石坂浩二と内向的な性格

MBITにEとIという性格特性が出てくる。ユングの心理学理論を基にしており、外向性と内向性と訳される。内向的な性格というと内気だという印象があるのだが、これは間違っているらしいが実感としてよく分からない。ところが、最近、石坂浩二さんのニュースを見ていて、内向的な人が少し分かったように思えた。
石坂浩二さんが『なんでも鑑定団』という番組で2年間干されていたという。いろいろ話をしているのだが、全く放送には乗っていないというのだ。普通の人ならここで「なぜ、自分の場面がカットされるのか」と不満に感じてよいところだが、石坂さんは全く意に介さない。フジテレビのインタビューに対して「個人で思うところはあるが、それは個人のも問題」だとした上で「テレビ東京の問題はテレビ東京に聞くべきだ」と言っている。
普通にこれを聞くと「相手や立場を慮っているのだろう」と考える。しかし、そうではないのかもしれない。
石坂さんは浅丘ルリ子さんと結婚をしていた。ところが実際には長い別居だったのだそうだ。ところが、ある日突然離婚を切り出した。「女優に母親を介護させられない」というのが表向きの理由だった。ところがその5日後、身の回りを世話してくれていた女性と結婚してしまった。回りの人たちは、石坂さんとこの女性が付き合っていたとは思っていなかったという。
このことから、石坂さんは人間関係に関心がないことが分かる。関係が切れていても実質的な問題がなければ特に気にならないのだろう。ところが、身の回りの世話をしてくれていた女性にきっちりと法的な関係を与えなければならないとなると、ためらいなくその関係を切ってしまうのだ。
『なんでも鑑定団』で自身の発言が放送されなくても(放送は毎回見ているようなので、切られていることは知っているらしい)気にしなかったのではないだろうか。使われない事が分かっていながら、お宝に関する蘊蓄は毎回話していたのだという。内部に価値観の源があって、それを披瀝できていれば、特に回りが反応してくれなくても満足なのかもしれない。
石原さんの趣味は幅広い、絵を描いたり、プラモデルを作ったりと「内側にある創造性」を追求したい人なのではないかと思われる。インタビュー記事によると、プラモデルを眺めながらいろいろ考えを巡らせるのが好きということだ。思いを巡らせ色々調べるうちに様々な蘊蓄が蓄積して行くのだろう。あるインタビューでも「作品に没頭することで回りが見えなくなるくらいが良い」と語っている。全く見えなくなるのもダメで全体を俯瞰しているくらいがよいのだそうだ。
石坂さんは「内的な世界」を気にするという逸話はまだ残っている。石坂黄門は短命(2シーズン)で終った。表向きは病気の為の降板ということになっているのだが、実際には周囲との関係が悪かったからだという説があるそうだ。もともと髭を生やして印籠をかざしているいる印象が強い水戸黄門だが、石坂さんは「史実と違う」という理由でこれを拒否していた。長年蓄積されたTVショーとしての歴史や視聴者の愛着よりも「史実」の方が重要なのだ。
東映京都撮影所は撮影の調整を暴力団に依存していたという話がある。代々の水戸黄門はこの関係を保とうとしていたが、石坂さんはこれを断っていたというのだ。退院してから「面倒な仕事がなくなって清々した」というような発言をしたという逸話が残っている。
石坂さんにとって重要なのは内的世界を構築し、それを他人に披瀝することなのだろう。それがどう使われて、どのような評判を得るかということはあまり関係ないことなのではないかと思われる。
「内向的な性格」というと、話しべたで自分の気持ちを伝えられない人という印象がある。しかし、石坂さんは社交的で女性にももてるそうだ。自分の意見もしっかりと持っていて、人に伝えることもできる。また、内向的な人は内側に閉じこもるので主観的であり客観性に欠けるのだという人もいるが、石坂さんは客観的で冷静な印象がある。
外向的・内向的という性格特性は誤解されやすく、様々な性格診断でも「暗い人=内向的」となっている場合も多い。むしろ、動機の源泉がどちらにあるかということなのではないだろうか。

政治家はなぜ平気で嘘をつくのか

地位の高い政治家ほど平気で嘘をつく。この数十年日本人が貰う給与総額は下がっているのに「日本は貧しくなっていない」という。格差は広がっているというのに「そのような統計的事実はない」と言ってはばからない。

これは政治家が悪いのだろうか。もしくは、日本特有の現象なのだろうか。

アメリカの心理学者Paul Piff(ポール・ピフ)が社会的階層が人間の真理にどのような影響を与えるかということを調査している。この一連の調査によると、社会的階層が高いほど、他人に対して不誠実になることが分かっている。Piffの研究成果はTEDなどで見ることができる。

Piffの研究はアメリカ人を対象にしている。故にこれは日本独自の現象ではなさそうである。

Piffによると、モノポリーで「格差」を与えると、勝ち組の側は徐々に尊大な態度を取るようになる。そして、明らかに格差を認識しているにも関わらず「実力で勝ったのだ」と認識する。その間に必要な時間はわずか15分だそうだ。

