ネットの情報は信頼に値しないガセネタばかりなのか

よく、ネットの情報はガセネタばかりだから気をつけるべきだなどという人がいる。だが、実際にガセネタを流しているのはマスコミの方らしい。いくつかの事例がある。
安倍首相はクルーグマン教授を呼び世界の経済情勢について話を聞いた。話はすべてコンフィデンシャルだとした上で「観測」という形で「消費税増税は延期すべきだという話になった」と漏らしたようだ。マスコミはそれを鵜呑みにして「クルーグマン氏が消費税増税延期を示唆」などと伝えた。TVでは今でもそういっている。
だが、これが正確ではないことはよく知られている。クルーグマン氏本人がやり取りをネットで公表してしまったからだ。クルーグマン氏は「財政再建よりも支出の拡大を」とは訴えているが、消費税増税を延期しろとは言わなかったようだ。だが、記者クラブから排除されているタブロイド紙を除いたマスコミは本人の発表を無視し「クルーグマン氏は消費税増税するなと言った」という話を伝え続けている。
ネットがなければ、クルーグマン氏が独自見解を発表する事はできなかっただろうし、これほどまでに浸透しなかったかもしれない。だが、Twitterのおかげで個人でも簡単に情報を拡散することができるようになったのだ。
週刊誌が乙武氏の不倫疑惑を伝えた。この件について山本一郎氏はこれは松田公太参議院議員の一派がリークしたのだと指摘した。もともと乙武氏は元気会に接近していたのだが、元気会が政党要件を失ったことで見限ったというのだ。これをTwitterで見て「松田さんも裏では姑息なことをやっているなあ」と思った。乙武氏がいなくなれば東京からライバルが一人減るからである。
ところが、松田氏は自身のブログで「法的措置を検討」と息巻いている。法的な対応を考えているとTwitter上で発表した。証拠がないのだから訴えられれば負けるだろうという識者まで出てきた。選挙前になるとこうした情報が錯綜することになる。大抵は町の噂レベルで終るのだが、インターネットが出現した事で、全国が一つの村のようになった。ネットがなければ、この噂が広まることもなかったかもしれないが、双方の意見を聞く事もできなかっただろう。
最後の事例は、意図的な編集である。権力から独立しているべきマスコミがかなり偏重姿勢を強めていることが分かった。
日本テレビは「民進党の岡田代表が消費税増税をスケジュール通りに実施せよと主張している」と伝えた。次の日のネットには「岡田代表は今度の選挙で勝つつもりがないのだ」とか「岡田さんは狂ったに違いない」とのの嘆きの声が渦巻いていた。
ところが、これはテレビ局側の恣意的な編集だったようだ。この発言は「そもそも増税できる環境が整っていない」と続いている。岡田代表は都合良く発言を切り取られないように結論を最初に言うことを心がけるべきだろうが、選挙で不利になるような印象操作をしようという魂胆はあまりにもあからさまだ。ネットがなければ情報が一人歩きしていたかもしれない。


「政治家やマスコミは正しい情報発信を心がけるべきだ」と書いてドヤ顔で閉めたいところなのだが、選挙前になるとどうしてもこうした「怪情報」が一人歩きする。選挙管理委員会は個人が怪情報を出すことに神経質になっているが、実際に発信汚染を作っているのは、政治家本人やマスコミとその関係者たちだ。
「マスコミ」は政治家の発言ををそのまま垂れ流すか、週刊誌の騒ぎを後追いするための装置になっている。そもそも二次情報なので正確さを求めるのは無理というものだろう。
「有権者はメディアリテラシーを持って接するべきである」とも結論づけたいところだ。なんとなく考えて解決したような気分になれるからである。しかし、そもそも元の情報が間違っている(あるいは意図的に切り取られている)わけだから、リテラシーの持ちようがない。
結局、多くの人は信じたいものを信じることになるのだろう。これでは議論がかみ合うわけはない。心或る人が「これではいかんのではないか」などと思わないのだろうか。

