によりショートする回路は格段に増えている。

電力会社に質問すれば答えは教えてくれる。東京電力の職員は千葉市役所の本庁舎にも常駐しているそうだ。つまり話を聞ける人もいる。すなわち「質問ができる人がいない」ということになる。

何を聞いていいのかがわからなければ何も伝えられない。日本の新聞記者は受け身の日本式教育を受けて記者クラブで与えられる情報を餌にして育つのでそうなるのだろう。問題意識を持って「これはこうなのじゃないか」という仮説が立てられない。仮説を立てて推論ができないと何が起きているのかがわからない。あとは騒ぎに乗るだけである。

同じことが多分日米関係にも言えるのだろう。日本人はアメリカで何かが起きていることはわかっている。だがそれが何なのかがわからない。誰も正解を教えてくれないからである。

アメリカはそれを仮説を作って説明しようとする。

イアン・ブレマーが面白いことを書いている。トランプ大統領は症状であり原因ではないというのだ。つまりトランプ大統領が問題を引き起こしているのではなく、問題の結果がトランプ大統領だということである。イアン・ブレマーは極のない世界という世界観を持っているので、その症状は無秩序だろう。今回はジオポリテックリセッション(地政学的不況)という言葉を使って説明しているようだ。

イアン・ブレマーはこれを地政学的不況というコンセプトで説明しようとしているものは、結局なんだかよくわからない。ただ、言葉を与えるだけでお互いに共有できるようになるという不思議な作用がある。とりあえず古い体制に戻ることはなく新しい状態に移るためのトランジショナルな状態にあるのだと考えることで、ようやく話し合いの糸口が掴める。日本人はこれをやらずに単に騒いでいる。騒げば誰かがなんとかしてくれると思うからなのかもしれない。しかし、騒いでも状況が元に戻ることはない。

イアン・ブレマーの仮説がどれくらい正しいのかはわからない。重要なのは「大きな仮説」を立てて包括的に物事を眺めることである。つまり、元には戻らないがかといって、この世の終わりでもないということなのだ。

日本人が仮説を立てて何を質問すべきなのかが考えられないのは多分学校教育のせいだろう。正解を学ぶことしかしないので自分で問題意識を持って調査しようという気持ちになれない。だから今のテレビを見ていても不安になるだけだ。だが、もうテレビを非難しても何も解決しないだろう。だから学校教育についてせめても何の役にも立たない。

我々にできることは多分自分で新しく情報を集め始めることだけなのだ。

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吉本興業が抱える法的リスクは将来日本が抱えるリスクだった

吉本興業の前近代的な芸人マネージメントについて考えている。前回は芸人には隙間も必要なのでは?という論調で書いてきた。しかし、この話には別の側面がある。それは法的リスクである。




仮に吉本興業所属の芸人が別の芸能事務所と契約を結んだとする。独占契約権を与える代わりにリーズナブルな出演料が得られるような契約である。ここでは、物販の権利は芸人側が保持しテレビ局からの出演料は折半するものとしよう。

吉本興業はこれを差し止めるのはなかなか難しそうである。なぜならば「契約書」を示せないからである。確かに口頭での約束はあったかもしれないし既成事実は積み重なっている。口頭契約や既成事実の積み重ねは法的に有効なのだそうだ。だが解除規定がないはずである。故に芸人側は口頭で契約を解除してしまえばいいのである。そこに書面を添えればもっと効果的であろう。

吉本興業はテレビとの関係を築いており、テレビに芸人排除を求めることはできる。できるのだが、また別の問題が出てくる。これは独占禁止法が禁止する「優位な地位の濫用」に当たる可能性が出てくる。この辺りをどう判断するかは個別の司法判断になるだろう。

実はこちらの方が根が深い問題なのかもしれない。契約については「多くの芸人が一斉に他の会社に流れる」ようなことがなければ吉本興業の地位が揺らぐことはないだろう。しかし、独占禁止の場合は「誰か一人でも」訴えてしまえば「テレビに圧力をかける」こと自体が禁止されてしまう。テレビ局も「コンプライアンス」を重要視しているのでキャスティングの透明化が求められるはずだ。闇営業ならぬ闇キャスティングという別のスキャンダルが生まれる。

