協力すれば1人の人間では届かない地点に到達できるということを学ぶのが組体操の目的だ。組が成功するためには、組が目的意識を共有し、一人ひとりが集団に影響を及ぼしているという認識を持つ事が大切だ。また目標は達成可能なものである必要がある。こうした感覚のことを「エンパワーメント」と呼ぶ。
エンパワーメントは、なぜか日本語には適当な訳語がなく「権限委譲」などと訳されることが多い。個人主義の文化の考え方だからだろう。個人主義の国にチームワークはないというのは誤解に過ぎない。
この観点から組体操擁護の論戦を張ろうと思ったのだが、それは無理だった。1980年代から事故が発生しており、障害者や死亡者を出している。チームワークを学ばせるのであれば別のやり方がいくらでもあるだろう。組体操は死者を頻出する自動車教習所のようなものなのだ。
集団作業をするためには個人の納得感が重要だが、もし誰かが合理的に異議を申し立てたらどうなるのだろう。Twitterでそれを報告した人がいる。生徒が自分の考えで「組体操は危険だから辞めたい」と言ったのだ。そして、なぜ組体操が危険なのかも自分で調べた。しかし、学校は「調べた事を発表してはいけない」と圧力をかけ、組体操が危険だという認識は「我々のそれとは異なる」と言ったそうである。「安全策を講じているので、我々を信じて欲しい」というのだ。さらに他の生徒に「辞めたい」と言った子を説得するようにしむけたのだという。同調圧力をかけたのだ。
最終的には「辞めたいと言った子は特別」ということになったようだ。特別扱いすることで「普通のみんなは一体化している」という感覚(もはや幻想だが)を守る事ができるからだ。組体操の目的は一体感から生まれる陶酔を味わうことに変わっている。一番利益を享受しているのは先生だ。生徒をコントロールすることに喜びを感じているのである。校長先生は近隣校よりも立派な人間タワーができることを自慢しているのかもしれない。
もともと「個人が力を合わせると大きな事ができる」というのを学ばせるのが組体操の目的だ。しかしそれが自己目的化してしまう。先生はそこに陶酔感すら感じているようだ。そして、そこから抜け出そうとすると集団からの圧力がかかる。他の生徒たちはそれを見て「大勢に逆らわない方がよい」ことを学ぶ。一部は「体制と一体化する陶酔感」すら学んでしまうのだ。そして「死傷者が出る恐怖」は例外だと見なされることになる。そこから外れる人も例外だ。
生徒たちはこうして「集団の中で異議を唱えてはならない」「個人の意見は重要でなく多数派についていなければならない」などということを学んで行く。これはエンパワーメントとは逆の方向性だ。
この集団主義の暴走は何をもたらすのだろうか。
第一に集団主義の暴走は「無力な個人」を生み出す。「無力な個人」は集団活動に全力を傾けることはないだろう。個々の力を出し惜しみするはずだ。出し惜しみした個人は中途半端な人間ピラミッドしか作らない。そこでいらだった集団主義者の人たちは道徳を持ち出して、個人を犠牲にして集団に尽くすようにと強制するのだろう。個人の力を発揮できない「いやいや集団主義」だ。
次に集団主義に反発する人たちを生み出す。極端な集団圧力をはねのけるのだから、それなりに強い力を持っているが、もはや個人が協力することそのものを拒否するようになるだろう。すると集団主義を否定する前提で様々な「理屈」を駆使することになる。こうした「個人主義者」たちが政治的にまとまれないのは当たり前だ。
また「極端にわがままな人」が生み出されるのも当然かもしれない。集団に協力することにアレルギー意識を持っているか、協力することの大切さを学ぶ機会を奪われたのではないかと思う。自己防衛だと考えるとわがままな人たちを攻撃できない。
冷静に考えてみれば「集団主義が良くて個人主義が悪い」とか「個人主義が良くて集団主義が悪い」というような極端なことはない。目的があって、それに合ったフォーメーションというものがある。ただそれだけである。
一連の議論はとても不毛だ。これを防ぐのは簡単である。まずは行動の目的をしっかりと共有する事だ。そして、個人のモチベーションをどのように管理するかを学べばよいのだ。この類いの知識は経営学の世界ではもはやコモン・ナレッジ化している。
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