クラウドがあるじゃないか

クラウドって便利だなと感じていたのだが、別に書くほどのことはないなあと思っていたのだが、とあるツイートを見てやぱりクラウドって便利だなあとしみじみと思った。
ある人がパソコンを買って後悔しているらしい。スタイリッシュなパソコンを買ったのだが意外と壊れやすそうで、バルキーだが壊れにくいノートパソコンの方がよかったのではないかというのだ。
バルキーなパソコンにはいくつもメリットがある。ぞんざいに扱っても壊れにくい上に、電池の持ちもいい。ハードディスクを交換するのも簡単だ。スタイリッシュなパソコンはどうしても電源が犠牲になってしまうし、画面の開閉を繰り返すと画面がちらついたりもする。いろいろ設計上の犠牲があるのだろう。華奢なACアダプタが突然死したという話も聞く。だから、Macintoshユーザーは「かっこいいけど扱いにくい」という悩みを昔から抱えている。「スタバでドヤ顔」にはそれなりのコストがかかるのだ。
ソリューションは簡単だ。パソコンをコモデティ(日用品)と捉え、安いパソコンも含めて複数台手元に置いておくのだ。スタバや職場でドヤ顔するのが1台と、寝転がってぞんざいに扱うのを持てばいい。どちらかを古いOSにしておけば「Windows10であれが動かなくなった」などと大騒ぎすることもなくなる。
さて、複数台のパソコンを持っていると、ファイルがどこにあるか分からないということになりがちだ。ファイルや環境の移行などという問題もある。メールもとっ散らかり、ブラウザのブックマークも分からなくなる。
だが、最近ではそんなこともなくなってしまった。メールはIMAPにする。ブラウザはFirefoxかChromeを使うと自動的にブックマークなどが同期される。住所録はGoogleの連絡先かiCloudを使うのがいい。メールの統合などを考えるとGoogleの方がメリットが大きいかもしれない。するとスマホ含めてすべての情報が完全に同期される。「完璧に」だ。
最後の難関は仕事の資料や執筆した原稿などだが、これもクラウド上に上げておくとよい。例えば、Google Driveに上げておけば複数パソコンで同期ができる。本当に同期される。ファイル名を変えても同期される。一体何がどうなっているのだろうか、化かされているのではないかと思うくらいだ。
仕事のドキュメントだけなどと大げさに捉える必要もない。例えば家電のマニュアル(最近はほとんどPDF化されている)をクラウドに上げておけは、台所にあるタブレットから閲覧することができる。濡れた手でも操作できて意外と便利だ。マニュアルを調べるのは意外と面倒なものだが、もっと面倒なのはマニュアルがどこに行ったかを探す作業なのだ。
古いパソコンを温存するとウィルスやセキュリティが心配という人もいるかもしれない。確かに金融機関用に一台最新のパソコン(安いものでもよいので)を持っていると便利なのは確かだろう。だが、これもいくつか対策がありそうだ。
ウイルス対策という点ではMacintoshは優れている。Time machineを使えば、汚染されいない状態へのロールバックが簡単にできる。最初に初期状態を作っておいていつでも戻せるようにしておけばよい。「データが消えてしまう」のが悩みになるわけだが、それは心配ない。データはすべてクラウド上にあるからだ。
それでも心配なら現役を退いたパソコンを「ネットにつながない」と決めて古い写真などのデータを退避させておいてもよいかもしれない。コンセントにつないで定期的に起動しておけば「内蔵電池が切れて起動しなくなった」ということもないだろう。それすらも面倒だというのなら、単純に外付けのハードディスクなどを買えばいい。
このように考えると、パソコンにお金をかけるよりも通信環境にお金を使った方がよいのかもしれない。通信回線が細くて不安定だとクラウドを快適に使えないからである。Googleクラウドの保存領域は15ギガバイトだが写真やビデオを大量に保存しない限り使い切るのは難しいのではないだろうか。もっともプロの写真家などはお金を払ってでも領域を確保しておいた方がいい。クラウドはバックアップを自動でやってくれているはずだ。100%完璧ということはないにしても、自分で保存するより確実かもしれない。家にあるハードディスクドライブだっていつかは壊れるからである。

