小説家になるべきなのか、小説を書くべきなのか

昔、小説家になりたかった。小説家になるためには小説を書いて出版社に送り賞をとるという道があった。で何編か小説を書いて出版社に送ったりしたのだが、結局小説家にはなれなかった。小説を送っても何のフィードバックもなかったからだ。後になってわかったのだが、実際には編集者が目をつけた人に箔をつけるために賞というものがあるらしい。小説家になるのはとても難しかった。

今では小説家でいつづけることも難しいようだ。小説を読む人が減っている。小さな村で小説を作り続けていた東京の出版業界の人たちは村の外で何が起きているのかわからない。漫画ではさらにこの傾向が顕著だ。絵が描ける人たちは二次創作(ここでは好きなだけ漫画が描ける)に流れてしまい、作り手も描ける場所も減っている。なぜこうなったかというと、出版業界にいる少数の人たちが自分たちの価値を押し付け続けたからである。

同じことはゲームでも起きている。高い開発費をかけてフランチャイズを作っても誰も見向きもしなくなった。家でじっくりゲームをやり込む時間がなくなってしまったからだ。高品質の絵が滑らかに動いてくれなくても、外に持ち出せた方がやりやすい。こうして高級コンソールゲームも「恐竜化」している。

後になって小説家になりたかったのはどうしてなのかを考えた。お話を書くのが好きなら小説家にならなくても続けていたはずだ。よく考えると、昔読んだ小説家のエッセイに出てくる「あのコミュニティ」に入って、時々注目されたかったのかもしれないと思う。つまり、小説が書きたいわけではなく小説家になりたかっただけなのかもしれないと思うのだ。

人生も後半になると「何かになりたい」と思うことは減ってくる。例えばあと5年頑張って小説家になれたとしても活躍できる時期は極めて限られている上に、本当に小説家になれる可能性は極めて低い。このように終わりから逆算すると「なれるもの」は減ってゆくので、結局何ものにもなれなかったなあと思いながら人生の残り時間を数えることになりかねない。

最近ふとこれも物語なのだなあと思った。素人が文章を書いたとしても「それは素人の自己満足であり何の価値もない」活動だと思っている。この物語からは抜け出せそうにない。だが、何も意味がないのは「社会的に意味がない」だけである。自分も含めて意味がないと「わかっていた」としても本当に意味がないかどうかはわからない。

一方で、何かを始めることは誰にでもできる。つまり、何かになることを諦めて、何かを始めることに着目すればできることはたくさんあることになる。こう考えると少なくとも気持ちの上では、単なる思い込みに過ぎないにしても、少し楽になる。

少し視点を変えて「職業」とは何かを考えてみたい。日本で「プロ」というと何か特別な感じがする。日本人はプロフェッショナルに高いスタンダードを置く。卓越した技術があり、本人も自覚していて、周りも認めているくらいではないと「プロ」とは呼べないような印象がある。これは社会的認知に基づいた「〜になる」プロフェッショナル観である。だから日本では「自分は道を極めて何かになれた」と思える人が少ない。

英語のプロフェッションの語源を見てみるとちょっと違ったことがわかる。確かに、誰でも気軽にプロになれるわけではないのだが、少し様子が違うのだ。

c. 1200, “vows taken upon entering a religious order,” from Old French profession (12c.), from Latin professionem (nominative professio) “public declaration,” from past participle stem of profiteri “declare openly” (see profess). Meaning “any solemn declaration” is from mid-14c. Meaning “occupation one professes to be skilled in” is from early 15c.

フランスでは宗教的な序列に入るために宣誓することがプロフェッションだったが、その起源となったラテン語では公的に得意なことを宣誓するのがプロフェッションだったと解説されている。ただ、誰でも気軽に「宣誓」ができてしまうと困るので、ある程度の形式(any solemn)があったようである。

Wikipediaにも同じような記述が見られる。

Thus, as people became more and more specialized in their trade, they began to ‘profess’ their skill to others, and ‘vow’ to perform their trade to the highest known standard.

