誰にでも秘密はある。開けっぴろげに自分のことを何でも話したがるのは下層階級に属している証だ。また、秘密を抱えているからこそ、その人は慎ましく、美しく見えるのだ。有閑階級のコスチュームを忠実にデザインしたアン・ロスの衣装デザインは最高だ。
パトリシア・ハイスミス原作、マット・デイモン主演の『リプリー [DVD]』を見るとそんな感想文が書きたくなる。1999年に作られたこの映画は、誰もが持っている他人になりすましたいという願望とその代償を主題にしている。
以下、あらすじを含むので、これから映画を見たいという方は、お読みいただかない方がよいだろう。
ニューヨークで貧しく暮らしていた「才能あふれる」リプリー氏は、偶然から知り合った大金持ちの父親から、イタリアで放蕩三昧の生活を送る息子を連れ戻して欲しいという依頼を受ける。しかし、イタリアで放蕩息子に惹かれて夢のような時間を過ごす。ところが、その夢のような時間は長くは続かない。途中から関係はぎくしゃくしたものに変わり、遂には口論の末放蕩息子を殺してしまう。リプリー氏はその「才能」をいかんなく発揮し、放蕩息子になりすましてイタリア中を旅行を続ける。途中で悪事が露見しそうになるのだが、父親はリプリー氏が自分の息子を殺したのだということを見抜けず、放蕩息子の財産を彼に与える。いっけん全てが順調に見える。しかし、その代償としてリプリー氏は「ありのまま」の自分を受け入れてくれそうになった愛する男性を殺さざるを得なくなる。リプリー氏は、遂には自分自身を喪失してしまうのだった。
映画だけを見ると「リプリー氏の秘密」は殺人を犯してしまったことであり、その原因になったのは社会に受け入れられることがない「同性愛」という彼の性的指向であると考える事ができる。ところが、話はそんなに単純ではない。
原作を書いたパトリシア・ハイスミスは「同性愛傾向があった女性」だそうだ。つまり、もともとこの話は男性の同性愛者の立場から書かれたものではない。同じ本を原作にした『太陽がいっぱい』というアランドロン主演の映画があるのだが、こちらは「犯罪が露見する」ことが仄めかされて終るのだが、『リプリー』では、犯罪は露見しない。しかし、リプリー氏は自分がやったことを後悔しており、最後は苦悩する場面で終っている。愛している人を殺したのだから当然だ、と見ている方は思う。
このリプリー氏の物語はシリーズ化されている。『死者と踊るリプリー (河出文庫)』まで、計五冊が書かれている。つまり、リプリー氏はその間警察に捕まることもなく、殺人を反省することもなかった。1991年に書かれた『死者と踊る…』でも過去の殺人が露見しそうになるが、結局のところ、殺人が露見しない。
また、リプリー氏は結婚しており、男性の登場人物と恋仲になることもない。つまり、シリーズの間に、同性愛そのものも「たいしたモチーフ」ではなくなっている。『太陽がいっぱい』の分析の中には、あれは同性愛が隠れたモチーフになっているのだというものがあるのだが(実際「映画」にはそのモチーフがあるのかもしれない)それは少なくとも最終作では消えている。
本の中には「ディッキー(最初に殺した放蕩息子)のことは後悔している」と書かれている。つまり、それ以外の殺人にはとくにためらいは見せていないということだ。また、リプリー氏は金持ちの女性と結婚していて、この同居人のような妻は特にリプリー氏に対して憎しみを抱いている様子はない。彼女はストーリーを面白くするためと、リプリー氏に活躍の舞台であるフランスの豪邸を与えるという「機能」がある。
殺人そのものにためらいを見せず、それが露見するかしないかということにドキドキするというのは、いわゆる「サイコパス」の症状だ。ところが、小説の中ではそのサイコパスが罰せられることはない。読者はあろうことか、「殺人がばれませんように」とサイコパス側の気持ちになって、リプリー氏を応援することになる。
映画には、なぜリプリー氏が他人のフリをすることに目覚めるのかという点に対する説明はなかった。そこで、観客は埋め合わせるように「他人への憧れが同一化をうむのだろう」というような想像をする。しかし、これは最初から間違った解釈らしい。そもそもリプリー氏には「ありのままに受け入れてくれる環境」がないか「ありのままの自分」そのものがなさそうだ。だからこそ、相手に自分を重ねて見たてしまったり、受け入れてくれそうになった人を殺そうとしたりというように両極端の態度を取る。距離間が掴めないのだ。
また、それを抑圧すべき「父権」というものも存在しない。映画『リプリー』では、父権的な存在としてグリーンリーフ氏とイタリア警察が出てくるが、どちらも不完全な形で存在している。警察は表面的なことだけを見てまともに事件を検証しようとはしないし、父親は私立探偵を雇って「隠された事実」(実はディッキーにも秘密がある)を知っているのだが、息子であるディッキーに何の同情心も示さないばかりか、最後には重大な事実を見過ごしてしまう。「母権」に至ってはさらに薄弱で、車いすに乗った母親というのが出てくるだけだ。リプリー氏の両親は幼いころに溺死したことになっている。また、舞台はヨーロッパであり、リプリー氏にとっての「落ち着ける故郷」の不在が示される。
「ありのままの自分」や「自己同一性」というものは、最初の他者である「父権と母権」によって支えられているのかもしれない。それがない(あるいは感じられない)と、他者への距離感というものが生まれない。
私達は「本当の自分」というものがあるという前提を生きている。それが「仮面で偽られている」からこそ「ばれるのではないか」と感じる。また「偽らざるを得ない」のは、父権的な権力に抑圧されているからだ。
ところが、ハイスミスのリプリーシリーズには、この論理がない。つまり「本当の自分がないからこそ、誰にでもなれる」わけだが、それではつまらないので「ばれるかもしれない」という危機が訪れる。しかし、抑圧してくるはずの相手は無能なので、結局スリルだけを味わって終わりになってしまうのだ。そして「相手との距離が取れない」ことになるので、相手の存在そのものが脅かされる危機が訪れるのである。
多分「リプリー氏の秘密」とは、「実は、他者がなく、従って自分がない」ということだったのだと思う。『太陽がいっぱい』や「リプリー」ではその辺りがぼやかされていて、適度に感情移入ができるようになっている。
ハイスミスの立場に立ってみると「相手に対して、適当な距離と穏やかな感情を保てない」ことが重大な秘密だったのではないかと思う。殺人に感情を示す「水」が多用されている。また、叱って受け入れてくれる人はいないわけだし、所属先もないわけだから「警察から逃げ切れること」が幸せなのかどうかは分からない。
このように中身が空虚であるからこそ、映画のコスチュームはどれもとても美しく見える。第二次世界大戦後のアメリカ人の有閑階級のコスチュームを勉強するのには最適の映像素材ではないかと思う。適度に洗練されていて、適度にだらしがない。そもそもファッションに理屈や倫理など求めてはいけないのかもしれないとすら思えてくる。