ざっくり解説 時々深掘り

日本の道徳教育で最初に教えるべきなのは何なのか

Xで投稿をシェア

最近、スポーツ界の一連の騒ぎを見ていて違和感を感じるようになった。暴力は絶対悪だという認識ができたところまではよかったのだが、誰かが勇気を持ったコメントをしてマスコミが取り上げたあとに「あの人は気に入らなかった」という人が続々と出てくる。「なぜその時に言わなかったのか」と思うのだ。

答えは簡単だ。マネジメントの側に聞く姿勢はなく、また管理される側にも異議申し立てをする技術がないからである。

潜在的には常に相互不信の状態にあり「成果」だけがその不全を正当化する。だから成果が上がらなくなると一気に問題が噴出し制御不能に陥ってしまうのである。スポーツの場合はオリンピックに出てメダルをとることや伝統的な大会に出て優勝することがその成果にあたり、政治の世界では当選することが成果になる。次のオリンピックでどうしてもメダルを取りたい人が騒ぎ始めたり、選挙で勝てなくなった政党が党首の悪口をいって組織を壊滅させてしまうのはそのためである。

いったんガスのように溜まった不満に引火すると、次から次へと「もともと気に入らなかった」とか「早く問題を解決すべきだった」という声が出てくる。

だが「聞く技術も異議申し立てする技術もない」世界では同じような問題が繰り返されることになる。ボクシング連盟はマイノリティ出身で必ずしも法的な枠組みに保護されていなかった人が「体で覚えた恫喝術」による組織マネジメントが行われていた。このニュースは後追いしていない人が多いと思うのだが、新しく会長になった人にも恐喝の逮捕歴がある。すでに公表されておりマスコミ的には「問題がなかった」ことになっているのだが、少し強面の人でないと組織運営ができないことになっており、組織側もそれを容認していることになる。いったんおさまったことになっているが、将来また同じような問題が起こるのかもしれない。

日本人は心の中ではマイナスの感情が渦巻いていても普段はそれを口に出すことはない。だが、怖いから言わないだけであり、何かのきっかけで噴出すると制御ができなくなる。顔出ししなくてもよいならなおさらである。世間の関心を代表するマスコミは問題解決がしたいわけではなく組織が動揺して誰かが堕ちてゆくところがみたい。自分たちには関係がないところで騒ぎが起こると視聴率を稼ぐことができてお金儲けができるからだ。マスコミにとっては所詮他人事でるばかりか、パンやワインに変わる価値のある「燃える水」なのだが、燃やされる方はたまったものではない。

だからマスコミは「あの人がこう言っていたがあなたはどう思うか」などと告げ口をして回る。こうして、SNSとマスコミの共同作業で作られた爆発自己は、炎に酸素を注いでもりあがる。それを見ている人も自分たちの不満をその炎上にぶつけているのだろう。

これを防ぐためには普段から問題が起こった時に自分の気持ちを素直に表現することが重要になってくる。実は選手の側の技術というより危機管理対策として重要なのである。これを英語ではアサーティブという技術にまとめている。英語圏のマネージメントではこのアサーティブさを学ばせる。つまり、問題があったらその都度解決できるようにしておかないとガバナンス上の問題になり得ることを知っているからなのだろう。

英語圏でも同じような爆発事故は起こる。最近ではMeToo運動が起きてエンターティンメントの大物が追放された。カトリック教会では少年への性的暴行問題が起きておりこれも問題に蓋をした結果、取り返しのつかない告発が日々繰り広げられている。英語圏でも性的な話題は「恥の対象」とされており表に出てこないのだろう。だが、日本の場合は「みんなが従っているのに組織の問題をあげつらうこと」も文化的タブーとされており、天然ガスのように地下に蓄積して最終的にはSNSとマスコミの力で爆発する。いったんそれがお金に変わることがわかったらあとは石油堀りの人たちが次の油田を探して火をつけて回ることになる。

政治でも同じようなことが起きている。だがこちらは視聴者の関心が薄まりつつありなかなか火がつかない。自民党の党首選びが盛り上がらないのは、石破茂が安倍晋三に掴みかからないからだ。そこで安倍陣営が「石破派の応援団を恫喝している」というのがトップニュースになる。

