TVの国会中継はバラエティ化すべきなのか

松田公太参議院議員がNHKに対して怒っている。最初は「言っているだけ」なのかなあと思ったのだが、どうやら本気みたいだ。日曜討論に呼ばれず、パターン(フリップとでもいうのか)を大写しにしてもらえなかった。
これについていくつか思うところを述べたい。
第一にパターンにはたいした意味はない。もし、TV的にしたいなら学校で習った通りにブレットは3つまでにすべきだろうが、実際にTVを見る側からすると議論すら聞いていない事が多いので、パターンにまで気持ちが入っていない可能性が高い。
日本人はデザイナーの仕事を軽視している。お役所が作るパワポ資料は、俗に「ポンチ絵」と呼ばれる矢印だらけの図柄(パワポのイラストをそのまま使ったりしている)になりがちだ。プレゼンテーションの限られた紙面に言いたい事を全て詰めるというのはかなり専門的な知識が必要だ。役所の作るプレゼン資料は、演歌をがなる素人みたいなものである。これがまかり通るのはデザイナーが難しい事をシンプルに表現しているからだ。これは、演歌歌手が「誰でも唱えるかのように唱ってみせる」のと同じ事なのだ。素人がリサイタルに出ればみんなに笑われるのだが、日本ではそれがまかり通ってしまう。
TVの入る国会中継は実質的に無料広告放送化している。自民党の議員たちは自分がいかに利益誘導しているかを喧伝したがるし、野党からもヘッドライン狙いの質問が多い。だから聞いている方も正座して聞いたりはしない。家事や他の仕事をしながら「話半分に」聞いているのだ。
もし、本当にパターンが大切なら、法律を変えてNHKにタイムコードを付けて事前に納入するように仕組みを変えるべきだろう。そして、質疑のリアクションをワイプで抜くのだ。これは、バラエティ番組でよく取られる手法だ。「分かりやすさ」を求めているのだと思うが、却って分かりにくくなる。これは「なんとなく分かったような気になる」位の効果しかない。
代わりにTVで重要視されるのは生の表情だ。今回の質疑では籾井会長が始終にやにやしていたのが印象的だった。全く反省していないばかりか、弱小政治団体を下に見ている様子があからさまに分かる。TVって恐ろしいなあと思った。
とはいえ、会長が直々に現場に命令を下し「あいつのパターンだけは大写しにするな」と言ったとは考えにくい。大物意識の強い人は細かいことまで指示しないで、下々に忖度させるものだ。意に添わない人は人事で報復するのである。それよりも、現場レベルにある種の蔑視感情があるのではないかと思う。では、蔑視感情はどこから来ているのだろうか。
考えられる原因はいくつかある。一つは英語がぺらぺらでさっそうとした人に対するコンプレックスの裏返しだ。海外でMBAを学んだ優秀な社員が出世競争で潰されるといった時に見られるおなじみの光景だ。日本人の男性は相手にコンプレックスを感じると何か卑下できる点を探す。男の嫉妬ほど怖いものはない。このために海外経験のある人や優秀な女性が潰されたりするのである。性的なことを仄めかして怒るところを眺めたり、ちょっとした意地悪をすして喜ぶ人もいる。
次の原因は元気会が全体的に政治家っぽく見えないからだろう。なんとなく「型」のようなものを求めており、型から外れるのを嫌うだ。これは日本人だけに限ったことではないようだ。アメリカでも「非政治家型」のトランプ候補とサンダース候補が躍進しているが、専門家たちは彼らがここまで躍進するとは考えていなかったようだ。つまり、政治家は言動そのものではなく、どの程度政治家らしく振る舞えるかによって実力を推し量られてしまうのである。
このように考えると「政治家らしい振舞を身につけた方がよい」とも思えるのだが、アメリカの事例はこうした「政治家らしさ」そのものが古びてきていることを示唆しているように思う。