ただ、こうした動きを芸人本人が行うのは難しいだろう。日本の問題は多分「プロダクションを超えた芸人の組合」が作られないところにあるのではないか。アメリカの俳優ギルドのようなものが日本にはないのだ。調べてみるとアメリカにもコメディアンの労働組合はないようである。俳優や作家には境界があるので意外な感じもする。

組合がないことはなんとなくプロダクション側に有利に思える。だがまた別の問題を思いついてしまった。

今回出てきた問題は所属芸人が法的に好ましくない人たちと関わったことが問題になっている。なんとなく「契約解除」などと言われているが、そもそも書面契約がないのだから契約を解除することも書面ではできない。さらに道義的責任というさらに厄介な問題も抱える。

道義的責任があるから「所属事務所の不始末だ」と非難を受けることになってしまうのだが、芸人には法的な知識がないのでコンプライアンス遵守とチェックができない。しかし吉本興業は生活保障をしないのでこれからも「違法営業」が排除できない。これをお互いに助け合って乗り切ることはできるはずだが、芸人をネットワークして相互扶助しようという考え方は日本にはない。

これは、一般の会社にも言える。正社員の身分保障ができず副業を認めるところが増えている。だから、マスコミは必ず「A社の社員が違法副業をしていた」と報じるようになるだろう。

生活保障を外すということは必要のない法的リスクを抱えるということを意味している。これを補助するのが「組合」だ。例えば落語家には協会がある。芸人も作ろうと思えば協会が作れる。しかしながら普通のサラリーマンだった人には「職能」すらない。実は一般社会はこれから「もっと吉本化」する可能性が高いのである。

面白いのは日本のテレビがこれを全く分析しないという点だ。日本人はその場その場の状況で「暴力団=いけない=やばい」と感じてしまうのだが、根本的にそれをどう改善すればいいのかということは語らない。多分、職能ごとの組合という考え方が一般的でない上に、生活のために副業をしなければならないという切実さがないからだろう。

しかし、例えば新聞社などは記者の生活保障ができなくなっている。記者が生活のために匿名で過激な文筆活動を始めた時、世間はどう思うだろうか。次に「吉本化」するのは新聞社なのかもしれないと思った。

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我々は無数のグレーをなくし全てを漂白しようとしているのではないか

先日は裏の世界だった芸能界が、実業の支援(スポンサーシップ)を受けることで「きれいに」ならざるをえなくなっていった様子を見た。社会の漂白化と言って良い。だがこれは、実業が縮小すると漂白剤が切れて本来の黒い部分が見えてしまった。




アメトーーク!のスポンサーが次々と降りたということだが、思い入れのある番組であればそんなことはなかったはずで「枠で買わせる」という電通方式が崩壊しかけていることを意味しているのかもしれない。枠が崩壊すればスポンサーに思い入れのない夜のバラエティ番組は作れなくなり放送休止になるか社会正義を振りかざす情報番組に切り替わってしまうだろう。だが、スポンサーに思い入れのある番組というと「何か教養的で押し付けがましいものが多い」。世界遺産を眺めたり各地の鉄道旅行を楽しむという番組があっても良いが、どこを切っても同じようでとてもつまらない。

背景には前近代的な「契約書のない」社会もあった。つまり、根幹の部分では裏社会とそれほど変わらない契約体系になっていたのだ。これは吉本興業の出自と関係がある。

今回は、この契約のない裏経済が必ずしも「いけないことなのか」ということについて考えたい。例えばおれおれ詐欺はいけないことである。麻薬の取引もやってはいけない。では、芸能に裏経済的な要素があるということは、芸能も同じようにいけない仕事だということなのだろうか。

芸能裏経済は、表の世界に出られないような人たちの生活の支えになっていた。芸能はセーフティネットがない社会では生活保護的な側面を持っていた。

落語の徒弟制度はその典型だ。立川志らくが弟子を降格させたことは「生活の糧を奪うひどい行為」なのだが、芸能界が表の世界ではない以上許容される隙間がある。立川志らくが伝統に基づいて好きに食わせているのだから「煮て食おうが焼いて食おうが」ということになる。どちらも契約とは無縁な世界だ。

