本日は議論のための議論なので、ほとんどが仮説である。高プロ制度は日本を滅ぼすという答えをあらかじめ用意して論を展開する。だからこれに反対するのはとても簡単である。仮説を攻撃するのではなく「この制度によってインセンティブが増す」という事例を持って来れば良いのだ。
高度プロフェッショナル制度については、実証済みのデータで検証したいのだが、良し悪しについて考えることができるフレームもデータもない。厚生労働省は労働についてのガバナンスを放棄しており政策決定に必要な統計調査が行われていないからである。そこでまず「高度プロフェッショナル制度を導入すると成果が上がりやすくなり企業が成長する」という仮の題を置く。それだけでは心もとないので適当に検索して「成果主義が機能するための条件」を提示することにした。
「成果主義」が成功する要因を見て行こう。実は、英語に成果主義という言葉はない。かわりにあるのは「結果志向マネジメント」という言葉である。result orientedとかresult drivenなどという。それは「結果を意識して動こう」というような意味である。試しに適当に検索して最初の記事を読んでみた。
- 最終目標(=成果)を念頭に置く。これは成果主義の言い換えになっている。つまり常に結果にフォーカスして動こうという意味である。西洋文化なのでもともと対象物志向なのだが、それでもプロセス重視に陥りやすいということを意味している。
- 過去の事例から学びそれを継承する。つまり、成果を上げるためには過去事例の蓄積が大切である。
- 試行錯誤する。つまり失敗の可能性が織り込まれているが、最終目標にフォーカスしているので失敗ではなく試行錯誤だと解釈される。失敗を恐れていてはいけない。
- 継続的な援助を惜しまない。成果主義をリードするのはマネージャーである。
- 状況をモニターし調整する。成果主義をリードするのはマネージャーである。
次に、すでに「高プロ的な働き方をしている」人たちについて考える。まず結果を提示して契約を結ぶという意味では、都知事や府知事といった人たちは高プロ的働き方をしている。彼らには勤務時間という概念はない。彼らは地位に立候補して「このような成果を出せます」と宣言する。そしてそれを実行した上で次の選挙で再評価されるという仕組みである。
本来なら都知事は過去事例などに学びながら、目標を設定して、継続的に都の職員を「エンカレッジ」して結果にコミットすべきである。だが実際にはそうはなっていない。
彼らは長期的に地位にコミットしなくなる。代わりに華々しいプレゼンをしてそれが成功しているかのようにお芝居を始める人が多い。都民も継続的に都政を監視しているわけではないのでお芝居が成功しやすい。小池都知事を見ているとそのことがよくわかる。さらに政治も大切なので職場に寄り付かなくなる。支援者周りをしたりその他の政治活動に忙しく「細かい問題」にか待っていられないと感じるのだろう。石原都知事などはほとんど都庁に出勤しなかったそうだ。つまり、日本の高プロ社員たちは「評価だけ」を気にするようになってしまうのである。
諸条件の中に「試行錯誤」が出てきたが、都知事は問題が起こっても責任を取らない。あれは部下(あるいは他部門がやったこと)として逃げ回るようになる。周りの人たちも原因を真摯に反省して次回に生かしてほしいなどと鷹揚には考えず「すぐにやめろ」の大合唱である。
どういうわけなのかはわからないが「結果にコミットする」働き方は日本では失敗する可能性が高そうだ。そしてそれは労働時間ではなく「成果主義が機能しない」という点にありそうだ。日本で成果主義を導入すると花形プレイヤーのお芝居に変わってしまう。企業ではこれを「あの人は政治家だから」などと揶揄する場合がある。周辺はやる気をなくしチームワークが徐々に失われる。場合によっては自己保身の嘘が蔓延する場合もある。
では、これを拡大適応して一般社員たちに当てはめてみよう。高プロが適用されるということは二つのことを意味している。それは終身雇用が意味をなくし残業してもお金が儲けられないということである。二つの選択肢がある。終身雇用を諦めてより賃金の高い会社に移動するという方法がある。もう一つは高プロのような花形を諦める方法である。給料は低くても「働いただけお金をもらえる」方がよいからだ。おそらく二つのことは同時にしかもなし崩し的に起こるだろうと思われる。
