高市文書問題で考える日本人が議論ができない理由

参議院予算審議が終盤に差し掛かり高市問題はうやむやのまま終わりそうだ。もう一度冷静になってみよう。高市放送法文書問題で我々が知りたかったのは何なのか。実はこの単純なことがわからない。ここから、日本人が議論を苦手とすることがよくわかる。今回の不毛な議論から日本人がなぜ議論ができないかを考える。

かなり長く入り組んだ話なので結論から先に書くと次のようになる。

  • 学級会で議論をする場合には最初に話し合うべき項目についてみんなで整理しておきましょう
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PTAという日本の理不尽

PTAはアメリカで作られた仕組みである。この仕組みが日本では独特の進化を遂げている。端的に言えば村社会の陰湿な同調圧力の温床になっているのだ。PTAが問題になるのは学校側のメンバーに入れ替わりがなく保護者だけが入れ替わるからである。つまり意識が変わらない古い村社会に新しい親たちが付き合わされるというのが現在のPTAのようだ。意味がわからないと考える人が多いのも頷ける。

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「アイヌ語は日本語の方言です」の破壊力

Twitterで「アイヌ語は日本語の方言ですがなにか?」というつぶやきを見つけた。日本では民主主義や議論の空間とというものは徹底的に破壊されているのだなと思った。

議論が成り立つためには「お互いに気持ちの良い空間を作って行こう」という双方の合意が必要だ。政治の世界ではこれを「統合」などというようだが、この統合がまったくなくなっているのではないかと思う。その裏には「今まで協力して何かをなしとげたことがない」人たちが大勢いるという事情があるのだと思う。

この<議論>の裏にはアイヌ振興予算の存在がある。かなりの額が支出されているので「アイヌはおいしい思いをしている」という嫉妬を呼んでいるのだが、実際には博物館建設のような箱物にも支出されている。アイヌ系のデヴェロッパがいるという話は聞いたことがないので、実は仕事のなくなった和人系の人たちへの対策になっているのである。

もちろんアイヌ語は日本語の方言ではないのだが、これを言語学に興味がない人に説明するのは実は難しい。言語と方言というものの境界に曖昧さがあるからである。

琉球諸語と日本語には語彙に関連性がある。また文法もほぼ同じで単語にも関連がある。つまり、日本語と琉球諸語には強い類縁関係が認められる。ゆえに琉球諸語と日本語を同じ言語とみなして、お互いを方言関係にあるのか日本語族の中に琉球諸語が含まれるのかというのには議論の余地があるものと考えられる。沖縄の言葉と本土の言葉の関係が方言なのか言語なのかというのは歩い程度政治的に裁量の余地がある。

しかし。アイヌ語と日本語の間には類縁関係は認められない。統語方法も単語も発音も全く異なるからだ。日本語や朝鮮語は膠着語であり文法は似通っているのだが、日本語と朝鮮語には語彙の違いがあり発音も異なり同じ言語とはみなせない。アイヌ語には縫合語という日本語にはない統語法があり、なおかつ語彙もほとんどが違っており発音も異なる。ゆえに、朝鮮語、日本語、アイヌ語を方言関係にあるという人はほぼいないはずである。日本語と朝鮮語は同じ語族であるという人がいたが、アイヌ語と日本語が同じ語族にあるという人はほぼいないのではないだろうか。

何が言語で何が方言かという議論には幅がある。例えば琉球諸語と日本語を言語として呼ぶという立場は極めて政治的なものであり、朝鮮語と日本語が別の言語であるという立場はそれほど政治的ではない。だが、議論するためにはそれを相手に理解してもらう必要があり、理解のためには相互で意思疎通をして共通の問題を解決したいという意欲が必要である。

だが、実はこの議論の基本にあるのは、では「日本語とは何なのか」という認識なのだ。つまり、我々の源とと周辺諸言語の比較によってしか「日本語の位置」はわからない。だから「アイヌ語は日本語の方言」と言い切ってしまうと、実は自分たちのことがわからなくなる。そして、実際に日本人は自分たちのことがわからなくなっており、他者に説明できないがゆえに様々な問題が引き起こされている。