麻生太郎大臣は言った – 希望は戦争だと

クルーグマン教授と日本政府のやり取りが日本語になったので読んでみた。なぜか新聞社は伝えず有志が翻訳したものだ。誤訳もありうるということなので興味のある方は原文を当たって見るのもいいかもしれない。ポイントはいくつかあると思う。
一つ目のポイントは麻生太郎財務大臣が「1930年代のアメリカはケインズ的政策でもデフレから脱却できなかったが、戦争で景気を回復させた」と言った点だ。単に歴史的認識を披瀝しているだけなのだが、捉えようによっては(つまり、曲解すれば)戦争を起こして景気回復させてやろうとたくらんでいることになる。左派的世界観では安倍政権は「日本を戦争ができる国にして、弱者を戦場に送り込む」内閣なのだから、このことを大いに喧伝するのがよろしいのではないかと思う。騒ぎになれば面白いし。
二つ目のポイントは安倍首相がこの会議をコンフィデンシャルにしたことだ。内容を読めば分かるが、特に変わったことは言っていない。財政健全化よりも需要の回復を目指せというのはよく聞かれる議論だ。倍さんは「ドイツに積極的な財政支出を求めたい」と言っているだけで、クルーグマン教授になんとなくスルーされている。言われる側のメルケル首相は「ああ、そうですか」と思うだけで、中国みたいに「内政干渉だ」などとは言わないだろう。安倍さんは自分の見識というものに自信がなく、何でも秘密にしたい人なのだろう。経済的に難しい時期の日本にこのような弱々しいリーダーは必要ない。
三つ目のポイントはクルーグマン教授があえてこれを公表した意味だ。本人は語っていないが、わざわざ「オフレコで」と言われていることを公表したわけだから、何らかの意図があるのは間違いがない。政府は財政再建を後回しにして積極的に支出すべきだとは言っているが、消費税増税を延期しろとは言っていない。ただ、本人はやり取りを公表した理由は語らないのではないだろうか。
第四のポイントは今後の新聞やテレビでの扱いだ。このことは、マスコミの人たちには出回るだろうが、報道はされないのではないだろうか。この「起こらないこと」について、ネットで情報を取っている人はよく見ておくべきだと思う。これから、人々は実際には鳥が家の中でさえずっているのに、誰も鳥がいないように振舞うのだ。それは政権側が「小鳥がいることは誰にも言ってはならぬ」といっているからにすぎないし、小鳥はたいしたことは言っていない。マスコミは誰のために報道しているのかということがよくわかるだろう。朝日新聞ですらこの件は報道しないのではないかと思う。記者クラブ特権が剥奪されては困るからだ。ジャーナリズムでございますと見栄を切って見せても所詮この程度なのだ。
個人的に一番面白かったのは安倍さんの自信のなさではなく、麻生さんの無責任っぷりだった。一度政権を担当した人なので、今回は物見遊山気分で政権に参加しているのではないだろうか。当事者意識があれば、税収を上げるためには何をしなければならないか必死で聞くと思うのだが、代わりに自身の歴史的知識を披瀝して終わった。「大臣よくご存知ですね」とは思うが、それ以上のものは感じられない。この方は国会でもこの調子で知識や英語(流暢そうに話して見せるのだが、RとLの区別がめちゃくちゃ)を披瀝している。
議員たちが一生懸命に国会で質問をしても「戦争でも起きたらイッパツなのになあ」などと夢想しているのではないかと思う。自分が何かできるとは思っていないし、またやる気もなさそうだ。
安倍首相は「ママに怒られるから秘密にしておいて」という小学生のようだ。本人としては大それた野望を持っているつもりなのだろうが、大人の目で見るとたいしたことはないし、別に深い考えにも聞こえない。
現在の政権はこうした人たちを中枢に頂き、周りが右往左往しているというのが実態なのかもしれない。これでも世界有数の経済大国として機能しており、新幹線や飛行機もタイムテーブルどおりにきっちりと運行されている(まあ、時にはシステム障害で半日とまったりするわけだけど)のだから、日本というのはやっぱりすごい国なのかもしれない。
この人たちは本質的な無力感に苛まれているのではないだろうか。祖父が立派な政治家だったというだけで、政治家としての人生を押し付けられた人たちなのだ。