お金持ちという自覚がある人は「取ってはいけない」と言われているお菓子を多く取る。

高級な車に乗っている人は歩行者に道を譲らなくなる。プリウスが最も「非倫理的な車種」だという。

Piffは解決策も示している。社会的地位の高い人に困窮者の実態を見せるとよいと言っている。一定の修正効果があるそうである。

日本の政治に当てはめるといろいろなことが分かる。

多分、安倍首相は「嘘をついている」わけではない。ただしその認知は間違っている可能性が高い。実力で現在の地位を築いたと思っており、貧乏人は努力が足りないからいけないのだと考えているかもしれない。認知に反する統計は「なかったもの」として処理されるだろうから、格差が広がっているという認識は「見なかった」ことにされるだろう。

森元首相がオリンピック関連で妄言を繰り返すのも仕方のないことだ。実力で資金集めをしたのだと考えているのではないだろうか。自分に決定権があるのも当然だと考えている事だろう。

もっとも厄介なのが「もともとお金持ちではなかった」が「地位を得てしまった」人たちである。例えば有力政治家の秘書になった人や有名作家や識者たちのおかげで地位を得た編集者などである。彼らは自分の実力で地位を築いたと思うだろうし、地位の低い一般の人たちに対していわれのない特権意識を持つ事になるだろう。

地位にある人はそれでも「自分の評価は他人から評価に支えられている」という意識がありそうだが、他人の地位で食べている人にはその自覚もない。偉い人にさえ気に入られればそれでいいからだ。

政権を取っている政党の政治家が「天賦人権論など良くない」と考えるのはある意味当然だろう。自分は特権的な地位にあり、法律さえ好き勝手に変えられる存在であるという意識と、それが貧乏人からの一票一票に支えられているに過ぎないのだという意識の間に葛藤が生まれるからだ。

心理学的に、政治家たちが「勘違い」しないようにする策はいくつかあるだろう。常に困窮者たちを視察することで、認知的なバイアスをいくぶんか取り去ることができる。いくら忙しいといっても、新聞社やテレビ局の偉い人と食事をする時間があるのだから、福祉的な活動への視察時間を義務化するとよいかもしれない。

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戦争反対を主張する人は左翼思想の持ち主なのか?

ラッパーのZeebraさんが「保守」の人たちに絡まれている。日付を見たら呟かれたのは2011年だ。保守速報に載って再発見されたようである。Zeebraさんは4年以上前の投稿への反応に驚いているのではないだろうか。


当たり前のことを言っているだけだと思うのだが、これで左翼扱いされてしまうのだろうかと考えるとちょっと恐ろしくなった。
当たり前のことだが、戦争は良くない。真っ先に被害を受けるのは一般庶民だが、戦争反対に反対している人たちが特権階級に属するとは思えない。保守速報に載っているコメント(絡まれると怖いのでリンクは貼らない)を読むと「戦争になっても自分たちには関係がない」と思っている節がある。戦地になるのは遠く離れた地で、職業軍人(自衛官)が戦うという認識があるのだろう。確かにニュースでみる戦地は中東やアフリカだ。この認識は実際に第二次世界大戦を経験した人たちとは異なっている。たいていどこの都市も空爆された経験があるからだ。
「戦争する相手とは対話ができない」という人が多かった。近年の戦争の質が変わってきていることも反発の原因になっているらしい。冷戦時代の戦争は東西対戦で敵が明確だった。しかし、対テロ戦争は敵が見えにくい。東西冷戦時代のアメリカとソ連の介入に怨嗟の根があり、これが連鎖的に広がって収拾が付かなくなったのが現在のテロ戦争だ。もともとの原因が何だったかということが分かりにくくなっているので「対話」なんかできないという認識は間違っていない。前の世代が「冷静に対話しなかった」せいで戦争が広がっているのだ。
一昔前の若者といえば「戦争反対」と相場が決まっていた。戦争という不合理な現実を身近に見ており、若者こそが状況を変えられるという自信があったのだろう。戦争反対派の対極にいたのは無関心層だった。しかし、現代では事情が違っている「理想を持ち現実を変えられる」という見込みが憎悪の対象になっているのだ。裏側には「現状は変えられない」という見込みがあることになる。反発がなければ、昔のように無関心層になっていただろう。
この話のもっとも恐ろしいのは、政治や外交への不信感が広がっている点だと思う。話し合いや民主的な手続きよりも軍事力など強い力による問題解決を狙ってしまう。先進国的な態度とはいえず、中進国的だ。
確かに「戦争より対話」というのはお花畑かもしれない。しかし「戦争や軍事力がすべてを解決する」というのもお花畑だ。もし、戦力がすべてを決めるならベトナム戦争はアメリカの圧勝だったはずだし、シリアの内戦もとっくに終わっているだろう。アメリカの戦力は圧倒的なのにもかかわらず、戦争は終わらないのだ。その上対話ルートも途絶えてしまう(そもそも誰と話し合ってよいかすらわからない)のだから、撤退ができなくなる。こうした現実を受け入れるのが、本物のリアリズムだろう。
アメリカの一般誌には戦争負傷者の記事がよく載っている。これが日常になっているのである。戦争被害者だけではなく、軍でレイプされた(男性が男性にレイプされることもある)被害者もいる。こうした現実を日常的に見ているアメリカ人は「戦争こそ対話だ」とはとても言えないだろう。これを見ると、自分には関係ないと思いつつも「不快な」気分になる。人間には共感能力があるからだ。しかし、日本のマスコミでこういう人たちの映像が流れることはない。多分「食事時に不快なものを見せるな」というクレームが来るだろう。現実の戦争は不快なものだ。
もっとも「今の人たちは好戦的だ」と考えると分析を間違えるかもしれない。戦前、大衆は軍部の台頭を願った。日清戦争の成功体験があり、日露戦争で賠償金が得られなかったときには「もっと賠償金を」などという声が上がった。政党政治が行き詰まったこともあり、中国進出を支持する人も多かった。日本が世界恐慌から抜け出せたのは満州に進出したからだという説もある。ただし、それは持続不可能な成長戦略だった。アメリカと衝突することになり、後の敗戦につながって行ったからだ。

