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保育園に落ちたからといって国を責めるのは筋違いなのか

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最近、保育園を落ちたという人の書き込みが話題になっている。「気持ちは分かる」という人もいるが、自己責任論で書き込みした人を非難する人も多い。自己責任論の中に「何でもかんでもいちいち国のせいにするな」という人がいる。なかなか本質を突いていると思う。
日本は中央集権制が強いので、すべての活動に国が関与する。だから保育施設が足りないのも国のせいだ。
中央集権制をなくし、地方主権になれば状況は変わるだろう。地域の都合で供給を変えることができるからだ。もちろん、保育所の問題だけを地域に渡すわけにはいかない。財源ごと渡す必要があるだろう。だが、地方に財源と権限を渡してもこの問題は解決しない。それはどうしてだろうか。
幼稚園は教育問題だが保育所は福祉の一環だ。福祉を「かわいそうな人たちへの施し」だとすると、日本には施しを受けなければならないかわいそうな労働者がたくさんいることになってしまう。女性の問題と考えられがちだが、父母揃って子育てのコスト(お金と時間)が賄えないということだ。
保育所に子供を預ける父母が「施しを受けているかわいそうな人」などと言えば炎上ものだろう。だが、実際に市場価格で保育施設を探しても賄えない人が多いのではないだろうか。
では、施しが必要な経済とは何だろうか。それは外部の助けなしにシステムが維持できないということである。そして施しを受けているのは父母ではなく、父母を雇っている企業なのだ。
「子供は社会で育てるもの」というと聞こえは良いのだが、この社会とは何だろうか。まず、企業は社会に含まれないらしい。また、働いている父母も社会には含まれていないようだ。「施し」というのはショッキングな言葉だが、従業員に十分な賃金を払えない(もしくは払わない)企業も、そこで働く労働者たちも、誰か他の人たちが子育ての原資を恵んでくれることに期待しているということになる。それなしでは経済活動が維持できないのだ。
企業が労働人口を維持しようと思えば、納税か賃金を通じて従業員が子育てする費用を賄わなければならない。それができなければ、労働人口と消費市場は縮小する。これは持続的な経済とは呼べず焼き畑農業に近い。訳知り顔に「国際競争力を維持するためには余計なコストは支払えない」などという人もいるかもしれないが、その理屈は破綻している。子育てをしなくてよい社会など(奴隷を他所から供給できる経済を除いては)ありえないからだ。
保育所問題は保育所の社会主義的な割合が問題だという人がいる。なんとなく正しいように思えるのだが、実は資本主義的なフリーライディングの問題に過ぎない。フリーライドしているのは(たとえ悪気はなくても)企業だ。社会が共有地を増やせば増やすほど、フリーライドのインセンティブが生まれる。人件費が削減できるからだ。だから、このままの議論では本質的に保育所不足はいつまで経っても解消しないということになる。
一般市民がこの問題を感情的に語るのは仕方がないと思う。問題解決のための資源を与えられていないからだ。
だが、政治家の態度には大きな問題がある。持続可能な社会の維持は憲法よりもずっと大きい問題だ。だが、自民党はこれを単なる「施しの問題」と捉えていて、何もするつもりがないようだ。彼らは再軍備と支配層の復権の方がずっと国益に適うと錯誤しているのだろう。だが、対する野党もこの怒りの感情を政権復帰のための材料にしたいと考えているようである。民主党政権も待機児童問題を解決できなかった。共産党や社民党は子育てへの資源の割り当てを要求するのだろうが、割り当てれば割り当てるほどトクをするのは彼らが憎んでいるはずの資本家たちなのである。
さらに経済学者も、保育所問題を単なる個人のわがままだと考えている節がある。共有地の問題は数学的な問題だが、比較的新しい分野なので、古くからの自由経済的需要と供給問題として解けないからだ。そこで経済学者たちはだんまりを決め込むか、あれは社会主義が問題なのだなどとお茶を濁すのだろう。


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