座間の連続殺人事件で初めて身元が特定された人が現れたという。これを見ていていろいろなことを考えた。今回は名前という牢獄という概念と中二病について考えるのだが、どうもこの二つにはある程度のつながりがあるようである。
当初は表題通り「名前という名前の牢獄」というラインで書こうと思っていた。インターネット上で匿名の人たちが匿名のまま殺人の加害者と被害者に別れるのはどうしてなのだろうという疑問があったからだ。だが、田村さんのケースは想像とは少し違っていた。
まずは、最初に田村さんのケースから考えたい。もともと内気だった田村さんは中学校になり環境の変化に馴染めなかった。そこで学校に行けなくなる。中学、高校、大学にあたる時期を家庭で育つのだが、お母さんが亡くなったことをきっかけにして精神状態が不安定になり施設(産経新聞では職員付きのグループホームと表現されている)に入居してから自殺願望を持つことになる。ここで、ネットを通じて容疑者と接触し犠牲になったものと思われる。
このことから、田村さんは不特定多数の他人との接触に恐怖感を持っており、特定の友達や母親などの特定の「自分をわかってくれる」人との間でしか安心感が得られなかったであろうことがわかる。
だが、実際には最後に「自分をわかってくれた」のが、実際には「金銭目的で(本人の供述によると)」「快楽のために(状況から見ると)」近づいてきた人だったということである。つまり、容疑者は「田村さんのことをわかっている」わけではなく、それまでの女性との接触からある程度の「型」を認識していて「わかってあげられる人」を演じていたことになる。そこから、こうした人たちをわかってやることが演技でもできてしまう程度のものだったということになる。
これは言い換えれば、中学校の先生やグループホームの職員たちがこうした型を習得していないか、あるいは気にかけなかったことになる。さらに展開すると、中学校の先生やグループホームは「田村さんに利用価値がないか面倒だと持った」から田村さんのニーズに応えようとしなかったということになるだろう。
では、周囲の人たちは「田村さんに優しくしてあげる」べきだったのだろうか。確かにそれはそうなのだろうが、現実的にはそんなことは起こりそうにない。周りが自分たちの事情で手一杯になっている時に、田村さんのような人はどうすれば「自分を守ることができる」のだろう。
第一に考えられるのは、まず自分の気持ちを整理する技術が必要だということだ。母親は普段から子供のケアをしているのだから子供の原初的なニーズはだいたいわかっている。だから子供は自分のニーズを整理して伝える必要がない。そのような技術を獲得しなくても当座のケアは手に入るからだ。
普通は、中学生くらいになるといわゆる「自我」が目覚めて独立のプロセスを歩み始める。この時に表現方法は身につかないので表現方法は一般的に稚拙である。これがいわゆる「中二病」という状態だ。つまり、中二病は精神が発達過程にあり表現技術がそれに追いつかないという状態であると考えられる。
なおこの状態は中学生で終わるわけでなく、精神が成長するたびに段階的に起こるものと考えられる。だから例えば30歳代が中二病を発症してもそれは悪いことではないし、政治について意識し始めた人たちが中二病のように安倍政権を礼賛してもそれは必ずしも悪いこととは言い切れない。
田村さんの場合中学生で社会から切り離されてしまった(あるいは自らが切り離した)ことによって、それ以上の成長が起こらなかったものと考えられる。
容疑者が水商売の女性との接触を通じてある程度の型を習得していたところから見ると、このような人は実は多いのではないだろうか。
しかしながら、やはり自我の形成が十分ではない人たちが匿名でつながりを求めるというのはかなり特殊な事例だろう。日本では凶悪犯罪は減っている。このためもあり殺人の半分は親族間で行われている。つまり「ありふれた殺人」とは家族の間の殺し合いであり、名前も知らない人たちが殺されるというケースはそれほど多くない。
殺しあったりいじめあったりするほどの緊密な関係がある一方で、こうした緊密すぎる社会から逃げ出す人たちもいる。その数は意外と多い。なんらかの理由で亡くなる人たちは毎年三万人いるそうだが、その他に毎年八万人台前半の失踪者もいるということだ。そのうちのほどんどは身元が判明するのだが、毎年2,000人程度は不明になっている。もちろん、病気を苦にして自殺したり、痴呆などの病気が原因で自分がどこにいるのかわからなくなる人もいるのだが、失踪者には意外と10代の人たちも多いということである。
この「社会を逃げ出す」ということはどういうことなのだろうか。
名前はその人らしさを規定することになっているのだが、実は自分で決められない部分が多い。名前には様々な自分の決められない属性がついて回るからだ。例えば「美人である」という容姿、「スポーツが得意で人気者の」というような能力に関する属性、さらには親が金持ちといった属性もあるだろう。つまり「私らしさ」の多くは他人から押し付けられたものなのである。
しかし、人間は変化するので、他人から押し付けられた属性が「私」でなくなってしまうことが有り得る。
最初に考えた中二病は何でも与えることができていた母親とは違ったニーズが芽生え始め、親がそれを与えることができなくなるという状態だと考えられる。このニーズが人それぞれな上に自分でもそれが何かがわからないことが葛藤の原因になるわけだ。
すべての人が与えられた自己に満足するわけではないし、人それぞれが異なっており明確な答えがないのだから、とりあえずそこから逃亡して新しい自分が満足できる環境を追い求めたいと考えてもそれは別に不自然なことではない。「死ぬ」ということは多くの場合「生命が終わること」であると考えられるわけだが、実はこれまでの「私」を脱却するという側面もあるということだ。
最初の田村さんのケースでは、本来起こるべき成長がなんらかの理由で達成できず、実際に成長の成果を使うべきだった時にそれができなかったというようなパターンがあるのだが、その逆に環境はそのままでも個人が内面から成長することがあり得るということになる。
しかしながら、こうした成長の破壊的な側面は他人から理解されないことがある。個人の成長は意識されずに終わることが多いからだ。反抗期を覚えていない人もいるだろうし、自分が中二病であったことを覚えていない人もいるのではないか。「幼稚園に行きたくないと泣いた子供」がそのことを全く覚えておらず、今は不特定多数の前で企業プレゼンテーションをこなすというようなことがごく自然に起こってしまうのである。
こうした人たちは個人の成長の辛い側面を覚えていないがゆえに社会的に成功しやすい。そこで「助けてあげたい」などと思うわけだが、実際にはそれを覚えていないために助けるための資質がないということになる。つまり「人権派の弁護士」であったり「人徳のある教師」といった人たちは、この手の問題の助けにはならないということだ。
さらに、すでに古びてしまった自己像から脱却したいと考えている人に、上から「あなたは間違っているから助けてあげる」というのは、自分を苦しめている拘束服である自己像への押し込めを強制することになってしまう可能性がある。
成長というと「新しい技術を身につけて生産性をあげてゆく」ことだと考えがちになるのだが、実際の成長はそれほど生易しいものではないかもしれない。だが、何の前置きもなしに「引きこもりや死というものは成長なのだ」などというと、多分笑われるだけなのではないだろうか。