マイナス金利政策 – あなたも普通預金口座が持てなくなるかも

日銀がマイナス金利設定を発表し、Twitterでは一時衝撃が走った。発表を好感して株価は上がったが1時間ほどで急降下し、再び上げに転じた。金融のプロであるはずの人たちも判断に迷ったようだ。
このニュースを聞いてアメリカの銀行のことを思い出した。金融緩和によって銀行が手数料収入依存となり、結果的に口座を解約する人があらわれたのだ。日本では起こらないだろうと思っていたのだが、発表から程なく三菱UFJ銀行が大口法人への口座手数料を検討し始めた。思ったより早く影響が出始めたようだ。
マイナス金利が発表された直後、金融や経済の専門家は「たいした影響はない」と言っていた。テレビも「普通の預金者には直ちに影響がない」と言って国民を安心させた。ネットにアクセスのない人は「テレビが安心だといっているから大丈夫だろう」と思うに違いない。テレビ局には治安維持という重要な役割があることをよく自覚しているようだ。
中には「黒田総裁は手詰まりなのだ」という人もいた。「日銀の弾切れ宣言だ」というのである。マイナス金利政策は最後の手段と見なされることが多いそうだ。黒田総裁はこの見方を否定して「量的緩和もあり得る」と発表したが、総裁の発言がどの程度信用されるかどうかは分からない。国会で「マイナス金利などあり得ない」と答弁したばかりだからだ。もっとも黒田総裁が「弾切れだ」などといえば、日本経済には大きな悪影響があるだろう。だから口が裂けても手段がないとは言えないだろう。
この政策で困るのは銀行だ。これまで銀行は日銀に日本国債を売って利益を上げてきた。売上げ代金を当座預金口座に預けておくだけで利子がついたのだ。今後の預ける当座預金にはマイナス利子が付く。銀行の収入が削られるのだ。
日本がまともな資本主義国なら、銀行は儲かりそうな企業を探してお金を貸し出すようになるだろう。しかし、これは難しいかもしれない。大企業は既に「内部留保」を持っているからだ。投資先がないということは、日本の資本主義経済そのもののが行き詰まっていることを意味している。特に地方は深刻なようだ。ロイターは特に地銀クラスには影響が出そうだという観測を伝えている。
次第に銀行は別の手段でお金儲けをしなければならなくなるだろう。人口が減って行くのだから住宅ローンを貸し出すのも難しそうだ。となると、最後に残る手立てが「手数料収入」である。富裕層に離反されるのは怖いはずだ。だからお金を持っている人たちにはこれまで通りのサービスをするかもしれない。
すると最後に残るのは「あまりお金を持っていない」人たちである。給料を貰ったら使わざるを得ないような「ぎりぎりで働いている」人たちだ。
実際にアメリカ(ただし量的緩和は行ったが、マイナス金利を実施したわけではない)では問題が起こっている。サブプライムローンが破綻した後、銀行は預金者から振込手数料や口座維持管理料を取るようになった。消費者保護のための法改正があり、デビットカードのトランザクション・フィーが引き下げられたので、銀行はさらに手数料収入頼みになったそうだ。そこで、お金のない人が銀行口座を持たなくなってしまったのである。
アメリカはキャッシュレス社会だ。クレジットカードや小切手がないと生活ができない。そのアメリカでクレジットカードやデビットカードが持てない人が出てきたのだ。銀行口座がないと給与小切手を現金化できないので、街には換金屋(手数料を取って給与小切手を換金する)ができたという話もある。
ブルームバーグの2011年のこの記事では、プリペードカードの保持者が18%増えたと言っている。この調査では当座預金(日本でいう普通預金に当たる)の保持者は92%から88%に減ったということである。
ちょっと考えるとこれは不思議に思える。利子が下がってお金が借りやすくなるのに、なぜなけなしの生活資金を預けている一般市民が高いコストを負担しなければならないのだろうか。だが、資本主義経済ではこのようなことが起こるのだ。
こんなことは日本では起こりそうにない。日本には銀行口座に維持管理手数料を取る銀行なんかないからだ。
しかし、感覚的にはアメリカで起こったことは10年くらいあとで日本でも起こることが多い。近い将来、正規雇用の人たちは口座振替で給料を貰い、非正規の人たちが手渡しで給料を貰うという日がくるのかもしれない。
そんなことを考えていた矢先の「口座維持手数料話」である。銀行が手数料依存に傾斜する日は意外と早いのかもしれない。
 

