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キチガイが考えるマリーの部屋

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マリーの部屋という思考実験があるそうだ。白黒の部屋に閉じこもっているマリーは色に関するすべての知識を持っている。そのマリーが白黒の部屋を飛び出して実際に色を感じた時、マリーは新しい知識を得るだろうかという問題だ。
大抵の人は「単に知っている」ことと「経験したこと」との間には差異があると予想する。故にこの問題はその差分が存在することを示唆している。そして差分を「クオリア」と呼ぶそうだ。世の中にはすべての経験は客観的に観察可能であるという人がいる。しかし「クオリア」の支持者はその考えは間違っていると考える。
この議論の前提は、赤というのが光線の特定の波長であり、それを受け取る脳が必ず一定の反応を示すというものだ。そして、赤という光線が物理的に発射されてから、脳が受け取って何かを感じるまでの一連の流れがそこで完遂するという暗黙の前提も置かれている。
ここで、実験の為に化学的物質(一般的には麻薬と呼ばれる)を摂取してみよう。たちまちのうちにめくるめく光線が得られるはずだ。そこにはもちろん赤い光も含まれている。では、その赤い光はどこから来たものだろうか。物理的に存在しないことは明らかである。その赤は外世界の物理的状況とは一切関係がない。
ではその現象は物理的には存在しないのだろうか。その答えも否だ。それは脳の電気的配線が見せる電気信号と化学物質が織りなす「経験」だ。故に、その物理現象を「すべて知ることができれば」その経験を物理的に把握することができるだろう、と一瞬思える。
だが、そもそも経験とは一階限りのものなのだろうか。ある物理的な現象が脳の配線を作る。配線は科学的に刺激されてランダムに呼び出されうる。それがまた配線を組み直す。そこには一連の流れがある。
この考察から得られるのは、物理的現象とクオリア(物理的現象に関するレスポンス)についての問題なのだが、レスポンスは物理的現象と同等の現象になり得るという点を見逃している。この世界ではクオリアは「因」でも「果」でもない。永遠に(少なくともそこから解脱するまでは)続く一連の状態の一部を切り取っているだけである。
つまり、脳は「物理的現象」と「クオリア」を区別して認識しているのだろうか。現実世界で見た記憶と夢の記憶は別の記憶なのだろうか。
そもそも経験とは何なのだろうか。それはセンサーによって得られた情報をつなげて見ている状態に例えられる。例えてみれば映画のようなものだ。物理的情報は写真のようなものであり、それが一定の時間(ムービーの場合には60フレーム/秒など)の等倍レンズで見て得られる現実味を経験と呼ぶ。
ここで再び化学物質(一般的には麻薬と呼ばれる)を摂取してみよう。この化学物質を摂取すると時間軸はずれ、レンズの倍数もランダムで変わる。そのランダムさは外部の物理的世界とは一切関係がない。そこから得られる世界は混乱に満ちている。重要なのは、そこに確かにあったはずの「一貫したクオリアとやら」が消えてしまうことだ。
さらにここから私達は物理的現象を経験しているのではないということが分かる。物理的現象を情報として蓄積したものを味わっているのだ。普通の人は一貫した条件で情報が蓄積されたものを経験しているので「物理的現象」や「一貫したクオリア」というものが存在するかのように感じられているということになる。
さて、マリーの部屋の考察の中には「マリーが色についてのすべての知識を持っている」という前提に対する疑問があるそうだ。こうした因果関係から生まれる情報の無限ループ(マリーは死ぬかもしれないが、マリーは他の人の因になり得るのでループ自体は無限に続く)をすべて知ることができるる存在を神(あるいは悪魔)と呼ぶのだろうが、考察の中ではマリーは人間である。故にマリーは色についてのすべての知識を得る事はできないだろう。
マリーが神であったとしても神はどのような意味で全知なのかという問題があるだろう。
神は少なくともすべての因果関係と振舞いを把握している。しかしそれだけで神が世界を把握できるかどうかは分からない。それぞれの要素が絡み合って起きる現象は分からないはずだ。それも含めて把握しているのが神だと考えることはできる。しかし、その場合でも神は因果関係に加わることができない。加わった瞬間に世界に組み込まれて神ではなくなってしまうからだ。ただ、無限に続くループを情報処理しつつ眺めているだけなのが神だということになる。その存在は過酷だ。
この議論は旧来の科学と2000年頃から出てきた新しい科学の違いを知る上では貴重だ。従来の科学は因果関係を知る事で世界の仕組みを解明して神に近づこうという目的を持っている。しかし、現在では因果関係を切り出しても全てを知ることはできないという見解が生まれつつある。これを複雑系と呼ぶ。因果関係は分からないが全体としての振舞いについては知る事ができるだろうという見地だ。マリーの思考実験はその意味から再評価される必要がある(あるいはもうされている)のかもしれない。
さて、この議論はかなり哲学的に聞こえるかもしれない。恐らく99%程度の人はそうだろう。それは祝福された人だ。中にはこれを感覚的に理解できる人がいるはずだが、通常のその人は「キチガイ」だと認定される。現実感というものが全く失われてしまうからだ。そもそもまとまった文章を読む事もできないかもしれない。実際に物理世界と切り離されて「現実感が遊離した」人は存在する。