ここまで考えて「この議論には価値があるのか」という問題が出てくる。議論する余地がないなら別に放置しておいてもよいのではないかということだ。そこで「民主主義について無茶苦茶なことを言っていた人たちを放置した結果、今の惨状がある」のではないかと考える。大勢で無理をいうとそれが多数派になり<事実>として受け入れられるという見込みがあるのだろうが、そのような人たちが蔓延しているのでついついいろいろなものに対して防衛しなければならないのではないかと思ってしまうのだ。

アイヌを民族として保護しようという立場に立つと、いろいろな方法でアイヌがなぜ民族なのかということを説明せざるをえない。だが、アイヌは民族ではないという人はいろいろ勉強する必要はない。単に「民族ではない」といえばいいだけである。これはイスラム過激派がシリアやアフガニスタンの遺産を壊して回るのと同じことだ。建設と保全には長い時間がかかるが、壊すのは一瞬で、それが気持ちよかったりする。

本来ならば消えてゆくアイヌ語をどうやって守るかという点に力を尽くさなければならないはずなのだが「なぜアイヌ語は日本語ではないのか」ということに力を使わなければならなくなる。

この背景にはアイヌ振興予算に対する嫉妬のようなものがあるようだ。かなりの予算が振り向けられておりこれを「ずるい」と考える人がいるのだろう。そこでアイヌ語は日本語の方言であるとか、アイヌ料理などというものは存在しないのだなどという話が出てくることになる。しかし、予算の中身を見てみると「博物館や公園を作る」というものが含まれている。アイヌ系デベロッパという話は聞かないので、多分和人が公園を作る言い訳に使われているのだろう。

本来ならば「議論を有益なものにするためにはオブジェクティブに戻って考えてみよう」などと言いたいところなのだが、そもそも何のために議論をするのかということが幾重にもわからなくなっており、単にそんな議論はそもそも存在しないのであるなどと言っても構わない状況になっている。

この惨状のもとを辿ると今の国会議論に行き着く。その原因は安倍政権であることは間違いがない。では安倍政権の源流はどこにあるのかといえば、時代に取り残された人たちが暴論を振りかざしていたいわゆる「ネトウヨ系」の雑誌に行き着く。

もともと自民党は甘やかされた政治二世・三世が政権を担当していたのだが、2009年の政権交代の民意を受け止められなかった。政権交代など先進国ではよくあることなのだから「否定されたら次はもっと良いものを出してやろう」と思えばいいのだ。だが、彼らは甘やかされているがゆえに政治姿勢を変えたり政策を磨いたりということはせず「政権を失ったのは国民が馬鹿だからだ」と考えるようになった。そこで詭弁術を学んで政権に復帰すると、徹底的に議論を無効化することになった。

彼らは留学経験もあり議論のやり方はわかっている。しかし、彼らに影響を受けた若い人たちは<政治議論>というのはこのようなものだと感がているのではないだろうか。これはイスラム過激派の元で育った戦争しか知らない人たちがその後の平和な時代になってもそれが受け入れられないという状況に似ている。現在はこうした過激派の人たちが大量生産されている。Twitterを通じて我々はその現場を見ているのではないだろうか。

単に甘やかされた政治家のルサンチマンから始まったことなのかもしれないが、今後の日本の言論に大きな影を落とすことになるだろう。

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日馬富士の暴力騒ぎに見る日本人が憲法を作れないわけ

日馬富士がビール瓶で後輩力士の頭を思い切り叩いたらしい。興味深いのは後輩力士が殴られたのが10月26日頃で表沙汰になったのが11月13日だったということだ。半月のタイムラグがあったということである。故に被害者・加害者ともに隠蔽しようとした可能性があるということになる。貴乃花親方はすでに事件直後に被害届けを出して「撤回するつもりはない」と言っているので、どちらかといえば日馬富士側が隠蔽と示談を模索していたのだろう。少なくとも警察はこれを知っていたのだが、捜査はしていなかったようだ。

この件については未だにわかっていないことが多い。かなりひどい怪我なのだという声もあるのだが27日には巡業に出ていたという情報もある。貴乃花親方も一方的な被害者というわけではなく巡業を監督する立場にあったらしい。また相撲協会はしばらくは知らなかったという情報がある一方ですぐに被害届けが出ているという情報もある。