それよりもちょっと新しいのが多分たけし軍団だろう。どうにもならないような人たちが集まるような場所になっていて、ビートたけしが稼いだ金で彼らを「食べさせていた」。これはビートたけしの「浅草」という出自に関係があるのだろう。浅草システムは終身雇用制や1940年体制が成立する前からあるのだから、ビートたけしはその最後の支え手だったことになる。ただ、たけし軍団はオフィス北野という会社組織を作ったことでその意味づけに変化が生じている。つまり中間形態と言って良い。

吉本興業の問題点は会社が国家権力と結びついたり芸人を「文化人枠」で売り出そうとしたことにあるのかもしれない。つまり表に近づきすぎてしまったのである。だが、その前兆は随分前からあったのではないか。会社形式にしスクールシステムという近代的な育成システムを一部取り入れた。近代的システムに拠っているのなら芸人にも請負契約や雇用契約などを結ぶべきだった。ところが実際には社員と芸人、つまり近代と前近代という二つのシステムがある。これが問題を起こしている。

もともと「劇場で表から切り離されていた」ところに演芸の楽しみがあったのだが、テレビはこれをお茶の間に乱暴に放り投げてしまった。そして皮肉なことに芸能番組の方がなくなりつつある。お茶の間は日常の延長なのだからそれは仕方がないことなのかもしれない。

その意味では報道・情報番組の芸人は非常に微妙な立ち位置にいる。日常の正義にどっぷり身を浸してしまうと「アナウンサー」になってしまい面白みに欠ける。かといってコメンテータのような専門性はない。どこか逸脱しつつ、かといって完全に踏み出さないという「綱渡り」を毎日しなければならない。あちらの世界に一歩足をかけつつこちらの社会にお邪魔するような感じだ。

だがそうしている間に「あちらの世界」が消えつつある。

もともと、映画や演劇の効用は「切り離された世界」そのものにあった。暗い世界に観客を誘い、その中で「現実にはありえない」ことを見せるというのが舞台芸術だった。我々はその中で現実ではできない体験をして現実世界に戻ってゆくのだが、何かを持ち帰る。その何かを「カタルシス(浄化)」と言ったりする。

カタルシスが成立するためにはある程度の時間と空間の区切りが必要である。私たちがスマホとSNSで失いつつあるのはそんなカタルシスが得られる区切りのある時間と空間である。非現実が「現実のきれい事」に侵食されてゆくという世界を我々は生きている。そしてあちら側の世界を「漂白しなければ」と思い込むようになった。

カタルシスが重要なのは、我々が心理的な抑圧を抱えているからである。こうした抑圧は罪悪感や社会通念によって何重にも蓋をされている。やがてそうした感情を認知することすら難しくなりやがて心理的不調や体調の不調を訴えることになる。つまり、我々は環境を漂白しても自分自身を漂白できないのだ。

我々は、白と黒の間の無数のグレーであり、この世の理屈が成り立つ空間とそうでない空間の間にも無数のシェーディングがあった。私たちが失いつつあるのはそういう自己認識だ。

犯罪的組織にもそれが言える。かつては極悪な真っ黒な人たちと正常な真っ白な人たちにの間には無数のグレーがあり、社会もそのことがわかっていた。だが、現代では普通に思えていた人たちがいきなり殺人事件を起こすと白が黒になったといっていちいち騒ぎになる。さらに、犯罪組織はどんどん暗い社会に追い詰められ凶悪さや狡猾さを増してゆく。我々は多様性を失って社会全体を漂白しようとしているのだが、果たして人間にそんなことができるのだろうかという疑問が残る。

いずれにせよ、我々は「厄介な部分を抱えた存在」ではあっても、それを晒すことを一切許されないという随分と難しい世界を自分たちで作っているのかもしれない。

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反社会組織と吉本興業 – 運命の別れた双子

吉本興業の芸人たちが「反社会勢力とつながっている」として一斉にテレビから締め出された。今日はこれについて考える。




もともと、反社会組織と芸能界にはつながりがあった。つながりがあったというより一体だったと考えられる。吉本興業と山口組に100年のつながりがあるという記事を見つけた。これを読むと「興業」と「反社会勢力」がつながっているように思える。だが、実際には反社会勢力の前身は興業もやっていたし労働組合のような色彩も持っていた。共産主義というイデオロギーと結びついた過激な労働運動は鎮圧されたが、イデオロギーとの結びつきがない方はいわゆる「虚業」と呼ばれていたサービス産業と結びついた。

