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津久井事件と排除の理論

津久井の障害者施設殺人事件問題は「精神に異常がある人がやった事件」ということになりつつあるようだ。気持ちは分からなくもない。日本では欧米のような格差と差別に根ざしたテロ型犯罪は起らないと思いたいのだろう。テロが起きたとしても、それはイスラム教のような過激な思想(これも無知からくるものだが)が起こしたものだと考えたいのだと思う。「異常者が起こした犯罪で、障害者が殺された」としてしまえば、「正常」な人たちは安心して眠ることができるのだ。
しかし、実際には植松容疑者のように、役に立たない人には生きている価値はないと考える人は多い。いわゆる「自己責任」論だ。名をなした高齢者が「高齢者は死んでしまえ」と主張することも多い。自分は名前を残したから生きていてもいいが、無意味な人は死んでしまえという意識を持っており、賞賛されたりしている。賞賛を求めるフォロワーがこれを真似しても何の不思議もない。
なかには、イルミナティを信じていることなどを挙げて「支離滅裂だ」と考える人もいる。しかし、これもネット上に広がっている陰謀論の一種だ。この手の話を信じている人が全て精神異常だとしたらかなり大変なことになるだろうし、ムーは禁書にしなければならない。「大学教育を受けても陰謀論を信じる人がいる」というのはショックではあるが、かといって特定の人を異常者だと認定するほどの材料にはならない。
普通の人は、精神異常というのは白黒のはっきりした状態だと考えているのではないかと思う。だが、植松容疑者が入院させられたときの医者の見立ては2人とも異なっていた。要するに異常で反社会的な言動があり、それに名前を付けているだけなのだ。この人は「誇大」であり、その原因は「大麻」だということだが、10日あまりで放免してしまったことから、何が起きていたのかよく分からなかったことになる。
確かに「障害者を殺して日本を救う」というのは異常な主張に見える。しかし「憲法を改正して国民から主権を奪い、自分たちの指導のもとで美しい国家建設を目指そう」などという構想は精神異常だとは見なされない。同じスタンダードを当てはめれば「安倍首相の精神はおかしい」ということになりかねないが「安倍首相はおかしい」と公共の場で叫んだら拘束されるのはこちら側かもしれない。つまり、言い方や根回しの違いで、異常か正常かが判断されるわけであって、思想そのもので白黒の判断はできないということになる。
入れ墨を危険視する人もいる。あまり多くの人には賛同してもらえないと思うのだが、これは施設側がおかしいと思う。アメリカやヨーロッパの男性ファッションモデルには入れ墨がある人が多い。「ちょっとしたタブーを犯していてカッコイイ」というイメージがあるためだ。愛する女性の名前を彫って「変わらない思い」を表現したりする。しかし、日本では反社会勢力とのつながりを想起させる。学校の先生にはなれないし、施設は大騒ぎして警察に通報したようだ。だが、障害者福祉施設が「包摂」をモットーとしていれば多様な文化の一部としてこれを受け入れるか、その人の考えを理解しようと努めていたはずだ。だが、実際には日本型村落の排除の論理が働いてしまったのである。
植松容疑者は「とにかく誰かに認められたい」というヒーロー願望を持っていて、そのためになみなみならぬ努力をしている。わざわざ衆議院議長公邸に出かけて主張し、50分という短い時間に45名を刺した。1人にかけた時間は1分程度だったと考えられる。承認欲求が人よりもかなり強かったことは間違いがなさそうだ。
マスコミ報道の目的は「日本の社会は大丈夫なのだ」と確認をすることだから、この人の動機に関心が払われないのは当然だろう。だが、「承認欲求」は見過ごされていると思う。
どうやら父親は教育者だったようで、一部報道では養護教育に携わっていたと伝えられている。容疑者が父親に承認されたくて教員免許を取ったのは明白だ、しかし、仲間にも承認されたいと考えていたようだ。大麻を扱っていたり、タトゥーを入れるような友達がいたのだろう。家族にとっては理解できない「文化」だ。結局、家族は容疑者を扱いきれなくなり、家に一人残したまま別の土地に移っていった。容疑者は承認どころか許容さえされなかった。
結局、容疑者が承認欲求を満たすためには、父親の路線に沿って弱者のサーバントとして生きるか、何か大きなことをしでかすかという二者択一が残ったのではないかと考えられる。あるいは「障害者」と「自分」が比較されていたのかもしれない。「どちらを愛してくれるの」ということになる。「愛してくれなくてもいいから、注目してくれよ」ということもあるかもしれない。
しかし、教育・福祉分野というのはかなり閉鎖された村落空間だったようだ。タトゥーが見つかるくらいで警察が呼ばれてしまうくらい均質な空間なのだ。彼はそこでも排除されかける。
もし植松容疑者が「自分が承認されたい相手の意識を独占している人を排除することで自分に注目を集めたい」と考えていたとしたら、彼の目的は45名の命と引き換えに達成されたことになる。自分の周りに集まるカメラを見て強烈な快楽を得ていたようだが、これが容疑者にとっての「報酬」なのだ。
マスコミは「これは異常な事件なのだ」という印象を植え付けることで、異常事態を排除しようとしている。だが、皮肉なことにこれが次の「示威行為」を作り出す可能性があるという結論が得られる。
実は「異常な犯罪を犯しそうな人はまとめてどこかに閉じ込めておけ」というのは「障害者は役に立たないから死んでしまえ」というのとあまり変わらない。もっと言えば「入れ墨をしている人を職場から排除したい」というのも「異質で脅威だから目の前から消え去ってほしい」と考えているわけだから、同質のことなのだ。そういう意見を否定はしないが、容疑者と同じ側で語っているという意識は持っておいたほうがよいと思う。


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