貿易などで専門性が高くなると、自分のスキルがある標準(highest known starndard)に達していることを宣誓するようになりましたという意味のことが書いてある。Vowはお辞儀をするという意味ではなく宣言するとか誓うというような意味のようである。つまり、高い水準ということに変わりはないが、あくまでも自己申告制だということである。

この自己申告制に基づくプロフェッショナル観は日本のプロの定義とは若干異なっているように。もちろん、相手の満足感があって初めて「プロ」と認められるわけだが、かといってすべてお膳立てして認めてもらえなければ何にもなれないというのとは違っている。

産業の移り変わりが激しい現在では一つのスキルだけで一生やって行くのは正直難しいし、そもそもサラリーマンにはプロと呼べるようなスキルを持っている人は少ない。その一方で、気軽に情報発信したり、小さなサービスを提供することができるITプラットフォームやSNSが増えているうえに、口コミを通じた満足度の可視化も可能になっている。

「〜になれなかった」と感じている人は、実はなんらかの思い込みを持っているのかもしれない。実は小さな「やりたいこと」や「得意なこと」を複数毎日続けるほうが、プロになれる確率が高いかもしれないのである。

一方で、職業を作ることで社会認知を得るということも起きている。YouTubeでビデオを作っていた人たちは「単に好きで」やっていただけなのだろう。だが、プロダクションができYouTuberという職業名がつけられることで認知が一気に進み、今では小学生の憧れの職業になっている。物語には強力な作用があり、それを利用することで人々のマインドを変えることも可能なのだ。

経験則が増えると間違いが減る。それはそれで良いことなのだが、思い込みも増えてゆき、そこから完全に逃れることはできない。思い込みは使いようによっては便利な道具だが、他者に対して不当に高いスタンダードを求めることで、自分の可能性を狭めているということもあり得る。

自分のスキルが相手にどのように評価されるのかは誰にもわからない。プロフェッショナルという言葉は「trading(交換)」を前提にしているので、まずは対話を始めてみなければ自分の持っている財産の価値がどれほどのものであるのかはわからないのではないかと思う。

稲田防衛大臣はなぜ支援者との打ち合わせをキャンセルすべきだったのか

九州で大雨の被害が深刻になっている時、稲田防衛大臣が支援者との会食を優先して防衛省を留守にした。「すでに指示は済ませていた」ということなので、法的には問題がなさそうだ。一方で、部下が一生懸命に仕事をしているのに不在にするには道義的でない気がする。いったい、どちらが正しいのか、リーダーシップという観点から観察してみよう。

結論からいうと稲田さんにはリーダーの資質がない。リーダーシップが学べるチャンスがあったのだがこれをふいにした。今後、稲田さんがリーダーシップを発揮するポジションにつくことはないだろう。

確かに、法的には、指示され済ませればあとは自衛隊の人たちが勝手にやってくれる。日本の自衛隊は優秀なので、それでよいという見方はできる。が、現場の人が優秀であればリーダーは何もしなくてもよいのかという疑問が残る。

そもそもリーダーのあるべき姿とは何だろうか。リーダーにはいくつかのタイプがあるだろう。その役割も多岐にわたる。例えば、先頭に立って陣頭指揮を取るようなタイプのリーダーは自衛隊には必要がなさそうだ。自衛官たちはそれぞれが訓練されており、稲田さんが陣頭指揮を取るような仕事はなさそうだからだ。

中曽根康弘元首相の回顧録を読むとリーダーシップに関する逸話がでてくる。オイルショックで石油の供給が滞ったので、国家が石油のコントロールを管理した時期があるそうだ、その時中曽根は陣頭指揮をとって大きな表を作り官僚と一緒に計画表を作ったそうだ。

中曽根さんがそれをできたのは、もともと海軍で士官として会計の仕事をしていたからだと考えられる。しかし、現在の組織は専門性が高くなっておりより複雑化している。だから、こうした中央集権的な方法は採用しえない。だが、日本のリーダー観は第二次世界大戦当時のままになっているように思える。優秀な人が現場を引っ張ってゆくのがリーダーだと考えられてしまうのだ。

現在の専門性の高い組織には別のタイプのリーダーが求められる。

例えば、重機があれば孤立地帯に入って行けるような状況があったとする。しかし、自衛隊の人たちには重機を持ち込む権限がないかもしれないし、重機はあっても地元と調整しないで中に入って行けないことも考えられる。すると自衛隊の人たちは自ら「それは自分たちの権限ではないから」と諦めてしまうだろう。目の前に困っている人たちがいるのだからなんとかしてあげたいと思っているはずだが、やはりそこは諦めざるをえない。このような状況で積極的に支援するのもリーダーの役割の一つである。つまり「何かあったら言ってくるように」と声をかけておいて、積極的に他大臣に介入するわけだ。

