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小池百合子さんはなぜ「サイコパス」とか「ナルシシスト」という形容詞が似合う政治家になったのか

しつこいですが、小池百合子さんがサイコパスでナルシシストと主張しているわけではありません。念のため。


先日来、小池百合子東京都知事について考察している。小池さんは数々のビジョンを掲げて日本国中を「あっ」と言わせてきた。これらの一連の画期的なアイディアのために女性初の総理大臣になれるのではないかと期待されている。その一方で、彼女が成功させたプロジェクトはほとんどなく彼女の通った後には混乱が残るばかりだ。本来ならビジョナリストになれるかもしれないのだが、実際には「たんなる嘘つき」なのではないかという批判がある。政治は人々の生業を左右することがあり、混乱は単なる笑い話では終わらない。

これまで概念的に「実行に興味がないのではないか」と思っていたのだが、毎日新聞に「豊洲の話をしたところ、そんなことはどうでもいいといって国政の夢を語り始めた」という話が載っていた。本当にビジョンを実行することについては何の興味もなさそうで、常に新しい夢ばかりを語りたがる。

どうしてこんなことになったののだろうか。人格異常の問題は実はアンビバレントに根ざしている。例えば「いい父親になりたい」のに「子供の排泄物が触れず、子供とは汚いものだ」と思ってしまった父親は生涯それを引きずることになるし「良い母親になりたい」と考える母親が夫に愛されておらず安定的な愛情生活を送れないために子供を愛せないということもありえる。つまり、理想と現実の感覚がずれることがここでいうアンビバレントなのだが、これを根本から処理しないと言い訳が肥大化して鎧のような状態を作り上げる。

小池さんをみていると、彼女の通常ではない行動の裏にはなんらかのアンビバレントさがあったように思えるのだが、それが何なのかはよくわからない。いずれにせよ、根本の問題が解決しないので次々と新しい問題を見つける必要があるのだろうということが言える。これは必ずしも悪いことではないのだが、彼女の場合新しいプロジェクトが人々の人生を狂わせかねないという問題がある。

小池さんは「自分以外の人は全てバカだ」と考えているように見えることだ。その背景には競争があるように思える。競争では、人々が協力して大きなプロジェクトを成し遂げる満足感は得られない。だが、競争中心の社会では「勝つこと」こそが目的なので、何も成し遂げられなくても構わない。と同時に、人に勝ち続けている人は人と協力して何かを成し遂げたり辛い状態を耐えたりするという経験を一切しない。だから、相手を巻き込んで努力するという技術は身につかない。

何も成し遂げられないのだから、実行プロセスに興味がなくても当然である。そこに脳の報酬系を満足させるような要素は何一つないからだ。

同じような政治家に安倍晋三さんがいる。安倍首相もさまざまな「力強いリーダーとしての私」をアピールした上で、さまざまな思いつきを披瀝してみせる。だが何一つ実現していない。自分は無力で何もできないということがトラウマになっており、そのトラウマを補償するために力強いリーダーを演じているのだろう。だが、安倍首相はこの英雄願望が嘘だということにうすうす感づいている。国会では不機嫌になり、英雄願望が満たされる外遊に勇んででかけるという繰り返しだそうだ。応援演説には必ず罵声が飛ぶので、最近では直前に場所を変えたり、抗議のプラカードを隠したりしているそうだ。

両者に共通しているのは「私はこんなに頑張っているのに、周りはバカばかりだから誰も私の力になってくれない」という苛立ちである。東京と日本のトップがそれぞれ根本に空洞のような闇を抱えているようである。

では、と考えてみた。例えば、ヒトラーが大衆の支持を得たのは、ヒトラーの抱えていた闇が当時のドイツ社会に共鳴したからであった。その闇というのはアイデンティティの揺らぎである。民族としてのまとまりのないドイツ語話者が国家を形成したために、人々の間には苛立ちがあった。これが被害者意識をまとってヒトラーに共鳴したのである。

だが、苛立ちを直接観測することはできない。それは我々の内部に張り付いていているからだ。では小池さんや安倍さんが与えてくれるものは何かということを考えてみたい。それは、優れたアイディア一つで即座に勝者になれるというインスタントの解決策だったり、これさえ追求していれば自分たちは変わらずにすむという安心感である。つまり、あるアイディアがあれば衰退という問題に対峙しなくてもよいという安心感がこの人たちを支えている。つまり、背景にあるのは不安感である。

目の前にある課題をそっちのけにして、次々に新しいアイディアが浮かんでくるという状態の人を見たらどう思うだろうか。多分、その人はパニック状態に陥って何もできなくなると診断するだろう。だが、政治状況や普段の生活を見ていると、とても自分たちがパニックに陥っているようには思われない。これがこの「病状」の重さを物語っている。

だがそれでも人々の心は協力して不安に対処するという方向に向かわず、選挙は殺し合いの代わりだなどといって競争を続けたがるのである。実際には我々は協力して不安と戦うべきなのだが、どうしても「目の前の相手を倒すべきだ」と考えてしまうのだろう。

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