「食えない職業」になったヤクザという記事に神戸芸能社という記述が出てくる。

傘下組員にも土建、港湾荷役、金融、不動産などの会社を興させたことで、山口組は暴力装置を持つ企業集団となった。そして、双方を組み合わせて巧みに全国制覇に乗り出す。50年代以降その道具となったのは、神戸芸能社の看板スターの美空ひばりであり、田岡三代目が日本プロレス協会副会長として「西の興行」の面倒を見た力道山だった。

「食えない職業」になったヤクザ

美空ひばりの名前があるが神戸芸能社が面倒を見ていたのは美空ひばりだけではなかった。お笑いだけでなくプロレスのようなスポーツ興業も音楽も暴力団と完全に切り離しはできなかった。例えば昭和のレコード会社にも「反社対策」の人たちがいて「その筋の人たちとの調整」を担当していた。地方興業の調整もイベントも「そういう人たちのとの関係」なしには成立しなかったのである。

これが変わっていったのは、芸能がスポンサーの広告によって成り立つようになったからのようだ。つまりテレビの登場によって表の企業と結びつくことでテレビもまた「身綺麗にする」ことを求められるようになったということになる。今回も、アメトーーク!から「きれいな」スポンサーが撤退している。企業はSNS経由で炎上するのを恐れたのかもしれない。社会の不満が悪者叩きに向かいかねないことを企業とテレビはよく知っているのだ。

かつての芸能界はこの辺りをきっちりと分けていたようだ。

なべおさみが「ヤクザと芸能界、全部バラすぞ!なべおさみが見た昭和の大スターたち」という記事を書いている。映画のスターたちは反社会的なつながりが表に出るのを嫌って私生活を表に出さない人たちがいたのだという。映画からテレビの移行期には、テレビのカタギの人たちに迷惑をかけないように、テレビではカタギのふりをしていたということになるだろう。

テレビでは木村太郎が「歌手をお嬢と呼ぶことがその筋の人のステータスになっていた」と言っていた。アナウンサーたちは木村太郎が美空ひばりを名指ししたとは思わなかったようだが、ある世代の人たちにはそれが誰のことなのかがすぐにわかる。

テレビが大勢の芸能人を抱えるようになると、芸能界はクリーンになった。チケット販売も「近代化」され地方の興行主に頼らなくても興業が行えるようになった。こうして芸能界は「普通のサービス産業」になったかにみえた。

しかし、こうした芸能界の出自は時々ヒョッコリと顔を出す。島田紳助が芸能界からいなくなったのは2011年のことだそうであるが、今回もまた同じようなことが起こった。

今回の吉本新喜劇の件は、テレビが抱えられなくなった芸人がかつていた場所に戻っていったというだけの話でもある。もちろん、テレビではなくYouTubeなどのインターネットメディアに進出する人もいるが、先祖返りする人もまた多かったのだろう。だが、SNSによって緊密に結びついた時代にはかつてあった「優しい隙間」はないので、彼らはそれが露見すれば消え去るか忘れてもらうまでいなくなるしかない。

この間吉本興業は近代化に向けた何も努力をしなかったし、これからもしそうにない。吉本興業の会長は遠く離れたバンコクで記者に「教育が悪かった」と語ったそうだ。つまり彼らは一切変わるつもりはないということである。お笑い芸人に依存する以上テレビもこれ以上の追求はできないだろう。

吉本興業がやったのは「研修」と「禁止」だけだ。生活を保障するギャラを払わず契約書もかわさないという前近代的なやり方は残り続け、それを誇らしげに語る芸人もまだ多い。千原ジュニアさんの言い分を認めると「労働契約を交わしてしまうと生活保障をしなければならなくなる」からなのだろう。

千原の発言は芸能界全体の意識の低さを表している。生活保障をしないで「頑張って真面目に乗り切れ」と個人の資質の問題に落とし込んでしまい、問題があった時には「個人が悪かった」といって切ってしまう。日本の悪いところが全部出ている対応だ。そして千原はそれを「外資の参入障壁になっていて好ましい」とまで言い切っている。成功者の部類に入る人は知らず知らずのうちに旧体制を擁護してしまうのである。