何だ俺は右翼じゃないか

クルーグマン教授が記者に囲まれる写真を見て、GHQが招聘した学者を囲む記者たちみたいだなと思った。日本人は第二次世界大戦後、すっかりアメリカ人に頼り切るようになってしまった。有名なのは1949年のシャウプ税制(税制の単純化と直接税中心の税制)やドッジ・ライン(緊縮財政)などだ。日本人は外からの押し付けを望むことがある。議論が膠着したとき「外からの改革に従う振り」をすれば、痛み分けになるからだ。
こうした絵を見ると、なんとなく不快な気分になる。日本民族の知的水準は低くない方だと思っているからだろう。多くの日本人経済学者たちは、現在のアベノミクスはうまく行っていないと感じている。こうした観測はそれなりの専門的知見に基づいているのだろう。経済学者の中には構造改革を積極的に行うべきだと建設的な提言をしている人もいる。だが、こうした発言はすべて無視される。にも関わらずアメリカ人が何かいうとありがたがってしまうのだ。これは屈辱的なことだ。
安倍政権にとってクルーグマンは都合のよい相手だったのだろう。日本サイドで適当に発言を料理してしまえば、あとはうるさく言ってこなさそうだからだ。発言が一人歩きすることを恐れたのかクルーグマン氏は「何を言ったか」を公開してしまった。政治的に利用されることがわかっているのかもしれない。
第二次世界大戦でアメリカに負けてから70年以上が経った。もうそろそろ精神的にアメリカ依存から脱却すべきではないだろうか。トランプ氏の台頭を見てもわかる通り、次の10年間、アメリカは孤立主義路線を取るかもしれない。経済的に余裕を失っているのだ。ついに「核武装したいならすればいいじゃないか」という発言さえ飛び出した。「自分の身は自分で守る」というのはアメリカでは当たり前の考え方だ。少なくともアメリカは日本のことを「かわいい子分だ」などとは思っていないのではないかと思う。トランプ発言を都合良く解釈しようとする政治家も現れたが、こうした発言を見ると情けなくなる。
個人的には「戦争に反対」で「原発推進は無理」だと思っており、極端な自由主義よりもセーフティネットの充実の方が優先順位が高いと思っている。自民党の政治は嫌いで、対抗のためには共産党でもいいやと思っている。これだけを切り取れば、どう考えても「左翼」ということになってしまう。ところが「民族は独立するべきで、自主的に経済政策や税制を決めるべきだ」という主張は、どう考えても右翼のものである。つまり「アメリカから独立してはどうか」と思っている僕は右派だということになる。どっちが正しいのか、自分でもよくわからないが、少なくとも既存の左右にとらわれると自分がどんな政治的指向を持っているのかわからなくなるのではないだろうか。
選挙を前に自民党が「バラマキ指向」を強めている。高齢者にお金を配るという「政策」を決めたばかりだが、今度は低所得者にもお金を配ろうと言い出した。通常、こうした政策を打ち出すのは左派政権である。つまり、自民党は左傾化していることになる。口では経済成長路線だなどといいながら、彼らが考える経済成長路線とは公共事業を増やして地方に仕事をまわすことだけだ。これもどちらかといえば左派政権の仕事ぶりである。
憲法は「アメリカに押し付けられた」といいつつ、経済政策だけはアメリカに頼ろうとする。本当はアメリカなどどうでもよくて、社会主義系左派が最後のよりどころにしている憲法が憎いだけなのではないかと思う。つまり、右派を自任している人たちは、民族の独立などにたいした関心はなく、単に左派が嫌がるのを見たいだけなのだ。だから、悲壮な表情で「安倍政権が憎い」と叫べば叫ぶほど、自称右派の人たちは喜ぶのだ。もういい加減に、左派の人たちは自称右派を喜ばせるためだけに行動するのはやめた方がいいと思う。
その意味では、この国には、民族的に自立した本物の右派政党が必要だろう。もっと言えば、地方も中央に従属するのはやめた方がいいのではないか。民族の独立のほかに地方の自立も重要な課題だ。「四国や東九州に新幹線を誘致したい」というような主張しかしない従米左派政権を保守とか右派と呼ぶのは恥ずかしいからやめた方がいいと思う。ご都合主義で愛国者を気取るのは、日の丸に失礼だからやめてほしい。

