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貴乃花の変節からわかる日本の組織がいつまでも変わらない理由

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前回のエントリーではマクドナルドという古い企業がなぜ新しい技術を導入できないのかを考えた。そして、その原因は日本の村落的な仕組みと責任もって物事を進めるプロジェクトリーダーの不在にあった。では責任を持って物事を前に進めようとするとどうなるのかということを考えたくなるのだが、それにぴっったりな事例が見つかった。それが貴乃花親方問題である。

貴乃花親方の変節を見るとなぜ村落共同体が自浄作用を働かせることができないのかがよくわかる。貴乃花親方の目的は相撲をより魅力的な競技にするために暴力を排除するという、誰が見ても否定できないものだった。だがそれは実現しなかった。この問題だけを見つめていると、単にもやもやして終わりになるのだが、実は問題は簡単に解決する。

貴乃花親方が変節した理由は簡単だ。白鵬の暴力を罰しようとして世論誘導をしていたのだが、今回貴公俊が同じ立場になってしまったので「報復」を恐れたからである。逆に考えると、報復を恐れて拳を振り下ろしてしまったことで白鵬の告発が「報復」であったことを認めてしまったことになる。相撲界は部屋という村落の共同体なので、報復の目的は村落的な競合関係から抜け出して優位な立場に立つことである。つまり、組織全体の改革が親方同士の内乱に矮小化されるという構造的な問題があるのだ。それを解決できるのは理事長だけなのだが、理事長も村おさたちの利権を守る互助会の長にすぎないので抜本的な解決を目指さない。

加えて、改革を訴えた人は人格否定をしているように捉えられてしまう。つまり、暴力追放という目的ではなく、親方の人格に焦点が当たるのだ。マスコミで大きく報道されたこともあって「相撲界はダメなのではないか」という印象が広がったと怒りを感じている親方が多かったのではないだろうか。これが貴乃花を角界から追放しろという声につながった。それに対する八角理事長の答えは「貴乃花は人気だけはあるから、改革などという余計なことはしないで、客寄せとして頑張れ」というものだった。つまり、利用価値があるから黙らせて使うべきだというのである。

こうした社会ではそもそも問題を指摘することが人格否定につながってしまうので改革どころか問題の指摘すらできない。問題を指摘した人は反逆児と考えられて、社会から抹殺されるリスクにさらされてしまう。さらにそれは個人だけではなく部屋への報復につながる。今回もこの騒動が起きてから貴乃花部屋の力士の問題行動が伝えられたが、内部からのリークが多かったのではないかと思う。

前回のマクドナルド問題ではwi-fiという新しい技術をとり仕切るマネージャーがいないことが問題だった。マネージャーに責任だけを与えても本部もフランチャイズも責任を押し付けあって決して問題は解決しないだろう。その上「あいつは嫌な指摘ばかりをする」として出世競争から排除されてしまう可能性が高い。貴乃花問題ではさらに表ざたにしにくい暴力について扱うわけだからそれは新しい技術の導入よりも難しい作業になるだろう。

何か改革をしようとしたら、周りの人を怒らせることになるのは当然のことである。だから権限と責任が大切だ。しかし、日本の組織で「責任を取る」ということは運を天に任せるということになりがちなので、責任が取りたくても取れないという人が多いのだろう。ミドルクラスのマネージメントを経験した人なら多かれ少なかれ同じような経験をしているのではないだろうか。

日本の報道はこの村落を所与のものとして捉える。相撲界の仕組みには詳しくなったし、親方に序列があることもわかった。これはマクドナルドにフランチャイズと本部があることに詳しくなったり、財務省の中にも理財局や地方組織があるということに詳しくなったのと似ている。だが、どうしたら暴力がなくなるのかという問題についてだけは一向に答えが見つからない。

責任を透明にするために日本の民主主義社会は法治主義という制度を取り入れた。あらかじめ、法律で処分が規定されており第三者がどのような責任を取らせるのかということを「周りの人たちの気分とは関係なく」決めるのが法治主義だ。だから相撲界にも法治主義を入れて「相撲裁判所」のようなものを作って報復と切り離せば問題は解決する。親方が反省してもしなくても暴力について評価が出せる。

だが、ワイドショーを見ていると日本人はそもそも法治主義を理解していないので「公正な組織を作って判断すべきですよね」という声は上がらない。代わりに出てくるのは第三者機関なのだが、第三者機関の人選がマネージメントに左右されてしまうので、第三者機関を評価する第三者機関が必要ですねということになる。第三者機関というのはその人たちが人的に評価を決めるということだから、人治主義に人治主義を重ねても法治にはならないのである。

政治の世界も同様だ。日本には法治主義などはなく、その場の気分や内閣の都合で判断が歪められることが「望ましくはないが当然」と考えられている。よく「法治主義を取り戻せ」などというのだが、実際には法治主義などないのだから取り戻しようがない。さらにこう叫んでいる人も「安倍は絶対に怪しいから政権から引き摺り下ろせ」と人民裁判的な報復を叫ぶ。これは逆の立場になったときに同じことをされる危険があるということである。

いずれにせよ日本に法治主義がないことの弊害は、新しい技術を導入した、問題を解決できないことにあるということがわかった。日本マクドナルドはwi-fiを扱えないし、相撲は暴力問題を解決できない。そして、日本政府は透明で公正な行政を実現できないので国民と協力しあって国をよくすることはできない。

問題を解決したり、新しいスキルを導入することを世間一般では成長と呼ぶ。つまり、できるだけ公正なジャッジに基づく法治主義が根付かない国や社会は成長することができないのである。

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