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なぜ予算は期限内に成立しなかったのか 吉田内閣のケース

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石破総理のポケットマネー・10万円商品券問題をきっかけに一気に予算編成が流動化してきた。ここでは過去の事例を元にそもそもなぜ予算がまとまらないのかについて考える。

第一のケースは1953年の吉田内閣だ。朝鮮特需が落ち着き始めた頃の出来事で、後の1955年体制の前史となっている。

きっかけは吉田茂総理大臣のマイクでの「ばかやろう」というつぶやきだったそうだ。きっかけなど何でも良かったのだろう。

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吉田茂総理は1年生議員ながら才能のある池田勇人議員の手腕を高く買っていた。ところが池田勇人は「貧乏人は麦を食うべき」とか「中小企業は潰れても構わない」などの放埒な発言で知られていた。自由党内では鳩山一郎氏との間に軋轢があった。

池田勇人氏が通商産業大臣になると過去の発言が盛んに蒸し返されるようになった。1953年の予算審議で、吉田茂氏は社会党右派の議員の挑発に乗り「ばかやろう」と小さく呟いた。この発言がマイクに拾われ「問題発言」だと大騒ぎになる。

懲罰委員会が開かれるが自由党鳩山派は総理大臣を庇わなかった。一気に不信任案決議の流れとなり吉田茂総理大臣は解散を選択される。後にばかやろう解散と呼ばれた。

細かい予算の経緯はWikipediaにしか掲載されていない。補足しつつまとめるとこのようになる。

  • 3月14日:1953年に本予算が成立しないまま(参議院で審議中だった)衆議院解散(バカヤロー解散)
  • 3月20日:参議院の緊急集会で5月31日までの暫定予算を成立
  • 4月19日:衆議院選挙で自由党が第一党になったものの鳩山派が分離していたため過半数が獲得できなかった
  • 5月19日:吉田茂が首班指名
  • 5月21日:改進党の閣外協力を受けて新内閣が成立
  • 5月30日:国会で6月30日までの暫定予算成立
  • 6月30日:国会で7月31日までの暫定予算が成立
  • 7月31日:本予算成立

非常に興味深いことに自由党吉田派と自由党鳩山派はそれぞれ6議席(合計12議席)減らしている。つまり、吉田派と距離を取ろうとした鳩山派が有権者から支持されることはなかったということだ。閣外協力の相手となった改進党も21議席減らしているそうだ。

この時期にスターリン暴落と呼ばれる株価の暴落が起きている。スターリンがなくなったことで平和になるのではないかと恐れた投資家が株を暴落させた。朝鮮特需が終わったということが誰の目にも明らかになった出来事だった。

選挙で社会党右派・左派が躍進した理由が保守のゴタゴタによるものなのか経済への先行き不安によるものなのかはよくわからない。様々な事情が言語化されないままで蓄積してゆき、吉田茂総理大臣のちょっとした発言が導火線に火をつけたのかもしれない。

ただしこの株価暴落と不況は長く続かなかった。軍需産業は民間転用され神武景気と呼ばれる好景気が訪れる。神武景気は1954年から1957年まで続いた。

このあと吉田内閣は造船疑獄(佐藤栄作氏に疑惑の目が向けられ指揮権発動が行われた)を経験する。指揮権発動が政権に恣意的に使われたことで後の内閣が識見の発動を行うことはなくなった。現在では一種の政治的タブーとみなされている。

経済界やGHQは左派の台頭を恐れて保守派の合同を促したが「吉田茂とは絶対に組みたくない」という声も大きかった。吉田茂はこの声に押される形で政治から引退してしまう。この過程で日本民主党が作られ吉田自民党と合同する形で自由民主党が作られた。政治的な勝者は造反者の鳩山一郎だった。

予算が成立しなかったのは政党が予算成立よりも党派闘争を優先した結果だった。スターリンショックの影響もあり右派・左派社会党が躍進するが政権を担うことができるまでの勢力には成長していない。なおこの過程で「再び統一すれば政権を担えるのではないか?」という期待は社会党側にもあったそうだ。

当時の政治が目の前の経済問題そっちのけで党派闘争に耽溺していた様子が非常に印象的である。朝鮮特需と基幹産業の民間転用という外部要因で降って湧いたように景気が良くなり「結果オーライ」として自民党の政権基盤が作られていった。

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