乙武騒動に思う

乙武洋匡さんがバッシングを受けている。5人もの女性と不倫したのだという。池に石を投げ込んだように様々なことが分かった。
第一に自民党の人気のなさが分かった。自民党はいまだに高い支持率を誇っていて、次の選挙では憲法改正に手が届くだろうと言われている。だが、自民党から立候補が決まった有名候補者は決まって叩かれる。乙武洋匡さんにしても「自民党から出るとは思わなかった」「失望した」という声が聞かれた。考えてみるとこれは実に不思議なことだ。もし、自民党が国民から支持されているのなら、乙武洋匡さんの立候補は拍手で迎えられたはずである。このことから類推すると、自民党への支持はそれほど高くなさそうだ。そればかりか、ちょっとしたことで地盤沈下を起こす程度には脆弱なものなのかもしれない。
次に乙武洋匡さんは「障害者」のイメージをくつがえすことに成功したていたことが証明された。今回のバッシングで「イメージを裏切られた」と考える人はそれほど多くなさそうだ。バッシングの核になっているのは「謝る必要のない奥さんがかわいそう」というものである。社会学者の古市さんという人が「介護みたいなものだったのでは」とTwitterで弁護しているが、これは「障害者なんだから大目にみてやれ」というような意味合いになる。却って本人の意に沿わないのではないだろうか。
最後に自民党の変質振りが浮き彫りになった。今回の自民党は「障害者(や、その親族)はかわいそうだけど一生懸命生きている」というイメージを選挙に利用しようとしているようだ。彼らは障害者を弱くてかわいそうなものとしか捉えておらず、そのイメージを選挙に利用しようとしているのだ。推薦を取り消すとも言われているようだが、これは「障害者としての利用価値がなくなった」ということを意味している。
かつての自民党は芸能人出身でも障害者でも出世できる政党だった。例えば、八代英太氏はテレビ司会者だったが事故で車椅子生活となった。その後政治家に転身し参議院と衆議院の議員を務め、郵政大臣にまで上り詰めた。
もし乙武洋匡さんがニュースの出ない状態で出馬していたら、世間一般の人たちの「障害者なのに健気にがんばっている。だからあの人は立派だ」というイメージに縛られることになったかもしれない。乙武洋匡さんの人生にとってそれは良いことだったのかを考える必要がある。乙武洋匡さんはなかなかの野心家のようなので、イメージの乖離に苦しめられることになったのではなったかもしれない。と、同時に自民党の変質も感じられる。個性を活かす健全な政党から選挙のためには何でも利用する政党に変質しつつあるのではないかのかもしれない。万人に活躍ができる組織から、弱者が駒にされる政党に変わっているのである。

国民の分断を図る日本の政府

「共産党は、破防法の調査対象である危ない団体だ」との答弁書を政府が閣議決定したそうだ。このニュースを聞いて「国民の分断」について考えた。安倍政権の選択は2つの意味で危険だ。この内閣は中長期的な視野や国家運営についての見識に欠けている。自分たちの政権維持にしか興味がなさそうなのだが、これはきわめて危険である。
1つ目の危険は「破防法調査対象」の持つ意味合いだ。よく知られているように、かつて共産主義者にはいくつかの潮流があった。政府に迎合せずに暴力革命を目指す一派がいる一方で、国民の信頼を得るためには暴力主義を捨て去って民主的な政治に参加すべきだという勢力もいた。結局、生き残ったのは民主主義的な政治に参加することを選んだ勢力だった。つまり、体制は共産主義者たちを「抱きこむこと」に成功したのである。
国会の質疑を聞いていると、政府が社民党や共産党の質問にうんざりしているのがよくわかる。最初から世界観が違っていて、交わりがない。しかし、これはまだマシなほうなのだ。なぜならば、国会という管理可能な社会の中の出来事だからである。これは戦争ではなくスポーツなのだ。
確かに短期的には共産党をテロリスト扱いすることで、一般国民の支持を削ぐことはできるだろう。ところが、これは彼らを追い込むことになる。多くの人たちは共産党からは距離を置くだろうが、そうでない人たちが一定数以上出てくるのは間違いがない。
格差が拡大しつづけることを考え合わせると、共産主義者は地下化するかもしれない。社会的レッテルは認知を作り、認知はやがて現実化するのである。安倍政権は短期的な効果と引き換えに大きなリスクをもたらそうとしている。政府から弾圧された共産党の幹部たちは過激な人たちに「平和路線を貫くべきだ」といい続けることができるだろうか。
このリスクを背負うのは誰か。それは、安倍政権ではなく国民である。
しかし、これは物語のほんの片側の姿に過ぎない。安倍政権は、リベラルな自由主義者と対抗するために神道原理主義者(このブログではよく国体原理主義者と呼んでいる)に近づいた。今は過激な思想に酔っている彼らだが、やがて挫折することは目に見えている。アメリカとの関係上、国体原理主義者たちの要望をすべて聞いてやることはできないからだ。彼らが政治的に「無関心だ」と考えている一般の国民(憲法改正より経済対策を優先させて欲しいと考える一般の人々のことだ)も国体原理主義者の行き過ぎた主張(日本人に人権があることがおかしい)を決して受け入れないだろう。
これはトルコのエルドアン大統領がイスラム教指導者に接近したのに似ている。国体原理主義者は自分たちこそ安倍政権を教導すべきだと考えているだろうが、安倍政権はいずれこうした勢力を疎ましく思うようになるだろう。すると、国体原理主義者たちは、もっと過激化し、政権を批判することになるのではないだろうか。
今、安倍政権は国体原理主義者たちは一体に見える。それは「敵」とされる人たちがいるからに過ぎない。敵を殲滅してしまえば、この人たちは内部分裂を始めるはずだ。この内部分裂が自民党を壊すくらいですめばむしろ幸いなのかもしれない。安倍政権の動きは国内に極端な勢力を複数生み出す危険性がある。
一度追い込まれた人たちは日本人の社会や安全に対する意識を根底から変えてしまうかもしれない。我々は、社会が民主的なプロセスで統合されていることのありがたみを、アメリカやヨーロッパの事例から学ぶ必要がある。

