ESFP, ESJF

昨日までのグループはENだった。外向的直感型だ。これがESに変わるとどうなるだろうか。物事をフレームワークではなく、細かなディテールに満ちた存在として捉える人たちだ。

ESFP

楽しいことが好き。スポーツが好き。みんなでわいわいするのが好き。手許にある資料を見るとそんな人物像が浮かんでくる。周りを察知して何が起こっているのかを事細かに感じる事ができるのが利点なのだろう。理論は苦手なはずで、具体的に見せてほしいと思っているかもしれない。大きな絵を描くというより、現場のマネージャーとしては良さそうに思える。
これを読んでいて思い出したのは、ピーターの法則だ。人は出世すると、いずれ「無能レベル」に至るというやつだ。しかし実際には直感型で大きな絵を書く人たちが現場でくすぶっていることもあるだろうし、現場の細かいマネージメントが好きで現実的な解決策を作るのが得意な人が、経営幹部になってしまうこともあるだろう。コンセプトしかないパワーポイントを見せられて「で、具体的にはどうなの」と聞く人がいる。具体例があるんだったら企画書なんかだしとらんちゅーの、と心の中で笑いながら愛想笑いをするということになりかねない。

ESFJ

さて、これがJになるとどうだろうか。5年前に受けたテストではESFJと診断された。
さらに現実的なタイプだが、ここではSとFのバランスが取れているように思える。人の気持ちが分かるので、カウンセラーやコンサルタントなどに向いていると言われる。何か相談があってそれを持ってゆくと、親身になって具体的に答えてくれそうなタイプだ。また、調和を重んじるので現場も和やかになるだろう。なぜか「褒められるとうれしい」と書いてある。どうしてだろうか。人々の暮らしに直結した具体的な事柄を好み、抽象的な概念にはあまり興味がないのだそうだ。

個人的な経験から言えることは、こうした特性は先天的なものというよりは、後天的に獲得できるものではないかということだ。ユング派の説によると、劣等機能は躾けられない馬のようなものだそうだ。だから感情型の人が思考を模倣することは「周りから見ると明らかに変なリクツなのだが、本人は大まじめ」というような結果を招きかねない。しかし、いったん獲得してしまうといくつかの役割をこなす事ができるようになる。例えば、現場にも目配りしながら、大きな絵も描けるといった具合だ。
逆に、人生の転換点を迎えずに、一つのキャラで押し通してしまうと「人の気持ちが分からず、応用の利かない」人になりかねない。終身雇用下のサラリーマンは会社に入ると挫折無く一生を過ごすことが多く、一つのキャラのまま60歳まで過ごす人も多いのではないだろうか。組織の外でシゴトをしている人はそういう訳には行かないだろう。
また、MBTIはスケールなので、どちらかといえば外向的という人も、極端に外向的という人もいる。
いよいよ明日は外向性の最後の一群をご紹介する。現実的な思考型の人たちとはどういった性格なのだろうか。

ENFP, ENFJ

ENFP

昨日のENTPは「考える」すなわち客観的な理解をもとに行動をする。ENFPは、熱心な活動家ではあるが、理解が主観的だ。それは、考える代わりに感じるからだ。外向的で飽きっぽく主観で考える。つまり暖かくてよい人ということになる。いつも面白いことを考えているので人気があるかもしれない。
ENTPと同じく、飽きっぽいことは欠点になり得る。別の資料には考えるの苦手なのに考えるから、ひどく理屈っぽくなることがあると書いてある。ユングのタイプ理論による劣等機能というやつだが、ユングの研究者は、感情、感覚、思考、直感を並列に扱うので、劣等機能は1つということになっている。つまり、ENTPであっても思考が苦手でない人はいるのではないかと思われる。
手許の資料では、ENFPはWarm, enthusiastic, high spiritedと書いてある。多分、悪い人ではないだろう。