さらに、現場の人たちに権限を与えて「責任は自らが取る」と言ってやることもできる。これをエンパワーメントと呼ぶ。

つまり、複雑化した組織では支援することもリーダーの役割の一つなのだ。人は任されると期待に応えたいという気持ちが生まれるので、エンパワーメントされた人たちのやる気は上がるだろう。

この問題の要点は、リーダーシップがどうあるべきかということを指示してくれる人が誰もいないという点にあるのではないか。多分、この点が現代のリーダーとして一番難しいところかもしれない。稲田さんはこの資質に欠けているのだが、もともと安倍首相が自分の手足になってくれる人を好んでいるというのと関係しているのかもしれない。積極的にリーダーシップを発揮する人材をコントロールする能力に欠けているのだろう。

同じ防衛大臣経験者の石破さんは「検証は必要だ」とは言っているが、何をするべきだったのかということには言及していない。さすがに国会議員が他の国会議員に対して「リーダーとはこういう人ですよ」とは言えないのだろう。が、もしかすると現在の国会議員はリーダーがどうあるべきかというビジョンが持てずにいるのかもしれない。日本でリーダー教育が行われていたのは軍隊だけで、中曽根元首相のような軍経験者が消えた時点でなくなってしまった可能性があるのではないかとさえ思う。

もし、稲田さんがリーダーとはなにかということを理解していないのだとすれば、多分防衛庁の椅子に座っていても退屈なだけなので、支援者のご機嫌とりに行った方が有益だったということになる。が、明らかに防衛大臣としては不適格だ。

いずれにせよ、稲田さんはリーダーとして成長できる機会を与えられてそれを浪費したように思える。ここから学べるのは、リーダーシップを学ぶことができる機会は自分から取りに行かなければならないということだ。

確かに、他人を批判するのは簡単なのだが、いざ自分がその立場に置かれると、それを実践するのは意外と難しいかもしれない。多分、今いるポジションよりも「もっと成長できることはないか」と探しているような感じではないと、リーダーシップについて学ぼうという気にはなれないのかもしれない。

最後に蛇足ではあるが、石破さんが主張している緊急事態条項はこのリーダーシップという観点から間違っていることがわかる。第一に日本の政治家には緊急時を乗り切る気概や心構えがなく、権限だけを預けてしまうと、何をしでかすかわからない。そもそも平時でさえ書類を紛失したり、ないはずの書類がでてきたといって官僚を恫喝するという体たらくなのだ。第二に現在のリーダーはオーケストラの指揮者のような存在であって必ずしも権限を集約するのが良いとは限らない。多分、実際には現場に権限を移行するエンパワーメントに関する規定を法律レベルで整備するべきだろう。