ベルギーの連続テロ事件

ベルギーの首都ブリュッセルで連続テロ事件が起きた。今朝の新聞によると死者数は34人だ。ブリュッセルの交通網が麻痺したのはもちろんのこと、ロンドンからつながっているユーロスターも停止した。飛行機も止まっているので、ブリュッセルに行くことも出ることもできない状態だ。国中が麻痺していると言ってよい。
この惨状を見て、ヨーロッパの将来について不安を抱いた人は多いのではないだろうか。ヨーロッパはローマ帝国の昔からアジアから来る諸民族に脅かされてきた。西ローマ帝国は諸民族の波に押し流されて滅亡し、東ローマ帝国は融合を試みて緩慢な死を迎えることになった。
日本人は戦国時代に内戦状態を経験した。続くのは決して終わらない消耗戦だった。この不毛さに気が付いて統一が果たされるのは1600年だ。その後内戦が終結したのは、さしたる外敵が入ってこなかったからだろう。ヨーロッパは同じように帝国のない内戦状態を経験したが、民族国家という概念を発明し、その危機を乗り越えたかにみえた。
その後、ヨーロッパは自由主義対社会主義というイデオロギーの対立を乗り越えて、帝国を再建しないまま、民族国家の枠組みを離脱してキリスト教文化圏でまとまる道を歩んでいた。
民族国家を卒業したことで、域内で内戦が起こることはなくなった。と、同時に域内に異教徒を多く抱えることとなった。すでに定着した人たちもおり、イスラム教徒を完全に排除することはできない。一方で、イスラム教徒の子孫たちは数世代経た後でも自分たちが完全なコミュニティのメンバーとして迎えられたとは考えていないようだ。こうした孤立したイスラム教徒たちがヨーロッパ中に広がるテロリストのネットワークを支えている。彼らは祖国の伝統からは切り離されており、これが本来のイスラム教的なのかは分からない。もしかすると家族の伝統からも切り離されているのかもしれない。
ヨーロッパはアジアとの融合と孤立の間を行ったりきたりしている。二つの文明は融合するかに見えたが、文明の壁を乗り越えるのは言うほど簡単ではなかったようだ。