ENFJ

Pは新しいアイディアを許容するが、これがJに代わるとどうなるだろうか。責任感があって、人に共鳴する人なのだそうだ。どちらかというと他人のニーズの為に行動するので、グループ全体が困らないような解決策を好む傾向がある。社交的で常識人の「よい人」だ。よい人さ具合は、ENFPと変わらないが常識人というところが異なる。
欠点は、主観的であるところだろう。批判や賞賛に大きく反応するということは、外からの評判に弱いということでもある。リーダーシップはあるのだが、その質はTタイプの人たちとは異なる。家族的経営の中ではよいリーダーシップを発揮できるのかもしれないが、大きなチームや競争的な企業のリーダーには向かないかもしれない。
もう一つの特質はEへの理解だろう。Eは外向性という意味なのだが、口語では「明るい、いいやつ」という意味で使われることが多い。しかし心理学での外向性という言葉の使い方はこれとはちょっと異なっている。情報の流れが、外から内へというように使われる。この外向性が現れているのが、このENFJではないかと思われる。
規範の基準が外部にあるので、得てして「自分は本当は何がしたかったのか」が分からなくなってしまう可能性がある。考えるタイプは客観的な情報をもとに状況判断をするのだが、感じるタイプはそこが顕著になりがちだ。すると、1人では何も決められなくなる恐れすらある。こういう人が理屈で理論武装すると、論理はめちゃくちゃなのだが、言っている本人は至極まともな理屈だと考えるだろう。それはこのタイプの人たちが他人の理屈も「感情的に聞いている」からだ。普段は問題が表にでないが、いざ口論となると思考タイプの人は愕然とするかもしれない。感情タイプの人へ「実は理屈が全く伝わっていなかった」ことを突如として知るからだ。
故に、チームのリーダーを決めるときには予めこうした傾向を知っておく必要があるのかもしれない。

ENTP, ENTJ

得意なことをやっていると時間を忘れるという経験をしたことがある人は多いと思う。それでは何が得意なの、と聞かれてもちゃんと答えられないことがある。これを埋めるフレームワークがMBTIだ。日本ではMBTIが権利を持っている。しかし、フレームワーク自体は簡単なので模倣もしやすい。日本MBTI協会はこれを「MBTIもどき」と呼んでいる。もどきの一例がこちら

ユングのタイプ論を基礎にしているのだが、ユングはこれをマトリックスにして人間の類型を作ったりはしなかった。ユングのタイプ論から来ているものは、外向・内向、感覚・直感、指向・感情だ。それに、独自の、規範・柔軟という指向性が加わる。ちなみに私は昔受けたときにはESFJだった。最近Facebookの「もどき」を受け直してみたところ、ENTPという結果が出た。設問の内容の構造が簡単なので「職業的に理想的な人物像」を意識すると結果が変わることがあるらしい。

ENTP


ENTPは、新しいアイディアが好きで、創造力に富むタイプだ。今あるものを改良するより、全く新しいものを追い求めるのが楽しいと考えている。手許にある資料を見ると、知的で問題解決能力に優れ、議論を好むと書いてある。外向性なので「人が何を欲しているのか」を探るのもうまい。

しかし、この傾向には悪い面もある。現実を気にせず、安定感に欠け、次から次へと中途半端に新しい事に挑戦するということだ。しかも、ルーチンワークを嫌うので、退屈すると「もっと新しい事はないかなあ」とどこかに飛び去ってしまう可能性もある。

ENTJ

ENTJは、上記の性格のPをJに変えたもの。ENTPは、まだ世の中に出ていないものに対して関心が向くが「J」の人たちは既存の枠組みを尊重する。議論好きでリーダーシップがあり飽きっぽいという点には違いがない。自分の正しさを議論によって証明しようとする。