秋葉原は昔とあまり変わっていなかった

古いマックを漁っていて「これだけネットが発達すると秋葉原は大変なんだろうなあ」と思った。と同時に、秋葉原に行けば「もっと良いもの」が手に入るのではないかとも考えた。Amazonでなんでも手に入るようになったわけだから、わざわざ秋葉原になど行かなくてもよいはずなのだが、どうしても昔の感覚が残っている。いったいどっちが正しいのだろう。
結論からいうと秋葉原の中古PC市場はそれほど変わっていなかった、昔からやっている店が結構残っている。違いはといえば、外国人と(アニメの聖地になっているらしい)とメイドさんが増えたことだが、ハードだけでなくコンテンツも揃うというのは実は昔からの姿だ。
パソコンの量も変わっていた。昔はそこそこ高級品だったパソコンだが、古いノートパソコンがプラスティックのかごに入れられて「無保証」で売られていた。値段も1000円とか2000円だ。これを探して、適当なACアダプタを見つけるらしい。日本人の姿も見られるが、外国からきた人たちも多い。発展途上国に持っていって売るのではないかと思う。秋葉原は国際市場に組み込まれているのだ。インド系が集まっている店があり、インドっぽい香りがしていた。お香でも焚いているのだろう。アジアとダイレクトにつながっていると感じられるのは面白いと思った。
Macintoshに限ると、Macbook(2006年から2009年頃までに売られていたもの)や古いMacminiなどは置いていなかった。代わりにあるのはMacbook Proなどやや高めの値段帯のものだ。ヤフオクなどと秋葉原の店頭は棲み分けができているらしい。古いMacは店頭に出すほどの利益は得られないのだろう。WindowsPCなどは種類が多すぎてよくわからない。メモリなどは種類が多すぎて安いのか高いのかよくわからない。安いといっても千円以下の違いなので、家で検索して買った方がいいのかもしれない。
秋葉原の魅力は「ああ、こういうものが手に入るんだ」ということがわかることかもしれない。ただ「ごちゃごちゃ置いておくんで、適当に探してください」という方式だから、ある程度の知識と並々ならぬ体力がないとつらい。個人的にはIDEのハードディスクが大量に売られていて安心できた。古いパソコンを使っていると「このハードディスクが壊れたら後がないかもなあ」などと思ってしまうのだ。ただ、これもAmazonと比べて1000円程度の違いだ。
東芝製の16GBのUSBメモリが360円で売られていた。お土産に買ってかえろうかなあと思ったが、使い道が思いつかない。NASに付けてWindowsとMacで両方使えるファイルサーバーにするか、UNIXを入れてWindowsPCを再活用するなどできそうだが、別にないと困るというほどでもない。SSDはいうほどは安くなかった。
昔は秋葉原に行かないと買えないものが多かった。Macintoshなどもその一つだ。しかし、最近では新しいMacを探すために行く場所は銀座や表参道になった。かといって秋葉原の魅力が損なわれているというわけではないらしい。昔からの店は依然多く見つかるし、アニメファンや商売人など多くの外国人を引きつけている。
 

TVの国会中継はバラエティ化すべきなのか

松田公太参議院議員がNHKに対して怒っている。最初は「言っているだけ」なのかなあと思ったのだが、どうやら本気みたいだ。日曜討論に呼ばれず、パターン(フリップとでもいうのか)を大写しにしてもらえなかった。
これについていくつか思うところを述べたい。
第一にパターンにはたいした意味はない。もし、TV的にしたいなら学校で習った通りにブレットは3つまでにすべきだろうが、実際にTVを見る側からすると議論すら聞いていない事が多いので、パターンにまで気持ちが入っていない可能性が高い。
日本人はデザイナーの仕事を軽視している。お役所が作るパワポ資料は、俗に「ポンチ絵」と呼ばれる矢印だらけの図柄(パワポのイラストをそのまま使ったりしている)になりがちだ。プレゼンテーションの限られた紙面に言いたい事を全て詰めるというのはかなり専門的な知識が必要だ。役所の作るプレゼン資料は、演歌をがなる素人みたいなものである。これがまかり通るのはデザイナーが難しい事をシンプルに表現しているからだ。これは、演歌歌手が「誰でも唱えるかのように唱ってみせる」のと同じ事なのだ。素人がリサイタルに出ればみんなに笑われるのだが、日本ではそれがまかり通ってしまう。
TVの入る国会中継は実質的に無料広告放送化している。自民党の議員たちは自分がいかに利益誘導しているかを喧伝したがるし、野党からもヘッドライン狙いの質問が多い。だから聞いている方も正座して聞いたりはしない。家事や他の仕事をしながら「話半分に」聞いているのだ。
もし、本当にパターンが大切なら、法律を変えてNHKにタイムコードを付けて事前に納入するように仕組みを変えるべきだろう。そして、質疑のリアクションをワイプで抜くのだ。これは、バラエティ番組でよく取られる手法だ。「分かりやすさ」を求めているのだと思うが、却って分かりにくくなる。これは「なんとなく分かったような気になる」位の効果しかない。
代わりにTVで重要視されるのは生の表情だ。今回の質疑では籾井会長が始終にやにやしていたのが印象的だった。全く反省していないばかりか、弱小政治団体を下に見ている様子があからさまに分かる。TVって恐ろしいなあと思った。
とはいえ、会長が直々に現場に命令を下し「あいつのパターンだけは大写しにするな」と言ったとは考えにくい。大物意識の強い人は細かいことまで指示しないで、下々に忖度させるものだ。意に添わない人は人事で報復するのである。それよりも、現場レベルにある種の蔑視感情があるのではないかと思う。では、蔑視感情はどこから来ているのだろうか。
考えられる原因はいくつかある。一つは英語がぺらぺらでさっそうとした人に対するコンプレックスの裏返しだ。海外でMBAを学んだ優秀な社員が出世競争で潰されるといった時に見られるおなじみの光景だ。日本人の男性は相手にコンプレックスを感じると何か卑下できる点を探す。男の嫉妬ほど怖いものはない。このために海外経験のある人や優秀な女性が潰されたりするのである。性的なことを仄めかして怒るところを眺めたり、ちょっとした意地悪をすして喜ぶ人もいる。
次の原因は元気会が全体的に政治家っぽく見えないからだろう。なんとなく「型」のようなものを求めており、型から外れるのを嫌うだ。これは日本人だけに限ったことではないようだ。アメリカでも「非政治家型」のトランプ候補とサンダース候補が躍進しているが、専門家たちは彼らがここまで躍進するとは考えていなかったようだ。つまり、政治家は言動そのものではなく、どの程度政治家らしく振る舞えるかによって実力を推し量られてしまうのである。
このように考えると「政治家らしい振舞を身につけた方がよい」とも思えるのだが、アメリカの事例はこうした「政治家らしさ」そのものが古びてきていることを示唆しているように思う。