これが事件化するかというのは相撲界の問題なのでさておくとして、ここではなぜ日本人が憲法が作ることができないかという問題に置き換えて考えたい。端的に言うと日本人は自ら最高規範たる憲法を作ることはできない。善悪の明確な区分けがなく多様な価値観も収容できないからである。

この件が表沙汰になった理由はよくわからないが、表沙汰になると相撲協会の体裁を取り繕うような報道が相次いだ。取り繕ったのは相撲の事情通という人たちで、長年の取材を通じて相撲界と心理的に癒着してしまった人たちである。これは明らかな暴行事件であり刑事事件なのだがこれを「事件だ」とい言い切る人はいなかった。さらに、これを隠蔽しようとした相撲協会にはお咎めがなく、NHKは相撲の中継を中止しなかった。

ここからわかる点はいくつかある。最初にわかるのは「横綱の品格」の正体である。ビール瓶で後輩を殴る人がいきなり豹変したとは考えにくい。普段からこのような激情型の人間であったことは間違いがない。少なくとも一般人の品格とは性質が異なっていることがわかる。許容されている行動の中には、一般人が行うと犯罪行為になるものが含まれているということである。

品格が非難されるのは「ガムを噛む」とか「挨拶をしない」などという村の掟的なものが多く、咎められるのはそれがマスコミに見られた時だけである。すべて外見上の問題なのでいわば「相撲村の風俗に染まる」ことが品格なのだということがわかる。外から見て体裁が整っているのが「品格」なのだ。キリスト教世界であれば品格とは内面的な善悪を指すのだが、日本語の品格は外面的な体裁のことであり、集団の掟と違った行動をとらないという意味になる。いずれにせよ、日本人は内面的な善悪を信じないしそれほど重要視しないのである。

次にマスコミ報道を見ていると、犯罪かどうかは警察が逮捕するかしないかによって決まるということがわかる。警察がまだ動いていない状態では、あたかも何もなかったかのように扱われる。しかしながら、いったん逮捕されてしまうと罪状が確定していない状態でも犯罪者として扱われてしまう。これはどの権威が罪人であるというステータスかを決めるまで周りは判断しないということである。つまり、いいか悪いかは文脈(相撲協会の支配下にあるか、それとも日本で働く一外国人として裁かれるか)によって決めるというかなり明確な了解がある。

例えば、薬を飲ませた状態で女性を酩酊状態にした上でホテルに連れ込んで陵辱したとしても、首相に近い筋であればお咎めはない。これは一般社会ではレイプと呼ばれるが警察が動かない限りこれをレイプとは言わない。さらに「女性にもそのつもりがあったのだろう」といってセカンドレイプすることも許されている。

このことからも日本人が善悪を文脈で決めていることがわかる。横綱は人を殴っても構わない場合があるし、政権に近いジャーナリストはレイプをしても構わない場合があるということである。

これが問題になるのは、相撲界の掟と社会の善悪が異なっているからであり、マスコミと一般の常識が異なっているからである。つまり、今回の一番の問題は日馬富士が貴ノ岩を殴ったことではなく、それがバレて相撲協会のマネジメントが破綻していることが露見したからである。同じようにレイプの問題では被害者が沈黙を守らずマスコミの慣行と一般常識が違っていることが露見して、マスコミが「バツの悪い」思いをしたのが問題なのだ。だから、れいぷされて黙っていなかった女性が叩かれて無視されたのである。感情的には受け入れがたいが、メカニズムは極めて単純である。

さらに、これが公になるのに時間がかかったことから、相撲協会は事件についてまともに調査していなかったことがわかる。多分調査というのは「いかに風評被害が少なくなるか」という研究のことだったのだろう。被害届が出ていたのだから、警察ですら「相撲協会の問題」と考えて捜査を手控えていたようだ。つまり、相撲協会の中の問題であるので、日本の法律は適用されないと考えていることになる。

これを「日本の問題」と捉えるのは大げさなのではないかと思う人がいるかもしれない。しかし、同じことが起こる閉鎖空間がある。それが学校だ。

大相撲では虐待・暴行のことを「可愛がり」と呼び訓練の一環だとする。同じように学校内での暴行はいじめと呼ばれ、それが自殺につながるようなものであっても生徒間の些細なトラプルとして矮小化されてしまう。この「いいかえ」は社会一般の規範が必ずしも集団では適用されないということを意味している。さらに、警察は学校に介入するのをためらう傾向にある。つまり学校の中には日本国憲法は適用されないということである。むしろ学校側は「人権などとうるさいことをいって、学校の事情と異なっているから憲法が変わってくれればいいのに」と考えているのではないだろうか。