この飽きっぽくて現実的な問題にあまり関心を持たないという性質は、Nから来ている。Nは直感型だ。Sの人たちの現実は細かなディテールにあふれている。例えば、誰かに会っても、髪型とかシャツのディテールとかを覚えている。しかしNの人たちの現実は「スケルトン」のようなものだ。だからこそ直感的な判断ができるのだが、この現実感のなさが裏目に出ると、細かい気配りができない人ということになる。
よく「大きなビジョンを語るのはうまいが、細かなところのツメが甘い」政治家を見かけるが、こういう人はENTJだと思っていいのではないか。

この2カテゴリーの人たちは、デザイナーや職人のようなディテールに時間をかけるような職業は向いていない。またパワーポイントの絵を描く事はできるかもしれないが、それを細かい施策に分解するのは苦手だろう。つまり政治家にはなれるかもしれないが、官僚のようなシゴトはできない。

一方、ENTPのいない世界では、デザイナーは完璧を目指していつまでも「何に使うか分からない」作品を作り続けることになるだろうし、プログラマはいつまでもバグを取り続けるだろう。そして官僚も細かな点にこだわり過ぎるあまり、全体最適には目が向かなくなるだろう。

イノベーションの達人!―発想する会社をつくる10の人材は、実務的なグルーピングだったが、このMBTIもクリエティブなチームを作るのには欠かせない。

また、政治の問題を見る時にもこの性格類型は役に立つだろう。民主党は机上の空論ばかりを振りかざしているように見える。この政党は、理想(マニフェスト)と議論の政党だったのだが、政権を取ったら、対局を失わないように現実的なタッチを与える必要があるわけだ。当たり前なのだが、組織を円滑に動かすためには組み合わせとチームワークが求められるのである。
このシリーズ、気が向けばあと7回つづく。