麻生太郎大臣は言った – 希望は戦争だと

クルーグマン教授と日本政府のやり取りが日本語になったので読んでみた。なぜか新聞社は伝えず有志が翻訳したものだ。誤訳もありうるということなので興味のある方は原文を当たって見るのもいいかもしれない。ポイントはいくつかあると思う。
一つ目のポイントは麻生太郎財務大臣が「1930年代のアメリカはケインズ的政策でもデフレから脱却できなかったが、戦争で景気を回復させた」と言った点だ。単に歴史的認識を披瀝しているだけなのだが、捉えようによっては(つまり、曲解すれば)戦争を起こして景気回復させてやろうとたくらんでいることになる。左派的世界観では安倍政権は「日本を戦争ができる国にして、弱者を戦場に送り込む」内閣なのだから、このことを大いに喧伝するのがよろしいのではないかと思う。騒ぎになれば面白いし。
二つ目のポイントは安倍首相がこの会議をコンフィデンシャルにしたことだ。内容を読めば分かるが、特に変わったことは言っていない。財政健全化よりも需要の回復を目指せというのはよく聞かれる議論だ。倍さんは「ドイツに積極的な財政支出を求めたい」と言っているだけで、クルーグマン教授になんとなくスルーされている。言われる側のメルケル首相は「ああ、そうですか」と思うだけで、中国みたいに「内政干渉だ」などとは言わないだろう。安倍さんは自分の見識というものに自信がなく、何でも秘密にしたい人なのだろう。経済的に難しい時期の日本にこのような弱々しいリーダーは必要ない。
三つ目のポイントはクルーグマン教授があえてこれを公表した意味だ。本人は語っていないが、わざわざ「オフレコで」と言われていることを公表したわけだから、何らかの意図があるのは間違いがない。政府は財政再建を後回しにして積極的に支出すべきだとは言っているが、消費税増税を延期しろとは言っていない。ただ、本人はやり取りを公表した理由は語らないのではないだろうか。
第四のポイントは今後の新聞やテレビでの扱いだ。このことは、マスコミの人たちには出回るだろうが、報道はされないのではないだろうか。この「起こらないこと」について、ネットで情報を取っている人はよく見ておくべきだと思う。これから、人々は実際には鳥が家の中でさえずっているのに、誰も鳥がいないように振舞うのだ。それは政権側が「小鳥がいることは誰にも言ってはならぬ」といっているからにすぎないし、小鳥はたいしたことは言っていない。マスコミは誰のために報道しているのかということがよくわかるだろう。朝日新聞ですらこの件は報道しないのではないかと思う。記者クラブ特権が剥奪されては困るからだ。ジャーナリズムでございますと見栄を切って見せても所詮この程度なのだ。
個人的に一番面白かったのは安倍さんの自信のなさではなく、麻生さんの無責任っぷりだった。一度政権を担当した人なので、今回は物見遊山気分で政権に参加しているのではないだろうか。当事者意識があれば、税収を上げるためには何をしなければならないか必死で聞くと思うのだが、代わりに自身の歴史的知識を披瀝して終わった。「大臣よくご存知ですね」とは思うが、それ以上のものは感じられない。この方は国会でもこの調子で知識や英語(流暢そうに話して見せるのだが、RとLの区別がめちゃくちゃ)を披瀝している。
議員たちが一生懸命に国会で質問をしても「戦争でも起きたらイッパツなのになあ」などと夢想しているのではないかと思う。自分が何かできるとは思っていないし、またやる気もなさそうだ。
安倍首相は「ママに怒られるから秘密にしておいて」という小学生のようだ。本人としては大それた野望を持っているつもりなのだろうが、大人の目で見るとたいしたことはないし、別に深い考えにも聞こえない。
現在の政権はこうした人たちを中枢に頂き、周りが右往左往しているというのが実態なのかもしれない。これでも世界有数の経済大国として機能しており、新幹線や飛行機もタイムテーブルどおりにきっちりと運行されている(まあ、時にはシステム障害で半日とまったりするわけだけど)のだから、日本というのはやっぱりすごい国なのかもしれない。
この人たちは本質的な無力感に苛まれているのではないだろうか。祖父が立派な政治家だったというだけで、政治家としての人生を押し付けられた人たちなのだ。

