クルーグマン教授が記者に囲まれる写真を見て、GHQが招聘した学者を囲む記者たちみたいだなと思った。日本人は第二次世界大戦後、すっかりアメリカ人に頼り切るようになってしまった。有名なのは1949年のシャウプ税制(税制の単純化と直接税中心の税制)やドッジ・ライン(緊縮財政)などだ。日本人は外からの押し付けを望むことがある。議論が膠着したとき「外からの改革に従う振り」をすれば、痛み分けになるからだ。
こうした絵を見ると、なんとなく不快な気分になる。日本民族の知的水準は低くない方だと思っているからだろう。多くの日本人経済学者たちは、現在のアベノミクスはうまく行っていないと感じている。こうした観測はそれなりの専門的知見に基づいているのだろう。経済学者の中には構造改革を積極的に行うべきだと建設的な提言をしている人もいる。だが、こうした発言はすべて無視される。にも関わらずアメリカ人が何かいうとありがたがってしまうのだ。これは屈辱的なことだ。
安倍政権にとってクルーグマンは都合のよい相手だったのだろう。日本サイドで適当に発言を料理してしまえば、あとはうるさく言ってこなさそうだからだ。発言が一人歩きすることを恐れたのかクルーグマン氏は「何を言ったか」を公開してしまった。政治的に利用されることがわかっているのかもしれない。
第二次世界大戦でアメリカに負けてから70年以上が経った。もうそろそろ精神的にアメリカ依存から脱却すべきではないだろうか。トランプ氏の台頭を見てもわかる通り、次の10年間、アメリカは孤立主義路線を取るかもしれない。経済的に余裕を失っているのだ。ついに「核武装したいならすればいいじゃないか」という発言さえ飛び出した。「自分の身は自分で守る」というのはアメリカでは当たり前の考え方だ。少なくともアメリカは日本のことを「かわいい子分だ」などとは思っていないのではないかと思う。トランプ発言を都合良く解釈しようとする政治家も現れたが、こうした発言を見ると情けなくなる。
個人的には「戦争に反対」で「原発推進は無理」だと思っており、極端な自由主義よりもセーフティネットの充実の方が優先順位が高いと思っている。自民党の政治は嫌いで、対抗のためには共産党でもいいやと思っている。これだけを切り取れば、どう考えても「左翼」ということになってしまう。ところが「民族は独立するべきで、自主的に経済政策や税制を決めるべきだ」という主張は、どう考えても右翼のものである。つまり「アメリカから独立してはどうか」と思っている僕は右派だということになる。どっちが正しいのか、自分でもよくわからないが、少なくとも既存の左右にとらわれると自分がどんな政治的指向を持っているのかわからなくなるのではないだろうか。
選挙を前に自民党が「バラマキ指向」を強めている。高齢者にお金を配るという「政策」を決めたばかりだが、今度は低所得者にもお金を配ろうと言い出した。通常、こうした政策を打ち出すのは左派政権である。つまり、自民党は左傾化していることになる。口では経済成長路線だなどといいながら、彼らが考える経済成長路線とは公共事業を増やして地方に仕事をまわすことだけだ。これもどちらかといえば左派政権の仕事ぶりである。
憲法は「アメリカに押し付けられた」といいつつ、経済政策だけはアメリカに頼ろうとする。本当はアメリカなどどうでもよくて、社会主義系左派が最後のよりどころにしている憲法が憎いだけなのではないかと思う。つまり、右派を自任している人たちは、民族の独立などにたいした関心はなく、単に左派が嫌がるのを見たいだけなのだ。だから、悲壮な表情で「安倍政権が憎い」と叫べば叫ぶほど、自称右派の人たちは喜ぶのだ。もういい加減に、左派の人たちは自称右派を喜ばせるためだけに行動するのはやめた方がいいと思う。
その意味では、この国には、民族的に自立した本物の右派政党が必要だろう。もっと言えば、地方も中央に従属するのはやめた方がいいのではないか。民族の独立のほかに地方の自立も重要な課題だ。「四国や東九州に新幹線を誘致したい」というような主張しかしない従米左派政権を保守とか右派と呼ぶのは恥ずかしいからやめた方がいいと思う。ご都合主義で愛国者を気取るのは、日の丸に失礼だからやめてほしい。