ある日突然、全てを流されたとする。ある人は自ら選んだことによってそうなるし、人によっては何の過失もないのに全てを失ってしまう。街一番の人格者も流されてしまうかもしれないし、とっさの判断で足まで流されそうになりながら助かった人もいるだろう。私は何か悪いことをしただろうか、これは何かの罰なのだろうかと思うかもしれない。人間の理解は限られていて、全ての意思を推し量ることはできない。それどころか、そうした意思があるのかさえ分からなくなってしまうだろう。
呆然としてその場に座り込む。何日も、あるいは何年も歩き回る人もいる。目的地はない。その間、自らを省みて「亡霊のようだ」と感じるかもしれない。そもそも全てを流されるということは生活の糧を失ってしまうということだ。それは人生の目的地を失うに等しい。大抵の場合、人々は日々の生活の糧を得る事を人生の目的にしている。生きる目的がないわけだから、それは「死んでいる」のと同じだと考えても不思議ではない。
次に、流されたものを元通りにしようとする。ある人はこれを復興とよび、また別の呼び方をする人もいるはずだ。しかし、流されたものは戻らない。作り直したとしてもそれはもとのような輝きを取り戻すことはない。新しいものを手に入れたとしても、それは失ったものとは別のものなのである。過去持っていたものは思い出の中にあり、実際以上に大切なものに思えるかもしれない。
人によってはその糸口さえ見つからない。人々の善意に頼り、時にはそしられたりもする。世の中には立派な人がたくさんいて、自分たちを立派だと思っている人たちもまた多い。ある人は「かわいそうだ」といい、ある人は「怠け者だ」というかもしれない。こうしたことが何年も続くことがある。自分が何か悪い事をしたからなのだろうか。それとも他の誰かが悪いのか。私には誰も味方はおらず、あるいは運もないのだろうかと嘆く。しかし事態は変わらない。結局は自分で歩き出すしかなかろうということになる。
いろいろとやってみるが、どれもつまらないものに見える。個人でできる事など限界があるだろうとも思う。生きていることに感謝しようと思うかもしれないが、無理に感謝してもその気持ちは長く続かない。その気持ちに負けて立ち止まることも多いだろう。しかし「運の悪い事に」まだ生きている。
何もない所に波を起こそうとしている。動きのないところに波は立たない。足をばたばたさせてみても大した波は立たないし、前に泳ぎ出すこともできない。そんな感じだ。周囲には大きな波があり、目の前を誰かがすいすいと泳いでゆくかもしれない。しかし、足を止めてしまえば沈んでしまう訳だし、そもそも退屈で何かせざるを得ないはずなのである。
さて、この体験は何か意味があってあなたに課せられたものなのだろうか。人には乗り越えられない試練などないのだろうか。そうなのかもしれないし、誰かがいうように、人生は何かの修行なのかもしれない。あるいはそうではなく、たまたまそこに居合わせたからなのかもしれない。知り得ないわけだから、この問いには意味がない。
意味のない問いを何回も繰り返し、時折小さな喜びを目にし、ちっとも前に進まないことにイライラする。波はまだ起きていないように思える。例えば、家族をなくしてしまった人たちは、目の前で咲く桜の花を見て、今年も春がきたと考え、そして大きな罪悪感に駆られるかもしれない。このようにもはや単純な喜びさえない。もはや他人の言葉では歌えない。いつも何か気がかりがあるような感じだ。これが全てを流されるということなのである。にも関わらず、小さな喜びは時折訪れる。これが生きていることの不思議なところだ。
ある日突然 – その日は多分ありふれた日の一つに過ぎないのだろうが – なんらかの兆候を見つける。その兆候を眺めているうちに、そのまままた流れてしまう。かつての記憶が蘇り、期待するのはやめようと思うかもしれない。そしてあるとき、また別の何かを見つける。いつものようなありふれた何かのようだ。しかし、そこから小さな何かを受け取る。そこで初めて、過去に始めた何かが実を結んだことを知る訳である。とてもありふれたもので、誰かに自慢したいと思うようなものではないだろう。しかしそれはあなたが起こした何かの結果なのだ。何もないと思っていたところから何かが生み出されたのである。
「流される経験」ということで、今回の震災を思い出す人がいるかもしれない。しかし、何かを流される経験は誰にでも起こる可能性がある。その経験に意味があるということはないし、意味がないということもない。良い経験というわけではなく、悪い経験ということもない。すぐに歩き始めてもいいし、しばらく呆然としていても構わない。誰かがそれを責めるかもしれないし、がんばってと声をかけてくるかもしれないが、それはあなたの経験であって、その誰かの経験ではない。無理に歩き出しても意味がない。しかし多くの場合、気がつかないうちに歩き出しているものだ。
流された経験には計るべき価値はない。あるのかもしれないが、私たちには分からない。何もないところからあなたが起こした、あるいは起こそうとしている何かには意味がある。何もないものを10,000倍に増やすことはできないが、小さい何かは何倍にも膨らむ可能性がある。この違いは大きい。一人で起こしたというわけではなく、無数の誰かが関わっているということが分かるはずだ。多くは会った事も、これから会う事もない人たちで、従って「ありがとう」と声をかけることはできない。しかし、無理に感謝してみようと思っていた経験があるからこそ、その感謝は以前のものとは違っているということが分かるのだ。
小さな何かが育つ前にまたしても流れて行くかもしれない。しかし、流されてもこう思えるだろう。私には何かを作り出すことができるのだと。失ったものは戻らない。しかし私たちはまた新しい何かを作り出す事ができる。
生き残ったということはどういうことなのだろうかと考えてみる。結局はまた歩き出せるということだし、何かをしたくなってしまうということなのだろうと思う。こうした経験を経て、人は、確かに自分の力で価値を生み出せるということを確信する。流された経験には意味がないが、新しく生み出された何かはどんなに小さくても意味を持っている。そうした力が人に備わっていることこそが、恵みと呼べるのかもしれない。そして、その小さな力だけが社会全体を変えて行く力なのだろう。全て押し流されたように見えて、一番大切な何かは残っている。だから悲観しても嘆いても誰かを責めてもいいのだが、決して諦めてはいけない。