さてこれまで日本人には内面化されてコンセンサスのある善悪が存在しないということがわかった。しかし、まだまだ解決しなければならない問題がある。これがモンゴル人コミュニティで起きたということである。モンゴル人の気質についてはわからないが日本人との違いが見受けられる。だから、日本人について分析するのにこの事件を持ち出すのは適当ではないのではないかという批判があるだろう。

モンゴル人と日本人の違いは日本人が擬似的な集団を家族と呼ぶことである。モンゴル人同士の交流がありそこに上下関係があったことを考えると、どうやら血族集団的なまとまりがかそれに変わる何らかの統合原理があったことが予想される。彼らは外面的には「イエ(つまり部屋のこと)の掟に従って師匠(イエにおける父親のようなもの)」に従うということを理解したが、その規範が内面化されることはなかったようだ。中学校や高校の頃から日本語を習得するのであまりモンゴル訛りがない日本語を話すのだが、それはあくまでも外見的な問題であって、実際には日本人化していなかったということになる。彼らは日本社会に溶け込んだ移民集団のようなものなのだ。

モンゴルがユーラシアを席巻するときに強みになったのは徹底した実力主義であるとされているそうだ。つまり年次によっての違いはなく、実力があればとって代われるということである。これも年次が一年違えば先輩後輩の差ができる日本人とは違っている。

マスコミはモンゴル人横綱は日本に溶け込んだと思いたがるので、このことが報道されることはないと思うのだが、社会主義だったモンゴルには敬語があまりないそうだ。貴ノ岩は「これからは俺たちの時代だ」と日馬富士を挑発したということがわかっているが、これが日本語でなければ「タメグチ」だったことになる、。日本人から見るととんでもない暴挙だが、モンゴル人にとってはこうした挑発は当然のことであり、挑発したら「実力で押さえつける」のも当然だったということになる。だからある意味ビール瓶は適当な制裁だったのかもしれない。

今回は、日本人と規範について分析しているのだから、こうしたモンゴル的要素が絡む事件は特殊なものではないかと思えるかもしれない。しかし、実はモンゴル人コミュニティが管理できていないということは、実は日本人が多様な価値体系を包含する規範体系を作ることができないということを意味している。これは日本人が価値体系を作る時に「イエ」というローカルな規範を部品として再利用するからなのである。

前回のエントリーでは、戦前の日本人論が破綻した裏には、国の1/3を占めるまでになった朝鮮人コミュニティをうまく取り扱えないという事情があるということを学んだ。日本人はこれを身近な集団である家族で表現しようとしたのだが、実はこの家族という概念は極めて日本的で特殊な概念だった。中国・朝鮮との比較でいうと「血族集団対人工集団」という違いがあったのだが、モンゴル人と比べると「年次による秩序の維持対実力主義」という違いがあったことになる。かといってアメリカのような完全な個人の集団ではなく、例えば年次の違いや風俗の違いに完全に染まることを要求され、その習得には一生かかる。

つまり、日馬富士問題を相撲協会が管理できず、マスコミが適切に報道できなかった裏には、第一に内在化された規範意識がないという問題があり、第二に家によって記述された秩序維持が必ずしもユニバーサルなものではないという事情がある。

これらのことから、日本人は国の最高法規である憲法のような規範体系を自ら作ることができない。それは必ず曖昧でいい加減なものになる。

もし、日本人が一から憲法を作るとそれは学校でいういじめが蔓延することになるだろう。つまり「校長という家族の元でみんな仲良く」という規範意識だけでは、生徒の間に起こる様々な軋轢や紛争をうまく処理できないということだ。相撲協会の場合には「みんなが見て立派な人間に見えるようだったら何をしてもよい」とか「部屋の父親である親方の顔にドロを塗るなよ」いうのが規範になっており、これではモンゴル人集団のような多様な価値観が収容できなかった。