もともと芸能人は「こうした意識の低い人たちなのだ」と考えて、芸能人をみるということも可能なのだろう。ただ、最近ではそうもいかなくなっている。お笑いタレントの方が「身近で視聴者目線で」政治を語れるというような風潮もあり、テレビ局に代わって正義の側にたちに社会罰を下す代理執行者の役割を担うことも増えている。

このためテレビは表向きの清廉さを演出するためには「かつていた場所」に戻ってゆく人たちを切り離すか「なかったこと」にし続けなければならないのである。

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野党の審議拒否はいいことなのか悪いことなのか

野党が審議拒否に入ったようでTwitterでは「野党の職場放棄だ」とか「原因は自民党が作った」と割れている。これはいいことなのか悪いことなのかを考えようとしたわけだが、何を基準にして善悪を見て行けばいいのかわからない。

基準そのものをしばらく考えているうちに考察は意外な方向に進んだ。まず、日本人はこの内輪揉め自体を愛している。だがその姿勢は同時に国際社会からの排除につながっている。

さて、話を本論に戻す。国会が機能不全に陥るのは悪いことなのだが、自民党と公明党がいれば法案は通ってしまうわけだから実は政治にとっては「ニュートラル」な出来事でしかない。つまりどっちでもいいことになる。審議拒否によって決められない法案は「その程度のものだった」といえるだろう。

もちろん審議拒否すれば安倍政権の評価は下がるかもしれないが、野党の支持が上がるわけではない。野党にとっては得とは言えないが、これも「自民党から代わりの政権が出てくるんだろうな」と考えると、現状には何の変化も及ぼさず、従って「別にどうでもいい」ということになってしまう。

ここまで考えると「倫理的な良し悪しはわからないものの、結果だけを見るとどっちでもいい」ということがわかる。

では日本には解決する課題はないのだろうか。例をあげてみた。

  • 国際社会からは置いて行かれる。
  • 株を買って支えているだけの経済の立て直しが難しくなる。
  • 少子高齢化が進行する。

どれも日本人が見たくないものばかりである。これに最近の問題を加えてみる。

  • アメリカは貿易交渉を迫っている。
  • 北朝鮮情勢が変化しアジアに新しい枠組みができようとしている。

審議拒否をしている時間はないように見えるが、かといって日本がどうこうできる問題でもなさそうである。

ではどうしてこんなことが起こるのか。前回までは北朝鮮の問題を見ながら考えた。日本人は異質なものに囲まれてこなかったので過剰に敵と味方を区別したがるというような分析をした。しかし味方だと勝手に考えているのは日本人だけでアメリカからは「薄笑いを浮かべる気持ちの悪いやつ」と思われており、中国、韓国、北朝鮮の悪口を触れ回っているうちに「あの人たちは仲間に入れるのはやめておこう」と遠ざけられるようになった。

安倍首相の幼稚で頑なな「僕の友達、僕の敵」思考がどうやって育まれたのかは興味のある話題なのだが、同じようなメンタリティは野党の側にもある。野党の人たちも細かな違いにこだわりくっついたり離れたりしている。共産党は嫌だが人気のない第二自民党も嫌だ。だったらどっちにつこうかなといってうろうろとさまよっている議員が大勢いるのだ。戦略的に連携しようという人はいない。

ではなぜ戦略的に連携しようとする人はいないのか。それが今回の問題を考えるキーになる。

少なくとも審議拒否に陥る原因が「与野党どっちにあるのか」というのはかなり愚問だことがわかる。安倍政権は特に頑なな政権であり嘘をついても絶対に認めないし、野党の言い分を取り入れることを「敗北だ」と思っている。だが、野党の方も自民党の別のルートを使って妥協を探ったり違いを乗り越えて味方を増やすというようなことはやらない。

自分にも断絶した関係がある。そこで個人的に歩み寄れない理由を考えてみた。日本人はとくくっていいかもしれないと思うのだが、本質を理解しない。ただ「相手が怒ってはいるようだからとりあえずこれをいうのはやめておこう」という理解をするようだ。だから繰り返し問題が起こる。

