自民党が稲田元防衛大臣を証人として国会に招致しないことを非難する人たちがいる。真相がわからないというのだ。しかし、稲田さんが出てくると却って真相は分からなくなると思う。多分、稲田さんを追及したい人は病的な状態にある人と対峙したことがないのではないか、と思った。
稲田さんが他人を騙そうとして隠蔽しているとも思わない。これが「稲田さんを国会に招致しろ」と言っている人との違いではないかと思う。では罪がないのかという話になるのだが、そうでもない。多分、稲田さんが騙しているのは他人ではなく稲田さん自身だと思う。だが、おいおい書いて行くが、彼女から見ると間違っているのは「我々」の方である。
まず、根底には社会的報酬と依存の問題がある。稲田さんの行動歴を見ると権威者に認めてもらうために行動するという一貫した原理があると思う。だが、これだけでは問題はそれほど複雑化しない。ここで別の要素が出てくる。
稲田さんは生長の家の信者だという話がある。物事には実相と現象があるという教えなのだそうだ。実相とは神のことであって、それ以外すべては単なる「現象」にすぎない。この「現象」が何なのかはわからないのだが、仏教の考えを引いているのではないかと考えられる。仏教にも「空」という概念がある。
仏教との違いは唯一神という概念の導入だろう。仏教は絶対神を認めないので、こだわりをなくすことによる救済を目指す。だが、ここに絶対神という考え方を認めてしまうと「私だけが知っている神様」へのこだわりが生まれる。その上で「私だけが知っている絶対真実」というのは優越的な感情を生み出すのではないかと考えられる。この違いは無宗教を自認する日本人にはなかなか理解しがたいところなのかもしれない。
このように考えると今回の件はかなりうまく説明できる。すべて目の前で行われていることは「幻の類」であって、私だけが真実を知っていると考えると、たいていの問題はないことにできる。
つまり、南スーダンにいる陸上自衛隊の人たちが見ている敵兵や飛んでくる銃弾は「現象」であって、とるにたらないことだ。彼らが恐怖に駆られるのは、現象を実際に起こったことだと誤認しているからなのである。仏教的に言えば「色即是空空即是色」である。さらに、こうした危険な状態から退役した人が自殺したとしても、それは幻に苦しめられているだけであり、単なる思い過ごしで死んだにすぎない。
その意味では防衛大臣は簡単なお仕事である。確かに目の前に混乱はあるが、すべては実質的には何の意味もないことである。みんな大騒ぎしているが、そんなことはどうでも良いことで「私だけがすべてを知っている」のである。
生長の家は実際には真面目な宗教なのかもしれない。仏教は個人の超克を目指す宗教なので、物事に動じず平和な気持ちを獲得できるのだろう。世界をどう捉えるかということは精神的な個人の問題であって尊重されるべきだし、それが特に社会に悪影響を与えるとは考えられない。
これに加えて、防衛政策自体が物語化している。例えば、「国準」という言葉があるのだが、過去の答弁を当たると国際的な定義がないらしい。なぜこんな言葉が必要なるかはよくわからないが、政府軍ではないにもかかわらず軍事作戦の対象にするため必要な概念だったのではないかと考えられる。例えば武装した革マル派を攻撃するのに横田基地からの米軍が出動すれば、それは形式上はアメリカから独立している日本の国家主権の侵害になる。民間人への攻撃であり、平和に対する罪にも当たる。そこに介入するために「国準」という言葉が必要だったのではないだろうか。
さらに当時の南スーダンは「何がどうなっているのかもうよく分からない」という状態だった。目の前で人が殺されている(実際に中国軍の人たちが亡くなっている)のだから、永田町の概念でいう戦闘なのかということはどうでもよいことなのだし分かりようがない。格式ばったレポートも書いていられなかったのだろう。40,000人が見ることができる掲示板に情報が書き込まれて、日々の仕事に必要な人たちによってコピペされていたという話も伝わってきている。
つまり、頭の中で「これは物語なのだ」ということを理解しつつ、現実と物語をなんとか整合させられる人しか防衛大臣をやってはいけない。少なくとも現場で何が起きているのかという想像力がなければならない。
つまり、稲田さんは少なくとも「安倍首相から与えられた物語」や「防衛省が今まで積み重ねてきた自衛隊を海外に出す理由」に加えて「南スーダンの泥沼の状況」という三つの異なった<現実>に対峙しなければならなかった。ここにあるのは現実否認である。現実からの超克は個人にとっては重要な課題だが、ここに依存心や社会的報酬への欲求が入ると、他人を巻き込んだ悲劇を生み出すことになるのだ。
記録によると「国会で説明したのと違っている」と官僚を怒鳴ったり、目の前で報告が行われているのにフリーズしたまま反応しなかったという記述が見られる。このままでは安倍首相に対していい子でいられないとか、100点の答案が提出できないと思った可能性は高いが、そもそも目の前にあることはすべて夢や幻なのだと思っていた可能性がある。
しかし「安倍さんから怒られるかもしれない」とか「有能な大臣だと思ってもらえなくなる」というのも彼女の中にある認識であって現実ではない。依存心と「空の概念」が混じるとこのような悲劇的なことが起きてしまう。
だが、こうした人を非難しても無駄である。現実を否認するということはすでに彼女の日常になっているだろう。退任時の笑顔を見ていると「私は防衛大臣として立派に成し遂げた」というのが、彼女にとっての唯一の現実のように思える。
つまり、稲田さんを国会に招致するというのは、新興宗教にはまっている人を引っ張り出してきて「あなたが信じている神様は偽者ですよね」と言うようなものだ。涙を流して「私が間違っていた」などということは絶対に起こらないだろう。逆に私の神様がいかにすばらしいかということを叫びつつ、経典を壊れたテープレコーダーのように繰り返すだけではないだろうか。彼女が言っていることは彼女の頭の中では唯一の現実なのだが、その素晴らしい現実を他人は知らない。だから、教えてやろうと考えるはずだ。
稲田さんがこれに対して罪悪感を感じているのかということはよくわからない。憲法改正という新しい宗教を見つけてしまったようなので、世間から忘れ去れてもそれはそれで幸せなのかもしれない。さらに稲田さんが間違っていたとも言い切れない。彼女の中ではそれが現実であり正しいことなのだ。
こういう人についてできるのは、問題から引き剥がして近づかず無視することだけである。つまり、話をさせる機会を与えてはいけないのではないだろうか。
今回わかった面白いことは、こうした人がいると周りの人までが撹乱されてしまうということである。任命した側も退任させて初めて「稲田さんは防衛大臣には向いていなかった」ということが認められるのだろうし、追求する側も「実際の問題は何だったのか」ということがわかるはずだ。
合理的な説得というのは、相手に合理的な回路があって初めて成立する。合理的な回路を捨ててしまった人もいるのだが、表からはそのことはわからない。周りの人たちがいったん立ち止まって「本当に解決するべき問題は何なのか」ということを考えなければならないのである。