トルコ情勢 – この1年で200名以上がテロで亡くなっている

トルコが大変な事になっている。この一年で200人以上がテロの犠牲になって死んでいるのだそうだ。テロを起しているのはクルド人の過激派とISだ。「テロには断固と措置を取る」というのは簡単だし「テロリストは許せない」と言いたいのはやまやまなのだが、実際には上から押さえつけただけではテロを防ぐことはできない。かといって、テロリスト勢力を抱き込むことはできない。
なぜ一連のテロが起こっているのかという問いに簡単な答えはなさそうだ。「経済がうまく行っていないのではないか」という仮説を立ててみた。しかし、これは間違っているようだ。
トルコの経済は順調で、近年には10%もの高い成長を記録したこともある。リーマンショックで落ち込んでいるところを見ると、ヨーロッパとの関係が好調なのではないかと考えることができる。トルコは一人あたりのGDPは18,800ドル程度の発展途上国だが、この数字はハンガリーやルーマニアと同程度だそうだ。EUとの格差は意外と小さいのだ。
「エルドアン大統領に人気がなく強権で押さえつけているのでは」と考えてみたが、2014年の選挙では高い支持で大統領選挙を勝っている。好調な経済が人気を支えているのかもしれない。エルドアン大統領は民主的に選ばれた大統領なのである。
だが、その支持は一枚岩ではないらしい。エルドアン大統領は最近新聞社を接収し「人権侵害だ」として世界各国の非難を浴びた。新聞社はイスラム教指導者ギュレン師の影響下にあり、両者は対立している。
もともと、大統領は軍部と対抗するためにイスラム教勢力のギュレン師と組んでいた。しかし、統治がうまくゆくようになるにつれてイスラム教勢力がうとましくなったようである。それに怒ったギュレン師は影響力の及ぶメディアを使って政府批判を始めたものと見られる。その対抗措置としてエルドアン大統領側が強権を発動したのだろう。ギュレン師とエルドアン大統領は軍部という共通の敵を失い、却って仲違いしてしまったのだ。
トルコが「お行儀よく」民主主義を守っていたのはヨーロッパの一部として加えてもらいたかったからである。EU側はあからさまにイスラム教徒のトルコを差別しているが、トルコ人は「自分たちはヨーロッパ人だ」と考えている。しかし、近年EUはうまくいっていない。ギリシャ問題などがあり経済的にはガタガタである。イギリスのように離脱を仄めかす国さえある。トルコ人の心は徐々にヨーロッパから離れつつあるのかもしれない。
トルコはヨーロッパと接しもいるが、同時にシリアやイラクなどの紛争地域と隣接している。ここからの脅威が直接トルコの政治や経済に影響を与える。特にイラクの混乱はアメリカの失敗に起因している。先進諸国は勢いを失いつつあり、その結果として周辺国を不安定化させる。
エルドアン大統領が軍部との対抗の中から出てきた大統領であるところを考えると、強力な軍部が治安を維持するために活躍するとも思えない。軍部の台頭はエルドアン大統領の地位を危ういものにしかねないからである。
それにしても民主主義は脆い。エルドアン大統領は国民から支持されているわけだから、エルドアン大統領は民主主義的に選ばれた指導者である。与党公正発展党の支持はそれほどでもなく、野党が台頭している。そして、多数の国民の裏側にマイノリティがいる。マイノリティ達は民主的な手続きでは影響力を行使できないので、テロやデモなどといった手段に走る。そこで、エルドアン大統領はSNSを禁止したり、新聞社を接収したりして言論の統制を図るのだが、それでもテロの脅威を完全に防ぐ事はできないのである。
テロを上から押さえつけるためには、戒厳令でも敷いて夜間の外出を禁止するなどの措置が必要かもしれない。だが、エルドアン大統領が強硬な手段を取れば、世界中から非難を受け、国内の過激派の更なる台頭を招くのではないかと考えられる。
いったん排除された少数派は社会を根本から不安定化させる。これを民主的に解決することもできないし、かといって力で排除することも難しいのだ。

NTT Docomoの解決しないサポート

先日来、顧客接点について考えている。今回はNTT Docomo篇だ。5月にポイントが失効するというので、電池パックにでも変えようと思い、Docomoショップを訪れた。だが、4時間待ちだという。お話できるはずもなく、諦めて別の店舗に向かった。そこは3時間待ちだった。連休中日でもあり、転勤や入学シーズンなので仕方ないのかもしれないが、ちょっと呆れた。
そこで自力でなんとかしようとオンラインショップを訪れたのだが、電池パックが見つからない。「あれ操作方法が違うのかな」などと思い151に電話した。20分待たされてお話ができた。受付では電池パックの担当はオンラインショップだという。NTTは電話の会社なので、コールセンターも自前で持っているのではないかとおもう。ところがオンラインショップには在庫がないという。
「ポイントも使いたいしバッテリーも変えたいのだがどうしたらいいのか」と聞いたところ、最初の受付に差し戻された。受付は「私には何もできない」という。お店の在庫は中央では把握できないそうだ。多分、Docomoショップは代理店がやっているからだろう。
お客はNTTと話をしているつもりになっているが、実は違う会社の人である可能性が高い。一応、電話番号を教えてもらってかけたのだが「今忙しいから電話に出られない」という案内が流れて電話はがちゃんと切れた。
考察するポイントはいくつかある。第一に日本の企業はセクショナリズム化しやすい。日本人は、他人や他部署の干渉を嫌う。アメリカの企業にもジョブディスクリプション(職掌分担)というものがあるが、これはチームプレーが原則になっている。だが、日本人は個人主義でチームプレーが苦手だ。さらにコールセンターはエンパワーメント(ここでは権限委譲とでも訳すのだろうか)もされていない。日本人は仕事を他人に任せるのも苦手だ。変に生真面目なところがあり、マニュアル通りにやらせたがるのである。その方が効率がよいと考えてるのだろう。だが、サービスのニーズは顧客によって違うのだから、すべてをマニュアル化することはできない。
第二にセクショナリズムが進む事で、オーバーヘッドが発生する。今回は顧客が「結局、誰も何もできないんだ」ということを確認するために20分(待ち時間を入れると40分)かかったのだが、その時間は何も生み出さないオーバーヘッドである。一人の人が「エンパワーメント」されており、解決能力を持っていればオーバーヘッドはある程度解消されていたかもしれない。一人ひとりのオーバーヘッドはわずかな時間だが、積もり積もって莫大な費用となる。これを削減するためにマニュアル化を進め、オペレータの権限を縮小するとさらに効率が下がるという悪循環が生まれる。
第三にDocomoの客層だ。平日のDocomoショップを見るとよくわかるが「細かい操作や手続き(オンラインでできるものも多い)」を聞く客が多い。顧客に多くの高齢者を抱えているからである。ここが、ある程度の知識を持った客層を抱えたAppleと違っているところだ。Appleは細かな問題解決のためのコミュニティの運営を顧客に任せている。ある程度ポイントが貯まると、カンファレンスなどに招待される仕組みがある。つまり顧客もエンパワーメントしている。一方、Docomoが丁寧に顧客サポートすると、マニュアルを見れば分かる程度の質問をするお客を引きつけて、実際に携帯電話やサービスを買いたい顧客を遠ざけてしまうのだ。
「顧客接点は知識の集約点だ」という話をすると、では時間を増やせば良いのかという話になりがちだが、実は時間を増やしても解決しないことがある。日本人がチームワークが苦手で、権限も囲い込みたがり、効率化を求めてマニュアルで他人を操作したがるという性質にその原因があるものと考えられる。