保守という人たちは既存の体系に疑問を持たないので、決してこの欠点を超克することはできないのだ。

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政治とわがこと圏の縮小

前回のエントリーでは日本人は他人に関心がないということを論じた。多分保守を自認する人たちは嫌がる結論なのではないかと思う。ここでは政治とわがこと圏の縮小について考えたい。
安倍政権は政治家が官僚をコントロールしやすくするために人事権を内閣官房に集約したとされている。内閣人事局と呼ばれ、2014年に設置されたそうである。このとき野党から「官僚組織が機能不全に陥る」という批判があったそうだ。しかし、官僚組織は機能不全には陥らなかった。
この一連の議論は、日本人がどのように意思決定するかという根本に対する理解不足を露呈している。
かつて官僚組織は省庁とその植民地が「仲間」だった。これがサイロ化を生んでいるという批判があったわけだ。仲間とは、自分の意見がとおり、なおかつその成否が自分の生活に影響すると言う範囲だ。これまで家族と呼んできたが「わがことのように考える範囲」ということで、わがこと圏と呼びたい。運命共同体とかいろいろな言い方ができるだろう。
「官僚は所属する組織だけでなく国のことを考えるべきだ」という理想はわかるので、内閣に人事を一元化するのはよいことのように思える。しかしながらこれは2つの意味で間違っていた。もともと官僚が自分で影響力を行使して変えられる範囲は限られていて、国は単位としては大きすぎる。さらに政治家には「俺たちの意見を反映させたい」という気持ちがあり、これも官僚の意見を通りにくくする。意見が通りにくくなり、成果も分かりにくくなる。するとわがこと圏は縮小するのだ。
その結果起きたことが2つある。官僚が助け合う「人道的な」互助組織ができた。ここで天下り先を開発していた。生涯いくら賃金がもらえるかということが「わがこと」なので、こうした組織ができるのは当たり前である。文部科学省はかなり組織的に念入りな互助組織を作っていたようだが、こうした組織はほかの省庁にもあるのだろう。
確かに、内閣人事局ができたから天下りの互助組織が蔓延したという議論は乱暴なような気がする。民主党が「政権に乗り込んできた」ころから徐々に始まっていたのではないかと考えられる。もちろん国の組織の肥大化も一因なのだろう。
次におきたのは隠蔽だ。官房が決めたシナリオと違う情報は上げなくなった。どうせ責任は取ってくれないだろうし「単にどうにかしろ」といわれるのは目に見えている。
これが一番危険な状態で現れているのが稲田大臣の件だろう。官房が作った南スーダン派兵のシナリオは安全神話となっており、南スーダン政府が瓦解することは想定されていない。しかし現場からは悲鳴が聞こえる。行き場のない報告書は「なかったこと」にされたのだが、実際には防衛省のデータベースに残っていたそうである。
稲田大臣は防衛省をコントロールできていない。つまりシビリアンコントロールが利かない危険な状態が放置されている。これは防衛省本部にとって、現場も政府も「わがこと」ではないからなのだろう。稲田大臣は私が調査するといっているようだが、感情的に防衛省幹部を怒鳴りつけている絵しか浮かばない。
重要なのは、人を縛り付けて言うことを聞かせるわけには行かないし、お金を払って言うことを聞かせることもできないということを理解することだろう。「わがこと圏」が意見の流通を伴っているのだが、文化によって情報の流通には癖があるように思う。
組織には血液のように意見が巡っている。上から下に流れる意見もあれば、下から上に登る意見もある。これが非公式のルートで比較的上下格差なく流れるのが日本の特徴だ。非公式なのは、個々人の役割が明確ではなく非公式に構築される傾向があるからである。日本の組織にはジョブディスクリプション、ジョブレスポンシビリティとかアカウンタビリティにあたる概念がない。だから、誰がどんな「わがこと圏」を持っているかが分かりにくいのだ。
では政治家も含めたわがこと圏を作ればいいのではないかと思えるのだが、日本人は「同じ釜の飯を食った仲間」以外を信頼しない。「血縁以外でも家族を拡張できる」のが日本人の強みだという分析をした(例えば韓国は血縁が強すぎるのでたいてい大統領の家族が汚職問題で逮捕される)のだが、かといって経験を共有しないと「仲間だと認めてくれない」という側面もあるのではないだろうか。官僚にとって政治家は「あなた」に過ぎないのだ。
今回は、日本人にとって「わたしとあなた」関係は搾取と不利益の押し付け合いであり「われわれ」は利益の分配機能だという分析になっている。これが正しいとすると「わたしとあなた」になった官僚機構は余剰価値を生み出すことはないはずである。省益を奪い合い植民地獲得競争に明け暮れるようになるのではないかと予想されるのだが、これが正しいかどうかは表面的には分かりにくそうだ。前に寡占化した企業が現場と消費者を疲弊させるのではないかと言う軽い分析をしたのだが、同じようなことが国レベルで起こることになる。できれば外れてほしい予想だ。
最近気になっている別の事例がある。大阪の国有地が格安で森友学園に譲渡されたというのが問題になりつつある。これが本当だとすると、国有地もやり方さえ知っていれば格安で収奪できるということになる。報道によると補助金などを足し合わせると「学校で儲ける」こともできるようだ。
ここに参加している人たちは誰一人として「これはいけないことなんじゃないか」とは思わなかったらしい。自分の持ち場を果たしているだけで誰も総合的な判断をしていない。つまり「国の土地がどうなろうが知ったこっちゃない」ということになる。まあ、違法なら誰かが何とかしてくれるだろうというわけである。
豊洲のように集団無責任体制が大きな損失に発展しているケースもある。つまり余剰価値が生み出せないばかりか、不利益の押し付け合いと、富の収奪にまでつながってしまいかねないということになる。この予測ばかりは外れていることを期待している。
どこかで「こういうのはいけないんじゃないか」と正義感に目覚めた政治化が現れて魔法のように状況を改善してくれるという見込みを持ちたいのだが、こうした結論に至る筋書きを思い浮かべることができない。消耗社会に長く居すぎたのかもしれない。