民主主義や立憲主義はなぜ守られるべきなのか

安倍政権が暴走し「立憲主義」への危機感が強まっている。しかしながら、国民の多くは自民党を支持している。「国民は立憲主義などどうでもいい」と思っていることになる。そこで「立憲主義や民主主義は守るべきか」「守るべきだとすればそれはなぜなのか」という問題を考えてみたい。
話を簡単にするために「法律は中立である」という前提を置きたい。理屈さえ整えば法律学者は一切の価値判断をしない。国の目的は経済を発展させることとする。経済で政治体制を正当化するのだ。

民主主義と経済の関係

雑誌エコノミストの研究機関が出した民主主義指数というものがある。これを見ると「完全な民主主義国」は人口の12.5%しかカバーしていない。国数はわずか24カ国だ。つまり「完全な民主主義国」は普通の国とは言えない。守らなくて良いなら「立憲主義」はワールドスタンダードかもしれないが、あまり意味がない議論だろう。ちなみに日本は今の所「完全な民主主義国」だ。完全な民主主義国はアジアには2カ国しかない。日本と韓国である。ともにアメリカとの関係が強い。
米州からは北米2カ国(アメリカ・カナダ)、ウルグアイ、コスタリカがランクインしている。太平洋州からはオーストラリアとニュージーランド。残りは西ヨーロッパである。
このことから分かるとおり、完全な民主主義国はお金持ちの国ばかりである。試しにGDP(IMF/PPP)を掛け合わせてみると、人口の12.5%が世界のGDPの37.5%を占めている。統計を加工し終わってから思ったのだが、PPPではなく為替で調べるべきだったかもしれない。PPPは実質的な値であり、合計が意味を持たないからだ。PPPベースだと中国が米国を抜いて世界一のお金持ち国になる。GDP統計の中にパレスティナ、キューバ,ビルマ、北朝鮮が入っていない。

GDP合計 GDP割合 国数 人口
完全な民主主義国 40585.5 37.52% 24 12.5%
欠陥のある民主主義国 28892.72 26.71% 52 35.5%
混合政治体制 6911.81 6.39% 39 14.4%
独裁政治体制 31790.72 29.39% 52 37.6%

この数字をどう見るかは意見の別れるところである。もともと西ヨーロッパとアメリカなどの同じ価値観を持った「お金持ちクラブ」が富を独占しているだけだという可能性もある。
これより少しまともな答えは民主化した国から産業革命が起こったというものだ。経済的に成功した市民層が民主化を促進した。この2つが相乗効果を発揮した結果が現在の世界の富の配分だと考えられる。分厚い市民層が民主主義国の成長力の源泉なのだ。
この極端な実例の一つとして挙げられるのが韓国と北朝鮮だ。もともと北朝鮮が工業国で韓国は農業中心だった。北の方が豊かだったのだ。しかし今では北朝鮮のGPDが400億ドルしかないのに比べて、韓国は1兆6000億ドルだ。人口は北が2500万人で南が5140万人なので、人口のせいとは考えられない。勝負すら呼べない程の差がついてしまった。
北朝鮮の人民は経済成長を達成する動機がない。がんばってもどのみち搾取されてしまうだろう。であればだらだらと働いた方がよい。結局人は自分の暮らしをよくするためにしか努力しないのだ。南では私有財産が保証されている。これが違いを生んだのだと考えられる。もちろん、南側に豊かな国との経済的アクセスがあったことも見逃せないだろう。
この違いを民族性で説明することはできない。どちらも同じ民族で歴史を共有していたからだ。韓国も軍事独裁政権を経験しているが、豊かになり情報が広がるにつれて国民の民主化欲求を押さえられなくなった。逆に北朝鮮では民衆が疲弊しているので、民主化要求を行うほどの体力はないだろう。

独裁国の時代?

「民主化万歳」というまえに、悪魔とも相談してみよう。表を見れば独裁体制の国が富の約30%を占めているではないか。もしかしたら独裁の方が儲かるのではないか。安倍政権も独裁を目指せば国も良くなるのだろうか。
実は独裁国の中には多くの産油国が含まれる。クエート、ナイジェリア、カタール、UAE、サウジアラビアなどである。もし日本から油田が見つかれば、自民党の皆さんは、石油の富を適当に国民にバラまいて王様気分が味わえるかもしれない。下請け仕事はすべて移民(市民権は与えられない)が賄ってくれるだろう。
しかし、これだけでは説明ができない。独裁国の中にはロシアと中国が含まれる。台頭しつつある国だ。急進国のうちインド、ブラジルは「欠陥のある民主主義国」に当たる。中国の強みは国内格差だ。安い労働力を地方から呼び寄せることができる。これは国内に植民地を抱えているようなものだろう。ロシアは石油やガスなどの資源で支えられている。アフリカ一の経済発展を続けるナイジェリアも独裁国だ。
つまり、民主主義体制は「お金持ちクラブのノーム」ではなくなりつつある可能性もあるのだ。

