2025年3月16日に千葉県知事・千葉市長選挙が行われた。自民党が退潮する中でほぼ無風の選挙だったため政治の無意味化を背景にした立花孝志氏、黒川敦彦氏ともに「活躍」の場がなかった。
裏を返すと政治が党派対立を始めると彼らのような人たちに活躍のチャンスが与えられ一気に政治情勢が流動化し意味が崩壊するのだろうということがわかる。
千葉県知事選挙の投票率は31.93%で千葉市長選挙の投票率は35.70%だった。熊谷知事はこのうち86.1%を獲得し神谷市長は87.6%を獲得している。国政政党から市民団体が相乗りする構造で共産党だけが独自候補を立てていた。
熊谷県知事は事前に県営水道料金の大幅値上げを決めているためこれが反発されてもおかしくはなかった。現に共産党はこれを問題視していたが訴えは有権者には響かなかったようだ。
選挙中に神谷候補の演説が千葉市で行われているのを見かけた。企業誘致について実績を訴えていたが足を止める人はだれもいなかった。総務官僚出身で熊谷県知事のプロキシー(代理のために置かれた人)かエイリアスのような人なので「この人が市長と気がついていない人も大勢いるのだろうなあ」と感じた。後にこれは熊谷県知事の受け売りなんだなと気がついた。
当日は冷たい雨が降っていた。選挙会場には折り紙・入浴剤・花の種などお土産が用意されており「千葉市の選管はお金があるんだなあ」と感じた。
自民党は緑区が地盤の松野博一氏が影響力を落としている。また一定の影響力があった桜田義孝氏は正解を引退している。前回の選挙では独自候補が出ていたが石破総理の不人気もあり今回は独自候補が出なかった。つまり、党派対立の不在で争点が生まれなかったことになる。こうなるとネット活動家の人たちには活躍のチャンスがない。
立花孝志氏は今回の選挙期間中に2つの話題を提供した。まず「千葉県知事選」のキャンペーンで訪れた財務省前でナタによる攻撃を受けた。ネットに上がっている無修正の動画を見たが容疑者は平然と切りかかっている。
立花氏はおそらく自分の発言が人を追い詰めたという実感を持っていないようだが今回の容疑者もおそらく人を切ると血が出て死ぬかもしれないという実感は持っていないのではないかと思う。政治が国民生活から遠ざかることで「無意味化」が進行しているが、おそらく彼らにとって命も無意味なのだろう。SNSが彼らにとってのリアルであって現実はその付属物だと考えると理解が容易になる。
政治が無意味化しているだけでなく人生や命そのものが無意味化してる。
もう1つの話題は「報道特集」だった。選挙の前にわざわざ立花氏の話題をぶつけており一部で放送法の不偏不党原則に抵触するのではないかと言われている。
TBSは社会的責任を持つオールドメディアが放送法に萎縮して「兵庫県知事選挙で伝えるべきことを伝えていない」という危機感を持っているのではないかと感じる。これが「正義」なのかあるいはオールドメディアの地位に固執するあまりのあがきなのかは人によって意見が分かれるだろう。
報道特集はお金のためにビデオ編集をしている人たちを取材しており非常に見応えがあった。彼らにとって政治は無意味だが「ネット視聴者が何を見て喜ぶか」は非常に冷静かつ的確に判断している。
これがおそらくネット世代のリアルなのだろう。取材した人が彼らについてどう感じたのかはわからないのだがおそらく不気味な存在だと思ったのではないか。ただ、日々ネットで政治フォーラムをやっているとこれはありふれた存在であると実感できる。
小沢一郎らが画策した結果として作られた小選挙区比例代表制のもともとの狙いの一つは「保守政党同士の政策コンペ」だった。つまり社会党などの左派潰しだったと考えれらる。これは羽田政権発足直後の社会党外しにも露骨に現れている。
結果的に小沢一郎の狙い通りとなり、左派だけでなく少数の意見は排除され政権選択には関われなくなった。
この小選挙区比例代表制は「所詮自分たちの代表を国会に送り込むことなどできないから選挙など無駄」という理解となって広がっている。政治は自分たちの生活とは関係がないから理解しようとしても無駄なのだという考え方だ。
今回の一番の学びは政治が一枚岩であれば「無意味化」に寄生され破壊されることはないという点にあるのだろう。と同時に一度閉塞感漂う党派争いが起こればあっという間に「無意味化」に侵食され本体の政治言語も破壊されてしまうだろうと予測できる。それが起きたのが兵庫県知事選挙だった。
この意味の破壊はMAGAに占拠された共和党を見ているとよく分かる。トランプ大統領の経済政策には反対する人が増えているが、支持者たちは却って結束しているそうだ。さらに民主党が支持を落としており「リブート」が必要になるだろうと考えられている。
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