よく考えてみると「アサーティブさ」を学校で学んだ記憶がない。個人的に小学校の時にひどいいじめを受けた経験があるのだが、日本人の先生は大抵見てみないふりをする。しかし、英語圏出身の人は「自分の気持ちをきちんと伝えるべきである」というような指摘をしていた。しかし、家庭で「自分の意見をきちんと言う」というような価値観は教えられておらず「父親は面倒だからごちゃごちゃ言わずに黙って従っていればよいんだ」という教育しか受けていなかったので、それがどういう意味かわからずに小学校と中学校(一貫教育だった)ではいじめられ続けた。「いじめられるのが嫌だ」と言えれば状況は変わっていたかもしれないと思う。

このことから、その時代から英語圏では「自分の気持ちをきちんと訴えることができるようになるべきだ」という主張は文化コードに埋め込まれてはいたことになる。ただし「アサーティブさ」という概念はなかったのだろう。そして、日本には「自分の考えを伝えるべきだ」というような価値観そのものがなかったことになる。最近、YouTube韓国のバラエティばかりを見ているのだが、韓国では不満を口に出して親密な関係の人にいう文化があるようだ。社会によって異議申し立ての方法は異なっているが、日本の文化はやはり独特で、捌け口を作らず内側に溜め込む傾向が強いのだと思う。

時代はかなり変化して、英語圏には「アサーティブ」という概念が生まれて経営学の現場でも教えられるようになった。ところが日本では家庭にもそのような考え方はないし、学校でもそれを教えない。現在の道徳教育が学校現場でどのように推進されているのかはわからないが、文部科学省のカリキュラムをみる限りは次のようなことが強調されているようだ。つまり「管理しやすい」子供を作っていることになる。

  • 自己をきちんと管理する。
  • 決まりを守って良い子になる。
  • 親や先生のいうことをよく聞く。

最終的には国のいうことをよく聞く管理しやすい国民が作られることが目標になっているのだが、違和感を持って眺めると「お互いの意見を調整して決まりを作る」ことや「嫌なことがあったら意思表明をする」というような項目は見られない。つまり、誰かが「みんなが納得できる決まり」を決めてくれることが暗黙の前提になっていることがわかる。この対極にあるのが日本型のいじめなのだろう。漠然とした不満を持った子供が他の生徒を捌け口として利用する。そして不満を整理したり調整したりできない先生が問題を黙認したり場合によっては加担したりしてしまうということになる。誰か特定のいじめのターゲットがいない場合には明らかに社会的コードを逸脱した人たちを公開の場に引っ張りだしてみんなで石を投げることになる。2017年のそれは不倫であり2018年はパワハラ指導だったのだろう。

実際にやってみるとわかるのだが「自分の意見を組み立てて相手にわかる形」にするのは難しい。そしてそれができないと相手の気持ちを聞くという技術も習得できない。そこで代わりに跋扈するのが「恐怖によって支配する」という体罰型のスポーツ組織マネジメントだったり、ポジションを使って相手を恫喝する自民党政治だったりするわけである、

実は日本の道徳教育には「自分の意見を相手にきちんとわかってもらう」という項目が著しく欠落しており様々な混乱を生んでいるということは知っておいても損はないと思う。「自己責任」を叫ぶ人は実は自分の問題もきちんと整理できていない「社会的な言語を持たない」未開な状態の人なのである。万能のトップリーダーがいればそれでも構わないのだが、そんな人はいないので、様々な問題が解決されずに次から次へと天然ガスのように蓄積して方々で爆発事件を起こすことになる。

このような状態では、優秀なアイディアも「どうせされにもわかってもらえないだろう」と潰れてしまう。実力のある選手が異議を申し立ててもいつの間にか組織内紛に発展し、当人の問題は結局無視されてしまう。ワイドショーのつまらない「炎上」がどれくらい個人の生産的な時間を浪費したのか1日数えてみれば、その経済損出額の膨大さに気がつくのではないだろうか。

コンテンツのリクエストや誤字脱字の報告はこちらまで

Xで投稿をシェア


Comments

“日本の道徳教育で最初に教えるべきなのは何なのか” への1件のコメント

  1. […] こうして形骸化した競争は内側から力を失うか過疎化する。これを防ぐためには学校で「動機付け」の技術を学ぶべきだし、その動機付けのきっかけになる異議申し立てを認めるべきだ。以前道徳教育の前に自己主張することを教えるべきだという文章を書いたことがあるのだが、これができないと他人を説得したり心を動かしたりする訓練もできない。 […]