ある夜、夢を見た。とても怖い夢だ。ただし、夢には形がある。感情に彩られて言葉にできないイメージが抽象化したのだろうと思う。これを形にしたいという欲望がうまれた。粘土なんかがあれば「狂ったように」作業したかもしれない。しかし、そのまま狂ってしまいそうになったので、代わりにぶるぶると震えながらお祈りをすることにした。しばらくすると、時間の感覚というかリズムのようなものが戻ってきた。
一瞬、狂いかけたのだと思う。その後眠れなくなったので、アートについて考えた。まだ、少し狂っていたのかもしれない。
『アーティストになる基礎知識 (BT BOOKS)』という本が出ている。本の冒頭では村上隆さんが後進の指導をする様子が紹介されている。すでに、欧米や中国で高い支持を受けている村上さんは、若者に社会性を植え付け、ディテールをつめるように追い込んで行く。そして、できるだけ長くアーティスト活動が続けられるようにと、プロジェクト管理の手法を教えるのだった。さらに、本には留学してアーティストビザを取得する方法などが紹介されている。つまり、アーティストになるためには、海外に留学するのがよいみたいだ。
面白いことに、本の内容がITプログラマーが日本を飛び出して海外で起業するという本にそっくりなのだ。多分、そのような時代的な背景があるのだろう。どちらも「最新の職業」であり、才能によって成功できるかもしれない可能性がある。
ここで、半分おかしくなりながら考察(あるいは妄想)したのは、アートについでだった。村上さんの方式では、テレビや映画などの共通の情報から「オリジナル」を作り出すという方向性で作風を確立しようとしているように見える。これは、古いアートの方向と変わりはない。西洋の画風というものがあり、そこにどうやって到達するかというのが、日本の画壇の最大のテーマだった。今では安定した社会ができていて、多分派閥のようなものもあるのではないかと考えられる。
例えば、狂気から出発した場合、方向性は全く逆になるだろう。狂気は人それぞれのカスタムメイドだ。つまりは、嵐の海で漂流しているようなものである。そこにイメージだけがあり、形になっていない。だから、扱い損ねて、狂ってしまうわけである。それをアートと呼ぶか狂気と呼ぶかは別にして、いったん取り憑かれてしまえば、形にしようと努力していない限りそのイメージの持ち主が精神の平衡を取戻すことはない。そして、同じ狂気を経験したという人に巡り会った時点で、漂流は終るのである。文章で言うところの「投瓶通信」に似ている。多分「オリジナルだ」という喜びはなく、他人と同じであるということを知った時点で安心するのではないかとすら考えられる。
考えついた結論は、どちらも「馬には違いがない」というものだ。西洋芸術を模倣していた時代には、西洋で見た美しい馬を自分でも飼ってみたいというようなものだったのだろう。一方、暴れ馬がいてそれを家畜化したのが、テレビや映画などの大衆芸術だ。そこから、馬を一頭連れ出して、野生に戻して行くのが現在のアートである、という具合である。
しかし、どちらにせよ昔は野生だったわけで、それを飼いならそうとしている人もどこかにいるのではないかと思う。そういう人は、単に「気が変になった」のと考えられて終るのか、それとも飼いならすチャンスを与えられるのかということについては良くわからないし、安定した職業にして継続的にやってゆこうという境地にたどり着けるのかといったこともよく分からない。