人間には個人で達成できないことを集団で達成する「協力」という能力がある。そのアプローチは2つある。個人主義と集団主義だ。
- 個人主義:個人を動機づけることでチームワークを達成する。個人を説得し目的を共有する。エンパワーメントと呼ばれる。それができない場合には報酬を組み合わせる。これを「成果主義」という。いうまでもないが、個人主義はわがままを意味するわけではないし、個人主義の人たちが協力しないということはあり得ない。
- 集団主義:集団が個人を保護することを通じて、帰属意識を高める。保証は一生に渡るが、個人は集団を選べない。
学校の組体操の目的はチームワークの習得なのだが、目的は見失われているが、行動は自己目的化している。やっかいなのが集団による陶酔感だ。先生の支配欲求を満たされるらしい。しかし、効果を正当化できないほどのリスクがある。半身不随になっても学校は一生面倒を見てくれるわけではない。
集団行動から合理性が失われても、そこから逃げ出す事はできない。異議申し立てには同調圧力が働くからだ。だから、個人の合理的な判断でそこから抜けることはできない。
この「教育」の結果、子供たちは次のようなことを学ぶ。やがて大人になり、この姿勢は再生産される。
- 集団作業の意味はわからない。
- 個人が意見を言っても、集団を動かす事はできない。
- だから、自分がエンパワーできることだけやっていたい。
- 集団は守ってくれない。問題は「なかったこと」になる。問題が起これば「運が悪かった」とか「不注意だった」とか言われる。
- 抜け出すやつがいれば、多数で圧力をかければいい。
国力が低下したので集団の力が弱まり構成員をかばいきれなくなっている。個人が集団から得られる利得は少ないので、協力が得られなくなる。かといって個人主義も発達しておらず、個人の判断で合理的な対応もできない。
すると「まとまらない個人」に対していらだちを募らせる人たちが出てくる。そこで「集団への参加を強制」したいという動機が生まれる。
そこで持ち出されるのが「道徳」だと考えられる。しかし、道徳は完全ではない。強制力がないからだ。そこで「法律」を作ろうとする。しかし、法律は壁に阻まれている。それが西洋的な(個人主義の伝統に基づいている)憲法である。そこで「憲法を変えてしまえ」という動きが生まれる。現行憲法への懐疑心が高まったのはバブルがはじけてからだ。集団が個人を守りきれなくなり、自己責任が叫ばれた時期と重なる。
もともとの出発点が違うのだから、憲法を変えても「日本の美しいこころ」が戻ってくる訳ではない。憲法をいじるよりも行動心理学の本を読んだほうが手っ取り早いのではないかと思う。