先日のエントリーでは、傷を負った社会が、どのようにそこから回復したかということを観察した。傷を負った地域を「切り離す」ことで、これをなかったことにしようとする一方、被災した地域と「そこに援助してあげる地域」という上下関係ができ始めているように見える。敏感な人たちが「絆」という言葉にちょっとした違和感を感じるのは、こうした治癒が必ずしも根本的な不安の解消につながらないからだろう。
こうしたエントリーを書いたのは、コフートの『自己の修復』を読んだからだ。
心理学者はコフートを安易に集団心理に適用したりはしない。そもそも一生かけて書いた三部作なので、1時間くらい読んで「はい、分かりました」という類いのものでもない。まず、この点をお断りしておく。
コフートはフロイトの心理学を受け継いで、さらに「自己心理学」という体系を作った。三部作の二作目に当たる『修復』にはいくつかの症例が出てくる。患者は共感の薄い母親を持って傷ついている。その後、父親を理想化しようとするのだが、父親の方はうまく対応できない。子どもはなんとか成長するのだが、ある時点で言葉にはできない無力感のようなものを感じるようになり、精神分析を受けにくる。
コフートの心理学の目的は、獲得しそこねた「共感」と傷を再確認することによって、患者が正常な状態に戻るように援助することだ。そして、いつ「治癒が終了するのか」(つまりは、何が正常なのか)という点についてしつこく考察している。子どもの時に獲得できなかった共感が治療によって得られるわけではない。つまり、傷がなくなるわけではない。
あるエピソードでは「言語的に優れていた父親」との関係を取り結ぼうとして失敗した男が著述業を職業にしている。つまり拒絶されたと感じたことを職業にして乗り越えようとするわけだ。ところがある時点でこれに満足感を感じられなくなって治療を受ける。治療が進むにつれてこの男は「学校」を作る事を思い立つ。自分と同じように「言いたい事をうまく言語化できない」人たちを手助けしようと考えたのだという。極めて個人的な動機に基づいているのだが、自分と共通する悩みを持った人たちを手助けするためにより創造的な分野へと進出して行くのである。
もちろん自己愛性人格障害に悩む人が全て「創造的」になるわけではないだろう。と同時に、個人的な不安が他人のニーズを汲み取ったソリューションの提供につながる可能性があるのも確かだ。コフートは共感を酸素のような存在だと考えている。つまり生きて行くのに必要不可欠の要素だ。
コフートの時代には「共感」がどうしてうまれるのか、それが人々の生育になぜ必要なのかということはよく分からなかった。脳の中に、共感と関連していると考えられるミラーニューロンのようなシステムがあるということが分かったのは1996年なのだそうだ。
他にも分からないことは多い。どうして母親の共感が損なわれるのか(器質的に損なわれているのか、心配事などがあり一時的に損なわれているのか、それとも共感が育ち損ねたのかということだ)ということは分からない。そして父親がどうして子どもの期待に応えられないのかも不明だ。父親の能力が欠けているからなのかもしれないし、子どもが父親の能力を超えて成長するからこそ「応えられない」のかもしれない。つまり、成長しつつある社会ではこうした「物足りなさ」は珍しくないのかもしれない。怖れや怒りのようなネガティブな気分が共感を損なうのではないかと思えるが、これも特に問題にはなっていない。
今回考えているラインは「共感を獲得し損ねる」「自分についての価値を感じられない」「気力や生きる意味を感じられなくなる」という感情について「自分は共感を得るのにふさしい存在だということを認識する(つまり自己愛を再獲得する)」ことで「成長が再開され」「共感を通じて、自分を愛せるようになるのと同じくらいに他者をも愛せるようになる」というシナリオだ。あらためてこうした苦痛を意識化することで、自然に共感を体得した人よりも深い自覚を得るだろう。つまりセルフ・プロデュースは「共感を得るのにふさわしい自分」を再認識するために使われる道具立てに過ぎない。
自己の修復には別のパスもある。どちらかといえば新興工業国では賞賛されてきた態度だ。母親と死に別れ、父を頼る事もできなかった青年が「寝ないで働き」お金を貯めて起業する。自分が克己したからという理由で従業員とも同じ文化を共有しようと考える。しかし、これが「過労死」を招く。ある人はこれを競争社会の成功例だと考え、別の人はこれを「ブラック企業」と呼ぶ。従業員を過労死させた同じ企業が福祉分野にも進出している。こうした人たちを「良い人」「悪い人」と単純に区分することはできない。福祉分野で働いているうちに従業員が過労死ということもなくはないし、これで助かった人がいるのも事実だろう。多分本人は自分のことを「共感力のある優しい人間」だと考えているのではないかと思う。
コフートの時代まではカウンセリングによる治療が一般的だった。時間がかかる上に高額な治療だ。こうした「贅沢」な治療は、その後投薬治療にとって代わられる。これで救われた人も多いだろうが、そもそも「薬で症状を押さえ込んで、今いる戦闘部隊に復帰させること」が正常化だとされているのも確かだ。「今やっていることに意義を感じられない」のは、失敗ではなく成長の証かもしれないのだが、極度まで効率化された社会からの離脱は贅沢であり、許されないこともあるわけだ。
つまり、効率的で洗練された上に、力強い社会が「成長」を妨げている可能性もあるのではないかと思う。