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サブカル界はなぜ小山田圭吾氏のいじめ問題に対処できないのか

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吉田光雄さんがTwitterでTVODというブログを紹介していた。小山田圭吾さんのいじめ問題について書いている。拝読して「日本の人権把握ってこのレベルから議論を始めなければならないのか」と思った。コメカさんとパンスさんという人が小山田圭吾さんのいじめ問題について話し合う体裁になっている。おそらく文章の目的は別のところにある。だが、ご本人たちは気がついていない。

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文章によるとコメカさんもパンスさんも「混乱している」そうだ。だが、関係者なので話さなければいけないと思ったようだ。当時はスルーしていたが今になって見ると考えなければいけないと言っている。

この先、「〜せねばならない」という義務表現がたくさん出てくる。

混乱の理由も語られている。ずっと軽視してきた問題が「実は語らなければいけない」問題だと気が付いたというのだ。その目で過去に遡ってみると昔も今も語らなければいけない問題だったのだと言っている。

そこからどんどんと当時の細かい話に流れてゆく。通底しているのは「いじめの非当事者である」という感覚だ。非当事者ではあるが「関わってきた以上一蓮托生になりかねない」という危機感があり総括しようとしている。だが総括しようとしても何も出てこない。さらに非当事者として当時文章に感じた印象について外側から評論家的にアプローチしようとするわけだが何も考えてこなかったわけだから当然何も出てこない。

こうしてたんに当惑することになる。

おそらく答えはすでに出ている。当時の村上清さん・小山田圭吾さん・山崎洋一郎さんは「いじめ」という世界の外側にいた。あるいはいつでも非当事者として逃げることができた。だから大した罪悪感も危機感も感じなかったのであろう。

もし仮に彼らが当時「この構造(檻)の中から一生出られないがそれでも出版するんですか?」と突きつけられて入ればおそらくこんな記事は書いていないはずだ。だが彼らはそう思っていなかった。彼らはいつでもいじめのない世界に逃避することができると信じていたからである。

だがそうではなかった。逃げられないと知った彼らが慌てているのはそのためだ。

ここで実際のいじめについて考えてみる。私は小学生・中学生の時いじめにあっていた。いじめというのは学校序列(成績、体力、先生の評価など)に起因するので抜け出すのが容易ではない。教育環境が変われば逃げられる人もいるが、今回問題になっている知的障害者などはさらに抜け出すのは容易ではないだろう。つまり社会序列が固定されがちな日本では「いじめという監獄」に閉じ込められる当事者とそうでない非当事者がいる。

これはブログの中ではいじめは徹底的に概念的にに語られる。内藤朝雄の「いじめの構造」を引き合いに出して構造的ないじめについて非当事者なりに分析しようとしている。

彼らは非当事者でいたいが「今度は一転して社会から非難される」という当事者になったことに気がついている。そこでどうやったら非当事者に戻れるかを考えなければいけないと考えているのだ。

言い方は悪いのだがこのブログは結局「他人事だったいじめ構造にとらわれてしまうのが怖い」と言っていることになる。そしておそらく彼らはそのことに気がついていない。だから解決策も出てこない。

ただし分析としてそこにとどまってもらってはラチがあかないので先に進む。

問題は状況変化にある。価値観は多様化した。だがこれまでの経験と常識から抜けられない人たちがいる。

彼らは自分たちの常識を他人に押し付ける。例えば陣痛が母性と関係していると信じ込んでいる人は帝王切開の嫁をいじめる。こうした価値観の押し付けをハラスメントと呼ぶ。ハラスメントの数を数えだしたらおそらく新しい辞書ができるだろう。つまり我々は万人間闘争の時代に入った。人々がいじめ問題に敏感になったのはおそらく誰もが当事者になるという時代に入ったからだろう。誰もが加害者になり誰もが被害者になるという「新しい」時代だ。

アメリカは1990年代にすでにこういう状態になっていた。例えば英語があまり得意でない日本人男性は東洋人としていじめられる・差別される可能性がある。と同時に女性に対しては潜在的な抑圧者として扱われる。日本人男性は伝統的に女性を虐げるという風評があるからだ。また本土の日本人は沖縄に対しても潜在的な抑圧者として扱われることがある。そこで日本人男性は「どうやったらこの状態に対処できるか」を考える。

差別感情があるのは仕方がないができるだけないように振る舞う。これをポリティカルコレクトネスという。PCにはある種自衛的な側面がある。PCを身につけるためにはある程度の勉強が必要だ。さらにどうやったら形式的に平等が担保されるのかということも盛んに議論される。本質的にいじめや差別はなくならないのだがそんなことをいっていては社会が壊れてしまうからだ。アメリカやヨーロッパは常に問題に取り囲まれているので「形式的な平等」を担保しなければならない。

アメリカのいじめの構造は日本とは明らかに違っている。日本は固定的だがアメリカはそうではない。

例えば非抑圧者(イスラム教とや黒人)が別の非抑圧者(東洋人)を差別するというようなことも起こる。同じイスラム教徒でも裕福な人もそうでない人もいる。イラン系とアラブ系の関係も微妙である。

アメリカはいじめの構造は固定的ではない。そして誰もがその構造から逃げられないという意味でも日本と全く違っている。

こうなると道は一つしかない。「お互いに理解を深め」なおかつ「差別はないふり」をするのだ。一旦表面化したら収拾がつかなくなるであろうことは皆が予想している。実際にトランプ政権でこれが表面化した。マジョリティも実は経済的に差別されているからマイノリティを差別させろと言いだしたのだ。これが民主主義を破壊する寸前までいった。

誰もが当事者なのでいじめ・虐待・人種差別といった問題は真剣に議論される。逃げられないから必死で解決するしかないのである。

実は日本もこういう非構造的いじめ社会になりつつある。今回のブログの例から分かるように「いじめからは逃げられる」「関係がないと言える」と信じ込んでいた人たちがいつの間にかいじめの当事者として攻撃される社会になりつつある。そして彼らは「あれはサブカルのことでしょ」という非当事者の視線にもさらされることになる。

今回のオリンピックをきっかけにした騒動は、実は海外の価値観が国内問題を表面化させただけなのかもしれない。日本もすでに「誰もが被害者になり誰もが加害者になる」という世界だったということである。

弱者救済の人権問題として観念的に語られることが多いいじめ問題だが、欧米では誰もが当事者になりかねないという切迫した意識で議論している。檻の中に閉じ込められているからこそ彼らは解決しようとする。だが日本で古い常識に囚われた人たちは「自分たちはマジョリティでありいつでも逃げられる」と思っている。おそらくこのズレが様々な軋轢を生んでいるのだろう。

しばらくサブカル界の混乱は続くのではないかと思う。

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Comments

“サブカル界はなぜ小山田圭吾氏のいじめ問題に対処できないのか” への1件のコメント

  1. Yuki Ohkumaのアバター
    Yuki Ohkuma

    吉田光雄は、元プロレスラーの長州力の本名で、長州力への嫌がらせで、吉田豪というサブカルライターが、Twitterで勝手に名乗っている名前ですよ!

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