スウェーデン好きを表明すると日本で嫌われるのはなぜか

今回の原発問題で脱原発を唱った嘉田由紀子さんは、選挙期間中に大いに罵倒された。中でも多かったのが「嘉田さんはスウェーデンが好きだが、スウェーデンというのは…」という批判だった。今日はこれについて考えてみたい。
思い起こせば、民主党も北欧モデルを福祉国家の理想として取り扱ったことがある。しかし、国民からはあまり受け入れられず、結局はフランスの事例を持ち出すことが多くなった。「北欧は日本とはあまりにも違いすぎる」という意見が多かったからではないかと思う。いったい、何が違うのだろうか。
ホフステードの研究によれば、北欧諸国は「女性的傾向」が強いとされる。(『多文化世界 – 違いを学び共存への道を探る』などを参照のこと)。ホフステードは企業文化を比較している。だから、この場合に「女性的傾向が強い国」というのは、企業などにおいて、共助・協調性が高い国のことを言う。ライフタイムバランスへの取り組みに熱心なのも、女性的傾向が強い国の特徴だ。生活の質への意識も高いからだ。
これに比較して日本は極めて男性的な社会(リンク先でMASと呼ばれるスコアを参照)だとされている。リンク先にある説明はこうだ。

日本は、社会は競争・達成・成功を重んじ、他人を慮ったり、人生の質を追求したりといった関心は低い。男性的な国では勝つ事に価値が置かれ、女性的な国では自分がやっていることが好きかどうかが重要視される。

このスコアがジェンダーと結びつけられていることに異論を唱える人は多いかもしれない。実際には女性管理職の中にも「競争が好き」な人はいるだろう。また、男尊女卑の国にも「女性的」な国が存在する。いずれにせよ、日本のMASインデックスは突出して高い。反対に、スウェーデンのMASインデックスは極めて低い。つまり、日本とスウェーデンの価値観は対極的なのだ。
これを覆すにはかなりの時間がかかるだろう。
今回の選挙中は女性が「社会が育み育てるという」価値観を否定する議論があった。男性が女性を嘲笑するのはなんとなく理解できるのだが、男性社会に適応した女性までもこうした共助の価値観を否定するケースがある。
政治経済や企業活動の文化では「他人を大切にしたい」とか「話し合いで解決したい」というような意見は、あからさまに攻撃される可能性が高い。またそれを嘲笑しても、社会的にはあまり批判されることはない。政治経済の現場では女性的な態度(つまり、他人を大切にし、協調して社会を維持して行こうという姿勢)は受け入れられないのだ、と感じているのかもしれない。
どうして日本社会がこうした男性的な企業態度を持つに至ったのかは、よく分からない。第二次世界大戦を通じて作られた富国強兵文化が企業文化に引き継がれたのかとも思えるが、競争や自己責任など政治的な主張も極めて男性的だ。
国際的に競争しないと負けてしまうとか、アジアの中で軍拡してでも競争しなければならないという主張がおおっぴらに語られる一方で、不況や震災で困っている人たちを助けたいという主張はあまり受け入れられない。領土問題を平和裏に話し合いで進めるべきだという主張は嘲笑される傾向がある。「弱腰で女っぽい」と思われてしまうからだ。
不況になると、企業社会で競争心を満たすことができなくなると、それが政治に向かうのかもしれない。女性は社会では低位にいる存在で、従ってその意見も取るに足らないものだという気持ちがあるのかもしれない。
いずれにせよ、女性的な価値観を全面に押し出した社会民主党は存亡の危機にあるし、女性を全面に立てた日本未来の党は出だしから躓いた。女性閣僚を多く登用すると女性からの支持は得やすくなるが、やはりサポーティングロールであって、全体的な雰囲気を支配するまでには至らないのが通常だ。
一方、スウェーデンなどの北欧社会がどうして女性的なのかも分からない。男性が海に出てしまい、政治やコミュニティ維持の現場でも女性が活躍したからだという説がある。同じように女性的傾向が強い国にはノルウェー、ポルトガル、オランダなどがある。
いずれにせよ「女性がスウェーデンを持ち出す」と、いろいろな理屈で意見が否定されるわけだが、これに正面から論争を挑んでもあまり意味はない。そもそも「文化的な偏見」だからだ。興味深いなと思えるのは、「女性的な意見」をあからさまに否定する人は、必ずしも社会的に成功している人ではない。競争に執着していて「勝てる相手を選んでいる」ようにも見える。今回「勝ちすぎた」といわれる自民党は、こうした勇ましい議論を引っ込めてしまった。選挙に勝ったことで、議論によって勝つ必要がなくなったからではないかと思う。強い人が弱者をことさらにいじめるのは「男らしくない」わけだ。
日本社会はあまりにも男性的なので、放置すると競争が自己目的化することがある。しかし、それを補正するために「女性的な価値観」をあまり強調しすぎると、男性のみならず女性からも嫌われてしまう。人生の質を向上させたり、協調的な政策を成功させるためには、こうした偏見をなんらかの形で乗り越える必要がある。
最近はイクメンブームだが「育児は実は知的なのだ」とか「シゴトができる要領のよい男性ほど育児に参画しやすい」といった、競争的な側面を強調した言い方がされることがある。「遅くまで残業している男は余裕がない」というのも価値観の転化だ。また、男性は優しくて力があるからこそ、女性を助けることができるというのも、男性的な理由づけである。
同じように、原発の問題でも「古いスキームにしがみついているのは、知的レベルが低いからだ」とか「新しい電力供給スキームの開発競争こそが知的ゲームである」といった方が、競争を促進しやすいのではないかと思える。
また、領土問題にしても「話し合いで平和的に解決しよう」というよりも「戦略的に相手を誘導すべき」という上から目線の言い方の方が好まれそうである。「弱いイヌほどよく吠えるから、軍備を増強しようといった、女々しい態度に出る」というリポジショニング(まあ、たんなるラベル貼りなのだが…)もできるだろう。男らしく正々堂々と協議で渡り合うべきだ、と言った方が男性的な価値観の中では、支持者を増やすことができるだろう。