民主主義のメリット

完全な民主主義体制のメリットとは何だろう。それは世界から才能のある人たちを引き寄せることだろう。才能のある人たちは自由を求める。それは経済的な自由だけではないだろう。生き方の自由も含まれるに違いない。例えば才能のあるゲイは、同姓結婚が認められる国や都市を好むはずだ。人が経済成長の源泉になると考える国は、域内の政治を透明で自由なものにしようとするだろう。才能は比較優位だ。つまり、個人が幸福を追求することが全体の幸せに貢献するという考え方である。

民主主義が維持できなくなる時

資源もなく、民主主義も守れない国はどうなるのか。大抵は国の中で富の奪い合いをしている。機会あるごとに軍がしゃしゃり出てきて「民主主義の失敗」を武力的に調停する場合もある。工業といってもたいがいはお金持ちクラブの下請けである。自由と民主主義を享受する人たちをもっと富ませるために働くのである。国民は保証を求めて社会主義的な体制を支持したり、軍に期待を抱くようになる。
西ヨーロッパの中には完全な民主主義国に至らなかった(あるいは民主主義が後退した)諸国がある。ベルギー、イタリア、ポルトガル、ギリシャだ。
ベルギーは国内のオランダ系とフランス系がまとまらず、首相が出せない混乱状態が長く続いた。イタリアは多党体制で連立の組み替えが頻繁に起こる。状況によっては首相が選出できないこともあり、政権が安定しないとのことである。
ポルトガルとギリシャは状況が異なる。ポルトガルは独裁体制のあと反動から社会主義路線を取った。植民地依存経済から脱却できずヨーロッパの成長から取り残された。ギリシャはアメリカの支援を背景にした軍事独裁政権が長く続き、後に社会主義化した。人口の多くが公務員といういびつな産業構成になり後に経済破綻した。

民主主義没落国のケーススタディとしてのアルゼンチン

さて、不景気が民主主義を壊した例もある。アルゼンチンは民主主義を体験したあと、軍事独裁や社会主義的体制(アルゼンチンではポピュリズモと呼ばれる)を揺れ動いた。
1880年代のアルゼンチンは自由主義経済路線を取り多いに発展した。食料の一大供給地になったのだ。すると民主化を要求する急進主義者が台頭したために、妥協の為に民主化が促進された。しかし、1929年に大恐慌が起こりアルゼンチン経済は崩壊した。すると、1930年には軍事クーデターが起き不正選挙の伝統も復活してしまう。
その後、ペロン大統領がポピュリズム政治を行ったが、第二次世界大戦で獲得した外貨を使い果たしてしまう。ペロンの治世は1955年まで続いたが、軍事クーデターが起きてペロンは亡命を余儀なくされた。その後も軍事クーデターなどが頻発し、政治は安定しなかった。アルゼンチン経済は復活せず、2001年と2014年にデフォルトを経験した。

民主主義を手放しつつある日本

このようにいろいろな事例を見てみると、立憲主義や民主主義を正当化するのは経済だということが分かる。経済が順調になると人々は自由を求める。自由が広がると経済も発展する。民主主義を維持しなければならないのは、民主主義が崇高なものだからではないのだ。
と、同時に経済が不調になると民主主義を維持できなくなる。人々は社会主義的な保証を求めるようになり、軍隊が民主主義の失敗を帳消ししてくれることを期待するようになる。
故に、バブルの崩壊で自信を失ってしまった日本では、自民党を支持する経済的に弱い人たちが、強い軍事力と立憲主義を否定するのはある意味当然のことなのだ。政治家はそれに追随しているだけと言えるか
もしれない。
と、同時に自由民主党の政策が社会主義的だということも分かる。
自由を失った国からは優秀な人が去って行く。強い経済は自由を求めるからだ。

甘利事件の教訓 – もう民主主義なんかムリ

教訓1:議員は私的に公務員に口利きしてはならない。ただし役職につき業務で影響を与えるのは構わない。儲けたければ偉くなれ。偉くなるためには権力に仕えよ。
教訓2:政治資金は企業にとって有効な投資だ。こっそり渡すな。どうどうと支出しろ。献金しておけば税制面で優遇され、補助金も得られる。税を払っても誰からも感謝されないが、献金すれば政治家から感謝してもらえる。政治家にとっても、税は自分のものにならない。予算を組んでも国会でこうるさい野党がいろいろ言ってくる。税は面倒だ。
心配することはない。税金は国民から直接吸い上げればいいのだ。細かくとれば分からない。国民には選挙の直前だけいい目を見せてやれ。批判する野党は嫉妬してるだけ。悔しかったら政権取れよ。
教訓3:子分は腹一杯にしておけ。税金でメシを食わせて、いいところに住まわせよ。忠誠心があれば影で利権をむさぼるようなことはしなくなるはずだ。みんな政治に期待してるんだ。おいしい思いをしたいのは議員だけじゃないんだぞ。ただし、首輪はきっちりつけておけ。誰が主人かよく教えておけ。
教訓4:誰かをひいきすると、みんなをひいきせざるを得なくなる。新聞をわずか2%の消費税でひいきしたために、外に置かれた週刊誌が嫉妬した。TVのジャーナリストとはメシを食うが、週刊誌の編集長はお呼ばれしなかった。今度は週刊誌も呼んでやれ。寿司を食わせてやれ。
教訓5:政治に正義なんか期待するな。トラブルがあったら群がれ。利権があったらたかれ。国会議員は「まともな有権者だけ相手にしては当選できない」ことを良く知っている。政治家もしゃぶっているのだ。なぜ、国民がしゃぶってはいけないのか。
教訓6:この国ではもうまともな商売では食って行けない。年寄りを騙すか、政治家とつるむのがいい。気に病む事はない。みんなやっているのだ。
教訓7:官僚は叩くな。叩けば、検察官僚が手を回すぞ。政治家は多かれ少なかれ悪い事をやっている。まともなことだけやっていて当選できるか。誰を調べるかは検察次第だ。検察が騒げば、マスコミから「推定有罪」にされるぞ。結果なんか覚えてるやつはいない。
結論:民主主義はお金持ち国家の贅沢品だ。食べていかなきゃならないんだ。必死なんだ。アメリカみたいに変われるって夢見た時期もあったけど、ダメだったじゃないか。デタラメな政権だったじゃないか。どうせ無理なんだ。考えたって惨めになるだけだ。普通の国になればいい。うまくやればいいんだ。みんなやってる。
僕らは負けたんじゃない。負けたんじゃない。負けたんじゃない。