日本人は他人には全く関心がない

西田昌司参議院議員と有志が「税金を安くして子供の数を増やそう」と検討しているという。この人たちは、いつも日本の伝統を取り戻そうなどと騒いでいるが日本人のことを何も知らないんだろうなあと呆れ果てた。
かつてあった「家族的な価値観」がよみがえれば、社会が俺たちの言うことを聞くだろうと思っている自民党議員がいる。憲法まで使って家族的価値観をよみがえらせようとしているのはそのためだろう。だがこれは皮肉なことに、彼らの政治的スキルの欠如の告白にしか過ぎない。つまり日本人をどうドライブするかということを知らないまま政治家になったのだ。政治家は決まりを作る人なので日本で一番えらいはずだという中学生のような見込みがあるのだろう。
このことを考えるためには「そもそも家族とは」ということを考えてみなければならない。家族とは社会保障と事業の単位が血縁で構成された集団を指す。血縁だけで自動的に家族が構成されるわけではない。日本の場合、血縁だけで家族が構成されることはなく、養子縁組して優秀な人をよそから迎え入れることも少なくなかった。結婚しても家に入れない韓国とは家族のあり方が違っている。このため血族集団は古くから記号化した。
こうして記号的になった家族は多くの集団のモデルになった。ところが国家が第二次世界大戦で家族を裏切り、企業がバブル崩壊で家族を見限ったために、残る集団は宗教だけになってしまった。
自民党の支持者が減少して公明党に依存しているのは偶然ではない。宗教団体だけが「家族的な」結びつきを持っているからだ。
第二次世界大戦でかつてあった事業体としての家族が崩壊した時の記憶はないが、企業の家族性が崩れてどうなったかということを体験している人は多いのではないか。この家族制度は終身雇用制度と呼ばれていた。
有名な松下幸之助の逸話がある。松下は宗教から経営を学んだとされている。リンク先のエピソードでは宗教と使命感の話が中心になっているのだが、ポイントは使命感を教団メンバーが共有しているということである。教団メンバーは奉仕を通じて宗教団体の運営にかかわるのだが、多分リーダーのいうことをただ聞いているだけではなく、下からの改善要求などもあったはずである。
つまり教団は「集団のことをわがことのように考える」団体のモデルになっている。この「わがことのように考えることができる」集団が家族なのだ。宗教団体にヒントを得た松下は家族的な経営を推進した。従業員だけでなく代理店も「家族的に扱う」ことで持続性のある企業を作ったのだ。
従業員は生涯松下に食べさせてもらうので、会社を「わが社」と呼び、社長を「親」だと感じる。そして会社のために尽くすようになる。こうして徐々に生まれたのが終身雇用制度だったと考えられる。日本の労使関係は対立が少なく「家族的」といわれることが多かった。
われわれが今体験しているのは、社会から「わがことのように考えられる」一体感が失われるとどうなるのかという壮大な実験だ。会社は労働者を搾取するようになり、労働者は自分が得た知識を出し惜しみするようになった。地域も崩壊しつつある。学校はPTAの労働力を使い倒すか、あるいは先生を土日に稼動させて「無料のクラブ活動」に動員させようとするという奪い合い社会になりつつある。日本人の「われわれ」の親密さの裏側にあるのは「私とあなた」の極端な冷淡さである。日本人は「あなた」を決して信用しないし、そもそも感心すらない。