安倍晋三首相最大の罪とは何か

トランプ大統領候補が登場してからアメリカは分断された感がある。政治家としてのキャリアを持たないトランプ候補は国民が潜在的に持っている政治家への不満を利用した。結果、全国の会場で「トランプ派」と「アンチトランプ派」の対立構造が生まれ、お互いに罵り合っている。オバマキャンペーンで人々が「Yes We Can」と統合したのと真逆な状態が生まれているのだ。
端から見るとこれは滑稽だ。彼らが本来戦うべきものはそこにはなさそうだからだ。
確かに遠くの事象はよくわかるのだが、近くのことはよくわからない。日本では右派対左派の対立が起きているが、いったい何の対立なのかよくわからない。この分断は民主党に負けた安倍晋三氏が復古的な勢力と結びついたことから始まっている。戦争に負けた結果権力を追われたのだとルサンチマンを募らせていた人たちが中心になって始めた運動だ。
この台頭に怯えた人たちはカタストロフを恐れるようになった。それは戦争・原子力の脅威であり、民主主義が根本から破壊されかねないという恐れである。放射能で汚染された1944年頃の日本というのが、おおむね左派がイメージするカタストロフではないだろうか。
だが、実際に彼らが対面するのは別のカタストロフだ。例えば子供を産んでも保育園が見つかるかはわからないし、親が倒れたときに介護の負担を個人が押し付けられかねないという社会である。社会の保護が得られないことで人生の見込みが得られないというのが本当の脅威なのだ。
一方、右派は日本の弱体化を恐れている。少子化で子供が減った結果、中国から侵略されて日本語が地球上から消えてしまうというのが彼らの予想する未来である。右派は女子供を言い聞かせて強制さえすれば子供の数が増えると考えているようだ。コミュニティによい影響力を与えて社会を発展させるという点ではほとんど惨めとしかいいようのない知識しか持ち合わせていない。いわば不満を訴える家族に怒鳴り散らしている父親みたいなものなのである。
この対立は同根の問題だということがわかる。問題を解決するには社会の持続性についてまじめに議論する必要があるのだが、人々は目の前の対立にとらわれていて本当に到来しつつある脅威については目もくれない。この観点から今のTwiiterをみてみると絶望的な気持ちになる。他人を罵倒する言葉ばかりが並んでいる。左派は右派を罵倒し、右派は左派を罵倒する。そして、けしからん発言を観察するために長い時間をスマホやパソコンの前で過ごすのである。
こうした状況の出発点となっているのが安倍晋三という政治家である。自分の栄達のために国家を分断し、人々の貴重な時間を奪っているのである。

