石破総理のポケットマネー・10万円商品券問題をきっかけに一気に予算編成が流動化してきた。ここでは過去の事例を元にそもそもなぜ予算がまとまらないのかについて考える。
第二のケースは細川・羽田内閣のケースだ。1991年から1992年頃のバブル崩壊後の政界再編によって引き起きされた混乱といえる。結局政治はバブル対策に失敗し「失われた30」年のきっかけとなった。
またこの当時生まれた選挙制度改革により「自分たちの代表を国会に送ることができない」という状況も生まれた。有権者の一部が政治を理解する動機を失い「政治と選挙の無意味化」という現代特有の現象も生まれている。
不動産開発で成功したリクルート・コスモスは「公開されれば値上がり確実な未公開株」を政官界に幅広く配っていた。これが明らかになったのが「リクルート事件」だ。
この時代に大蔵省が導入を画策したのが消費税である。大蔵省の消費税導入の動機は定かではないがWikipediaは国民福祉税構想の項目で「アメリカから所得税減税の要求があった」などと書いている。大蔵省はガイアツを利用して消費税の拡大を狙っていたのかもしれない。
竹下登総理大臣は地方自治体に1億円を配る露骨な地方懐柔策を画策するが(ふるさと創生事業)国民の不満は徐々に高まって行った。
そんな中、大蔵省の通達(総量規制)により不動産バブルが崩壊する。総量規制は1990年に出された。1991年の新卒は「売り手市場」だったが企業は新規採用を絞るようになり1992年には完全な「買い手市場」に転換した。これが就職氷河期の始まりだった。このときに社会人になった世代は今でも極端な安定志向と消費控えの傾向を持っている。これが徐々に精緻化されていったのが「コスパ・タイパ」志向である。皮肉なことに日本企業の生産性工場には全く役に立っておらず成長を阻害する方向にしか働いていない。
宮沢内閣の政治改革は党内からの抵抗にあい不完全なものに終わった。宮沢総理への不信任案は否決されると思われていたが自民党内から造反者が続出し結果的に衆議院が解散され選挙が行われた。後に「嘘つき解散」と揶揄されることになった。
小沢一郎らは自民党から造反し新生党を立ち上げる。このほか細川護熙の日本新党、武村正義のさきがけなど「新党ブーム」が到来した。興味深いことに社会党はこの選挙で勝てなかったそうだ。不満の受け皿として左派ではない新党ができたことが影響しているものと考えられる。
小沢一郎は自身が総理大臣になることはなかった。刷新のシンボルとして血筋が良く政治経験のない細川護熙氏が総理大臣に指名された。
ところが「清潔さ」がセールスポイントだった細川護熙氏にも佐川急便からの献金の問題が浮上する。また国民福祉税構想が唐突に打ち出された。Wikipediaの説明によると「アメリカからの要望を受けたもの」となっているが真相はわからない。いずれにせよ福祉目的に限って7%の福祉目的税を新設し消費税に代えるという提案により国民の期待は急速に剥落していった。
財源問題が紛糾し予算成立が見通せないため、まずは政治改革規制法案を先に通すということになった。しかし、その後も細川護熙総理は予算をまとめることができなかった。結局年度末を越してしまい4月8日に辞任を表明する。
ところがここで意外な事が起きる。
小沢一郎が社会党を抜きにした新党の立ち上げを画策。これに腹を立てた社会党が政権からの離脱を表明する。連立内閣が作られないため羽田孜は一人で天皇の親任式に臨み前代未聞の「1人内閣」が作られた。
Wikipediaの文章は非常にわかりにくい。要するに細川総理は暫定予算を成立させてから辞任を決めたことになる。しかしその暫定予算も5月20日に切れてしまう。しかし羽田内閣はそもそも予算編成に入ることすらできず期限を6月29日まで延期するのが精一杯だったということになる。
細川内閣が迷走の末に政治資金疑惑の混乱により瓦解、そして羽田内閣発足に際しての一悶着、就任直後の外遊、帰国早々には永野法相の更迭など、騒動が続いた第129回通常国会は、そのあおりで5月になっても平成六年度予算の審議にまったく入ることができず、すでに年度明け4月1日に50日間で11兆0514億円という大型の平成六年度暫定予算をギリギリで可決し、これが失効する5月20日には期限を会期末の6月29日まで40日間延長して10兆8930億円を追加した平成六年度暫定補正予算を可決して何とか急場をしのいでいた。
羽田内閣(Wikipedia)
結果的に予算成立を待って「満を持した」ように自民党と社会党が羽田総理に不信任案を突きつけた。小沢一郎に外されたという恨みが1955年以来の自民党と社会党の対立に風穴を開けたことになる。
しかし社会党にとっては自民党との契約は自殺行為となった。次の総理大臣になったのは社会党の村山富市だったが自衛隊を容認する姿勢を見せたことで社会党右派が造反している。このときに作られたのが民主党。この民主党が政権交代と分解を繰り返して作られたのが今の立憲民主党・国民民主党だ。
この間、政治はバブル対応と国民生活の改善には全く無関心だった。このため企業は自己責任で金融機関に依存しない道を選び人件費の分配も行わなくなった。現在の無自覚な収奪経済が作られるきっかけとなっている。この過程で就職氷河期の人たちの間にも「自己責任・効率優先」というマインドセットが定着した。
自社さ政権が崩壊のあとも自民党政権は安定しなかった。公明党を連立相手に選ぶが橋本・小渕内閣も不人気だった。この流れを変えたのが小泉内閣だった。「自民党をぶっ壊す」などワンフレーズ・ポリティクスでテレビの見出しを作り選挙情勢を一気に変えていった。この手法を受け継いだのが第二次安倍内閣だったが、この過程で一人ひとりの議員が地道に党員を獲得するという伝統は失われていったようだ。
改めて経緯を見返すと、国会議員に眼の前の問題を解決して国民生活を良くしようという気概はなく「この混乱をどう利用してのし上がろうか」という自己保身の気持ちしかなかったということがよく分かる。
特に小沢一郎は一貫して「政治資金の透明化や有権者の信頼回復」ではなく「どうすれば左派を追放できるか」という極めて偏った動機に基づいて行動しており、結果的に年度を超えても予算が成立しないという状況が生じた。
このため政治改革は非常に中途半端な形に終わっている。また小選挙区制も結果的に国民の選択肢を奪う形になっている。選挙に参加しても自分たちの代表を国会に送ることができないという認識がすっかり定着した。結果的に有権者は「政治を理解しよう」という気持ちを失い「政治や選挙の無意味化」という現在特有の状況が生まれるきっかけにもなった。
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