紅白歌合戦はジャニーズ事務所と手を切るべき

今回の結論は紅白歌合戦はジャニーズ事務所を排除すべきだというものだ。極論なので順に考えて行く。
去年の紅白歌合戦には困惑した。小ネタが多く「紅白らしくなかった」からだ。しかし、Twitterでのつぶやきは去年より多く、視聴率もやや持ち直したらしい。持ち直したのは紅白歌合戦が「バラエティー化した」からだろう。去年の歌謡シーンはYouTubeの影響からかチャンク化しており、短いフレーズしか受けなくなっている。その典型がPerfect HumanとPPAPだ。
このことから和田アキ子がなぜいなくなったのかがわかる。和田アキ子がいると紅白歌合戦に箔がついてしまう。一年の終わりに歌謡会の重鎮が集まり思い入れたっぷりに歌う祭典になるのはよくないのだ。和田アキ子はTwitter世代には重すぎるということだ。小林幸子が紅白歌合戦から脱落し、ネタとして復活したことからも紅白歌合戦は脱レジェンド化を進めていることがわかる。「落選した」ことには大した意味がない。それは歌謡界そのものがネタ化しつつあるからだ。
そうなると次に排除されるべきレガシーは何だろうかということになる。それは歌合戦システムそのものである。歌合戦システムはすでに形骸化してしまっている。誰も4時間以上も一連の行事が続いているなどとは思っていないからだ。しかし、歌合戦というからにはコンペティションでなければならず、それが「公平に見える」ためには紅白の勝利の比率が1:1でなければならない。
ところがこれを阻んでいる人たちがいる。それがジャニーズのファンである。彼らは普段から「組織的に行動しないとコンサートのチケットが手に入らない」という具合にしつけられているために、どうしても組織的に行動してしまう。いわば歌謡界の公明党なのだ。そして、彼女たちは他の歌手にはそれほどの興味がない。ジャニーズには女性のタレントがいないので、白組に入れてしまう。
公明党は選挙には欠かせない存在なのだが、公明党中心の政治をしてしまうと他の人たちが引いてしまう。熱心な信者というのは概してそういうものだ。視聴率アップのためにはジャニーズは欠かせないが、そこに照準を合わせると、別の層が離反する。政治の世界では自民党公明党が強すぎるので、浮動票が離反して政治に興味をなくすという現象が起きている。
今回は3歳の親戚と一緒に見たのだが、YouTubeに夢中でテレビには見向きもしていなかった。普段からマルチチャンネルに慣れている上に、YouTubeでさえ気に入らなければ別のコンテンツに変えてしまう。彼らの興味を持続させるためには秒単位でのアイキャッチが必要だ。紅白歌合戦の今年の演出はこの延長線上にある。この層に受け入れてもらうためには高齢化しつつあるジャニーズは邪魔になるだろう。つまり、ジャニーズは紅白歌合戦から排除されるべきだという結論になる。
今回の紅白歌合戦の主役は出演していないSMAPだった。彼らも古い紅白歌合戦の象徴になっている。レガシー化するとそこから抜け出せなくなってしまう。木村拓哉のようにレガシーに依存したい人もいれば、草彅剛、中居正広、稲垣吾郎のように脱却してしまった人たちがいる。後者にとってジャニーズの看板は重すぎるだけでなく有害だ。「国民的アイドル」として行動することを余儀なくされるからだ。ジャニーズファンはこうしたタレントを縛っているということになる。
演歌の大御所たちを切り捨て、歌謡界の重鎮を切り捨て、SMAPは自壊した。紅白歌合戦が生き残るためには「脱レジェンド化」が必要である。もう一つの道はレジェンド化したまま忘れ去られてゆくというものだ。