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広島少年院暴行事件 – 現在のミルグラム実験

ひさびさにアクセスで拾ったネタ。広島少年院で元首席専門(47歳)を含む4人が、特別公務員暴行凌虐の疑いで逮捕された。複数の教官を集め、目の前で暴行を加えさせていたのだという。首を絞めたり、塩素系ガスを吸わせようとしたりと「やりたい放題」だった。この人は1996年に仕事をはじめ、2005年に安倍首相の訪問を受ける。今回発覚した事件は2008年から2009年の115件のうち42件だそうだ。結局事件が発覚したのはこの人が奈良に転任してからだった。
中国新聞の記事によると発達状況に応じて処遇を実践するプログラムを生み出し、模範少年院だとされていたようだ。
この事件について読んでまず「ミルグラム実験」を想起した。ミルグラム実験では人に指示を与え、電気ショックのつまみを回させる。実際に電気ショックにかけられる人たちはサクラで、大いに苦しんでみせる。最初は「こんなことをしてはいけないのでは」と言っていた被験者も、最後には平気でつまみを回すようになる。役割が倫理を吹っ飛ばす瞬間だ。同類の実験に「スタンフォード監獄実験」というものがあるのだが、こちらは囚人役に対して監視役が度を過ぎた対応をするようになり、やがて実験を中止せざるを得なくなる。
今この「ミルグラム実験」関連で懸念されるのは裁判員裁判だ。もう少し見てみないとわからないのだが、普段は雲の上の人だと思っている裁判官に丁重に扱われると「一般の市民」は簡単に権力側に寄り添った価値基準を持ってしまうのではないだろうか。裁判員裁判の報道はわかりやすい裁判、時間のなさが主な関心事になっているが、いわゆる一般庶民が権力に寄り添った時どんな行動を取るようになるのかを、時間をおいて検証した方がよいだろうと思われる。また裁判員たちは「これが終わればこの緊張から抜け出せる」と考えるはずで、だったら裁判官に言われるとおりのことをしておいたほうがいいと思うかもしれない。裁判官は裁判官で「これは市民のお墨付きを得ているのだ」と考え過激な判決に傾くことも考えられる。集団無責任体制が生まれてしまうだろう。
さてアメリカやヨーロッパの社会学者はナチの残虐性に震撼して(もしくはそれを説明しようとして)ミルグラム実験を行なった。ミルグラムはユダヤ人だ。この種の実験は、最近ではアブグレイブに震撼した人たちの間で見直されている。つまり人々の間に「(誰か他のヒトではなく)我々は実は恐ろしい存在なのではないか」という懸念と「いや、やはりそうであってはいけない」という意識があるように思える。被害感情に訴えるのではなく、出来るだけ科学的に証明しようという点にこの実験の重要性がある。
翻って見ると日本では「これは誰か他のヒトの事で」「悪い事したんだから人権なんかなくてあたり前」という見識に触れることがある。アクセスのコメントでも。被害を受けた収監者に対して「ざまあみろ」という意見が散見された。これが単に日本の「人権教育が足りない」のか「自尊心が低下している」(ある意味アブグレイブ化している)のかが懸念される所だ。つまり「実は規範や倫理に関して、かなり危険な淵に立っているのではないか」という懸念です。実は少年院で起きていることよりも、こちらの方が危険だと思われる。
さてこの論題では「再犯率の低い」「あの」広島でというのがクセモノだった。ミルグラム実験が示唆するところは、我々は条件さえ整えばかなり残虐なことをやりかねない存在だということだ。それは実は成果とはなんの関係もない。
一方、確かに成果が上がることにより監視が甘くなる可能性はある。成果主義の危険の一つは、専門性のあるスタッフとマネージャー(この人たちは業務についてはよく知らない)の間に知識的なギャップがあり、成果が上がっていることにより隠蔽されてしまうということだ。金融機関で時々こういう問題が起こることがある。マネージャーは問題には敏感なのだが、平穏な状態には注意を払わない。逆に成果が上がれば何をしてもいいだろうと考えた可能性はあるかもしれない。
今朝になってアクセスのページを見てみると、「少年院に入ったくらいだから何をされても当然」という意見には影響を与えることはできるようだ。放送が始まってからの書き込みを見るとすこしずつトーンが沈静化している様子がわかる。これもグループダイナミクスの一つだ。空気を読みつつ意見を変えてゆく人たちが少なからずいる。
人が「群衆」化を防ぐにはリーダー、管理者、有識者といった人たちの果たす役割が大きい。
若干権威主義的なアプローチだが「アメリカで行なわれた社会実験によると…」というのも、特定の人には効果がある。そういった訳で、多分この設問じたいがちょっとした社会実験になっているように思える。