「本質を理解しない」というと理屈っぽく聞こえるので、最近起きた事例をご紹介したい。長尾敬という自民党の議員がMeToo運動を揶揄して世間の反発を買った。彼は「セクハラ問題を無視するのはまずいな」ということまでは気がついたようだ。そこで「俺は絶対にセクハラしない」と宣言した。しかしそれがなぜ悪いのかということは全く考えなかったようだ。ワーワー騒いでいる女性議員は容姿に問題があると思ったのだろう。だから「あの人たちはセクハラからは縁遠い」と言ってしまった。オフィシャルな場では男女の違い考慮しないというのがセクハラ問題の「本質」なのだが、表面だけを見て全部理解できたと思い込んでしまう。だから同じような問題がいつまでもなくならない。

本質というのが大げさなら裏側にある原理と言っても良い。では、日本人が相手の行動の裏にある原理を理解できないのはなぜなのだろうか。それは原理を考えずに自分の常識を接ぎ木するからだろう。接ぎ木で構わないのは相手と自分の行動原理が似ているという環境に育ったからだ。

この能力は外国語の習得に似ている。英語が苦手な人は日本語の文章を英語でどう言えばいいのだろうかと考える。そして多くの人がここから抜け出せない。しかし日本人が英語ができないというのも嘘だ。高卒の野球選手の英語がメジャーリーグで通用することもある。英語が上達した人は最初から英語で考えているということである。

少し理屈っぽくなるがつまり「言語によらない考え」というものがあって、それを表現から分離することができれば2カ国以上を話すことができる。ネイティブ言語というのはこの考えと表現が一体化しているということだ。男性社会をネイティブ文化とする人が男女機会均等方時代を生きるということは外国語を話すというのに似ている。

その意味では長尾さんが「怠けているから失言する」というのではないかもしれない。他人との共感を結ぶという政治スキルに欠けているのだろう。こういう人に何を言っても無駄なのだとも言えるし、長尾さんを執拗に攻撃するのも残酷ということになる。

日本人はこのネイティブ文化を意識できないのから変えることができない。そこで変化が起きないように内輪揉めを繰り返している。しかしこの内輪揉めにはそれ自体が楽しい。自分のネイティブ文化が優位であると考えて優越感に浸るのも楽しいし、何かに抗議しているのも楽しい。でなければTwitterがこれほど盛り上がるはずはない。実は野党の人たちも永遠の政界再編を楽しんでいるかもしれない。

ではなぜ我々は内輪揉めに耽溺できるのか。ここからが問題である。それは大した問題が起きないからだ。これは野党を見ていればよくわかる。問題は山積しているのだが、それはなかったことにしてみんなで大騒ぎしている。

さてこの裏返しが中国やアメリカは北朝鮮と共存できる理由になる。日本人にとって北朝鮮の物語は桃太郎である。つまり悪い鬼である北朝鮮が成敗され「めでたしめでたし」となる。桃太郎の物語のあとについて考える人はいないが村人は「仲よく暮らしましたとさ」となるはずだ。しかし、中国やアメリカが北朝鮮を受け入れられるのはそれを不確定要素として組み込むからだろう。彼らは永遠の闘争を生きていることになる。

野党再編でとりあえずの妥協ができないのは野党の人たちが桃太郎を念頭に置いているからだろう。つまり、新しい野党ができたときには自分の価値観が優位になり「いつまでも幸せに楽しく暮らしましとさ」となるはずなのである。

安倍首相も「日米同盟はもう出来上がった」と考えているからこそ愛想笑いを浮かべていることになる。だが、アメリカ人は「もう出来上がった関係」などというものは考えない。だから違いが生まれるということになる。例えば、トランプ大統領から「ディール」をとったら何が残るか。もしかしたら退屈で死んでしまうかもしれない。日本人が内輪揉めに耽溺できるのと、北朝鮮問題に対処できないという問題はつまりコインの裏表になっているのではないだろうか。

もし、日本に対応する問題がないなら、野党の審議拒否はニュートラルな価値しか持たない。しかし、日本が変化に富んだ状況に対応して行かなければならないとしたら、それは悪いことだ。さらに、その原因を作っているのは野党だけではないが、かといって誰かが怠けているからというわけではない。変化に対応するためのスキルに欠けている。