「われわれ」が失われるとリソースの奪い合いになり、協力から得られるはずだった余剰利得も失われる。余剰理屈を蓄積したのが経済成長だと考えられる。
そもそも、自民党の暴走議員たちが「憲法で国民を縛って国家(それはつまり俺たちエラい議員のことなのだが)に協力させよう」と考えるのは、国民を「わがこと」のように考えていないからで、すなわち社会の荒廃の一現象に過ぎないのだ。
こうした社会では相手を動かすためには短期的な利益誘導をするしかない。そこで出てくるのが「税金を優遇して世論を操作しよう」とか「価格を下げて買ってもらおう」いうような作戦である。だが、短期利益で世論が誘導できるのは、財源がある場合だけなので、当然持ち出しになる。つまり、利益だけで誘導しようとすると、消耗戦になってしまうのだ。
最近ではふるさと納税制度が消耗戦を起こしている。二十三区の区長が「やめてくれ」というほど利いているようだが、流出を食い止めるためには「お礼」を増やすしかない。このようにお礼合戦がエスカレートするので「お礼」を転売する商売まで生まれている。税金で「われわれの社会を支えている」というようなマインドは日本人は持たない。それは、地域社会は「所詮他人事」だからである。
自民党議員たちは日本人がどのような動機付けで動くかと言うことを良く知らないので、家族的な価値観を強制するか、インセンティブで誘導するかという二者択一しか思いつかないのだろう。だから自民党は(多分民進党も)日本経済を成長させることができない。
では日本は宗教国家化すべきなのだろうか。日本人を大きな家族にするためには、一生を国家が丸抱えするような目的が必要だが、そんな目的は提供できない。あるとしたら戦争くらいだろう。
では終身雇用のような制度を導入するか、奪い合いによるダウンスパイラルが続くという二者択一しかないのかと思う人もいるかもしれない。もう一つのとりえる道は「目的」とか「理念」のもとに協力すると言う個人主義的な結びつきである。
だが第一に「私はこれがしたいから」協力してくれということがいえない。自分のやりたいことを宣言するのはわがままだと考えられてしまう上に、危険が多いからやめておけと言われかねない。
第二に、日本人は理念を持ちえるかという根源的な疑問がある。厚切りジェイソンが「日本人は政治的信条をテレビで言わないのに外人には政治的理念を聞くからずるい」というようなことを言っていた。個人主義社会に育った人としては当然の感情だろうが、日本人は「そもそもなぜ厚切りジェイソンが個人的信条を持っているのだろう」という点を不思議がるのではないか。
日本人は周りに合わせてそのときに得になりそうなことを言うのが正しい態度だと考えている。理念は文脈が持っているもので個人はどの文脈に従うかという自由があることになっている。ここであるポジションにコミットしてしまうことは「危険」でしかないのだ。
「日本人は他人に関心がない」などというと、自虐史観だなどと言う人が出てくると思うのだが、これを受け入れないと社会を成長させることができない。泣いても叫んでも人は「わがこと」のためにしか全力を尽くさないのだ。

