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下町ボブスレーと三浦瑠麗の共通点

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今日は、Twitterで炎上している二つの事例についてまとめて考える。なぜまとめるかというとあまり興味がないからである。特に三浦さんは単にテレビに出ている政治ネタ芸人か自民党のプロパガンダ要員くらいにしか思えないので、真面目に読んでみようという気持ちにはなれない。が、この真面目に読んでみようと思う気になれないという点が、実は出発点としては重要である。

下町ボブスレー問題は性能がよくないソリをジャマイカボブスレーチームに押し付けようとして却下されたという話だ。当初は「いい加減なジャマイカ」が契約不履行で訴えかけられているというような話がテレビで流された。だがのちに日本の下町チームの性能が競合より低かったせいで却下されたのに、日本は契約不履行だと訴えてジャマイカを恫喝しているという話に変わりつつある。いい加減なのは日本チームだったということになる。

三浦さんの件はテレビのお笑い番組(たまにあれをニュース番組だと思っている人がいるようだが)で三浦さんが「大阪には日本の破壊工作を担うスパイがたくさんいる」と根拠なく発言したという問題である。これを「スリーパーセル」と呼ぶのだそうだが、後追いで出た解説記事によるとネトウヨ界では有名な陰謀論なのだそうだ。これが一般レベルでは「在日朝鮮人は怪しいから」という話になるのは明らかなので、特定民族に対する潜在的な差別発言と言える。三浦さん個人の問題もあるのだが、それを垂れ流しにしたテレビ局の問題も大きい。

まず下町ボブスレーの件から見て行こう。批判する人たちは忘れているようだが、下町ボブスレープロジェクトは単なる失敗ではない。見所もたくさんあった。

  • 一度は成果を出している。
  • ことの経緯はともかく、官民が協力してジャマイカに営業先を確保した。ジャマイカに押し付けたわけではなかった。
  • 大手企業と大田区の中小企業が協力してプロジェクトを成し遂げた。

つまり、日本の下町にはそれなりの技術があり、大手企業や官僚が協力すればそれなりの成果をあげることができるという教訓は含まれている。これは決して悪い話ではない。NHKが美談としてドラマにするのもよくわかる。

だが、問題点もある。伝えられるところによると担当者は「ボブスレーのソリは技術的にはそれほど大したことはない」と考えており「日本には売れなくてもジャマイカくらいには売れるだろう」という油断があったらしいとされている。結局、この予断のせいで技術革新を怠り競合他社に追い抜かれてしまったようである。つまり、そのまま池井戸潤の小説になるような話なのだ。もちろん下町ボブスレーチームは悪役の側である。

ではなぜこんなことが起こったのか。まず、下町の工場が単なる下請けになっており、大企業や官僚に相手にされていないという背景がある。多分当初は「たまたま成果が出たのを利用しようとした人がいる」か「誰かが目をつけておとぎ話を仕立て上げよう」としたのだろう。つまりこれは「本来なら実力を発揮できる人たちが大手から相手にされていない」人たちがたくさんいるということを意味する。しかしながら、いったん「これは美談に仕立て上げられるぞ」ということになるとめきめき自信をつけてプロジェクトとして成功し得るのだ。政権や大企業の人たちが「利用価値がある」と考えれば利用するということだ。

ここからわかるのは政治や大企業は「目利き力」を失っている上に、本来企業が成し遂げるべき本分を忘れている。それは不断のイノベーションによってお客様に喜んでいただくというのが企業の本分だったはずだ。彼らは政権に喜んでもらったほうが手っ取り早くおいしい思いができるということを知ってしまったのである。

しかし、これは国内では通用しても海外では通用しない。プロジェクトが見なければならないのは海外の競合だったのだが、実際に彼らが見たのは永田町という村だったということだ。下町チームが真摯に対応していれば本当にオリンピックで成果をあげることができていたかもしれないのだが、結局政権に利用されるばかりで消費されて終わりになってしまった。実にもったいないことである。

下町ボブスレーの話をつぶさに見てゆくと「彼らが勝手に考えた序列」の思い込みの怖さがわかる。下町の町工場だから大したことはできないというのもそうだし、弱小ジャマイカのチームなんだからこれくらいでも大丈夫というのもそうだ。こうした積み重ねがどれくらいの機会損出に結びついているか、そして結果として製造業大国を大きく蝕んでいるのかと考えると恐ろしくなる。

一方、その対照として「国家によって支えられているプロジェクトなのだ」という根拠のない自信もある。つまり、人々は本来見るべき「そりをどう早くするか」という問題ではなく、大きな人を相手にしているのか小さな人を相手にしているのかという関係性にばかり注目してしまうのだ。

さて、これと三浦さんがどうつながるのか。三浦さんはもともと自民党が主催する論文コンテストによって発掘されたようだ。自民党支持者にしてはリベラルだし女性なので感じもよいというのがウリになっているのだろう。一部では「コンパニオン」とか「芸者」だと指摘する人もいるようである。ここで人々が忘れているのは三浦さんが本来才能のある女性であったということである。

しかし、女性は才能があるだけではダメなのだろう。テレビに取り立てられるためには後ろ盾が必要であり、それが三浦さんの場合には政権だったのではないだろうか。つまり、彼女が世に出て学者としてそれなりの地位を獲得するためにはこうしたお膳立てが必要だったということになる。もし、仮に彼女がこうした後ろ盾なく論文や本を出しても、その他大勢の学者たちのように見向きもされなかった可能性が高いのかもしれない。

三浦さんがテレビの評判を気にせずに自分の学問領域を追求していれば、もしかしたらなんらかの国際的にも評価されるような業績を残せていたかもしれない。しかし、これは二つの理由で叶わないだろう。まず、学者は社会から援助してもらえないのでその日暮らしの生活を強いられることが多い。こうした困窮の一方で、安倍政権の擁護だけをしていれば受け入れられるという正解がある。これはお腹が空いている人に目の前のマクドナルドを食べるなと言っているのと同じようなものであろう。

彼女は言論人なのだから政治的意見を言ってはいけないということにはならない。むしろ問題はテレビ局の方だろう。し「この人が官邸寄りである」という前提があるからこそ国際的な業績もないままでテレビで識者として祭り上げられたのだろうし、その言い分もチェックなしで気軽に流してしまった。冒頭「ワイドナショー」はお笑い番組だと指摘したが、もしジャーナリズムであればそれなりのチェック機能を持っていたはずである。もっとも注意深く見ていればわかるが「芸能人が好き勝手に自分の見解をいう番組」と唄われている。要は「下請けの芸人が好き勝手にやっているだけだからテレビ局は責任を持ちませんよ」と宣言しているわけで、もはや言論機関とすら言えない。

三浦さんの問題と下町ボブスレーの問題の共通点は、社会に貢献できるはずの才能が政権賛美のために潰されてゆくという点にあるようだ。うまく行っているうちはたくさんの人が群がってくるが、炎上すれば誰も助けてくれない。こうして失敗したら消えてゆくという運命を背負いつつつかの間の歌を歌っている。籠池夫妻の例でも見てきたし、佐川元理財局長も同じような命運をたどりつつある。

こうして「他人を消費して生き残る」のが、私たちがいう「美しい国」の正体なのかもしれない。

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