SMAP独立騒動と日本が経済成長できない理由

SMAPが解散するという報道が世間を騒がせている。NHKですらこれを「国民的なニュース」として報道する有様だ。
中でも特異なのがフジテレビだ。クーデターを起したマネージャー(匿名)に従って4人が事務所に反旗を翻したが、事務所への忠義を守った木村拓哉に説得され揺れているというようなストーリーが作られた。いわばを「飯島氏テロリスト史観」だ。スポーツ紙も基本的にこの「テロリスト史観」を踏襲している。一方、飯島氏側に立った新潮の報道はスルーされている。
この報道を鵜呑みにしている限り、日本の経済成長は望めないだろう。大げさなようだが、この騒動には日本の経済成長を阻む要因が隠れているのである。
そもそもSMAPが売れたのは、人々が「アイドル」に求めているものが変わったからだ。その頃の正当なアイドルは光GENJIだった。SMAPはアイドルとしては亜流とされており、正当なアイドルが進出しないバラエティ番組などに活路を見いだすしかなかった。だが、結果的にはこれが当たった。
ジャニーズ事務所はこの方向で多角化してもよかったはずだ。しかし、ジャニーズ事務所側はこれを認めなかったようだ。「正当な側」の人たちは、稼ぎ頭に成長した彼らを「だってSMAPは踊れないじゃない」と評価したそうである。ジャニーズ事務所にとって正当なアイドルとは「踊れる人たち」なのだ。踊りも「彼らが考える正当な踊り」である必要があるのだろう。
傍目から見れば、アイドルに求められるものは変わって来ている。だが、ジャニーズ事務所の認識は1980年代から変わっていないようだ。加えて、亜流の人たちへの嫉妬もある。Appleがコンピュータでないi-Phoneを「亜流」と考えて携帯電話事業に嫉妬していたら、今の繁栄はなかっただろう。
飯島三智マネージャーは実名で報道されず「独立クーデターに失敗」した悪人にされてしまった。逮捕される前の犯罪者の名前を出さないのと同じような扱いだ。確かに「彼女の企て」を認めてしまうと、売れたタレントたちが事務所を独立しかねない。すると、事務所の側としては「初期投資が回収できなくなってしまう」危険性がある。だから、独立を認められないのだろう。独立は事務所にとっての「テロ」のようなものだ。
しかしながら、飯島マネージャーをテロリスト扱いすることは、ジャニーズ事務所の首を絞めている。事務所は「ジャニーズの考えるアイドル」でなければならないという枷をはめているのだが「ジャニーズの考えるアイドルでいられる年齢」は限られている。40歳を過ぎるころから活動の幅は狭まってくるはずである。
だから、実力のあるタレントが幅を広げるためには自主的に辞めるしかない。最近目立つのは海外進出を狙うタレントの流出だ。本格的に俳優を目指す人たちにも困難がある。タレントが俳優業や司会業に専念したくてもCDやコンサートの売上げに貢献することが求められる。
ジャニーズ事務所には才能を持ったタレントが多数在籍している。事務所の得意分野は「踊れるタレント」のマネジメントだ。だから、それ意外のタレントを「有効活用」したければ、マネジメントを諦めるべきだ。しかしそれは「儲けを捨てろ」ということではない。投資を通じて経営に参加する道があるからだ。
より一般化して考えると、こう言い換えることができる。飯島マネージャーは「起業家」なのだ。ジャニーズ事務所のジャニー喜多川氏も起業家だったのだが、二代目以降は「資本家」の側に回ればよかったのだ。企業はこのようにしてポートフォリオを多角化できるはずだ。
起業家とはこれまでと違うやりかたで資本を活用できる人たちのことだ。起業が盛んな国では、こうした人たちは「リスクを取っている」と賞賛される。ところが日本では嫉妬の対象になり「クーデターに失敗した」としてテロリストにも似た扱いを受けるのだ。
ジャニーズ事務所のこの騒動を見ていると、日本が経済成長できない理由が分かる。投資文化が育っていないので、資源が古い経営に縛り付けられたままになって死蔵されてしまうのだ。成功したマネージャーに正当な評価を与える成果主義的な文化が育たない限り、日本が経済成長する道は閉ざされたままになるだろう。

10,000時間

天才! 成功する人々の法則(マルコム・グラッドウェル)という本を読んだ。ここにトップクラスの音楽家について調べたエピソードがある。このエピソードによると、天才とそれ意外の人を分ける資質はただ一つ「10,000時間続ける」ということだけなのだそうだ。ちなみに1日5時間やったとして5.5年分にあたる。そこそこになるためにも8,000時間かかるのだという。
このエピソードだけ取り出すと、いろいろな解釈ができる。例えば、学部を問わず大学の新卒者を連れて来て、10,000時間コンピュータの前に座らせれば(つまり努力さえすれば)天才的なコンピュタエンジニアが量産できることになるだろう。日本人好みの解釈だ。
ところが、残念なことにこのエピソードが言いたいところはそこではないらしい。音楽家のように最初からシゴトとして成立しているものもあるだろうが、例えばコンピュタエンジニアという職業は一昔前には存在しなかったし、存在しても社会を牽引するような存在ではなかった。だから、強制的にコンピュータの前に座らせられた人はいなかった。コンピュータエンジニアで「天才」と言われた人たちはむしろ、大学の目を盗んでコンピュータセンターを占有した。好きでかつ得意だったのだろう。好きな事をやっていた人たちがいたおかげで、コンピュータエンジニアという職業が必要になったとき、そのための準備ができていた人たちがいた。
彼らの共通点は、その時点ですでに「相当長い時間コンピュタの前に座っていた」ということだった。そして、結果的にその人たちが社会の成長を支える事になる。成長点は基本的に予測ができないと仮定すれば、多様性だけが成長を担保する。
さて、現実に目を転じてみる。実際に起こっていることは、就職先を探すために「やりたい事」に没頭できず、大学生活の1/4程度を就職活動に割くという姿だ。誰もが「できるだけ確実な選択肢」を探そうとし、社会的に望ましいとされる人物像に自分を作り替えて行く。この過程で多様性が失われる。グラッドウェルの説を出発点にすると、日本が成長しなくなったのは当たり前と言える。日本の学生は成功のために必要な時間を確保できないし、そもそも自分にとって10,000時間かける価値があるものが何かを考える時間すらないからだ。