もちろん過労死する人も増えるのだろうが、彼らは「仕事を断りきれず」「政治が得意な人たち」の犠牲になる人たちだ。つまり成果主義の人が過労死するわけではなく、成果主義の犠牲になって過労死する人が増えるのだろう。人間ピラミッドの上の方では高プロの人たちが歌舞伎を踊っており下の人たちがその振動を支えきれず潰れてしまうということで、これは現在の安倍政権で起きていることである。
日本で成果主義がうまく根付かないのはなぜかについてはよくわからないとしかいえない。一つにはそもそも「成果」や「役割分担」がうまく機能していないという問題がありそうだ。さらに仕事には「失敗」がつきものなのだが、これを学びと捉えることができなければ、失敗が絶対化してしまい成果主義は根付かないのである。
都政では児童相談所の問題は「失敗」と見なされた。そのため、言葉は穏やかながらもポインティングフィンガーが始まっている。日経新聞は都知事よりの姿勢を崩さずこれを公平に伝えなかった。足元の福祉関連部局には警察との情報提供に強い拒絶反応があるようで、調整を諦めているのだが、それを言葉には出さず「国がやっていただけたら従います」と言っている。何もやらないのならそれは「国の責任」だと言いたいのだろう。このやり方だと失敗したのは国になるので自分たちの失敗は防げる。これが高プロ的生き方である。
一方、東京都も児相の体制強化に乗り出した。小池百合子知事は13日に新宿区の都児童相談センターを急きょ視察。終了後に「全国どの児相も同じ問題を抱えていると思う。国で統一ルールを作っていただけたら」と述べ、都として厚生労働省に自治体間の情報共有の強化を求める「緊急要望」を提出した。
小池知事は15日の記者会見で「国の権限で制度を変更するなら、現場もそれに応じて変えていくのは当然のこと」と指摘。「国と連携しながら、各道府県とも情報共有の点なども含めてスピード感をもって進めていきたい」と強調した。
この分析は「悲観的すぎる」という人がいるかもしれない。分析が悲観的で間違っているから「聞く必要はない」というわけである。彼らが代わりに提示するべきなのは「残業代を減らしたら成果が上がるようになる」という事例である。例えば給与を高く設定するとインセンティブが維持できる。だがこれでは人件費が高騰する。逆に「インセンティブ」のツールを人件費削減に利用してしまうと「所詮サラリーマンにプロフェッショナル的な働き方はできない」となるだろう。
さらに日本独特の「集団に関する」くせができつつある。「成果があったあったら事後的に自分のもの」にして「不都合は部下に押し付ける」のが成果主義であるという「新しい理解」である。
他人を非難して地位を手に入れたり、成功の秘訣を後継者に教えないことで自分の成果がより際立つ仕組みになっている。さらに、役割分担が曖昧な上に成果だけでなく一時の結果によってなんとなく判断を下してしまうことで「最終目標を念頭に置く」ことが難しい。成功すれば「勝てば官軍」とばかりによろこび、失敗すれば指の差し合いが始まる。さらに、何が成果なのかを一部の人たちが勝手に決めるようになるとますます混乱が深まる。
高プロがどのように運用されるかによってその結果も異なったものになるだろう。日本の企業は「勝てなくなって」きており、かつてのような営業社員が花形ではなくなりつつある。代わりに伸長しているのはルールを決める経営側のスタッフたちである。かつてのお側用人のような人たちだ。彼らは制度設計ができる地位を利用して成果が自分たちのものになるようにルールブックを書き換えたり、都合の悪い情報を経営者にあげないことで成果を支配する。
お側用人が高プロの対象になれば企業の私物化が始まるだろう。彼らはルールを書き換えることで好きなように他人の成果を横取りすることができるようになる。仮にルールを決められないが外から収益を持ってくる営業社員が高プロ対象になれば彼らはルールメーカーを攻撃し始めるはずである。彼らは横取りされる側であり、かつ収益という「声」を持っている。一番悲惨なのはリベラルな人たちが心配するように「一般の声なき社員」たちが高プロに巻き込まれることだが、その場合は淡々と下を向いて何もしないことが生き残りの最善策になるのではないだろうか。
派遣労働が増えた時に「日本の企業は知的な経験を蓄積できなくなって衰退するだろうな」と感じたのだが、その通りのことが起きている。だが、それに気がついている人はそれほど多くないようである。多分、高プロについても同じようなことが起きるだろうが人々はそれに気がつかないかもしれない。