「名ばかり管理職」となっていた25歳の宙組劇団員が亡くなった事件が発端となり、宝塚歌劇団が会見を行った。予想されていたことではあるが「日本人が変われない理由」が全て網羅されていると言っても良いダメな会見の見本になった。当然遺族は反発している。また、宙組のメンバーの中にも聴取に応じない人たちがいたそうだ。どうせ歌劇団は変われないだろうと諦めているのかもしれない。
ここでは「日本人が変われない理由」としてこの問題を分析したい。個人と集団が癒着が見られ肥大化した自己を正当化するために容赦なく他人を犠牲にしてしまうという基本構造が見られる。これがより大きなSNS世論によって逆攻撃されている。
まず、直感的に「変われない理由」を探してゆくと次の点に行き当たる。
- 目の前で起きている問題よりも組織文化の維持を優先してしまう。
- 劇団員も含めて誰も解決すべき課題が抽出・特定できない。おそらく解決すべき課題はいじめではなくいじめを生んだ背景だ。
- 問題を言語化して共有する能力がない。
- このため「個人の異議申し立て」が起きると論理より感情が優先され集団で異議を潰そうとする。どう対処していいかわからないのである。
- 結果的に問題の特定はできない。とにかく謝罪した上でトップが辞任することで問題を終わらせようとする。
- その後は延々と犯人探しが行われる。
報告書は「いじめがあったともなかったとも言い切れない」としている。だが新聞ネタになったことは確かなので責任をとってトップが辞任する。当然遺族は納得せず再調査を求めている。誰が悪かったのかを知りたいのだろう。レポートは今変わらないと宝塚歌劇団は持続できないといっているのだがおそらく変われそうもない。だから歌劇団の未来は暗い。
問題は特定されずトップが辞めて幕引きという結末だ。当然遺族側は反発している。新しい理事長も広い意味では当事者であり「伝統は守られなければならない」と言っているようだ。自己変革は難しそうである。
- 急死俳優いじめ否定は「失当」と遺族代理人(共同)
- 宝塚歌劇団理事長が引責辞任(共同)
亡くなった劇団員は「組織を守りたい」と言う気持ちと個人にかかるプレッシャーを一人で整理することはできなかった。当然周囲には「私が頑張れば丸く収まるかもしれない」と言うようなことも言っていたはずだ。だが報告書はこの気兼ねを証拠として利用し「いじめがあったかなかったかわからない」と言っている。
問題解決を優先するならばこのようなトーンにはならなかっただろう。分かれ目になるのは問題を解決し新しい環境に適応しようとする問題解決志向に終始するか「これでよかった」という正当化思考に止まるかである。
すでに、元関係者の指摘からコロナ禍において伝統的な演出手法が取れなくなったことが知られている。日本のエンターティンメントはむしろ飽和状態でわざわざ劇場に足を運ぶためには何か別の理由も必要になっている。おそらくは問題の根底には変化する新しい経営環境に適応できなかった何らかの事情があるはずだ。
さらに経営者と俳優の関係にも問題がある。宝塚歌劇団の経営陣は阪急電鉄の出身者だ。当然今までの伝統を変えずに収益だけが上がればいいと考えるだろう。今回のケースで俳優出身の経営者がいれば問題を事前に察知できた可能性がある。だが俳優たちの間には「上級生・下級生という独自の世界」が出来上がっていて経営者たちはそこに踏み込むことはできなかった。介入は俳優たちの反発を呼ぶかもしれず経営にとってはリスクになる。今回のケースではこのような特殊な分離事情に関してもいっさい分析が進んでいない。
今回の一連の騒動は「いじめ問題」に終始しており、そもそも問題の根幹がどこにあったのかを探ろうとする動きがない。これは極めて異常なことなのだが、日本ではありふれた異常さでもある。だから誰もこれがおかしいとは言わない。
分析的思考の欠如は当然「犯人探し」につながる。集団を正当化したい理事長はあくまでも変化を拒んでいる。一方で問題追求する側も「一体この問題で悪いのは誰か」を聞きたがる。ジャニーズ問題でも見られた図式だ。
読売新聞は次のように書いている。
兵庫県宝塚市内のホテルで行われた歌劇団側の記者会見。歌劇団内の上級生と下級生の関係性に関する質問が相次ぎ、対応した木場(こば)健之(けんし)理事長らは「伝統の中で守っていかなければならないものもある」「全てがおかしい、全てが変えないといけないとは思ってない」などの説明に終始した。
週刊文春の取材もそれを裏付けている。居残った上級生たちは「間違った(つまり亡くなった人)本人が悪い」と言っている。私は悪くない、悪いのは全て下級生だということだ。何か起きていることはわかっているがそれ全て下級生たちの至らなさのせいであるといっている。言語化ができていないため感情的な自己正当化が延々と行われる。これが組織の威光を背景にして肥大化しているのが厄介なところだ。
ジャニーズの場合企業からの圧力がかかったことで変革が進んだ。だが宝塚歌劇団にはスポンサーがいない。阪急・阪神が変革を求めない限り自己変革が起きることはないだろう。そして阪急・阪神にはそのつもりがなさそうだ。
当事者たちの言語化が進まないとどうなるのか。プレッシャーを受けた人たちが現場から逃げ出すことになる。これも読売新聞からの抜粋だ。
会見では、宙組の4人が調査チームの聴取を辞退したことも明らかにされた。木場理事長は全員の話を聞けていないと認めた上で、理由については「ご容赦ください」と述べた。遺族とはまだ面談できていないとした。
さらに、このような状況が生まれると「問題を外に漏らしてはいけない」と言う不文律が作られ組織内の閉塞感はより強まる。一種の秘密結社・秘密協定ができてしまうのだ。既にOBからこのような告発が出ているがおそらく宝塚歌劇団がこの人の提案に耳を傾けることはないだろう。外部圧力に晒されないので変革する動機がない。
一旦閉塞感が広がると異議申し立てをした人を黙らせることに楽しみを見出す人が出てくる。醜い集団維持の本能が発動するのである。ジャニーズ問題ではSNSで誹謗中傷を受けた被害者が亡くなっている。いったん共犯者意識が広がるとむしろ組織的な行き詰まりによるストレスの吐口になってしまう。
本来ならば「きちんと言語化する習慣をつけて問題解決志向になるべきであろう」と主張したいところだ。だが、特に忙しさや性的虐待など極端な状況に置かれた人たちには周囲の助けもいるだろう。だがそもそも日本人は言語化が苦手な上に集団で個人を潰そうという文化的な傾向も持っており個人ではとても太刀打ちできそうにない。
とにかく正当化欲求が強く個人と集団が癒着している文化ではいくら個人が何を主張しても無駄というものだ。唯一送ることができるアドバイスは「こうなったら逃げろ」だ。こういう組織には近づかないに限る。これは宝塚のような特殊な組織だけでなく多くの組織で言えることだろう。
末筆ではあるが、亡くなった故人のご冥福をお祈りしたい。どんなに原因を分析しても亡くなった故人が戻ってくることはない。