さらにいえば、世界と日本では安定に関する考え方が全く違っているということがわかる。

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発達障害は「障害」なのか

今回はメモ程度に発達障害について書く。なお最初に断っておきたいのは、この文章には結論はないということだ。なんらかの答えを求めている人は読まない方が良いと思う。なお、幾つかの文章を読んでみたが「右脳の障害だ」と言い切っているウェブサイトもあり、安易に結論に飛びつくのは危険なように見える。

まずはじめに発達障害という言葉にはいくつかの概念を含んでいるようだ。主にADHDと自閉症スペクトラムという概念があるらしく、これが重なっているという人もいるようである。原因ははっきりしないので、対処法もはっきりとはしていないが、アメリカでは多くのADHDと診断された人たちが投薬治療を受けているという統計もあるそうだ。

NHKの番組によると、発達障害と診断された子供の母親は認めたくないという気持ちを持つ一方で、ほっとしたという気持ちにもなるのそうである。こうした症状を持つ子供は、単にわがままなだけに見えるのでお母さんの躾のせいではないかと言われることが多いのだろう。

このことにはなんとなく思い当たる節がある。知り合いにドタバタと落ち着きまわり、YouTubeが見たいと言い始めると誰のいうことも聞かなくなる子がいるのだが、やはり「安易に子供にスマホを渡すのがいけないのではないか」などと思ってしまう。が、普通の子供は幼稚園なり小学校に入ると、机に座って一定時間座って先生の話を聞けるようになる。いわゆる「普通」の子供なのかそうではないかということはこの時に決まるのだろう。つまり、じっとしていられない子供もいるのである。

が、こういう子がどれくらいいるのかということは実はよくわからないようだ。2012年に文部科学省が調査した資料があるというウェブを見つけた。孫引きになってしまうが、発達障害ではないかと先生が「自己診断」した生徒は6.5%いるそうだ。この数字は専門家の診断を受けた数字ではないということである。このように捕捉されるようになった生徒の数は20年の間に7倍になり、90,000人を超えたのだという。

が、こうした人たちがすべて「特殊学級」に入るとすれば、もはやマイノリティではあっても障害とは言えないのではないかと思える。例えばメガネという装具がないとものを見るのに困る人は30%いるという数字があり、近視を「視覚障害」という人はいない。すると、発達障害も障害なのかということはよくわからなくなってしまう。例えばメガネがあっても黒板が見えない人がいるならそれは通常学級とはいえないわけで、じっと座って授業が受けられない人が、例えばアメリカ並みに10%もいるようになれば、それは通常学級が変わらざるをえないのではないかと思えるのだ。

さらに、じっとしていられない子供と手足が自由に動かせない子供が必要なケアは違うだろうから、これらを一緒くたにして「通常の学習に耐えられない」という理由だけで別枠でくくるというのも乱暴なのではないかと思える。

発達障害がなぜ起こるのかということはよくわかっていないようだ。先進国に多く、発展途上国に少ないという統計があるようで、遺伝による影響とは考えにくいという。現在では様々な犯人探しが行われている。日本型の雇用環境が悪いという人や、添加物がよくないという人もいるようであるが、これもよくわからない。個人的にはスマホなどの過剰な情報に触れているのが悪いのではないかなどと思うのだが、これも単なる思い込みの域を出ない。

この文章は幾つかのウェブサイトを参照した。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/biblio/develop_disorder004.html
http://xn--u8j7eobcu7587k8dj.jp/population.html
https://www.news-postseven.com/archives/20160507_409670.html?PAGE=1#container
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/tokubetu/001.htm

 (*1)本調査における「1.児童生徒の困難の状況」については、担任教員が記入し、特別支援教育コーディネーターまたは教頭(副校長)による確認を経て提出した回答に基づくもので、発達障害の専門家チームによる判断や、医師による診断によるものではない。従って、本調査の結果は、発達障害のある児童生徒数の割合を示すものではなく、発達障害の可能性のある特別な教育的支援を必要とする児童生徒の割合を示すことに留意する必要がある。

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