目的の不在がデスマ案件を作る

タイムラインに「築地新市場は設計ミスだ」というツイートが流れてきた。不具合はいくつかあるらしいのだが、仲卸のスペースが足りず、通路が狭すぎて荷物を積んだ荷車が行き来できない恐れがあるらしい。
真偽は分からない。しかし、ありそうな話ではある。もともとスペースが決まっているところに無理矢理必要な数を埋め込んだのだろう。一方で、ありふれた話でもある。IT業界ではよく見られることだ。無理矢理マネジメントで仕様を決めて、あとで現場が「これは使えないですよ」という。それでもインプリするのだが、やはり使えないということになり、大混乱するのだ。
それをなんとか納めようとして泥沼化することを「デスマーチ」と呼ぶ。
しかし、製造業のプロジェクトではデスマーチは起らないものとされていた。曲げられない鉄は曲がらないわけで、マネージメントは現場を無視することはできなかったのだ。同じことは建築にもいえる。日本は目に見えて触れるものは扱うことができる。
どうしてこのような気風が生まれたのかは分からないが、農業が関係していたのかもしれないと思う。稲を育てるためには水と温度が必要だ。殿様が「稲が二倍に増えろ」などと叫んでも、農家を24時間働かせても稲は増えない。つまり、日本人は「所与の」ものは尊重する知恵を持っているということになる。
しかし、目に見えないと「なんとかなるんじゃないか」と考えてしまうらしい。IT産業はこれで没落したのかもしれない。プログラムだったらなんとかなるんじゃないかと思ってしまうのだろう。
だが、オリンピックの競技場の問題や築地市場の問題を見ていると、それも過去の話になってしまったのかもしれないと思う。甘い見積もりも、仕様のつめの甘さも、現場を交えずにマネジメントだけで「こうだったらいいなあ」という希望的観測でものごとを決めてしまっていることに起因している。
だが、それとはすこし毛色の違う引用ツイートを見つけた。


上位目的というのは聞き慣れない言葉だ。検索したところ、ワープロで文章を書くというのが目的だとすると、プレゼンの為に文章を書くというようなことのが上位目的になるのだそうだ。近視眼的な目的ばかりに気を取られて、中長期的な視野が持てないというような意味だろうと推察した。それが流行っているというのだ。
プログラムは完成した段階で不具合があると作り直しということになる。しかし、コンクリートは固まってしまうわけで、壊してやり直しということはできない。だから、先に進めてしまうということになる、
デスマーチは集団思考が作り出す。使う人・作る人・意思決定する人が分離されて起る問題だ。しかし、中長期目的の不在は、すなわちリーダーシップの不足である。意思決定に迷ったときに「原点に戻ろうではないか」というヴィジョンが提示できる人がいないのだ。
こうした問題は政治の世界でもよく見られる。最近では憲法がデスマ案件になっている。もともとは何かの不具合の修正だったのだろう。やがてそれに「気持ち」が乗るようになった。全文に日本を讃える文章が掲載された。さらに「自分たちを落とした有権者はけしからん」ということになり、人権はふさわしくないとか、日教組が学校で余計なことを吹き込むからだというようなことになった。最終的にできあがったものは「これは憲法をとはいえない」というような代物だ。最近では「これは案なので、そのまま議論に乗ることはない」などと言い出している。
ここでは課題と心情を分離できないことが問題になっている。最近では憲法を変えること自体が自己目的化しているようだ。さきほどの呟きを引用すると「上位目的」が失われているのだ。憲法草案を決めた人たちの中には「なぜ憲法を変えねばならないのだ」と疑問に思った人はいなかったらしい。自民党の党是だからというのが唯一示された理由である。
つらつらと考えていると、これは悪い兆候だなあと思う。欧米はコントロール不能なものをどうコントロールするかという視点で経済や社会を成長させてきた。ところが、日本はコントロールができないものに依存して生きて来たように思える。稲は人間の思惑通りには成長しないし、鉄は曲がらない。だからうまくやってこれた。だが、いったんコントロールを手にすると集団思考が働き、すべてをぶちこわしてしまうのだ。
「ああ、嘆かわしい」とか「日本終了」とか思うわけだが、最大限ポジティブになってみると次のような教訓が得られる。これさえ克服すれば課題の解決は可能だということになる。

  • 集団思考を避けるために、強力なリーダーシップを置く。
  • リーダーシップを円滑に働かせるために、フォロワーシップを発揮する。
  • 使う人、作る人、意思決定する人が話し合って物事を決める。
  • 課題と心情を分類し、目的を明確にする。
  • 目的はチームで共有する。