何だ俺は右翼じゃないか

クルーグマン教授が記者に囲まれる写真を見て、GHQが招聘した学者を囲む記者たちみたいだなと思った。日本人は第二次世界大戦後、すっかりアメリカ人に頼り切るようになってしまった。有名なのは1949年のシャウプ税制(税制の単純化と直接税中心の税制)やドッジ・ライン(緊縮財政)などだ。日本人は外からの押し付けを望むことがある。議論が膠着したとき「外からの改革に従う振り」をすれば、痛み分けになるからだ。
こうした絵を見ると、なんとなく不快な気分になる。日本民族の知的水準は低くない方だと思っているからだろう。多くの日本人経済学者たちは、現在のアベノミクスはうまく行っていないと感じている。こうした観測はそれなりの専門的知見に基づいているのだろう。経済学者の中には構造改革を積極的に行うべきだと建設的な提言をしている人もいる。だが、こうした発言はすべて無視される。にも関わらずアメリカ人が何かいうとありがたがってしまうのだ。これは屈辱的なことだ。
安倍政権にとってクルーグマンは都合のよい相手だったのだろう。日本サイドで適当に発言を料理してしまえば、あとはうるさく言ってこなさそうだからだ。発言が一人歩きすることを恐れたのかクルーグマン氏は「何を言ったか」を公開してしまった。政治的に利用されることがわかっているのかもしれない。
第二次世界大戦でアメリカに負けてから70年以上が経った。もうそろそろ精神的にアメリカ依存から脱却すべきではないだろうか。トランプ氏の台頭を見てもわかる通り、次の10年間、アメリカは孤立主義路線を取るかもしれない。経済的に余裕を失っているのだ。ついに「核武装したいならすればいいじゃないか」という発言さえ飛び出した。「自分の身は自分で守る」というのはアメリカでは当たり前の考え方だ。少なくともアメリカは日本のことを「かわいい子分だ」などとは思っていないのではないかと思う。トランプ発言を都合良く解釈しようとする政治家も現れたが、こうした発言を見ると情けなくなる。
個人的には「戦争に反対」で「原発推進は無理」だと思っており、極端な自由主義よりもセーフティネットの充実の方が優先順位が高いと思っている。自民党の政治は嫌いで、対抗のためには共産党でもいいやと思っている。これだけを切り取れば、どう考えても「左翼」ということになってしまう。ところが「民族は独立するべきで、自主的に経済政策や税制を決めるべきだ」という主張は、どう考えても右翼のものである。つまり「アメリカから独立してはどうか」と思っている僕は右派だということになる。どっちが正しいのか、自分でもよくわからないが、少なくとも既存の左右にとらわれると自分がどんな政治的指向を持っているのかわからなくなるのではないだろうか。
選挙を前に自民党が「バラマキ指向」を強めている。高齢者にお金を配るという「政策」を決めたばかりだが、今度は低所得者にもお金を配ろうと言い出した。通常、こうした政策を打ち出すのは左派政権である。つまり、自民党は左傾化していることになる。口では経済成長路線だなどといいながら、彼らが考える経済成長路線とは公共事業を増やして地方に仕事をまわすことだけだ。これもどちらかといえば左派政権の仕事ぶりである。
憲法は「アメリカに押し付けられた」といいつつ、経済政策だけはアメリカに頼ろうとする。本当はアメリカなどどうでもよくて、社会主義系左派が最後のよりどころにしている憲法が憎いだけなのではないかと思う。つまり、右派を自任している人たちは、民族の独立などにたいした関心はなく、単に左派が嫌がるのを見たいだけなのだ。だから、悲壮な表情で「安倍政権が憎い」と叫べば叫ぶほど、自称右派の人たちは喜ぶのだ。もういい加減に、左派の人たちは自称右派を喜ばせるためだけに行動するのはやめた方がいいと思う。
その意味では、この国には、民族的に自立した本物の右派政党が必要だろう。もっと言えば、地方も中央に従属するのはやめた方がいいのではないか。民族の独立のほかに地方の自立も重要な課題だ。「四国や東九州に新幹線を誘致したい」というような主張しかしない従米左派政権を保守とか右派と呼ぶのは恥ずかしいからやめた方がいいと思う。ご都合主義で愛国者を気取るのは、日の丸に失礼だからやめてほしい。