日本の銀行とアメリカの銀行

アメリカの銀行は便利だ。オンラインで簡単に海外送金ができる。最近ではe-mailで個人間送金ができるようになった。アメリカではもともと個人間の支払いが頻繁だ。かつては、ベビーシッター、家主、家庭教師などに小切手を切るのが当たり前だったのだが、最近ではそれが電子メール(携帯電話も使える)に変わりつつあるようだ。
それに比べると日本の銀行は不便だ。そもそも個人間のやり取りは「紙幣による手渡し」が多く、ネットでできる事は少ない。海外送金に至っては絶望的だ。みずほ銀行ではテレホン・バンキングが海外送金に対応しているようだが、直接口座を持っている支店に出向いて申し込みをする必要があるという。郵貯銀行は全く対応しておらず、窓口からしか送金できない。10万円を越えると書類の提出を求められる。「マネーロンダリングの疑いがある」と言われて半ば犯罪者扱いされてしまうのだ。
アメリカではソーシャルセキュリティ番号は聞かれるがカードを見せる必要はない。見せびらかすと危なっかしいからだ。
ところが日本では取引のたびにマイナンバーカードを見せる必要があるのだという。番号だけではダメなのだ。見せびらかすのは危なっかしいと思うが、誰も気に留めない。本人確認だというのだが、通知カードには写真があるわけではないから本人確認なんかできるはずはない。ペラペラのカードなのだから偽造も簡単にできるだろう。
アメリカにはデビットカードという仕組みがある。クレジットカードが使える所であればどこでも使える。おまけにお金を引き出すこともできる。ATMに行かなくてもよいのだ。最近、アメリカは現金や小切手を受け付けない店が出てきているという。クレジットカードやデビットカード払いが決済の過半数を越えたという統計もあるそうだ。キャッシュレス社会といえる。
日本にもデビットカードはあるがクレジットカードとは別立てになっており、対応店舗は少ない。もちろん現金の引き出しもできない。政府の規制があるからだそうだ。だから、ATMには長い列ができることがある。長い列が好きな人はいないが、誰も文句は言わない。
もちろんアメリカの銀行にも不便はあるようだ。一定期間(6か月程度)口座に入出金がないと口座が「凍結」されてしまう。いろいろな種類の口座が選べるのだが、口座手数料がかかるものが多い。口座手数料がかからないe-bankingというものがあったのだが、ある日突然「e-bankingは廃止する」と宣言して大騒ぎになった銀行がある。一方でe-bankingを継続できた人もいる。判断基準がよく分からない。銀行が儲からないと判断すると、とっととやめてしまうのだ。
日本の銀行には口座維持手数料はない。預金の種類も一つで余計な手間がかからない。時間外にATMを使うと手数料を取られるが100円程度だ。口座を忘れていても10年は何も言われない。もちろん突然サービスを停止するなどという暴挙はあり得ない。多分、日本では大騒ぎになるだろう。
アメリカの銀行に口座を作るためにはソーシャルセキュリティナンバーが必要だ。昔は学生でも取れたのだが、今は難しいそうだ。不法移民対策だという。ただし、一度口座を作る事ができれば、外国に住んでいても口座は維持できるし、郵送物も問題なく送ってもらえる。
一方、外国人が日本の銀行に口座を作るのは難しいらしい。原則日本に住所がないとダメなようである。海外には郵送してもらえないので、日本の家族や知り合いに郵便物の取り次ぎを頼む必要がある。
アメリカの銀行は窓口に行く機会が最低限になるように設計されている。口座によっては銀行員と話すと料金が発生することがある。合理化のためにオンラインバンキングが発展しているのだ。銀行員の給与は高いので人件費抑制のためには合理的な判断だと言えるだろう。
裏返すと高齢者でもスマホやパソコンを使いこなす必要があるということになる。アメリカでは銀行口座保有率が減少しつつあるそうだ。政府がデビットカードの手数料を引き下げたために、銀行側が口座管理手数料や口座振替料金を引き上げたのだそうだ。
政府の金融改革や中央銀行の政策がすぐに銀行の手数料や利子に反映する仕組みになっている。だからアメリカの財政政策は景気に影響を与えやすいのだ。
一方、日本の銀行は親切丁寧だ。良い事のように思えるが、窓口はいつも混雑している。銀行員の給与は高いのだから、生産性が低くなるのは当然の事である。日本の隠れた特徴は「政府が発行したもの」への信頼かもしれない。紙幣やマイナンバーカードなど「実物:の信頼が高いのだ。これを対面で受け渡すことが重要視されており、メールやネットでやり取りなど「危なくて信頼できない」のかもしれない。
政府や中央銀行が金融緩和政策を実施しても、もともと口座手数料がなく利子も抑えられている日本では、その影響が及びにくい。株式が反応する程度である。こういったところにも日米の違いがあるようである。