知的資本はどこに蓄積するのか

会社にとって知識は重要だ。ドラッカーあたりが唱え、堺屋太一先生がこれからは知価社会だなどといっていたのを懐かしく思い出す。では知識はどこから生まれ、どこに蓄えられるのか。
日本では「正社員の頭の中に蓄積され、マニュアル化できない」という答えが導き出すのが一般的なようだ。日本人が考える高度な知識というのが「暗黙知ベース」だからだろう。優れた経営者はすし職人のようなもので、簡単に極意や秘伝を人に教えられるものではないのだ。これ自体は問題ない。
一方アメリカではある程度標準化されている。キャリアチェンジのために学校に通いなおすのも当たり前だ。このやり方のメリットはいくつかある。労働者はスキルを蓄積できる(これまでの知識もムダにならない)し、会社も外部の知識を取り入れることができる。個人の知識を体系化して、その会社にしかない知的資本を構築する。
また、業務知識を持っている人が集まることによって、各社の知識を外に出すことができる。それを論文にまとめて形式知化する。MBAの教官も現場の知識を下地に研究をする。知識の形式知化には社内マニュアルだけではなく学術論文も含まれる。そうして生まれた形式知を個人が各社に持ち帰ることで暗黙知の更新を図るのだ。マニュアルや論文だけですべてが解決するわけではない。暗黙知を形式知を循環させることこそが重要なのである。
同じことはプログラミング言語にも起こるだろう。新しい言語を覚えるために学校に通いなおしてもよいわけだ。会社としては「忙しく業務に縛り付けておく」か「余裕を与えて知識の更新を図る」かという選択肢が生まれる。学校だけでなく、各種の研究会活動も盛んである。従業員の学習会すら許してくれない日本のSIベンダーとは考え方が全く違うのだ。
日本人は学校を「知的レベルを示すマーカー」と捉えるが、アメリカ人は「必要な知識を学ぶ場」と考える。ハーバードやウォートンは名門として知られるが、知的レベルのマーカーとして重要視されているわけではない。ハーバードの卒業生がネットワークを作り、そのコミュニティのメンバーになれることが重要だと考えられている。つまり、コホート(誰を知っているか)も知識の一部なのだ。
デメリットも明白になりつつある。経済不調が長引くと、労働者が教育に投資できなくなる。高い学費が払えないという大学生も多い。するとキャリアアップが望めなくなり、社会に不満が蔓延する。大統領選挙の候補者たちはこうして成長に取り残された人たちの支持を集めているところから判断すると、かなり大きな問題になっているのではないだろうか。
知的資本の蓄積は従業員だけから得られるわけではない。顧客接点も知識の吸収点として役に立っている。日本の会社は顧客接点を非正規化してしまったため、消費者からの知識が入らなくなった。結果「お客さんが何を考えているのか分からない」と考える会社が多くなり、消費市場から次々と撤退しつつある。製造業で残っているのは販売代理店システムが有効に機能している自動車産業だけだ。最近までは直販ルートを持っているユニクロがアパレル唯一の勝ち組だった。直販ルートを持たない家電メーカーは法人営業中心に切り替わりつつある。法人営業は社員が担当するので知識を吸収するパイプが残っているのだろう。
ドライなように思えるアメリカの企業だが、顧客接点を重要視している会社も多い。例えばAppleは直販店を作り、カスタマーセンターも充実させている。
日本の会社は、外部からの教育から切り離され、消費者からも切り離されている。残る新しい知識の吸収点は、事業体が分解することだけだ。事業体に新陳代謝があれば、定期的に「新しい風」が入ってくることになるだろう。だが、日本の会社にはそれもない。
正社員にとって重要なのは、社内政治を勝ち上がることだ。だから、社内政治に熟知することが正社員として生き抜くために必要な知的資本なのである。故に日本の会社は外側から隔絶されて、たっぷりと内輪の知識を知的資本として詰め込んでいることになる。だが、内輪の知識は1円の価値も生まない。お客さんとは何の関係もないからだ。彼らにとって「ムダ」こそが重要だ。それが外部からの参入障壁になっているからである。だから日本の会社はムダを構造的に蓄積するようになっていると言える。
やっかいなことに、この知識は利益を生むことがある。手っ取り早いのは国と結びつくことである。社内政治だけではなく政治と結びついてしまうのだ。この結果、支出の支え手が消費者から国(公共事業である)に移りつつある。次から次へと無駄な公共事業が作られ、ITまでもが公共工事化するのはそのためなのではないかと思う。
この典型的な事例が東芝だ。国と結びついた原子力部門と家電部門の間に対立があった。社内政治を繰り広げた結果「敵陣営(つまり自社のことだ)」に打ち勝つ目的で粉飾決算が横行した。結局、消費者向けの部門を切り売りしてしまうようだ。