稲垣吾郎、香取慎吾、草彅剛のSMAP脱退組3名がインターネットテレビAbemaTVで72時間の連続放送を行った。途中で寝る時間も設けられたようだがほとんど寝ないで72時間放送を乗り切ったようだ。最初はゆるい放送だなあなどと思っていたのだが、途中で狂気を孕むようになり、最終的には「ここまで壊すんだ」というレベルまで到達した上で、涙で解放されて終わった。
徹底的な破壊行為を72時間かけて行ったことになる。
基本的にインターネット放送は「グダグダ」である。グダグダになる理由はいくつかある。第一に事務所の制約がないのでやってはいけないことが少ない。なので放送作家が事前に作り込んだ準備をしないのだろう。そこで時間が空きすぎるというようなことがしばしば起こる。さらに、局アナがいないので進行が滞ることがある。主に三人が進行するのだが同時にSNSへのアップなども担当するので、途中が空いてしまったりする。そこをウド鈴木がつなごうとして失敗するという具合である。
これがある種の「ざらつき」を生み出していた。テレビの放送は当たり障りがないので何か仕事をしながら見ていると、気がついたら忘れているということがあり得るが、グダグダな放送は何が起こるかわからないので注目度が高くなる。と同時に落ち着いて見るのは難しい。
さらにネットテレビは得意な分野と苦手な分野があるようだった。「実験してみよう」というコンテンツはそれなりに面白かった一方で「SMAPのメンバーが先に脱退した森且行に会いに行く」というようなテレビを焼き直したような企画では間が持たなくなっていた。思い出のVTRが使えるわけではないので昔話を話し合っているだけになってしまう。すると「もう時間が余っているのに話すことがない」ような時間ができてしまう。さらに出演者もそれを隠そうとしないのでなんとなく気まずい雰囲気になってしまうのである。
もう一つの見ものは出演者たちだった。テレビで見なくなった「芸人枠」の人たちもいるのだが、映画などで名前が知れ渡っており必ずしもテレビに依存しなくてもいい「大物枠」の人たちが大勢出ていた。三人がプロダクションを飛び出したことに対して応援する気持ちがあったのだろう。基本的には72時間をかけた破壊行為であり、昔のフッテージや曲が使えないという縛りがあるわけだが、人脈は持ち出すことができるわけである。
多くの大物芸能人が出たのとは対照的に全く見られない人たちもいた。ジャニーズのタレントが出ないのは当たり前だが、AKB系列の人や、 Exile系の人はいない。また俳優でも大手プロダクション所属の人たちもいなかった。こうした人たちは「出て行かれると困る」プロダクションに属している。つまり、こうしたインターネットテレビの試みが成功すると困る人たちがいるということである。大手芸能事務所で協力したのは山崎賢人と山田孝之のいるスターダストくらいだったのではないだろうか。
テレビはもちろんインターネットテレビを無視しているのだが、もともとネットの反応を見ながらテレビ視聴するようなライフスタイルが確立していると、Twitterを見て認知してそのままネットテレビを見ることができる。だからテレビの宣伝に頼らなくてもそれなりの視聴者を集めることができるのだろう。
そうはいっても、視聴率はそれほど高くない。だいたい同時に見ているのは100万人から200万人の間だったようだ。単純に計算すると(実際の視聴率はこのようには計算しないようだが)1%から2%の間で深夜放送並である。単純に比較できないのは「バズ」が生じるからである。森くんというワードはTwitterで世界一のワードになったそうである。さらにインスタグラムやYouTubeの露出もあり、副次的な影響が強かったものと思われる。
しかしながら、個人的に気になったのはこうしたビジネス上の効果ではなかった。最後の72曲が狂気に近かったからだ。SMAPのようなアイドルはバラエティで格好がつかなかったとしても歌や踊りが素晴らしいという前提があるからこそ成立する。だから、タレント価値を守るためには歌と踊りだけは決める必要があるわけである。
しかし、今回の番組において最後の歌は音程が乱れ高音は出ず歌が途中で途切れるというような惨憺たる具合であった。自分たちの持ち歌ではないので、歌い慣れていないという事情があったのだろうが、本人たちも「格好悪い」という自覚を持っているようだった。
見ていると「アーティストなんだからいいコンディションで歌わせてやればいいのに」と思ってしまう。特に前半は正視に絶えない状態だった。
ファンのTwitter上の発言を見ると「今はジャニーズ事務所に権利を抑えられておりSMAPの歌が歌えないが、それはファンの圧力でなんとかしてみせる」というような書き込みが見られた。かわいそうだと考えているファンは多いのだろうが、これは見方を変えるとファンのほうが、かつてのSMAPにしがみついているとも言える。これが目の前で崩されてしまうのである。
これがいいことなのか悪いことなのかよくわからない。
考える上でのヒントになりそうな事象はある。木村拓哉は歌がうまいアイドルだが、実際には我流の独特な節回しに支えられているかなりフェイクな歌い手である。これは俳優業にも同じことが言える。ジャニーズは演技の勉強をさせないので、何をしても「木村拓哉」になってしまう。これが成立するのはかつての成功体験の所以である。ファンも付いているので「木村拓哉風味」を壊すことはできない。期待が大きすぎるからだろう。
一方で、型が崩れてしまうと別の分野に進出せざるをえなくなる。普通は、方を成立させていた前提が崩れてしまったことに気がつかずにずるずると引きずってしまうことになる。次第に何もなくなってしまうのだが、そこが更地であるがゆえに却って集中ができて、新しい芽がふいてくる。これはかなり時間がかかるプロセスであり、結果的には「遠回りしたのではないか」とか「もっと効率的なやり方があったのではないか」などと思ってしまう。
しかし、この三人の場合は意図的にしかも急速に崩している。つまり、再生産のプロセスを意図的に早めているのである。
かつての型へのしがみつきが起こるのはファンが新しい型の創造を邪魔しているからだ。だからこうした破壊行為はファンの振り落しにもなっている。古いファンは新しい地図を受け入れることができず、何度でも繰り返しの芸を要求する。せっかく応援している人たちを振り落とすというのはかなり残酷な行為のようにも思える。
そんな中で面白いと思ったのは稲垣吾郎が「森と稲垣は中間管理職だった」と言及していたことだった。草彅剛と香取慎吾は一般社員にあたり、中間管理職が稲垣と森だったという認識だ。そうなるとSMAPは中居・木村というあまり仲が良くない幹部を下級社員が支えるという構図だったということになる。すると、幹部は会社に残るなんらかのメリットがあったが、それ以下の人たちに離反されてしまった大企業ということになってしまう。