先日「魂の殺害者」というエントリーが多く読まれた。調べてみると2009年の記事だったのだが中身はほとんど忘れていた。こういう記事は他人が書いたものとして気軽に読めるし、自分の記事なので書き直しも自由だ。てにおはや語尾を直したりしたが、なかなか面白かった。
「魂の殺害者」は精神病を患った人の話なのだが、背景には父親の抑圧があり、さらにその背景には時代の空気がある。第二次世界大戦前のドイツの話が今読まれるのは、こうした時代背景が現代と共通していてある程度の切実さがあるからだと思う。
数年前の記事なので下手なのかと思うのだが、文章としては今のものより面白い。一冊の本を読んでじっくりと書かかれていて、誰かに読ませようと思って書いていないのだ。そのため、よく思われようとか、相手に印象付けようという無駄な自意識が全くない。
ここに至る前は「社会はくだらない」というような話を書いていた。切実に読んでほしいと思っていたが、需要も文章力もなかったのだろう。全く読まれなかった。今ある穴から抜け出したいという気持ちもあったのだ、もちろん何も起こらない。
今「魂の殺害者」の感想みたいな文章は書けないなあと思う。理由はいろいろある。個人の移ろいというのももちろんある。書物の実力はあまり進歩しないが、プログラムは過去のロジックやライブラリーが溜まってくるのでできることが増えてゆく。するとじっくり何かを読むよりは、手を動かして何かを作ったほうが楽しくなる。
個人の変化だけでなく、時代背景も大きい。2009年は民主党政権ができた時期で人々は「これで誰が(つまり政治家なのだが)がなんとかしてくれる」と思っていた。だが実際に民主党で関係者の話を聞いてみるとディテールが曖昧でいい加減な人たちが群がっていた。これは早晩破綻するだろうなと思っていたら案の定3年ちょっとで思った通りに破綻してしまった。
つまり、その頃に個人の行き詰まりを書いても誰も共感してくれなかった。しかし、現在は政権がわかりやすく行き詰っているために不満が渦巻いている。政府や地方自治体の言っていることは明白にでたらめなので、それを「落ちる」言葉で説明するだけで需要が生まれてしまうのだろう。「なぜ日本人が複雑なプロジェクトを扱えなくなったのか」という疑問も多くの人に共有されている。これ自体は実行は難しいが説明自体は簡単なので、大した知識がなくても書けてしまうし、それが驚くほど多くの人に読まれることもあるのだ。
多くの人がフラストレーションを感じているかもしれないのだが、これは闇市に多くの人が集まっているような状況だとも言える。所得倍増計画前の状況に似ていて、先見性のある人なら「これを活かせば活力を取り戻すのは容易だろうなあ」と思える。さらに他人とつながること自体はとても簡単になった。ソーシャルメディア技術が発展して、発信したり人の意見を聞いたりできるからだ。ここまでの技術は数年前には見られなかったし、そもそも観客になる人たちがいなかった。
面白いことに、不満が内部に鬱積している状況で感情に出口がないという状況は無駄にはならない。個人の不調というのは時代が追いついていないだけでやがて共有されることになるのだと思う。逆に鬱積した時期でないとできないことも実は多い。それを他人や政権のせいにしても仕方ないとは思うのだがその感情も無駄にはならない。結局「他人を責めても何も変わらなかった」と実感しない限りその先へ行けないからだ。その意味ではそれは穴ではなく別の通路の始まりだったことになる。
ただし、こういう記憶は容易に失われる。たとえば本を読んだことも覚えていなかったし、その時何を感じたかということも記憶になかった。文章を誰でも読むことができるところに残しておくと、誰かが見つけて思い出させてくれることもある。つまり、書いて記録を残しておくという行為も決して無駄になることはないのだ。