歪んだ憲法議論 – 集団主義と個人主義の間で

人間には個人で達成できないことを集団で達成する「協力」という能力がある。そのアプローチは2つある。個人主義と集団主義だ。

  • 個人主義:個人を動機づけることでチームワークを達成する。個人を説得し目的を共有する。エンパワーメントと呼ばれる。それができない場合には報酬を組み合わせる。これを「成果主義」という。いうまでもないが、個人主義はわがままを意味するわけではないし、個人主義の人たちが協力しないということはあり得ない。
  • 集団主義:集団が個人を保護することを通じて、帰属意識を高める。保証は一生に渡るが、個人は集団を選べない。

学校の組体操の目的はチームワークの習得なのだが、目的は見失われているが、行動は自己目的化している。やっかいなのが集団による陶酔感だ。先生の支配欲求を満たされるらしい。しかし、効果を正当化できないほどのリスクがある。半身不随になっても学校は一生面倒を見てくれるわけではない。
集団行動から合理性が失われても、そこから逃げ出す事はできない。異議申し立てには同調圧力が働くからだ。だから、個人の合理的な判断でそこから抜けることはできない。
この「教育」の結果、子供たちは次のようなことを学ぶ。やがて大人になり、この姿勢は再生産される。

  • 集団作業の意味はわからない。
  • 個人が意見を言っても、集団を動かす事はできない。
  • だから、自分がエンパワーできることだけやっていたい。
  • 集団は守ってくれない。問題は「なかったこと」になる。問題が起これば「運が悪かった」とか「不注意だった」とか言われる。
  • 抜け出すやつがいれば、多数で圧力をかければいい。

国力が低下したので集団の力が弱まり構成員をかばいきれなくなっている。個人が集団から得られる利得は少ないので、協力が得られなくなる。かといって個人主義も発達しておらず、個人の判断で合理的な対応もできない。
すると「まとまらない個人」に対していらだちを募らせる人たちが出てくる。そこで「集団への参加を強制」したいという動機が生まれる。
そこで持ち出されるのが「道徳」だと考えられる。しかし、道徳は完全ではない。強制力がないからだ。そこで「法律」を作ろうとする。しかし、法律は壁に阻まれている。それが西洋的な(個人主義の伝統に基づいている)憲法である。そこで「憲法を変えてしまえ」という動きが生まれる。現行憲法への懐疑心が高まったのはバブルがはじけてからだ。集団が個人を守りきれなくなり、自己責任が叫ばれた時期と重なる。
もともとの出発点が違うのだから、憲法を変えても「日本の美しいこころ」が戻ってくる訳ではない。憲法をいじるよりも行動心理学の本を読んだほうが手っ取り早いのではないかと思う。

