さて、気の変な人がかわいそうな人たちをたくさん殺した、ということになりつつある津久井の事件は扱いが難しいのか、テレビでの露出が減ってきた。たいていの場合、殺された人たちを引き合いに出して「悲劇感」を盛り上げるのだが、今回は匿名になっていてできなかったからなのかもしれない。
興味深いのは、ヨーロッパで大量殺人が起きると「イスラム過激派のテロだろう」と決めつけるのに、日本だと異常者の殺人だと思いたがる傾向だ。やはり「自分たちの社会だけは安全だ」と思いたいのだろう。
植松容疑者は安倍晋三首相に代表される右派の主張に共鳴していたようだ。ヨーロッパで未来を感じられない若者はイスラム過激主義に反応するのだが、日本の若者は安倍首相に賛同するのだなと思った。
このように書くと「イスラム教と愛国的な政治家を同列に並べるな」という反論をする人がいるのだろうが、イスラム教は伝統的な宗教であり中東では権威だと見なされている。また、テロを起こす若者はイスラムの伝統から切り離されたホームグローンの人でありイスラム教の権威とは離れている。ということで、図式はかなり似通っている。
政治的な意図を暴力を通じて実現しようとしたわけだから、これはテロなのだ。
「公的な秩序を守るために、個人の人権は制限されるべき」という主張は、西洋の民主主義社会では異端だが、この国では正統として認知されかかっている。そろそろそういう思想に染まった人たちが社会にでる頃合いだ。昭和の終わりから平成の初めまでに育ってきた人たちとは異なった意識を持っていることになる。
安倍首相だって憲法と従来の解釈を変えて「自分が考える正義」を貫こうとしたわけだから、一般国民だって障害者を皆殺しにして5億円貰えると考えても「それが直ちに狂った思想だ」とは言えない。
海外では「これは障害者に対するヘイトクライムである」という非難声明が出されている。彼らににとっては、基本的人権とは大地であり、絶対に侵犯してはならないものなのだ。しかし、安倍首相は海外のイスラム系テロの時は「テロとの戦いを……」という声明を出すが、今回は部下に再発防止策を丸投げしただけだった。
「人を押しのけて自分の主張を通したい」という空気を安倍首相が作ったとは思えない。バブル崩壊後「他人を犠牲にしてでも自分だけは生き残りたい」という思想が生まれて「押しのけられてもそれは努力が足りなかったのだ」という自己欺瞞の論が蔓延した。その結果生まれたのが現在の政治状況だ。だから、安倍首相を視界から消したからといって、この空気がなくなることはないだろう。
本来はこうした犯罪を未然に防ぐため、また国民の信頼を維持するために、「隠れた崇拝者」たちに、こんなことは間違っていると言うべきだったのだ。だが、彼はそれをしなかった。民主主義や国民の統合という問題に全く関心がないのだろう。つまり、それが作られた物で、人々の日々の努力で維持されているという意識がないのだ。
それはきわめて危険なことではないかと思う。