共感脳とシステム脳

さて、今日のお話は「共感脳」と「システム脳」について。この本は男性の脳、女性の脳というアプローチで男性脳=システム脳(物事をルールで判断する)、女性=共感脳(相手の表情を読んで適切な対応をとる)に分けている。このうち「空気を読む」能力を担当しているのは共感の能力だ。
作者によれば共感には2つのパーツがある。一つは相手の立場に立って考えるという「脱中心化」(これはピアジェの用語だそうだ)の能力。そしてもう一つの能力は相手の感情を見て適切な感情をフィードバックする(これをシンパシー=同情と呼んでいる)というものだ。
それでは共感能力がないと成功できないのだろうか。作者は極端にシステム脳が亢進した状態をアスペルガーだとしている。200人に1人のアスペルガー症候群の人たちは人の表情を読み取るのが苦手でコミュニケーション能力に欠ける。しかしながら一つのことに集中し、他の事に興味を持たないという能力は研究者にとっては必須の力だ。ただし群れ全体が共感を欠く状態になれば維持がむずかしくなる。
作者はそうは言っていないが、システム化脳が「問題を解決し、発展させる」脳だとすれば、共感脳は「維持し、調整する脳」だということになる。システム化傾向、共感化傾向といった方がよいかもしれない。大抵(95%くらい)は両者がバランスした状態にあるのだそうだ。極端なシステム化傾向は2%強ということだ。とにかく、システム化した人たちばかりでは群れはばらばらになってしまうだろうが、共感するばかりでは群れは発展しない。
ここまで細分化が進めば、対抗するシステム化傾向が顕著だが普通に生活ができていた人たちが「コミュニケーションが苦手」な部類に押し流されるであろうことも予測できる。世の中が閉塞的になり、ますます現状に押しつぶされてゆくのにはこういった理由もあるのではないかと思う。
コミュニケーション能力なしで成功する事は可能だろうか。また、それは良い事なのだろうか。
例えば、コミュニケーション能力が高そうに見える首相に小泉純一郎がいる。彼は「脱中心化」ができるので、メッセージが完結で分かりやすかった。小泉純一郎が首相になるためには適切なコミュニケーション能力が必要だったのだろう。
しかし、生まれながらに地位が約束されているタイプの政治家には「相手の身になって考える」ことができない。例えば、麻生太郎には「脱中心化」の力がなさそうだ。しかし半径5mの男と言われるように、相手の感情を見て適切なフィードバックを与えることはできるのではないかと考えられる。麻生太郎さんは周りの人が顔色を読んでくれるので脱中心化する必要はなかっただろう。
同じように首相を輩出した家柄に生まれた安倍さんは空気が読めず(つまり、相手のニーズが分からず)福田さんは言葉と表情が拙かった。
この記事のオリジナルを書いたのは2009年だった。この後で民主党政権が破綻し、安倍晋三は首相に返り咲いた。彼は「国民の気持ちが分からず」政権を失った。その後3年間考えた結果、国民のやりたい事と自分がやりたい事は違うということに辛うじて気がついた。しかし、相手の気持ちが分からないという欠点は克服できなかったらしく、周囲が止めるのも聞かずに靖国神社に参拝し、アメリカから「失望した」と宣告されてしまった。 このように、人間の共感能力には生まれつきの部分があり、なかなか全てを努力で乗り越えるのはむずかしいらしい。
2009年8月4日初稿 – 2013年12月29日書き直し 
 

意味がわからん

毎日、わけのわからない投稿をしているのだけど、定期的な購読者がいるようである。多分ほとんどの人が会った事もなければ、これから会う事もない人たちだろう。これはこれでとても不思議なことだ。そんな中、「意味がわからない」と、たった一言のコメントが来た。ああわからないんだなと思ったのだが、よく考えてみるととても不思議なコメントである。投稿してくるくらいだからやむにやまれぬ気持ちがあったのかもしれぬ。今日はこれについて考えてみたい。

わからないということ

先日、パソコンがわからない人を観察する機会に恵まれた。メールに添付されている写真を電子アルバムの記憶装置にコピーするという作業ができないのだ。どうやら各種のプロンプトが全く役に立っていないらしい。
装置をさしこむと、画面隅の方で「この装置をさしこんだら何をするか」というプロンプトが出る。これはモーダルといって、その処理をしないと先に進めないことになっている。しかし下に出ているだけなので、写真を移動させることで頭が一杯の人には目に入らない。(よく見てみると、モーダルがハイライトしていることがわかったはずだが、こういう人はハイライトの意味もわからないのだ)
次に、写真を「うっかり」ダブルクリックすると、PhotoEditorが開く。すると、写真はドラック・アンド・ドロップできなくなってしまう。つまりアイコンと、PhotoEditorの開かれている写真(こちらは編集エリア)の区別ができないのである。
これをモードの違いがわからないと表現する。Windowsに限らずGUI系のOSには3つの世界があるのだ。一つひとつをモードという。

  • コマンドラインの世界
  • メニューバーの世界
  • ドラッグ&ドロップの世界

多分、一番マニュアルにしやすいのはコマンドラインの世界だろうが、すべてのコマンドを暗記する必要がある。ドラッグ&ドロップ(GUI)は直感的に操作できてよいのだが自由度が高いので、こうした混乱が起きやすい。

