人を殺すと犯罪者として処罰される。だが「教育」という名前の迫害を加えて、子どもの人生をめちゃくちゃにしても、その人は裁かれることはない。
魂の殺害者―教育における愛という名の迫害は、息子の1人をピストル自殺に追いやり、もう1人は42歳で精神病院に入院させてしまった父親の物語だ。この物語は後にフロイトが研究対象にして有名になった。
もちろん、この教訓は実際に苦しんでいる人たちへの個人的な洞察を与えてくれるのだが、社会や国など時代の雰囲気が個人の生育にどう影響を与えるのかという側面も無視できない。
高級官僚だった息子ダニエル・パウルは42歳で神秘体験を含むパラノイア症状を経験して入院する。議員選挙に落選したことが直接的な原因だったようだ。回想録が書けるまでに回復し「シュレーバー回想録」を書いたが、その後も症状が安定することはなかった。「シュレーバー回顧録」はフロイトの研究で有名になった。
ダニエル・パウルの父親は「教育とは厳しい規律で自由を制限することである」という理念を持っており、自分たちの子どもに実践して多くの著作を残した。本の中にはその例が出てくるのだが、教育というより調教に近い。図式と息子の妄想に一致点が多い。畳み掛けるようにして図式と息子の妄想が例示されるのだが、その繰り返しにはかなりの迫力がある。
父親 のダニエル・シュレーバーは迫害者というよりも、高名な教育者として知られている。今でも「クラインガルデン」と呼ばれる菜園と公共緑地を組み合わせたような施設があるそうなのだが、その概念はシュレーバーが提唱し、義理の息子に受け継がれた。シュレーバー教育法も当時のドイツでは好意的に受け入れられたそうだ。このため、息子シュレーバーの病例を分析する際、父親の教育法との関係は全く考慮されなかったということである。
当時のドイツには「一九八四年」のダブル・スピークを想起させる「自由とは権威への服従だ」(これはフィヒテの言葉として紹介されている)といった主張があった。だからダニエル・シュレーバーが際立って狂っていたというよりは、そういう気分の中で生まれたのがシュレーバー教育法なのだろうと分析されている。こうした空気はやがてナチズムとして結実する。社会的な閉塞感と個人の教育の問題はつながっているのではないかもしれない。
ただし、ダニエル・シュレーバーがこうした教育法を発想したのには、個人的な理由もある。息子の診察記録の中に、父親は「殺人衝動を伴う強迫観念に悩んでいた」というものがあるそうだ。彼は子どもの中に「弱い(すなわち悪い)芽」を見ていたのだが、これは実際には「自分の中にあるコントロールできない認めがたい特性」だった可能性があるのではないか。人には、自分の内面のふさわしくないものを投影したり、理想化された自己像を相手に見てしまうことがある。父親の生育記録がないので、どうしてこのような内面的な怒りを持つに至ったのかはわからないが、著作の中には弱いものを認めたくないという気持ちが込められている。
母親は夫を賛美しており、父親の行き過ぎた「教育」に対して異論を唱えなかった。そのため、初期の幼児体験で重要な無条件の自己の受容が得られなかったのだろう。二人の息子の人生の初期においては問題は露呈しなかったし、むしろダニエル・パウルは成功者だった。だが、それは中年期に破綻する。息子は自分の中に巻き起こる様々な感情を正しく認識できず、ついには発狂してしまうのだ。
父親からの「教育」の結果、さまざまな身体症状が出るのだが、「尊敬する父親に何か間違ったことをされた」と考えることを自分に禁止して身体症状を直視しなかった。なんらかの説明が必要なので、「神」という概念を持ち込んで身体的な苦痛を神が与えた奇跡だと認識することになる。
こうした妄想にはいくつかの表現形態がある。病的な妄想を絵画や小説に残す人もいるし、客観的に認識して理性的に押さえ込むこともあるだろう。この人の場合は妄想を神秘体験として著述し、自分は狂っていないのだということを証明しようとした。
シュレーバー親子の事例は父親と息子が書き残したものが残っており詳細な研究が可能だ。これがシュレーバー症例を特別なものにしている。これは、不安定な両親(この場合は父親だが、母親が教育者になる場合もあるだろう)と補完機能の不在(例えば家庭での父親の存在が希薄だとか、母親が行き過ぎた教育に対して異議を差し挟まないとか)などが、教育の受け手が自律的に人生を切り開くのに必要な何かを奪い去ってしまうという物語だ。
自分の中に指針がなく、人から与えられた指針を生きるようにプログラムされた人たちにとって、自分で人生を選び取りそこから満足感を得なければならないというのは極めて残酷なことだろう。選択肢が多い現代にはこうした残酷な選択を迫られている人がたくさんいるに違いない。
さて、最後にこの本には解決されない疑問がある。それは神の存在についてだ。ドイツ語や英語には主語が必須だ。「父親が」という主語を使って自分の症例を説明することができないために、ダニエル・パウルは「神」という主語を選んだのかもしれないと仮説している。著者は主語がない世界ではどのような説明がなされるだろうかという疑問を差し挟む。
これは逆に一神教のない日本人にはよく分からない。神という概念を日本人がよく理解できないのは主語の不在のせいかもしれない。神はitの代わりに使われているのだろう。
日本人は主語を使わずに思考することが可能だ。ほとんどの人が学校で英語を習うので、主語がある言語とない言語の違いも認識ができる。それでは日本人にとって、神に代わる得体の知れないものとは何だろうと考えたところ、それは時代の気分とかその場の空気とか言ったものなのだろうと思った。見えない主語に支配されると、それにあらがうことはできないのではないか。