集団主義と議論

送信者 Keynotes

この図表を覚えていらっしゃるヒトはかなり古くからKeynotesを購読してくださっている方だと思う。昔作ったホフステードの指標から個人主義の度合いと、男性的傾向を抜き出したもの。男性的傾向とは「くつろぎよりシゴト」という価値観のこと。いわゆる先進国と言われる国々は個人主義的傾向が強い。ITや金融を引っ張って来たのはこうした国々だ。図表の真ん中にBRICSと呼ばれる国々が入っている。イギリスで発明された資本主義は、ラテン諸国に広がり、この帯を右から左へと移動している。
この順番の例外が日本だ。どうして例外になっているのかは良くわからないが、いわゆる富国強兵(がんばっておいつけ)がうまく行った結果だと思う。つまり「がんばってなんとかしてきた」わけだ。工業型資本主義ではこのやり方がうまくいった。しかし、プログラムはがんばっただけでは動かない。
ホフステードの本を読むと「集団主義」でいう集団は、家族や地縁といったようなものをさすようだ。日本は東アジアの中では集団性が低い国だが、これは早くから血縁関係が形式化したことと関係があるように思える。養子や娘婿が家業を継ぐことが容認されている。例えば中国や韓国では娘婿が娘の実家の姓を継ぐ事は考えられないので(妻は結婚しても姓が変わらない)入り婿ということはあり得ないだろう。この入り婿や養子が「才能を家に取り込む」ための装置として作用しており、一つの家業が100年続くということが頻繁に起こる。
さて、新しいアイディアが生まれ、それがプラットフォーム化するのはいつも右端の国々だ。個人主義社会では、一人ひとりが意見を持っていて、それをすりあわせるということを毎日やっている。アイディアは基本的には個人の頭の中でしか生まれない。だから個人主義は「新しい何か」が生まれるための重要な資質である。乱暴に言えばこのプロセスが「議論」だということになる。
もちろん、集団主義の国にも議論はある。しかし集団主義の議論は、個人主義の議論とは異なっている。メンバーは基本的にどの集団に属するのかを選べないので、議論が起こったときに妥協する余地は少ない。また、集団内部での議論では、どんな議論が行なわれるかということよりも、最終的な決定にどれだけ自分の意見が反映したかが重要だ。
ちょっと話はずれるけれど、今民主党、国民新党、社会民主党が行なっている、沖縄の基地問題は集団主義の議論のあり方を典型的に見せてくれていると思う。「私たち、これだけ検討しました」ということが重要なのだが、各政党がどういった「プリンシパル(原理原則)」で候補地を検討しているのかということはあまり重要視されない。そもそも外向問題で民主社会党と民主党が外向問題のプリンシパルで合意に達する事はあり得ない。個人主義の国の人たちは、プリンシパルが見えないことをとても嫌がる。「透明性がない」というわけだ。でも、これが日本のやり方なのだ。
また「ファクト」も重要視されない。これは日本だけでなく、結束した欧米の集団にも見られる特徴だと思う。「ファクト」をどう解釈するかは集団によっていかようにも決められるから、かならずしも正しくなくても良いのである。
1980年代から90年代の日本研究を読むと、日本人は議論のプロセスにやたら時間をかけるという観測が書かれている。次から次に「関係者」と呼ばれる人たちが渡米してきて、あれこれと聞いてゆく。議論は永遠に続くように思われる。しかしいったん決まると行動は早い。コンセンサスを得るプロセスでは、一応全員が意思決定に参加したという実績が大切だ。根回しが済んでみんなが重要なのだということが分かったら、みんな満足して一気呵成に物事が進むのである。このやり方が日本の成功の秘訣だとすら言われた。
