「法的安定性は関係ない」でおなじみの自民党の磯崎陽輔議員がTwitterで左派の人に絡まれていた。その人によると、磯崎議員が書いた文章を読んで、議員が立憲主義をないがしろにしている理由がよく分かったとのことである。磯崎議員は当然これを否定していた。「よく読めば分かるはずだ」というのだ。
スクリーンショットが貼ってある。議員が書いた文章を抜き出したのだろう。そこでは「立憲主義とは市民の権利の誓願だ」とした上で、それは国の根幹をなす法体系の一部に過ぎないと言っている。もっと大切なのは「国柄を定める事だ」と主張する。
いろいろと香ばしい。
もともと憲法とは、君主の権限を制限したものだ。臣下が君主に忠誠を尽くす代わりに、君主の権限にも制約をつけたのだ。民主化や君主制の廃止などが相次ぎ、最終的には、国民が国家権力を縛るために憲法を利用するようになったものと考えられる。これが立憲主義だ。日本が近代国家であると主張する限りにおいては、立憲主義は憲法の一部に過ぎないなどという主張はとても受け入れられないだろう。
安倍首相は「立憲主義は王権時代の名残なのだからもう必要ない」というような国会答弁をしているそうだ。
安倍首相がこのような憲法観を持つのも無理はない。日本は自由主義諸国とは違った歴史的経緯で憲法を導入したからだ。自由主義社会の影響拡大を怖れた君主主義の国が「恩典」として憲法を与えることにしたのだ。これを専門用語で「外見的立憲主義」というそうだ。外見的立憲主義では、国民が権力を制限するのではなく、君主が臣民に権利を与える。
さらに、近代国家という体裁にさえこだわらなければ「立憲主義じゃなければダメ」ということもない。サウジアラビアの最奥法規には「憲法はコーランとスンナだ」という取り決めがあるそうだ。聖典が憲法なのだ。「北朝鮮は金日成創始した主体思想に基づく国家だ」と規定した北朝鮮憲法は「国柄」を規定している。北朝鮮の憲法の中には労働時間の規定(8時間だそうだ)もある。政府に実行力がないが、憲法で見る限り北朝鮮は理想国家だ。日本人の中にも「政府に市場の失敗をすべて規制して欲しい」と考える人は多いのではないだろうか。
アメリカは戦後日本に民主的憲法と立憲主義を「押しつけた」が、自民党の中には異論が多いのだろう。自民党の憲法案は「国民の国家に対する義務」の多い恩典的なものになっている。故に自民党の憲法案は復古的である。
だが、安倍首相はこれを「立憲主義など昔の異物だから古くさい」と言っている。これもある意味で正しい。こうした考えを持った人たちを革新主義者と呼んでいた。人民を代表する人たちが人民の生活を豊かにするために尽力するいう考え方だ。北朝鮮の憲法は「革新的」だ。実際に在日朝鮮人と配偶者の中には「地上の楽園」を信じて国に帰った人たちがいたが、北朝鮮の試みは失敗した。現在の北朝鮮は誰が見ても独裁国家だし、韓国との経済格差は明らかだ。
自民党の政策は「国家社会主義的」で、国民も概ねそれを受容してきた。だから、彼らが考える憲法が「国家が経済を主導して民族の栄光を確保する」というものになってもなんら不思議ではない。自民党は親米社会主義政党なのだ。ところが、自民党は親米政権のため「恩典的憲法」へ回帰しようとか「革新化」を目指そうとは主張できないのだろう。その為に出てくるのが、国柄という別のアイディアなのかもしれない。
ところが「なぜ国柄をわざわざ憲法で規定しなければならないのか」という疑問に答えてくれる人はいない。
北朝鮮は中国とソ連に接しているので「独自の社会主義」路線を取らざるを得なかった。2国に吸収される可能性があったからだろう。「独自の民族だ」と言ったところで、独立が侵される可能性は捨てきれない。どちらも多民族国家なので「独自民族」など珍しくもなんともない。
しかし、日本は、沖縄と北海道を除くとほぼ大和民族が作り上げた国だ。その国域も地理的に区切られた日本列島なのでほぼ自明である。「独自の国柄」をわざわざ憲法で規定する必要はなさそうだ。
北朝鮮の連想から考えると、自民党政権はアメリカに飲み込まれることを怖れているように思える。つまり「我が国独自の資本主義路線」というものを取らないと、アメリカに飲み込まれてしまうと考えているのではないかと思う。アメリカというより、自由主義というものの持つ不確定さについてゆけなくなっているのかもしれない。日本は戦後70年間アメリカに追随していたが、ついには自由主義というものが理解できなかったのだ。