これがわかるようになるためには

パソコンではこのような比較的簡単な作業でも、2つ(コマンドを叩く人はあまりいないだろうから、GUIとメニュー)の世界を理解しなければならない。そのためにはOSの基本的な知識(たとえば今作業をしようとしているのはハイライトされているところだ、などなど)を覚える必要がある。この知識は作業とは独立した比較的抽象的な概念だ。いったん抽象的な概念が獲得されると、ファイルをコピーするにはドラッグ&ドロップしてもよいし、メニューから「新しい名前で保存する」を選んでもいいことがわかる。
しかし困難はそれだけではない。あの左上にあった「リムーバブル・ディスク」が、メニューでは「Fドライブ」だということがわからなければならない。2つのモードは話言葉が違っているだけでなく地図すらも異なるのだ。
パソコンを昔から使っている人はMS-DOSからシングルモードしか許容しないOSを経て、マルチタスクに至っている。つまり、こういった概念を10年以上かけて蓄積しているのだ。しかし、ある日いきなりこの混乱に満ちた世界を突きつけられた人たちはどうやって理解するのだろうか? そう考えるとなんだか暗い気持ちになってしまう。

わからないということ

ここでは、自分の行動とプロンプト(返ってくる反応)を結びつける地図が作られたときに「わかった」ことになる。現実世界では行動もプロンプトも具体的な作業と結びついているかもしれないし、抽象的なものかもしれない。
ものによっては、それが部品の一つに過ぎない場合もある。この場合は説明通りに組み立てたとしても最終成果物(例えば時計)は完成しないかもしれない。「考える」という作業ではこういうことが時々ある。
多分、投稿者の「わからない」にはいくつかの意味合いがあるのではないか。わざわざ「匿名」と書いて投稿されているので、これ以上の情報を得る事はできないのだが。

  • 読み進めてきたものの、地図が作られなかった。
  • 読み進めてきたものの、最終成果物が何なのかわからなかった。
  • 作者がなぜこんなことを考えているのか理由がわからない。

わかるということ

家電製品にはメニュー型が多い。プログラム上の制約なのだと思うが、一つの作業を行うために行なう操作が一通りしかないので「間違いが少ない」というメリットがある。携帯電話はこの世界だ。だから携帯電話は「わかりやすい」ということになっている。
日本の教育が暗記型に陥りやすいのは、こうした手順遂行型が一般化しているからだろう。手順を覚えてしまえば間違いは少ないのだが、不測の事態には対応できない。不測の事態というと大げさだが、一例を上げて説明してみよう。
例えばコンビニの店員さんの中に、作業をしている途中で話しかけられるのを極端に嫌がる人がいる。昨日ローソンで春巻を買ったのだが、醤油が付いているので「あー醤油が付いているんですね」と言ったら、店員の手が止まってしまった。醤油は使わないだろうと思ったので「入れないでください」と言おうと思ったのだが、そんな余裕はなさそうだった。
この場合、最初に「春巻きをください、ただし袋はいらないし、醤油も入れないでください」と言うのが正しい。コマンドを与えるタイミングは作業をはじめるとき1回しかないのだ。コマンド型の作業者は不測の事態を極端に嫌うのである。
もうひとつ「わかりやすい」の質がある。それはアタマの使い方の質の問題だ。抽象的なルールをわかりやすいという人(直感型)と、具体的な行為や光景がわかりやすい(感覚型)の人がいるのだ。日本の週刊誌は感覚的な人たちが「わかる」と言えるようにできている。だから、ほとんどの記事は次のように書かれている。「吉田茂の孫である麻生さんと、鳩山一郎の孫である鳩山由紀夫が争っているのが今の政治抗争の本質である。思えば、バカヤロー解散の時には…」日本の週刊誌が得意なのは、見知らぬ人を見知ったフレームの中に押し込めてゆく作業だ。「小泉純一郎は昔福田康夫の所で働いていて…」といった具合に既知の情報に新しい情報を足してゆくことになる。物事がフレームにはまったときに「わかった」ことになる。
この二つの「わかりやすさ」が状況を悪化させることもある。このタイプの「わかりやすさ」は変化に対応できないのだ。主に二つの理由がある。