日本の悲劇はこうして効率的に資本主義を押し進めた結果、製造業の分野でアメリカなどの先行諸国を追い抜いてしまったということだろう。模倣すべき相手がいなくなると、自分たちでモデルを作り上げて合意形成をしなければならなくなる。この時必要なのが「議論」なのだが、日本人は個人の利害関係をすりあわせることをしてこなかった。車や電化製品はアメリカで成功しているものを開いて分析すればなんとか模倣ができたが、金融商品やITプロダクトは開きようがない。また、真似しても仕方がない。だから日本はこの分野には乗れなかった。
すると、社会のいろいろなところに不満が貯まる。それをいろいろ議論するのだが、一向に決まる気配がない。実際には議論をしているようであって、集団の中のプレゼンスを競っているのである。つまり、誰がいちばん影響力があるかを見せつけたいだけなのだ。例えば、未だに「財政出動すべきか」「インフレを起こすべきか」みたいな議論には決着が付かない。良識のある人たちは「成長分野を見つけよう」と言うが誰も耳を貸さない。自分たちの集団の主張を繰り返しているだけなのだから、もともと決着しようがないし、決着をつけたいとも思っていないだろう。単に時間を稼いでいるだけだ。
このホフステードの記事から見える事は、日本社会が再びがんばってなんとかなる工業型資本主義に戻るのであれば、中国やインドに出てゆかなければならないだろうということだ。どうしてなのかは分からないが、資本主義の中心地はこうした国に移りつつある。そして、アイディアを形にする資本主義に行く(つまり資本主義社会の中で成熟したポジションに移る)ためには、集団主義を捨てて、個人主義的な態度を取るべきだろうということになる。具体的には集団で考える思考方式を捨てて、個人の意見が反映される社会的な仕組みづくりを目指さなければならないということだ。
日本の社会の今ひとつの特徴は、日本語文化圏=日本国=日本の社会=日本列島であるということだ。あたりまえじゃないかと思われるかもしれないが、1億人規模で他者とまったく接していない地域は世界中どこにもない。つまり日本的なマインドを脱却するためには、これのどれかから脱却しなければならないということだ。多分、いちばん近いのは英語で議論に参加することだろう。地理的には中国がいちばん近い。
新しいITプロダクトは、人間がどのような言論を嗜好するかということに影響を与えることはできない。ただ、今までやりたくてもできなかったことの生産性を上げたり、手が届かなかったヒト達が活動に参加できるように助けたりということはできる。もし日本語インターネット圏が匿名性を持っているしているのであればそれは2ちゃんねるのせいではない。もともと個人の名前で発信することを好まない社会なのだろう。散漫な情報がTwitterを流れていたとしてもそれはTwitterのせいではない。個人の判断で物事を進めてゆく社会ではなく、リーダーの庇護のもと一致団結したいと思っている人たちがあつまっている社会なのだ。
この事から分かるのは「議論」を考えるときに、その議論がどのような社会的な意味を持っているかを分析することが大切なのではないかということだ。個人主義社会では個人の間でぶつかり合う主張をすりあわせるのに使われる。新しいことが価値を持つ社会では、それが本当に有効なのかをチェックするために使われる。目的が明確なときには、どうすれば効率よく目的が達成できるかを議論して調整する。そして、妥協点が得られない社会では、お互いのプレゼンスを主張しつづけるのに「議論のようなもの」が交わされるのだろう。
どういう議論がどの社会で好まれるかを分析するためには、社会や集団そのものの分析が重要なようだ。