憲法草案成立前後の状況を鑑みると、政権を剥奪された(とはいえ選挙で負けただけなのだが)政党が慌てて自分探しをしたようにも思える。存在理由「政権政党」という拠り所を失って自分探しをしたが何も見つからなかった。唯一の拠り所が自明であるところの「日本性」だ。国民から裏切られたように感じて国民を「悪い日本人だ」と考えることにしたのかもしれない。
さらにややこしいことに、国家神道の影響を受けた人たちが議論に参加した。神道には聖典がないので「聖典としての憲法」を求めたのかもしれない。彼らが「国柄」と聞くと、日本民族と列島の歴史を美しく賞揚したものを連想するだろう。神道が聖典を持たなかったのは、異なる民族に対して差異を示す必要がなかったからだが「国柄を規定する必要がある」と考えたとしたら、原理主義化していることになる。その意味では、自民党の憲法案はサウジアラビア的でもある。「国の最高法規は神道の聖典(ただし、そんなものはない)」と書きたいのかもしれない。
ここまで見てくると、自民党の憲法案が様々な考え方を持つ憲法のつまみ食いをしていることが分かる。また、自己像と本当に求めているものに乖離がある。
- 恩典憲法(国が国民に恩典を与える)
- 立憲主義(主権者である国民が政府に権力の一部を委託する)
- 国家社会主義(党が指導して国家事業を成し遂げる)
- 聖典
普通に考えれば、国民の主権を制限すれば、その主権に依存する政権は正統性を失うように感じられる。恩典憲法に復帰するのであれば、主権を天皇に返納し「貴族階級」に参議院明け渡すのが筋だろう。しかし、北朝鮮のように「自民党が日本人を代表する」としてしまえば、その矛盾は解消する。すると、自民党は革命を指向しているということになる。
問題はそれを「自由主義政党」を自任する自民党の政治家が受け入れることができるかという点だ。恐らく国民を騙しているという意識はないのではないだろうか。そもそも自分たちを騙しているのだ。
もっとも、磯崎議員の議論はそれほど複雑なものでもない。彼の「ホームページ」を見ると、安保法案に関する自己弁護が延々と書いてある。要約すると「運転のことはドライバーが一番良く知っているから、速度規制や交通信号はなくしてドライバーに任せて欲しい」と言っている。制限速度はその都度違っていいのである。だから法的安定性など関係ないのだ。もしドライバーが警察でこんなことを言ったら「狂っている」と思われるだろう。彼は歩行者や他の車のことを忘れているのだ。
現在、日本の政治状況は「是が非でも改憲したい自民党」に対して「絶対憲法を変えたくない野党」が反発するという構図になっている。反対している側も「正義を貫きたい」という強い動機があるのだろう。しかし、反対されるとつい意見を押し通したくなるのも人間だ。するとこうした矛盾が隠蔽されてしまう。自省する機会を失ってしまうのである。
それよりも彼らの言い分とロジックを受け入れた上で、掘り下げてゆくとよいのではないかと思う。多分、説明しているうちに深刻な自己矛盾に到達するはずである。
立憲主義を擁護するといいながら、実際は立憲主義を逸脱している。
未来を指向するといいつつ過去回帰を求めている。
自由主義的価値感を共有するといいつつ社会主義を標榜している。
国体は自明なものだと主張しつつその持続性に不安を持っている。
法治国家を自任しながら人治国家を指向している。
この問題、さらに深刻なのは対峙する左派ではないかと思う。そもそもねじれているものに対峙しているのだから、その主張がさらにねじれているのは当然のことだ。しかし、左派の議論を見ても何がねじれているかは分からないだろう。なぜならばその矛盾は外来のものだからだ。
自民党は実は「左傾化」している。野党も左傾化しているので、実際に彼らが見ているのは同じ目標なのだ。そうなると彼らは自身の存在意義を見いだせなくなってしまうので、レッテルを貼る意外のことができなくなってしまうのだろう。
Comments
“憲法議論 – 矛盾と倒錯” への2件のフィードバック
たまたま初めて拝見しましたが最高です。本質をずばり。しかしこれが人気ないなら、要は日本人がそろいもそろって皆バカだから。バカに本質を示しても反応ない。読まれないなら書いても徒労。じゃあ、どうするか?ってとこでしょうか。
国民がバカかどうかは分かりませんが、憲法は人気ないですねえ。さすがに自民党があそこまで壊れていると思っている人は少ないんじゃないかと思います。
とはいえ、今日は「甘利大臣」「陰謀」で集客が多いです。みんな黒幕を検索しようとしているみたいですが、流石にGoogleも黒幕は教えてくれないんじゃないかなーなんて思っております。