  • フレームそのものが変化してしまうと、絵全体が崩れてしまう。これを昔の絵に当てはめようとするとわけがわからなくなる。
  • 作業の途中で状況が変化する。不測の事態の多い、わけのわからない状態だといえる。

我々は消費社会に生きている。消費社会では、製品やサービスの善し悪しを、生産者が消費者にプレゼンしてくれることになっている。だから「わからない」ことは十分クレームの対象になる。人は親しみのあるフレームで物事を捉える傾向があるので、学校や政治といった領域でも、消費社会のフレームを適用することがある。そうすると「わからない」人は、わかるように説明してもらって当然だという確信のようなものが生まれる。
そしてわからないニュースは売れないので、淘汰されて目の前から消えてしまう。
だから「わかる」フレームには、思っている以上にクセがついている。そしてそのクセには一長一短があり、わかりやすいことがいつもいいことだとは限らない。何がどうわからないかを考えてみることは意外と大切なのだと思う。
そこからパターンが抽出できれば、混乱にみちた世界が少しだけやさしく見えるかもしれない。

スパイト行動

このブログで何回か取り上げたスパイト(いじわる)行動。
元になった論文はコチラ
この論文から私が読み取ったのは次の点だが、どうやら「1」は正しい理解ではなかったようだ。

  1. 筑波大学の学生は(カリフォルニアの学生に比べ)公共財のフリーライドを目指す傾向がある。
  2. 筑波大学の学生は自分の利得を削ってでも、フリーライドを禁止する傾向が高い。
  3. これにより、フリーライダーは協力せざるを得なくなる。

これについて、ゲーム理論で解く (有斐閣ブックス)で、もう少し調べた。ご本人の論文よりもこちらの方が分かりやすかった。他にも面白い例がたくさん掲載されている。ゲーム理論は一昔前の流行と見なされているフシもあるが、いろいろなヒントを与えてくれるようだ。

公共財供給とスパイト行動 (西条他)

  1. 公共財とは一人が消費することによって別の人が消費できなくなるという性質を持たないもの。(私的財に対応する言葉)
  2. アクセスに制限を儲ける(有料テレビのように)ことで、排除可能な公共財を作る事もできる。
  3. 公共財はただ乗り(フリーライド)が起こるため、協調によって得られる最大利得行動がナッシュ均衡にならない。
  4. ただ乗りを防ぐためには、制度設計が重要(Groves&Ledyard, 1977)
  5. 社会の全部が自発的に公共財投資を行うインセンティブを常に持つ戦略を立てるのは不可能(Saijo & Yamato, 1997/1999)
  6. 経済実験(Saijo, Yamat, Yokotani & Cason 1999)では、このようなゲームを繰り返し行う事で参加68%,不参加32%という均衡戦略に到達するかどうかの実験が行われた。(※いつも2/3、1/3になるというわけではなく、利得表で調整しているものと思われる。)
  7. しかし筑波大学の実験では参加率が95%まで上がった。それは自分の利得を犠牲にしてまでも、相手のただ乗りを阻止する選択をする人が多かったからだ。これをスパイト行動と呼ぶ。
  8. このような違いがなぜ起こるのかは、解明されていない。

自分の利得を削ってでもただ乗りを防ぐ努力が抑止力になっているという説明だが、インプリメンテーションはなかなか難しい。普通に読み取ると、相互監視的な抑止力がなくなると「普通程度」にただ乗りが起こるコミュニティーができあがるということなのだろう。ただ、フリーライド抑制のメカニズムは他にも存在するかも知れない。