乙武騒動に思う

乙武洋匡さんがバッシングを受けている。5人もの女性と不倫したのだという。池に石を投げ込んだように様々なことが分かった。
第一に自民党の人気のなさが分かった。自民党はいまだに高い支持率を誇っていて、次の選挙では憲法改正に手が届くだろうと言われている。だが、自民党から立候補が決まった有名候補者は決まって叩かれる。乙武洋匡さんにしても「自民党から出るとは思わなかった」「失望した」という声が聞かれた。考えてみるとこれは実に不思議なことだ。もし、自民党が国民から支持されているのなら、乙武洋匡さんの立候補は拍手で迎えられたはずである。このことから類推すると、自民党への支持はそれほど高くなさそうだ。そればかりか、ちょっとしたことで地盤沈下を起こす程度には脆弱なものなのかもしれない。
次に乙武洋匡さんは「障害者」のイメージをくつがえすことに成功したていたことが証明された。今回のバッシングで「イメージを裏切られた」と考える人はそれほど多くなさそうだ。バッシングの核になっているのは「謝る必要のない奥さんがかわいそう」というものである。社会学者の古市さんという人が「介護みたいなものだったのでは」とTwitterで弁護しているが、これは「障害者なんだから大目にみてやれ」というような意味合いになる。却って本人の意に沿わないのではないだろうか。
最後に自民党の変質振りが浮き彫りになった。今回の自民党は「障害者(や、その親族)はかわいそうだけど一生懸命生きている」というイメージを選挙に利用しようとしているようだ。彼らは障害者を弱くてかわいそうなものとしか捉えておらず、そのイメージを選挙に利用しようとしているのだ。推薦を取り消すとも言われているようだが、これは「障害者としての利用価値がなくなった」ということを意味している。
かつての自民党は芸能人出身でも障害者でも出世できる政党だった。例えば、八代英太氏はテレビ司会者だったが事故で車椅子生活となった。その後政治家に転身し参議院と衆議院の議員を務め、郵政大臣にまで上り詰めた。
もし乙武洋匡さんがニュースの出ない状態で出馬していたら、世間一般の人たちの「障害者なのに健気にがんばっている。だからあの人は立派だ」というイメージに縛られることになったかもしれない。乙武洋匡さんの人生にとってそれは良いことだったのかを考える必要がある。乙武洋匡さんはなかなかの野心家のようなので、イメージの乖離に苦しめられることになったのではなったかもしれない。と、同時に自民党の変質も感じられる。個性を活かす健全な政党から選挙のためには何でも利用する政党に変質しつつあるのではないかのかもしれない。万人に活躍ができる組織から、弱者が駒にされる政党に変わっているのである。

