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国会の議論っていったい何なのか?

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安倍政権にお呼ばれしたスティグリッツ教授が「消費税増税はやめたほうがいいよ」と勧告したらしい。選挙前の地ならしだと考えられているそうだ。消費税増税は「ブレーキとアクセルを同時に踏むようなものだ」といわれているので、目新しいことはない。消費税は高いなあと思っているので撤回してもらったほうがありがたい。
だが、どうも面白くない。どうして国会議論では決められずに、わざわざアメリカ人を呼んでくるのだろうか。
与野党ともに「消費税増税は延期すべきだ」という声が強かった。明らかに消費を冷え込ませることが8%増税時の統計から分かっているからだ。今回は「いよいよ10%に上がる」という雰囲気もないので、駆け込み消費も起こっていない。多分「また延期するんじゃないの」と思われているのかもしれない。
だが国会の質疑では野党が「消費税増税は延期すべき」というのに対して、政府与党側は「リーマンショッククラスの出来事がないかぎりやります」と言っている。もし、アメリカ人に言われて変えるなら、あのやりとりはいったい何のためにやっているのだろう。
よく国会のやり取りを「議論」と呼ぶ人がいる。何か問題があり、それを分析した上で、よりよいソリューションを探すというのが、議論というものだ。だが、実際には安倍首相は「本当は(今は)増税したくないなあ」と思っているにもかかわらず、虚偽の答弁を繰り返していることになる。国会のやり取りには実質的な意味はないことになる。だから、あれは議論というより儀式に近い。国民は壮大な出費をして、予算を正当化するための芝居を見せられているのである。
誰も国会の儀式に説得力を感じている人は誰もいないようだ。アメリカ人が何かいうか、国連が何か勧告するまで誰も動かないのだ。こうした構造を分析するのは面白そうだが(利得圏にいる当事者たちの意見はコミュニティの態度を変容させることはない。多分、話し合いに応じることが妥協を意味し、相手に利することになると考えられるからだろう。
それにしても「アメリカ人が押し付けた」憲法を嫌っている安倍首相はどうして経済のことになるとアメリカ人学者の言うことを聞きたがるのだろうか。自主憲法と民族の誇りについて演説を繰り返す人たちに聞いてみたい。


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