ついに日本でもテロ事件が起きてしまった。福祉施設に男が押し入り、入所者45名を刺した。死者数は19名にのぼる。イスラム教徒が関係しないし、単独犯なので「テロではない」と考える人も多いのではないかと思うが、事前に「障害者は殺されるべきだ」という信念を大島理森衆議院議長に向けて表明しており、職場でも公表している。政治目的を果たすために凶行に及んだという意味では立派なテロ行為と言える。
この事件の大きな関心は、この人が狂っていたか正常だったかということだろう。心神喪失ということになれば罪に問えなくなるからだ。
ところがこの事件を見ていると「何が狂っているのか」ということがよく分からなくなる。植松容疑者は衆議院議長公邸を2日に渡って訪れており手紙を送っており強い信念が感じられる。一方で、内容には破綻も見られる。なぜ人を殺すと第三次世界大戦が防げるのかが分からない。
「役に立たない人は殺されて当然」という理屈がなぜ間違っているのかということを理路整然と否定するのはなかなか難しい。この質問は「誰が役に立つか立たないかを決めるのか」という問題につながり「その第三者に自分も殺される可能性があるのですよ」という問いを生む。しかし「自分は役に立っているから、殺されない」と言われればそれまでだし「殺されても構わない」などと思う人もいるかもしれない。
植松容疑者は観念的にこの問題を見ているわけではない。数年に渡って当事者だった。福祉の現場はこうした「確信犯」を排除できない。川崎で老人が突き落とされた事件を思い出す。
実際にこのような理屈による殺人は合法的に行われている。例えばアメリカ人の命を守るために、罪のない民間人をドローンで誤射するのは不法行為だとは見なされない。原爆も「大勢が殺されるよりも、広島と長崎の市民の犠牲だけで良かった」などと正当化されることがある。殺人まで至らなくても「我々の便利な生活を守りつつ、原発被害をゼロにしたければ、地域住民が出て行け」と言い放つ人がいる。いずれも、誰かの命と別の人の命を比べているのだ。
このような背景があり、植松容疑者の「合理性」は、多くの支持者を生んでいる。障害児(略してガイジというらしい)は死んで当然と思う人がかなりいるようで、匿名掲示板などでは賛意の書き込みがある。バブル後の「リストラ」が横行した1990年代に育った人たちが社会に多く出ている。
手紙の中で植松容疑者は「自分は狂っていると思われるかもしれない」と書いている。妄想に浸りきっているわけでもなさそうだ。そして、描いた通りのことを実行して証明してしまった。
とはいえ、植松容疑者が自身の行動がどのような問題を引き起こすのかを自覚していたとも思えない。数名以上を殺せば死刑は間違いないのだが「自分は良いことをした」あるいは「気が狂っている」という理由で助命されるだろうことを信じているようだ。その意味では正常な判断を下しているとも思えない。
報道もゆれている。正常な枠で分析して「文章に一貫性がない」と真顔で言う人もいる。NHKは大麻による影響だという見立てを報道したが、時事通信では「そう病」だったという見立てになっている。薬物の影響なのか、それとももともとその資質があったのかがよくわからない。
そう病の兆候はいろいろな所に見られる。目的は日本を第三次世界大戦から救うことだが、生活してゆくためにはお金が必要であり名前まで具体的に想定している。この「すばらしい計画」を誰かに伝えたくてたまらなかったのだろう。最終的には「日本で一番偉い人の所に行こう」と思い立ったようだ。
楽観的な見込みと行動の一貫性のなさは他にも表れている。尊敬する父親のようになりたいから先生になると言っているのに、入れ墨を彫って台無しにした。それでも父親のように障害者に関わりたいと思ったのか施設で働き「障害者は死ぬべきなのだ」という結論に達した。本人の中に二つの真逆の価値観があり、交錯している。
さて、ここまでは植松容疑者について見てきたのだが、実はそれはこの問題のほんのいったんにしか過ぎない。既に書いたように、この行動には一定の支持者がおり、彼らにいわせれば植松容疑者は合理的な判断に基づいて行動していることになってしまう。しかし、それよりも恐ろしい狂気は「この人が治った」といって放置してしまった人たちの側にありそうだ。
衆議院議長公邸は「この人は他人を傷つける恐れがある」と考え、麹町警察署に通報する。麹町警察署はこういう人たちに馴れているのだろう。地元の警察署に伝えた。地元警察署は相模原市に通報する。そこで措置入院ということになった。大麻の陽性反応が出て、そう病だと診断されたにも関わらず、12日で「治ったんじゃないか」という理由で解放している。当然、家族の監視があるべきだが、家族がよその自治体に住んでいるからという理由で連絡しなかった。
当初は「日本の法律では大麻を使っても持っていなければ逮捕できない」という説がささやかれたのだが、所持を捜査することはできたようである。
なお「人を傷つける可能性があるからずっと病院に閉じ込めておく」ということは現代の日本では認められていないようだ。治安維持法で予防拘禁が悪用された歴史があり、それに類推行為には慎重だからだ。最長で4週間のみ入院させることができる制度があるそうだ。しかし、だからといってそれ以降野放しにしてよいというわけでもないはずだ。
もし「この人が狂っていてこの犯罪を犯したのだ」と仮定すると、相模原市の判断は間違っていたことになる。結果的に殺したから「異常だった」という見方もできるわけだが、するとそもそも人が狂っているかそうでないかは結果次第ということになってしまう。つまり、正常と異常の境界線など最初から存在しないということになる。
私たちの「正常・異常」という線引きは実はガラス細工でできた脆い土台に過ぎない。それが分かるのはその線を越えてしまったときである。しかし、その線を越えてしまうと、自分が異常であるということを認知できなくなる。誰が狂っているかなどということは誰にも分からないのだ。