サポートを親切にするのは良い事なのか

Twitterで面白い呟きを見つけた。スマホを普及させるためにはサポートを充実させるしかないのではないかという。


実際には日本の企業の中にも親切なサポートを提供する会社は数多くある。スマホだとNTT Docomoが親切だ。パソコンでは東芝のサポートが充実している。「Webが見れない」「迷惑メールが来るからなんとかしろ」などと言った基本的な操作方法でも無料で教えてくれるのだ。明らかに高齢者を対象にしている。
さて、これはいいことなのだろうか、悪いことなのだろうか。例えば、この時期のNTT Docomoは週末で3時間待ちになる。電話もつながらない。入学式シーズンでスマホを買い求める客が多いせいなのだろうが、理由はそれだけではなさそうだ。あまりスマホが分からない人たちが親切さをもとめてNTT Docomoに押しかけるからではないかと思う。すると結果的に、親切さがサポートを必要としているかもしれない人たちを排除してしまうのだ。
東芝のサポートは、電話だけでは分からないからと画面に赤い丸や矢印を手書きで表示してくれる。遠隔操作するのだそうだが、あたかも付ききりでパソコンの使い方を教えてくれる孫のようなものだ。だが、問題がある。必ずInternet Exploreを使えというので「なぜか」と聞いたところ、手順を決めているのだそうだ。「お客は何も知らない」ことを前提にしてオペレーションが組み立てられているらしい。だが、その手順に従うと設定が初期化されてしまう。こちらが「障害を切り分けたいので何か知見があるか知りたいだけだ」と言うと、ほっとした表情でいろいろと教えてくれた。だが、杓子定規なオペレータだとどうなっただろうか。「とにかく言う通りにしろ」となった可能性はある。そもそも初心者向けのマニュアル仕事ばかりしているわけだから「本当の障害」に対する知見は蓄積しないだろう。本当に困っている人は、排除されてしまう可能性が高い。
「スマホやパソコン」が分からない人は、頭が悪いわけではない。パソコンには基本の知識体系(認知体系ともいう)というものがあるのだが、それが身についていないのだ。認知体系が身についていない人と接する場合、面倒なことは聞けない(聞くとますます混乱する)のでなんでも初期化してしまうしかないのだろう。
もっとも企業努力で「初心者に優しく」かつ「適切でムダのない」サービスを提供することはできる。Appleは音楽などのコンテンツを売っているので、初心者にも間違いのないサポートをしてくれる。しかし、パソコンの操作についてはあまり詳しく教えてくれない。Appleのパソコン購入者は初心者ではないからだ。このようにしてメリハリをつけることで、リソースの有効利用を図っているのだ。そのためには少なくともトップの人が自社社員であり、一貫して自社製品についての知識を持っている必要がある。さらに、末端のオペレータも自分の判断で硬軟切り分けられるように権限委譲されていなければならない。
日本のコールセンターは外部委託かつパート・アルバイトなので、製品に対する愛着もなければ会社に対する関心もない。たとえ仕事に愛着を持ったとしても「そんなことは期待されていない」のだ。一人だけ特別なことをしようとすれば社員とぶつかるかもしれない。だから、Appleのような体制をとるためには、雇用体系と企業文化を変えなければならない。
このように、初心者に手厚いサポートを提供すると、今度は中級者以上を排除してしまうことになる。「どちらも同時に」というわけには行かないのだ。すると、お金を払ってくれそうな中級者たちは他の会社に流れることになる。サポートのコストは製品に乗る。自力で解決できる人は、より安い(あるいは適正な)価格の製品を求めるだろう。このようにして、コストばかりがかさんで、利益の薄い商売になってしまうのだ。日本の家電メーカーが次々とコンシューママーケットから退出するのにはいろいろな事情もあるのだろうが「サポートを手厚くしなければ、これ以上普及率を上げられないのではないか」という観測もその理由のひとつになっているのではないかと思う。

