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籠池諄子さんと統合されない母親

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籠池諄子さんが大阪市役所で大騒ぎしたらしい。これを見てこの人の問題点がわかったように思えた。と同時にこういう人を相手にしたときにどう対処すべきなのだろうかと考え込んでしまったのだが、なかなか良いアイディアは浮かばなかった。
籠池諄子さんは当初「大阪市役所は保育園を潰そうとしている」という認識を持っていたようだ。話はかみ合わなかったらしいが、最終的には「大阪市役所が保育園の存続を認めてくれた」と感じたようだ。つまり認識が180度変わったことになる。しかし、後から大阪市役所に確認をすると、大阪市役所は「保育士が6名にならないと続けられないですよ」と言っただけだったようである。ただ、大阪市役所は籠池諄子さんに暴れられると困るので「存続できるためにはどうしたらいいか考えましょうねえ」という調子で話したらしい。
籠池諄子さんが「大阪市は保育園を認めてくれた」と思ったのは、市役所が「保育所を続けるにはどうしたらいいか」というような話の仕方をしたからではないかと考えらえれる。だが、そこには「条件が合わないと続けられないんですよ」という含みがあったはずだ。つまり、大阪市にはある期待があり、その期待に籠池諄子さんが応えたら保育園が続けられるということだ。ところが籠池諄子さんには「保育園を邪魔する悪い大阪市」と「保育園を許可してくれる良い大阪市」という極端に2つの像を持っており「悪い大阪市」に直面するとパニックを起こして泣き叫ぶ。一方で「良い大阪市」を認識すると、自分は全面的に肯定されたと思い込んでしまうのだ。
ここには対人関係に関する根本的で極めて深刻な問題があるように思える。極めて深刻なのだが、人間が成長するときには必ず通る道でもある。モデル化された生育論では、赤ん坊は良い母親と悪い母親という統合されない母親像を持っているとされている。これが統合されると母親を人格として認識できるようになる。この結果生じるのが人格の独立である。対象となっている人を多面的に捉えることができるようになり、自分もまた相手と同じように多面的であるということを理解してゆくのだ。
母親から独立していない赤ん坊は乳が与えられなくても「私に何か悪いことがあるのかもしれない」などと内省したりしない。ただ泣き叫ぶだけである。籠池諄子さんの大阪市に対する対応は乳を与えてくれない母親に対する態度に似ている。しかし、肯定的な態度に出られると、今度は全面的に信任されたと思い込んでしまうのだ。大阪市の話によれば「保育士は6名いる」という決まりが理解できず、勝手に3人くらいで十分でしょと言っていたという。
ここからわかる第一のポイントは、依存している相手が全面的に自分の期待に応えてくれないと感じて苦しんでいる人は、自己と相手の距離を置いてみて冷静に関係を分析することで、その苦しみを軽減することができるというものだ。相手を「良い悪い」に極端に分けてしまうというのは赤ん坊と同じ状態でいわば対人依存だ。自分の願望がすべて叶うことはないわけで、例えば50%だけ叶えられてもそれが不満に繋がってしまう。これはかなり苦しい人生だろう。相手と距離を置いて、必要最低限のことは叶っていると考えれば苦しみは軽減できるかもしれない。
ここで考え込んでしまったのは、籠池諄子さんのように良い人間悪い人間というくっきりとした対人関係しか結べない人が老年期を迎えてしまったとき、私たちに何ができるかということだ。噛んで含んで自分の主張を教えようとしても「悪い人」と認識されてしまったが最後、何も話を聞いてもらえず、その場で足をばたばたさせて泣き出してしまう老人だ。話し合いは成り立たず、その場の雰囲気は険悪なものになるだろう。
その場しのぎの対応はしないで冷たく拒絶するくらいしか対応策がないようにも思える。もはや、相手と調整してうまくやって行くという技術が獲得できないからだ。普通に考えると「なぜ学校経営者の娘なのにそんなことになってしまったのか」と思うのだが、生育歴だけで説明できるものではないのかもしれない。とはいえ、こうした症状から「あの人には妄想癖がある」とされて投薬治療に回されてしまう人もいるらしい。精神疾患はゴミ箱のように扱われており、薬で行動力を奪って「対処した」ということになってしまうのだ。
籠池諄子さんのような人格の研究はまだまだ進んでおらずしたがって対処が難しい。それが、こうした感情の激しい人に振り回され人生を無茶苦茶にされる多くの被害者を生んでいるのだ。