エンパワーメントと組体操

協力すれば1人の人間では届かない地点に到達できるということを学ぶのが組体操の目的だ。組が成功するためには、組が目的意識を共有し、一人ひとりが集団に影響を及ぼしているという認識を持つ事が大切だ。また目標は達成可能なものである必要がある。こうした感覚のことを「エンパワーメント」と呼ぶ。
エンパワーメントは、なぜか日本語には適当な訳語がなく「権限委譲」などと訳されることが多い。個人主義の文化の考え方だからだろう。個人主義の国にチームワークはないというのは誤解に過ぎない。
この観点から組体操擁護の論戦を張ろうと思ったのだが、それは無理だった。1980年代から事故が発生しており、障害者や死亡者を出している。チームワークを学ばせるのであれば別のやり方がいくらでもあるだろう。組体操は死者を頻出する自動車教習所のようなものなのだ。
集団作業をするためには個人の納得感が重要だが、もし誰かが合理的に異議を申し立てたらどうなるのだろう。Twitterでそれを報告した人がいる。生徒が自分の考えで「組体操は危険だから辞めたい」と言ったのだ。そして、なぜ組体操が危険なのかも自分で調べた。しかし、学校は「調べた事を発表してはいけない」と圧力をかけ、組体操が危険だという認識は「我々のそれとは異なる」と言ったそうである。「安全策を講じているので、我々を信じて欲しい」というのだ。さらに他の生徒に「辞めたい」と言った子を説得するようにしむけたのだという。同調圧力をかけたのだ。
最終的には「辞めたいと言った子は特別」ということになったようだ。特別扱いすることで「普通のみんなは一体化している」という感覚(もはや幻想だが)を守る事ができるからだ。組体操の目的は一体感から生まれる陶酔を味わうことに変わっている。一番利益を享受しているのは先生だ。生徒をコントロールすることに喜びを感じているのである。校長先生は近隣校よりも立派な人間タワーができることを自慢しているのかもしれない。
もともと「個人が力を合わせると大きな事ができる」というのを学ばせるのが組体操の目的だ。しかしそれが自己目的化してしまう。先生はそこに陶酔感すら感じているようだ。そして、そこから抜け出そうとすると集団からの圧力がかかる。他の生徒たちはそれを見て「大勢に逆らわない方がよい」ことを学ぶ。一部は「体制と一体化する陶酔感」すら学んでしまうのだ。そして「死傷者が出る恐怖」は例外だと見なされることになる。そこから外れる人も例外だ。
生徒たちはこうして「集団の中で異議を唱えてはならない」「個人の意見は重要でなく多数派についていなければならない」などということを学んで行く。これはエンパワーメントとは逆の方向性だ。
この集団主義の暴走は何をもたらすのだろうか。
第一に集団主義の暴走は「無力な個人」を生み出す。「無力な個人」は集団活動に全力を傾けることはないだろう。個々の力を出し惜しみするはずだ。出し惜しみした個人は中途半端な人間ピラミッドしか作らない。そこでいらだった集団主義者の人たちは道徳を持ち出して、個人を犠牲にして集団に尽くすようにと強制するのだろう。個人の力を発揮できない「いやいや集団主義」だ。
次に集団主義に反発する人たちを生み出す。極端な集団圧力をはねのけるのだから、それなりに強い力を持っているが、もはや個人が協力することそのものを拒否するようになるだろう。すると集団主義を否定する前提で様々な「理屈」を駆使することになる。こうした「個人主義者」たちが政治的にまとまれないのは当たり前だ。
また「極端にわがままな人」が生み出されるのも当然かもしれない。集団に協力することにアレルギー意識を持っているか、協力することの大切さを学ぶ機会を奪われたのではないかと思う。自己防衛だと考えるとわがままな人たちを攻撃できない。
冷静に考えてみれば「集団主義が良くて個人主義が悪い」とか「個人主義が良くて集団主義が悪い」というような極端なことはない。目的があって、それに合ったフォーメーションというものがある。ただそれだけである。
一連の議論はとても不毛だ。これを防ぐのは簡単である。まずは行動の目的をしっかりと共有する事だ。そして、個人のモチベーションをどのように管理するかを学べばよいのだ。この類いの知識は経営学の世界ではもはやコモン・ナレッジ化している。

左派をいじるためのいくつかの質問

下記のようなことを書くとブログのプロフィール欄の閲覧が増える。多分、右翼認定して攻撃したいと考える人が多いのではないかと思う。自分は「護憲左派」だと思っているのだが、いろいろな人に質問を投げかけるうちにだんだん分からなくなってきた。
もし納得できる答えを持っている人がいれば送っていただきたい。逆に左派はこういう質問を嫌がるという提案がある人はコメント欄にでも書いていただきたい。自分でブログを書いてURLを貼っていただいてもかまわない。
1) 天賦人権は人類の叡智だというが、世界の大半の国は独裁か半独裁だ。こうした国々は人類ではないというのか。独裁こそ叡智なのではないか。
2) 戦争放棄を唱った憲法第九条は優れた条文だとは思うが、世界が追随しないのはどうしてか。
3) 民主党は安倍政権の経済政策は明白に間違っているというが、自前の経済対策を出さないのはなぜか。本当はまとめられないのではないだけなのではないのか。
4) リベラル(革新)だというのに、70年も前に作られた憲法にしがみつくのはどうしてか。地方分権とか環境権とかいろいろあるんじゃないのか。革新ではなく守旧派なんじゃないか。

質問に対するいくつかの補足

1) いまのところ、世界の富の多くは民主主義国が占有している。多分、経済的な成功と民主主義の間には相関があるのだろう。功利主義的に民主主義の優位性を語ることはできそう。北朝鮮と韓国の対比などが有効だろう。だが、中国などの新興国が伸長していてこの図式も成り立たなくなるかもしれない。また、格差が広がりつつあり、民主主義は形骸しつつあるのかなとも思う。マジメに考える価値はあるかもしれない。
2) これ、結局アメリカに軍事を外注しているからなんだよね。第九条擁護派としては辛い現実。でも米軍には出て行って欲しいという。とはいえバチカンは軍隊を持っていないらしい。カトリックの総本山を攻撃する国が出れば、世界中のカトリック国が猛反発するだろう。「徳を積む」というのも一つのやり方かも。
3) 民主党は自民党を挟んで右派と左派に別れているので、まとめられないんだろうなあと思う。もっとも民主党は左派じゃないよという人もいるだろう。
4) これも野党勢力の中には改憲を唱っている人たちがいる。民主党保守三羽がらすは「緊急事態条項も考える」と言っている。枝野私案というのがあるそうだが、集団的自衛権を一部認めている。国連軍への参加も認めているようだ。共産党はこれに猛反発した過去があるようだ。
昔は角棒もっている新左翼のお兄さんたちにはこんなことは言えなかった。Twitterごしにディスれるようになったのだから、良い時代になったものだ。