自転車と回復

2年ほど雨ざらしにしていた自転車のチェーンに油を注した。チェーンに塗るのではなく、一つひとつのチェーンに油を入れてゆくのだそうだ。正しくメンテナンスしたら動かないと思っていたギヤが動き出した。もう動かないから捨てようと思っていたのだが、捨てなくてよかった。雨の中で放置していた自転車には悪いことをした。調べると自転車カバーは100円ショップにも売っているそうだ。もっと早く調べればよかった、と後悔した。
なんでもないことなのだが、ちょっとした幸せのようなものを感じた。人から見ると、あるいは笑われるくらい小さな幸せなのかもしれない。自転車に気が向くということは「どこかに行ってみたい」と思うようになったことだ。人生には何があるか分からない。あるいは、もう立ち直れないと思うこともある。だが、その日々も永遠には続かないのだ。
人はすべて回復する力を持っている。その力は不思議なものだ。一日いちにちを過ごしているときには気がつかないが、回復は少しづつ進む。あるいは、回復とは元通りになることではないのかもしれないが、それは必ずしも「前より悪くなった」ということを意味しない。
今苦境にある人にはこの言葉は届かないだろう。闇の中にあるとき人には他人の言葉は聞こえないしそんな余裕もない。だが、それでも言いたいと思う。どんな人も回復する力を持っている。神様という存在があるのかどうかは分からないが、それは神様が与えた恵みではないかとすら思う。決して自らが努力して得たものではない。
世の中には様々な情報があふれている。本当もあれば嘘もあるかもしれない。しかし、人には回復する力があるということだけは確かなことである。私は今それを知っている。他人と比べればほんのささやかな知恵かもしれないのだが、私は今それを持っていて、誰かに伝えたいと思っている。

国民の分断を図る日本の政府

「共産党は、破防法の調査対象である危ない団体だ」との答弁書を政府が閣議決定したそうだ。このニュースを聞いて「国民の分断」について考えた。安倍政権の選択は2つの意味で危険だ。この内閣は中長期的な視野や国家運営についての見識に欠けている。自分たちの政権維持にしか興味がなさそうなのだが、これはきわめて危険である。
1つ目の危険は「破防法調査対象」の持つ意味合いだ。よく知られているように、かつて共産主義者にはいくつかの潮流があった。政府に迎合せずに暴力革命を目指す一派がいる一方で、国民の信頼を得るためには暴力主義を捨て去って民主的な政治に参加すべきだという勢力もいた。結局、生き残ったのは民主主義的な政治に参加することを選んだ勢力だった。つまり、体制は共産主義者たちを「抱きこむこと」に成功したのである。
国会の質疑を聞いていると、政府が社民党や共産党の質問にうんざりしているのがよくわかる。最初から世界観が違っていて、交わりがない。しかし、これはまだマシなほうなのだ。なぜならば、国会という管理可能な社会の中の出来事だからである。これは戦争ではなくスポーツなのだ。
確かに短期的には共産党をテロリスト扱いすることで、一般国民の支持を削ぐことはできるだろう。ところが、これは彼らを追い込むことになる。多くの人たちは共産党からは距離を置くだろうが、そうでない人たちが一定数以上出てくるのは間違いがない。
格差が拡大しつづけることを考え合わせると、共産主義者は地下化するかもしれない。社会的レッテルは認知を作り、認知はやがて現実化するのである。安倍政権は短期的な効果と引き換えに大きなリスクをもたらそうとしている。政府から弾圧された共産党の幹部たちは過激な人たちに「平和路線を貫くべきだ」といい続けることができるだろうか。
このリスクを背負うのは誰か。それは、安倍政権ではなく国民である。
しかし、これは物語のほんの片側の姿に過ぎない。安倍政権は、リベラルな自由主義者と対抗するために神道原理主義者(このブログではよく国体原理主義者と呼んでいる)に近づいた。今は過激な思想に酔っている彼らだが、やがて挫折することは目に見えている。アメリカとの関係上、国体原理主義者たちの要望をすべて聞いてやることはできないからだ。彼らが政治的に「無関心だ」と考えている一般の国民(憲法改正より経済対策を優先させて欲しいと考える一般の人々のことだ)も国体原理主義者の行き過ぎた主張(日本人に人権があることがおかしい)を決して受け入れないだろう。
これはトルコのエルドアン大統領がイスラム教指導者に接近したのに似ている。国体原理主義者は自分たちこそ安倍政権を教導すべきだと考えているだろうが、安倍政権はいずれこうした勢力を疎ましく思うようになるだろう。すると、国体原理主義者たちは、もっと過激化し、政権を批判することになるのではないだろうか。
今、安倍政権は国体原理主義者たちは一体に見える。それは「敵」とされる人たちがいるからに過ぎない。敵を殲滅してしまえば、この人たちは内部分裂を始めるはずだ。この内部分裂が自民党を壊すくらいですめばむしろ幸いなのかもしれない。安倍政権の動きは国内に極端な勢力を複数生み出す危険性がある。
一度追い込まれた人たちは日本人の社会や安全に対する意識を根底から変えてしまうかもしれない。我々は、社会が民主的なプロセスで統合されていることのありがたみを、アメリカやヨーロッパの事例から学ぶ必要がある。